夕礼拝

兄弟たちと共に

「兄弟たちと共に」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第119編27節
・ 新約聖書:使徒言行録 第15章22-35節
・ 讃美歌:56、416

<キリストによって集められる群れ、教会>
 教会というのは、不思議な集団です。赤ちゃんから高齢の方までいらっしゃるし、性別もそれぞれ。出身地も国籍も違うことがあるし、学校も、職業もバラバラ。趣味が同じ人が集まっているわけでもないし、気が合うというわけでもありません。むしろ、普段の生活では絶対に知り合わない人と知り合い、絶対に一緒にいないような人と一緒にいることになります。教会は、何の集まりなのでしょうか。

 集まっている人はただ、主イエス・キリストの救いに招かれた、ということだけで集まっています。ですから、わたしたちには、救われなければならない罪人である、という共通点くらいしかありません。
 救われるためには、聖書をよく知っているとか、清らかな生活をしているとか、そういった条件や決まりはありません。主イエス・キリストによってのみ救われる。この方の十字架の死によって自分の罪が赦され、復活によって、自分も永遠の命と復活の約束にあずかる。ただその恵みを信じ、受け入れ、洗礼を受けた者が、教会のメンバーに加えられます。
 ですから、教会が一つになるのは、ただ主イエスにおいてのみです。教会では、どんな者でも、どんな立場でも、ただ主イエスに救われた、ということにおいて同じであり、一つになることができるのです。
 神の御子主イエスに救われ、主イエスに結び合わされたわたしたちは、神を親しく父と呼ぶことが出来る、神の子とされます。教会にいる者は、すべての者が、信仰によって結ばれた神の家族です。わたしたちは互いに兄弟姉妹と呼び合います。教会とは、そのような集まりです。

<教会の中でおこった問題>
 さて、教会に集められている者の共通点は主イエスだけであると申しましたが、前回の使徒言行録の箇所、三週間前になってしまいますが、そこでは、ある問題が教会の中で起こったことが語られていました。
 それは、すべての者が、ただ主イエスの恵みによって救われるのに、割礼を受けているユダヤ人のキリスト者が、割礼を受けていない異邦人のキリスト者に、救いのためには、みんな割礼を受けるべきだ、と主張したことです。

 ユダヤ人というのは、旧約聖書にある、神に選ばれた民で、その神の民のしるしとして、律法に従って割礼という儀式を受けた人々のことです。ユダヤ人たちは、この割礼のしるしを持つ神の民であることを、誇りに思っていたのです。
 しかし、神がこの民を選ばれたのは、この民だけを救うためではありませんでした。神は、この選んだ民を通して、地上のすべての人を、罪から救い出すという御計画をお持ちだったのです。それで神は、その救いのご計画を実現するために、独り子の主イエス・キリストをこの選ばれた民の中に遣わして下さいました。それで、主イエスはユダヤ人として、まことの人として、この地上にお生まれになり、地上のすべての人を救うために、十字架による罪の赦しを実現して下さったのです。

 この主イエスの救いの御業によって、信じるすべての者が、何の条件もなく、救われるのです。しかし、割礼を受けていたユダヤ人でキリスト者になった者の中に、主イエスの救いを受けるためには、異邦人も割礼を受け、まずユダヤ人になる必要がある、と主張した者がいたのです。
 これは異邦人が中心メンバーであったアンティオキア教会を混乱させました。割礼が救いに必要だと主張することは、救いは、主イエスを信じることだけでは不十分だ、ということになってしまいます。救われるために、まずユダヤ人になる、という条件を満たさなければならないことになるのです。これは、信仰の根幹を揺るがすような、大問題でした。

<会議の結論>
 そこで、教会は会議を開きました。それが前回お読みした、15章前半に書かれていたことで「エルサレム会議」と呼ばれるものです。ユダヤ人がメンバーの中心であるエルサレム教会に、異邦人中心のアンティオキア教会から、パウロ、バルナバと何名かが訪れて、使徒たちや長老たちと話し合いました。
 この会議で行われたのは、互いの妥協点を探ることや、説得し合うことではありませんでした。彼らはまず、神が何をなさったかを見つめました。つまりこれまでに、異邦人にキリストの救いが伝えられ、異邦人にも聖霊が降り、神の救いに与っているという出来事を確認しました。そして聖書に書かれている神のみ心、神のご計画を確認しました。旧約聖書には、異邦人にも救いが及ぶことが預言されています。
 そうやって神のみ心に注意深く耳を傾け、一同は、割礼は救いに必要ない。ユダヤ人、異邦人は関係なく、分け隔てなく、すべての人を救うのが神のみ心であり、ただ主イエスの恵みによって救われるのだ、主イエスを信じる信仰によって救われるのだ、ということを結論付けたのです。

 そしてエルサレム教会は、この決定を、異邦人が多くいるアンティオキア、シリア州、キリキア州の教会に伝えるために、手紙を書きました。それが今日読んだ手紙の内容です。
 そして、ただ手紙をエルサレムにやってきたパウロとバルナバに託して帰すのではなく、エルサレムからも挨拶のために、指導的な立場にある重要な人物を使者に立てて、アンティオキアの教会に戻るパウロ、バルナバといっしょ同行させたのでした。
 手紙には、「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします」と、自分たちが共に主イエスによって救われた兄弟同士であることが述べられています。

 そして、28節にあるように、手紙には「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」と会議の決定が書かれました。
 「一切あなたがたに重荷を負わせない」。つまり、一部のユダヤ人たちが言うような、救いのためには割礼をしなければならない、という主張は認めらない。異邦人は異邦人のままで、ただ主イエスを信じる信仰によってわれるのだ、ということを、神の御業と聖書からはっきりと示された。だから、聖霊の導きによって、わたしたちはそのように結論を出しました、ということを書き送ったのです。

<四つの項目>
 ところが、前回は詳しく触れませんでしたが、エルサレム教会の指導的な立場であったヤコブが、会議でキリストの救いに割礼はいらない、という結論を言った後、四つの禁止事項を述べました。それが手紙の中で「次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせない」と言われていることで、救いのために割礼はいらないけれど、次の必要な事柄は、守って下さい、と言っているのです。
 それは、29節にあるように「すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いを避けることです。以上を慎めばよいのです」とあることです。
 これはどういうことなのでしょうか。これらを守る必要がある、というのは、結局、救いのための条件があるということなのでしょうか。ここに書かれていることは、旧約聖書のレビ記で、律法として定められていることです。結局、ユダヤ人たちは、異邦人が割礼を受けないことは譲ったとしても、自分たちユダヤ人と同じように律法を守る生活をすることを強制しているのでしょうか。

 実は、ここの箇所は聖書を調べている人々の間でも議論が多い、難しいところです。
 この使徒言行録15章に書かれている教会の中での割礼の問題が起こったことを、パウロが、ガラテヤの信徒への手紙の2章1~10節に書いています。ところが、パウロはこの四つの項目については一言も触れていないのです。ガラテヤの信徒への手紙の2:6には割礼は強制されなかった、ということを述べ、「神は人を分け隔てなさいません。-実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。」とだけ述べられています。そしてパウロが異邦人のところへ伝道に行くことが確認されたこと、そして、「貧しい人たちのことを忘れないように」ということが言われた、とだけ書かれています。つまり、四つの禁止事項が書かれているか、書かれていないかで、使徒言行録とガラテヤの信徒への手紙に違いが生じているのです。
 パウロが単にこの四つの項目を重要視しなかったので書かなかったのだ、という人もいます。しかし、キリストの恵みのみによって救われるということを徹底して信じ、異邦人への伝道を積極的に行っていたパウロが、このようなユダヤ人の生活を強制するような事柄を、教会の決定事項として異邦人たちに何も言わずに受け入れさせた、というのも考えにくいことです。
 そこで、パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の方が、使徒言行録よりも前に書かれているため、パウロが参加していたエルサレム会議では四つの禁止事項などはなかったけれど、後からパウロがいないところで、教会がこの項目を付け足して、異邦人キリスト者に守らせようとしたのだ、という可能性もあると考えられています。

<四つの禁止事項の意味>
 ところで、この四つの禁止事項は、何を意味しているのでしょうか。まず、最後に書かれている「みだらな行い」は、異教世界で広まっていたことであり、神の民はそのような不品行から離れること、と律法で定められていました。
 そして、その前にある、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉を避ける、という三つのことは、食事に関する規定であると言えます。旧約聖書のレビ記17章にこれらの規定が書かれています。偶像に献げたものは汚れたものであり、食べた者もまた汚れると考えられていました。また血を避けることや、絞め殺した動物、つまりまだ体内に血が残っている動物を食べない、という決まりは、生き物の血の中に命が宿っており、その命は神のものである、という考えからきたものです。
 しかし、異邦人にはこのような決まりは関係ありません。かつて偶像に献げられた肉でも、売られていれば買って食べるし、絞め殺していても、血が残っていても関係ありません。
 すると、ずっとこの生活習慣を守ってきたユダヤ人にとっては、汚れたものを平気で食べる異邦人と食卓を共にすることは、とても抵抗があり、嫌悪感を持つことだったと考えられます。

<兄弟のために>
 そこで教会は、ユダヤ人出身の者と異邦人出身の者が、一緒に食卓の交わりを持つことが出来るように、ユダヤ人に配慮するようにと、異邦人にこれらのことを守るように求めたのではないか、と考えられています。食事の問題が起こった時に、当時の教会が、何とかしてユダヤ人と異邦人が一致して共に歩んでいくために、苦心した結果だったのかも知れません。

 大切なのは、ただ主イエスの恵みによって救われる、ということはしっかり確認されているということです。これは絶対に揺るがないことです。神の前では、ユダヤ人も異邦人も関係ない、救いにおいて、神は人を分け隔てなさらない、ということは、これまでにも何度も述べられてきました。

 しかし、この四つの禁止事項を教会が決めて守らせようとしたことは、まだユダヤ人、異邦人という区別が、人間の側においては、中々乗り越えることが難しかった、ということを教えられます。生活習慣や、自分が大切にしてきたものを中々捨てることが出来ないのです。主イエスの救いは人を区別することはなく、救われた者の間の分け隔ては取り去られたと知っても、まだ自分の弱さのために、また兄弟の弱さのために、つまずいてしまったり、つまずかせてしまったりすることがあるのです。

<相手に配慮する自由さ>
 もしパウロがこの四つの禁止事項を知っていたら、このように教会が命令として異邦人に決まり事を押し付けることは賛成しなかったでしょう。
 しかしパウロは、キリストに救われた者は、あらゆるものから自由にされているがために、兄弟をつまずかせないように、配慮して行動すべきだ、ということを、他の聖書箇所で述べています。それは命令されたり、決められているからすることではありません。主イエスに救われた者として、神に従って生きようとする時、キリスト者は隣人を配慮して、自分の行動を自由に選び、決めることが出来る、ということです。

 福音に生きる者にとっては、もはやユダヤ人の律法による食事の規定は守らなくても良いものです。食べ物によって自分が汚れたり、清さを保ったりするのではないからです。主イエスの救いによって、罪を赦され、ただその恵みによって清くされたからです。
 しかし、当時まだ、キリストを信じているけれど、偶像に供えられた肉にやはり嫌悪感を覚えたり、抵抗があって、依然として食事の規定を守らなければ気が済まないユダヤ人がいたときに、もうそんなものは救われた者には関係ないから、と言って、無理矢理に偶像の肉を食べさせたり、血を飲んでみせたりすることはないのです。そんなことで、却って福音から遠ざかってしまわないように、つまずかせないように、相手の心に配慮すること。そして、互いに神の恵みを正しくしっかりと見つめることが出来るように、共に御言葉を聞き、共に祈って一緒に信仰生活をしていくのです。

 信仰において、自分自身も弱い部分を持っていることがありますし、隣に、弱い兄弟姉妹がいる時もあります。キリストの救いを信じていても、自分のこだわりを捨てられない人、色々なことが気になる人、かつての習慣から抜け出せない人…。そのような、迷っている兄弟、弱い兄弟がそばにいる時には、そのことを裁いたり、咎めたりするのではなく、配慮をして、つまずかせないように、福音から兄弟が離れないようにするために、行動するのです。

 キリスト者は本当に自由です。神のものとされ、ただ主イエスの恵みによって、救われ、生きる時、キリスト者は自分を縛るもの、この世にあって支配するものから、真に自由にされています。わたしたちを支配して下さる主人はイエス・キリストお一人だけだからです。
 しかし、真に自由であるということは、自分の好き勝手に振る舞うことを意味しません。与えられている自由を、神のみ心のために、主イエス・キリストの福音を伝えるために使う、兄弟姉妹のために、隣人のために使うのです。ですから、時には隣人のために、自分の行動を制限することだってある。偶像の肉を食べても自分には何の問題もないけれど、兄弟が福音を受け入れるために、食べないようにすることも出来ます。自由であるのに、喜んで隣人のために不自由になることさえ出来る。キリスト者はそのように生きることが出来るのです。

<兄弟たちと共に>
 さて、付け足された四つの禁止事項については、様々な議論がありますが、エルサレム会議での重要な決定の中心は、救いのために割礼はいらない、ただ主イエスの恵みによって救われる、という結論であり、そのことがアンティオキアの教会に、手紙と、派遣されたユダ、シラスによって伝えられました。
 そして諸教会が共にこの恵みにしっかりと立ち、一致したところから、この後に語られていく、異邦人への本格的な伝道が始まり、キリストの福音は世界へと広がっていくのです。ですから、ユダヤ人ではない、わたしたちのようは世界の端っこの日本人にも福音は伝えられ、ここに救われた群れである教会があるのです。

 今日の聖書箇所には、異邦人中心のアンティオキア教会が、このエルサレム会議の決定を「励ましに満ちた決定」として喜んだ、とあります。この、ただ主イエスの恵みによって、信仰によってのみ救われるという結果は、異邦人の教会にとって、今自分たちが受けている主イエスの救いの恵みを再確認することであったでしょう。
 またエルサレム教会からの使者であるユダやシラスと、いろいろ話をして、励まし、力づけられたということが書かれています。彼らが派遣されたことも、エルサレム教会が、単に決定事項を書面で伝達するだけでは、足りないと思ったのかも知れません。手紙の送り先の教会の人々を思い、労を取ってでも配慮する必要を感じたのでしょう。
 この「励まし」は「慰め」「勧め」とも訳すことが出来る言葉で、もとの言葉は「傍らに呼びよせる」という意味です。訪問をして、互いに顔を見て、関係を築くこと。お一人の主イエスに結ばれた兄弟たちが共にいて、祈り合い、語り合うこと。そこには励まし、慰めが豊かに与えられていきます。アンティオキアの人々も、エルサレム教会から派遣された彼らを通して、その心遣いを通して、神の愛を、兄弟の愛を受け取ったはずです。

 キリスト者とは神との交わりに生きる者であり、そして共に主に結ばれた隣人との交わりに生きる者です。教会はそのような群れです。国や民族が違っても、性格や立場が違っても、ただ主イエスにおいて一つになり、違いを超えて、兄弟として、励まし合い、慰め合い、共に信仰の歩みを続けていくのです。信仰者は一人ぼっちではありません。傍らにはいつも共に歩む兄弟がおり、そしてその中心には主イエスご自身が、聖霊によって、いつも共にいて下さるのです。

 エルサレム教会の使者たちは、そうやってアンティオキアの人々を励ました後、自分たちの教会に戻っていきました。一方、パウロとバルナバは、アンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた、とあります。
 主イエスにおいて兄弟たちが良い信仰の交わりを持ち、互いに励まし合い、慰め合うとき、そこにまた、伝道の力が、神がすべての人を救おうとされる、そのみ心のために歩んでいく新しい力が、教会に、そして一人一人に与えられていくのです。

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