「神は人を分け隔てなさらない」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:使徒言行録 第10章34-48節
・ 讃美歌:55、416
【ペトロが異邦人に語るために】
「この方こそ、すべての人の主です」
ペトロが、コルネリウスという人の家に招かれて、説教をした時の言葉です。
この方とは、イエス・キリストのことです。この方こそ、すべての人の主。この言葉を言ったペトロにとっても、これを聞いていた当時のコルネリウスたちにとって、そしてわたしにとっても、みなさんにとっても、この方こそ、主です。この方だけが、わたしたちを罪と死の支配から解放して下さり、恵みの支配によって主となって下さる方、救って下さる方です。
この救いの知らせである「福音」が、世界各地に伝えられていくことは、人の力や思いでは、成し得ないことです。神が、すべての民にこの救いを知らせると決めて下さり、神が、その伝道の業を行って下さるから、神の御言葉は世界中に届けられているのです。そして、わたしたちの許へも、届いているのです。
人の思いや行いには、自分自身の理想があったり、こうしたいとか、こうすべきだとか、さまざまな思い込みがあります。
主イエスの十二弟子であったペトロさえそうでした。ペトロが、主イエスのことを宣べ伝えて、コルネリウスたちの前で、「この方こそ、すべての人の主です」と語るためには、ペトロ自身が、神によって新しく変えられなければなりませんでした。
それは、ユダヤ人と異邦人という違いを、乗り越えるということでした。
【ペトロが変えられる出来事】
前回の箇所は、聖霊の導きによって、ユダヤ人のペトロが、異邦人のコルネリウスという人のところを訪れた、というところを共にお読みしました。
このコルネリウスというローマの軍人が、キリストの救いを受ける、ということは、当時のキリスト教会において、とても大きな出来事でした。なぜなら、それまでイエス・キリストの救いは、ユダヤ人のためのものと思われていたからです。そして、コルネリウスは、ユダヤ人ではない者、つまり外国人、異邦人だったからです。
もともとユダヤ人は、異邦人と付き合うのを避けていました。
旧約聖書の時代から、ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれた民であることを誇りにしていました。そのしるしとして、体に傷をつける「割礼」を受けていました。ユダヤ人は自分たちが清い者であることを保つために、他の宗教の神々を拝んだり、乱れた風習を持つ異邦人を汚れた者と考えて、一切関わらないようにしてきたのです。
そのようにしてユダヤ人たちは、神に選ばれた民として、旧約聖書に預言されている「救い主」が現れるのを待ち望んでいました。そして、とうとう神の約束は実現し、神の御子主イエスが、この世にお生まれになりました。主イエスは、ユダヤ人としてお生まれになりました。そして、神の国を宣べ伝えて下さり、十字架に架けられて死に、そして神によって復活させられました。
この方こそ、旧約聖書に預言されていた方であり、ユダヤ人たちが待ち望んでいたまことの救い主でした。主イエスと共に過ごし、また復活の主イエスと出会い、主イエスが天に昇られるのを見た弟子たちは、この救いの出来事を証言し、エルサレムのユダヤ人たちに告げ知らせたのでした。
しかしまだ、彼らはあくまでも「自分たちユダヤ人だけの救い主、神の民のために遣わされたキリスト」として、主イエスのことを受け入れていたのでしょう。
ところが、前回の10:1~33までの出来事を振り返ると、ある日、コルネリウスという異邦人、ユダヤ人ではないけれども、ユダヤ人の神を畏れていた人に天使が現れ、ペトロという使徒を招きなさい、とお告げがありました。
そしてペトロのところにも、神は幻を通して語りかけられました。天から大きな布が四方を吊るされて下りてきて、その中にあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っていて、これを屠って食べなさい、と言われる幻でした。ユダヤ人は、神の民として自分たちを清く保つために、律法を一所懸命に守っていました。しかしその布の中には、律法で汚れているので食べてはならない、と言われている生き物がたくさん入っていました。
ペトロは、屠って食べなさい、という神のご命令に、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と抵抗しました。これまで神の民である自分が正しく清くあるために、律法を守るということは当然のことでした。
しかし神は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と、三度もペトロに語られたのです。
するとコルネリウスの使いがペトロを捜し当てて、やってきました。この時も聖霊が、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と、ペトロにコルネリウスのところへ行くように促します。
そうしてコルネリウスのところへ着くと、コルネリウスはペトロに話をしてもらおうと、家族や友人を招いて待ち構えていたのでした。
そこでペトロはキリストのことを語り始めます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」ということの意味が分かったのです。これまで同胞のユダヤ人に、イエス・キリストこそ、我々が待ち望み、聖書に預言されていた救い主だ、と語って来ましたが、今回は、付き合いを拒んできた異邦人に対して、初めて説教をしたのです。
【神は人を分け隔てなさらない】
このようになるためには、本日の34節にあったように、「神は人を分け隔てなさらない」ということを、ペトロ自身がよく分からなければなりませんでした。
この「分け隔てる」と訳されている言葉は、元々の言葉通りだと「顔を受け入れる、顔で人を判断する」というような言葉です。それは外面(そとづら)でその人を判断する、評価する、偏り見る、ということです。人は勝手に自分の基準を定めて、相手のことを判断したり、分け隔てをしたりします。また自分もそのようにして、人から判断されたり、分け隔てされることがあります。
まさにペトロも、ユダヤ人か異邦人か、ということで人を分け隔てしていたのです。異邦人は救われない、と決めつけていたのです。
しかし、神は違います。神はすべての者を造られた方であり、すべての者を愛しておられます。また、神の前ではすべての人が罪人です。神を無視し、神に背き、神に逆らってきた者たちです。どこの誰も、神の前で救われる条件や、正しい者とされる要素など持っていないのです。ですから、神が人を分け隔てなさらない、というのは、ある意味当然のことです。
実際は、わたしたち人間が、人間同士で人を分け隔てしているのです。人が平等である、同じ権利を持っている、ということは、当たり前のことだと思っています。しかし、実際に具体的な事柄が目の前に迫ってくると、わたしたちは相手のことを、自分の判断基準や、価値感で分け隔てをしており、当たり前のことが出来なくなります。性別や、国や、職業など、相手のことを知りたがり、それによって自分で仕切りを作って、レッテルを貼って、人のことを分類したりはしていないでしょうか。
しかし、わたしたちは、神が人を分け隔てなさらない方であることを、知らされるのです。信仰の歩みをしていく時に、神が示しておられることと、自分の思いや価値観が、ぶつかることがあります。今回のペトロにとってもそうでした。
わたしたちは、その時、自分の思いではなく、神の御心を尋ねなければなりません。またわたしたちは、自分自身を自分で変えようとしたり、考えを改めようとしても、中々そのようには出来ません。
神を礼拝し、神の御言葉を聞くことによって、神が語りかけて下さることによって、神ご自身が働きかけて下さり、御心を示して下さり、わたしたちは変えられ、新しくされていくのです。
主イエスは神の御子であり、父なる神の御心をよくご存知ですから、最初から、あらゆる国、地の果てまで、主イエスの名が宣べ伝えられることを告げておられました。使徒言行録の1:8で既に使徒たちに向かって、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と仰っていたのです。
【神の御心がよく分かる】
ペトロは幻で示され、聖霊に導かれ、コルネリウスの家に招かれるという出来事があって、やっと神が、異邦人にもイエス・キリストの救いを与えようとしておられるのだと、はっきり分かったのです。キリストの救いの前では、ユダヤ人も異邦人も関係ない。そのような区別はまったくない。神が清いとされる者は何でも清いのだし、主イエスを信じる者は、誰でも救われるのだ、ということをペトロは知らされたのです。神の御心がよく分かったのです。
キリストを信じて従って行く時、信仰の歩みというのは、自分が変えられること、新しくされることを迫ります。これまでの自分の思いや、経験や、信念など、そういったものは打ち砕かれて、自分が主人ではなく、主イエスがわたしの主となられて、神の思い、神がなさることに、従う者とされるのです。通常であれば、自分の価値観を壊されることは、アイデンティティを否定されたように感じるかも知れません。しかし、わたしたちの価値の中心をキリストに置く時、わたしたちは自分自身の存在を、揺るぎない、神の御手の中に置くのです。それは、自分の狭く小さい心を乗り越えて、神の御心の深さや、恵みの豊かさを、ますます知らされていくことです。
そのように、キリストに従う者を、神はいつも新しく造り変え、聖霊によって導き、神の御心に適う者として下さいます。それが活き活きとした信仰です。
ペトロは考えを変えられて堂々と神の御心を語ります。35節「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」。43節「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています」。
そしてこれこそ、福音です。身分も出身も能力も努力も、何も関係ありません。キリストは、すべての人の主となって下さったのです。どんな国の人でも、すべて、信じる者は、キリストの名によって、罪の赦しが受けられるのです。
神からまったく一方的な恵みが注がれて、御子である主イエスが十字架と復活の救いの御業を成し遂げて下さいました。その恵みを知り、神に立ち帰り、キリストの名を信じることで、人は罪を赦され、滅びから解放され、神と共に永遠の命を生きる者、神の子とされるのです。
そして人は、神の前に立ったとき、罪赦された者以外の何者でもありません。すべての者の主となって下さった方を、すべての者が、わたしのただ一人の主であると受け入れるとき、わたしたちは本当に互いの分け隔ての思いを取り払うことが出来ます。そして、ただお一人の主イエス・キリストに救われた者として、互いに一つとなって歩んでいくことが出来るのです。
【説教】
ペトロは説教を語ります。36節「神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です―平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。」
神が送って下さった御言葉とは、イエス・キリストのことです。そして、キリストにおいて起こった十字架と復活の出来事です。
まず、主イエスはイスラエルの子ら、つまりユダヤ人である神の民の中に遣わされました。
ここから、神の御計画が始まりました。神が選ばれた民にまず救いが示されたのです。 ユダヤ人たちが、神に選ばれた民であるということは、確かに特別なことでした。ユダヤ人の中に、イエス・キリストが遣わされて、救いの御業、出来事が起こったのです。
しかしそれは、ユダヤ人が考えていたように、神の民である自分たちだけが救いを独占するために選ばれたのではありません。そこから、神の救いが全世界に及ぼされるため、全世界の祝福の基となるために、まずユダヤ人が選ばれたのです。
そしてまた、主イエスご自身が、使徒たちをお選びになりました。それは、主イエスのことを証言する者として、選ばれたのです。彼らも、優秀であったとか、学識があったとか、誠実な人だったという訳ではありません。神の選びは、ただ神の御心によるのであり、人の側には選ばれる条件も権利も何もありませんでした。ある者は漁師であり、ある者は人々から嫌われている職業の徴税人でした。そして十字架の時には、裏切ってしまうような者たちでした。しかし、主イエスが名前を呼ばれ、選ばれたので、彼らは主イエスの使徒となったのです。
彼らは、主イエスが十字架に架かる前になさった出来事ことの証人であり、また主イエスが死者の中から復活した後、一緒に食事をして、確かに甦られたことの証人です。そして、42節にあるように「イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと」、使徒たちにお命じになったのです。
主イエスは、命も死も、見えるものも見えないものも、すべてを支配する方です。生きている者と死んだ者、すべての者の罪を裁かれる、審判者である方が、わたしたちの罪のために死んで下さったのです。ご自分の十字架の死によって、罪を赦して下さるというのです。ですから、このイエス・キリストの名によって悔い改め、罪を赦して頂きなさいと、人々を招いているのです。この方のもとにだけ平安があり、命があり、この方のもとにだけ救いがあります。そのことを証するために、使徒たちは遣わされたのです。
そして、43節で「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています」とペトロは語ります。
ペトロは神の御心を知り、主イエス・キリストの光に照らして、イスラエルの民の歴史を見つめることが出来るようになりました。そして、預言者も皆、主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられると証していることを知りました。預言者とは旧約聖書に書かれていることです。例えば本日お読みした詩編においても、「恵みの御業を諸国の民に現し」とか、「地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た」とか、「主は世界を正しく裁き 諸国の民を公平に裁かれる」と書かれています。旧約聖書によって、神がこの救いのご計画を確かにキリストによって実現なさったことが証しされており、また救いをすべての民に与えようとしておられることが示されているのです。
そして今、現在のここにいるわたしたちも、この使徒たちの証言、預言者たちの証しを聞き続けています。これは、遠い昔の伝説や、神話などではありません。主イエスは死から甦られ、天に上り、今も生きておられると、証しされています。
そして礼拝において、聖書の御言葉を聞く時、聖霊なる神が望んで下さり、今もわたしたちに働きかけて下さり、キリストの救いの御業に与らせて下さるのです。
【聖霊の働き】
御言葉が語られ、聞かれる時、そこには聖霊が力強く働いておられます。
本日の聖書箇所で、44節に「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」とあります。ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上に注がれるのを見て、大いに驚きました。
「ペトロと一緒に来た人」というのは、23節に、ヤッファに滞在していたペトロがコルネリウスの許へ行く時に、「ヤッファの兄弟も何人か一緒にいた」とあるように、ヤッファでキリストを信じていたユダヤ人たちが、何人かペトロに同行してきていました。彼らも、ユダヤ人として、異邦人にもキリストの救いが及ぶということが理解できていなかったかも知れません。しかし、目の前で、異邦人の上にも、聖霊が注がれたのです。神ご自身が、異邦人を清め、恵みを注ぎ、キリストの救いに与らせて下さることを、その目で見たのです。
神ご自身が働かれて、異邦人を救いへと招いておられるのだから、水で洗礼を受けるのを、だれも妨げることはできません。そうして教会は、ここからまず異邦人への伝道の一歩を踏み出し、ユダヤ人だけでなく、異邦人に、全世界の人々に、キリストの救いを宣べ伝えていきました。だから、ここにいるわたしたちも、神の御言葉を聞き、主イエスに出会い、聖霊によって救いの恵みを受けたのです。
聖霊は、キリストをわたしの救い主であると告白させて下さる方であり、キリストを証しする霊であり、神を賛美させる方です。今この礼拝で、ともに信仰を告白し、神を賛美し、御言葉に耳を傾けているとき、確かにここに聖霊が働いて下さっており、生きておられる主イエス・キリストが臨んで下さっています。その神のお働きの中で、わたしたちはいつも御言葉によって変えられ、新しくされ、途方もなく大きな神の御心を、少しずつ教えて頂きながら、信仰を活き活きと養われつつ、伝道の御業に、共に仕えていくのです。