夕礼拝

主イエスの名のためならば

「主イエスの名のためならば」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書:使徒言行録 第21章1-16節
・ 讃美歌:224、474

<覚悟>
 主イエス・キリストを宣べ伝えている伝道者パウロは、このように言います。
「主イエスの名のためならば、…縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
 
 これからパウロはエルサレムの教会へ向かおうとしています。そこでは、キリスト者になったユダヤ人に対する、同胞のユダヤ人からの迫害が激しくなっていました。
 パウロは異邦人の地においても、そこに住んでいるユダヤ人から多くの迫害に遭い、命を狙われ、危険な目に遭いながら、キリストの福音を告げる旅を続けてきました。
 その上に、パウロはこれから最も危険だと思われる、ユダヤ人の本拠地であるエルサレムへ行こうとしています。聖霊が、パウロに投獄と苦難が待ち受けていることを告げ、また周りの人々にも、今日の箇所にあったように、パウロが縛られて、引き渡されるということを告げています。
 人々は引き止めようとします。しかしパウロは、主イエスの名のために、縛られるどころか、死ぬことも覚悟しているのだ、と言うのです。

 もし、キリスト者になるということ、主イエスに従うということが、パウロのように「覚悟」をすることだとしたら、わたしたちにとって、それはとても難しいと感じます。
 「覚悟」は「準備、用意」という意味の言葉です。主イエスの名のために、あらゆることを受け入れる覚悟をする、用意をする、ということが出来ているでしょうか。
 それはパウロのように、熱心で強い信仰を持っている人じゃないと出来ないんじゃないか。わたしたちも、ある程度のことなら出来るかも知れないけれど、命を失う覚悟まではない…そこまではちょっと、と思ってしまうのではないでしょうか。
 すべてを献げることをためらう時、わたしたちは、主イエスに従い、奉仕をする中でも、どこかに自分の安全圏を確保しておいたり、自分のための余白を自分で少し取っておこう、としているかも知れません。しかしそれは、主イエスに従う姿勢とは言えないし、神に全てをお委ねしているとは言えないでしょう。
 じゃあ、命を投げ出せと言われて、そう出来ないとダメなのでしょうか。それも違います。主イエスに従うことは、自分の覚悟や熱心さによるのではないし、強制されて仕方なくすることでもないからです。

 パウロは、主イエスに救われ、その恵みの中を歩んでいく中で、これは大変だ、と思うことがあっても、困難が予想されても、さらにそれを超える良いものが神から与えられる、と信じているのです。神に信頼することによって、その覚悟が与えられているのです。しかもその良いものとは、自分の損得や利害を超えた、神の最も良いご計画が行われる、ということです。

<変えられたペトロとパウロ>
 パウロの「主イエスの名のためならば、縛られることばかりか死ぬことさえも覚悟している」という言葉を聞く時、主イエスの十二使徒であったペトロも、かつて主イエスの前で同じように宣言したことを思い起こします。
 しかし、主イエスの十字架を目前にしたペトロの言葉は、自分自身の勇ましさや、高ぶる思いから出たものでした。似た発言でありながら、この「覚悟」が、神から与えられたものか、人から出たものか、とても対照的に書かれています。

 使徒言行録と同じ著者ルカによって書かれた、ルカによる福音書の22:33を見てみると、主イエスが十字架に向かわれる前の晩、最後の晩餐の後で、ペトロは主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。
 気持ちが高まり、自分にそのような覚悟があると信じたのです。実際、この時のペトロの思いは、決して嘘ではなかったでしょう。本当に、主イエスに最後まで従いたいし、本当に、共に死んでもよいと思っていたに違いないのです。
 しかし、実際にはどうだったでしょうか。主イエスが捕えられ、ペトロは遠くから、その主イエスの様子を見ながら付いて行ったのですが、誰かから「あなたも主イエスと一緒にいた」と言われた時に、「わたしはあの人を知らない」と、主イエスと自分の関係を否定してしまいました。

 わたしたちの覚悟とは、そのようなものです。状況によってすぐに揺らぎ、簡単に消え去ってしまうのです。しかし誰が、ペトロは口先ばっかりだとか、弱虫で臆病だと言うことが出来るでしょうか。

 ところが、使徒言行録に出て来るペトロは、まったく別人のようになっています。
 例えば5章には、福音を語る使徒たちへの激しい迫害があったことが書かれています。ペトロたちは、捕えられ、鞭打たれました。黙っていれば良いのに、この福音を話さずにはいられないのです。そして5:41で、ペトロをはじめ使徒たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜んだ」と書かれているのです。
 このようにペトロを変えたのは、一体、何だったのでしょうか。

 それは、ペトロが、十字架で死に、そして復活された主イエスとお会いしたからです。
 復活の主イエスとお会いして、主イエスがご自分の受難と十字架の死によって、すべての者の罪を赦すという、神の約束を成就して下さったこと。まことに救い主となって下さったことが、はっきりと明らかにされたのです。その救いは、主イエスに最後まで従うことも出来ず、裏切り、逃げ出したペトロのためでもありました。この復活の主イエスに出会って、救いの恵みに触れて、ペトロは十字架の前で逃げ出した者から、命をかけて主イエスに従う者へと変えられたのです。

 また、かつてキリスト者を迫害し、神の御心に逆らう者であったパウロも同様です。復活の主イエスと出会い、パウロは罪の中から神の恵みの中へと移され、全く新しい者になりました。古い罪の自分は主イエスの十字架上で共に死に、復活の主の命に、新しく生きる者とされたのです。

 ペトロもパウロも、主イエスから、もうこれ以上ない、何があっても失われない恵みを与えられたから、「この、主イエスの名のために」「この、主イエスの名のためならば」と、主イエスが最も喜ばれることのために、神の救いのご計画のために、喜んで自分を献げる者となったのです。

 ですから、ペトロやパウロの覚悟は、自分の強さから来るものではないし、追い詰められた末の悲愴な覚悟や、死んでも仕方ないという投げやりな思いではありません。
 主イエスと一つにされていることの喜びと、救いの恵みの確信から来たものです。主イエスと結ばれているならば、自分の命を失っても、終わりの日の復活の希望が失われることはありません。その約束を信じ、恵みに応えて、促されて、自分のような罪人に、赦しと永遠の命を与えて下さった、御自分の命を与えて下さった、主イエスというお方のためなら、喜んで何でもしよう。そのような覚悟なのです。

<主の御心が行われますように>
 さて、パウロの覚悟が、そのように主の信頼にあって揺るぎないものだとしても、周囲のパウロを愛する人々は、パウロが自ら危険の中に向かって行くのを黙って見ていることは出来ませんでした。危険な目に遭って欲しくない。命を落とさないで欲しい。大切な人へのこのような思いは、当然です。またこの兄弟姉妹の愛が分からないパウロではないでしょう。
 パウロは、涙を流しながら必死にエルサレム行きを止めようとする仲間たちに対して、「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。」と言っています。パウロも、仲間の涙によって苦しんだに違いありません。自分に何かあることで、悲しむ人々がいることをよく分かっているのです。感謝の思いで神にすべてを献げようと覚悟する中にも、温かい交わりにある仲間への思いがあり、心は揺れて当然だと思います。

 聖霊は、パウロ自身にも、また人々にも、パウロを投獄と苦難とが待っていること、縛られ連れて行かれることをはっきりと告げています。パウロはそこに、自分を通して神が成そうとしておられることがあると信じて、覚悟しました。一方で人々は、パウロを失いたくないし、また神の御心があるからこそ、パウロは今生きるべきだ、と思ったかも知れません。

 神が御自分の御心のために、導きを与え、人々を用いて行われようとすることというのは、決して神が、人々を、御自分の意のままに操ってなされようとするのではありません。神が嫌がるわたしたちを強制して、無理矢理やらせるのではないのです。
 神はわたしたちを御自分のロボットとして造られたのではありません。一人一人に、神と関係を築くことが出来る人格を与え、神に応える自由を与えて下さいました。
 わたしたちは罪に捕らわれており、自分の自由な意志によって救いに至ることは出来ません。しかし、主イエスの十字架によって、神のもとに立ち帰り、神と共に生きる恵みを与えられた時には、自分がどのように感謝するか、どのように神にお応えし、神の御心に従っていくかを、自由に選ぶことが出来るのです。でも、わたしたちは弱い者だし、誘惑にも遭い、どのように応えれば良いか分かりません。ですから、ここでも、わたしたちは神を頼り、聖霊の導きを求めます。

 信仰者の歩みにおいて、神がわたしに対して望んでおられることがあります。神が人を愛し、憐れんで下さる救いのご計画のために、わたしを用いようとしておられることがあります。その神の望んでおられることを、わたしも望むことが出来るように、神の思いを、わたしの思いとすることが出来るように、そのことを祈り求めていくことが大切なことなのです。
 その、神の御心を求める心からの祈りの中で、示され、決断していくことなら、きっと神はそれを喜んで下さいます。神の御心を求めて行う業が、どんなに拙いものでも、思うように出来なくても、人の目には失敗に見えたとしても、神は、それを御自分のご計画に用いることがお出来になるのです。

 さまざまな思いが交錯する中で、パウロと人々がしたことは、共に神に祈ることでした。本日の4~6節で、人々は家族を連れてパウロたちを見送り、共に浜辺でひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わした、とあります。また、12~14節でも、主イエスの名のためならば、と覚悟を述べたパウロに対して、皆で「神の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ、とあります。つまり神の御心を祈り、自分たちの思いでパウロを引き止めるのを止めたのです。
 こうして、パウロや兄弟姉妹たちは、共に神の御心を祈る中で、聖霊の導きを求め、神が最も良い御心を行って下さることを信じました。神の御心を第一に考えた中で、パウロは覚悟をし、また人々は自分の願いや思いを捨ててパウロの決断を受け入れ、エルサレムへの旅は続けられることになったのです。

 またこのことは、わたしたちが人生をどのように神の御心のために献げていくか、どのような選択をして、主イエスに従えば良いかを求める時も、同じでしょう。神の御心を祈り求めて、神に従おうとするところに、主イエスは聖霊を送って下さり、いつも守りと導きを与えて下さるのです。

<エルサレム教会へ行く理由>
 さて、パウロが神の御心だと受け止めて、そこまでして危険なエルサレムの教会へ行こうとしたのは、なぜなのでしょうか。
 パウロは19:21で、「パウロは、…エルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」とあります。その詳しい理由は、この使徒言行録には書かれていません。ただし、この頃にパウロが各地の教会へ宛てた手紙から、そのことを考えていくことが出来ます。

 そのことを指摘できる手紙はいくつかありますが、ここではローマの信徒への手紙を見てみたいと思います。
 ローマの信徒への手紙の15:22以下(296頁)には、小見出しに「ローマ訪問の計画」とあります。この手紙はパウロがコリントにいる間に書かれたと考えられていますが、未だ訪れたことのないローマに行き、さらにイスパニアつまりスペインにまで行きたい、というビジョンを語っています。また25節には、「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」と書かれています。

 26~28節にはそのことについて詳しくこのように書かれています。
「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」

 つまり、各地の異邦人中心の教会で集めた献金を、エルサレムにあるユダヤ人中心の教会を援助するために持っていく、それからローマへ行って、イスパニアに行く、という計画です。
 目的は、一つには、「貧しい人々を援助する」つまり迫害が激しくなるエルサレムにおいて、貧しさ、苦しみの中にあるキリスト者たちを助ける、ということです。
 もう一つは、さらに、それが異邦人の教会からユダヤ人の教会への援助である、という点に大きな意味があります。パウロは、異邦人はその人たち、つまりユダヤ人の霊的なものにあずかった異邦人は、ユダヤ人を肉のもので、つまり献金などで助ける義務がある、と言っています。

 ユダヤ人の霊的なものとは、主イエス・キリストの救いのことです。
 神は、世のすべての人を救うご計画のために、ユダヤ人を選ばれました。ユダヤ人たちは神の民として、神から救いの約束を与えられ、主イエスはその約束の成就として、ユダヤ人の中にお生まれになり、十字架と復活の御業を成し遂げられました。そうしてユダヤ人を選び、用いて行われた神の救いの恵みが、異邦人に、世界に宣べ伝えられていったのです。

 かつてユダヤ人は、異邦人を神に選ばれていない、神の律法を知らない者たちだからと言って、毛嫌いしていました。ですから、ユダヤ人だけでなく、異邦人も、主イエスの恵みを信じるすべての者が、無条件で救われる、という福音は、ユダヤ人にとっては受け入れがたいものでした。
 ユダヤ人のキリスト者の中でも、そのような思いは中々払拭されず、ユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者の間で論争が起こったこともありました。それは、使徒言行録の15章にありますが、異邦人もまず割礼と言う儀式を受けて、ユダヤ人にならなければ、キリストの恵みを受けられないのではないか、という論争です。
 しかし、実際に神がなさってきたこと、聖書に書かれていることを見つめる中で、神は、人を分け隔てなさらないこと、何人(なにじん)とか、条件とか、人の側の理由はまったく関係なく、ユダヤ人も異邦人も区別なく、ただ神の恵みによって、主イエスを信じることだけによって、救われるのだ、ということが、教会の中で確認されてきたのです。

 ですから、パウロがこれからローマという、異邦人真っ只中の世界で伝道しようとする時、これまで誕生した多くの異邦人の教会が、決して、ユダヤ人の教会と別のものではない、ということ。同じお一人の主イエスの恵みにあずかり、同じ一つの福音に立つ、同じ一つの教会である、ということを確かにしておく、ということは、異邦人の教会のためにも、これからの異邦人への伝道のためにも、大変重要なことだったのです。

 異邦人の教会の人々も、ユダヤ人の教会は関係ないと思ってはならないし、苦しんでいる兄弟を見過ごしにしてはなりません。同じお一人のイエス・キリストに結ばれている者たちが、ユダヤ人であれ異邦人であれ、協力し、援助し合い、一致するのは当然のことです。
 また援助を受けるエルサレムのユダヤ人の教会も、異邦人の教会が神の恵みに応えて献金を献げ、自分たちのために祈り、援助を届けてくれる、その業を通して、異邦人の教会の人々の信仰の証しを見ることが出来ますし、同じ神の恵みが注がれていることを確認することが出来ます。
 そうして相互の教会に良い交わりと一致が与えられることを、パウロは望んでいるのです。

 すべての教会においてキリストによる一致がなければ、パウロが伝道した異邦人の教会は、ユダヤ人の教会から切り離されて、土台を失ってしまいます。異邦人も、イスラエルの神の民の救いの歴史に連なる、新しい神の民だからです。

 また、ユダヤ人の教会にとっても、異邦人の教会は認めない、ユダヤ人の教会だけが本物だ、というユダヤ人だけの閉じた教会になってしまえば、彼らは神の一方的な、どんな人間側の条件にも関係なく救って下さるという、大いなる恵みを、蔑ろにすることになるのです。
 神が一方的に、無条件で恵みを注いで下さること、何の条件もなく、ただただ、神が憐れみと、愛によって救ってくださるということこそ、まことの福音であり、まことの恵みです。
 これを少しでも曲げたり、歪めたりした途端、それは福音ではなくなります。
 ユダヤ人キリスト者が、救われるためにユダヤ人であることを条件にしたがったように、人は勝手に条件を付けたがります。その方が分かりやすいし、この条件を満たしているから大丈夫、という方が安心できるからです。
 しかし、罪の中にあるわたしたちが何をしても、何を差し出しても、それは何の足しにもなりません。またそれは、主イエスの十字架を軽んじることになります。条件を付け足そうとすることは、主イエスの十字架だけでは、救いには不十分だ、と言っているのと同じことなのです。

 しかし、そうではありません。神は、御自分の御子の十字架の死によって、すべての者の罪を完全に贖って下さった。救いの約束を成就して下さった。イエス・キリストはすべての者を救う、救い主となって下さったのです。
 この一つの福音に立ち、ユダヤ人、異邦人の区別なく、すべての者に、豊かな恵みを、豊かなままに、一人でも多くの者に告げ知らせたいのです。福音が福音であるために、まことの教会を築いていくために、異邦人の教会と、ユダヤ人の教会が、共にお一人のキリストに結ばれた一つの体なる教会であること。共に神の御心を祈り求めて一致すること。それが、パウロが「主イエスの名のためならば」と、死ぬことを覚悟してでも、異邦人教会の献金を持って、エルサレム教会へ届けようとした目的であり、また、神の御心と信じたことなのです。

 そしてわたしたちの教会も、これと同じ福音を受けるものであり、これらの教会と一つです。主に従い、命をかけたパウロや多くの者たちによって、教会で語られ続け、聖霊が導き続けて下さって、このパウロの時代から遠く隔たった時代の、はるか彼方の異国の地にありながら、わたしたちはまったく同じ福音を聞き、同じお一人のキリストに救われ、結ばれているのです。
 復活のイエス・キリストが、今この時もわたしたちに臨んで下さり、出会って下さり、救いへと招いて下さっています。わたしたちも、すべての時代、すべての世界の救いに与った者たちと共に、キリストの一つの体に連なり、共に神の御心を祈り、主の再び来られる日を待ち望みながら、神のご計画に用いられることへと召されているのです。
 ですからわたしたちも、何にも勝る救いの恵みを受けていることに感謝をして、与えられた日々や場所において、わたしを救って下さった、主イエスの名のためならばと、祈りつつ、この一つの福音のために、喜んでこのお方に従って行きたいのです。

関連記事

TOP