夕礼拝

事実の証人、聖霊の証し

「事実の証人、聖霊の証し」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第119編121-128節
・ 新約聖書:使徒言行録第5章12-32節
・ 讃美歌:51、341

 使徒言行録は、イエス・キリストが十字架の死から復活し、天に上げられ、そして使徒たちに聖霊が降って誕生した教会の歩みが描かれています。
 読んでいくと、生まれたての教会には、困難が続々と襲ってきたことが分かります。4章では、使徒のペトロとヨハネがユダヤ人の指導者たち、ユダヤ当局に逮捕され、主イエスの名を語るなと脅されました。5章では、教会の人々が主イエスにあって心も思いも一つにし、恵みと感謝によって持ち物を共有していた中で、アナニアとサフィラという夫婦が代金をごまかして献げものをし、ペトロに指摘された直後に死んでしまうという、教会の内部での出来事がありました。
 そして今回の箇所も、教会にとっての大ピンチが訪れたと言えます。今回は、使徒たち皆が捕えられてしまったのです。
 
 しかし、いつでも書かれていることは、教会の人々が「心を一つにしていた」ということです。そして、聖霊に満たされ、主イエスの証しが語られ続けた、ということです。
 教会とは、主イエスの救いを信じた人々が一つとなり、聖霊によって力を与えられ、主イエスを証しする群れだからです。そこには一貫して聖霊なる神様のお働きがあり、主イエスの救い、つまり「命の言葉」をすべての人々に与えようとする神の御心があります。
 生まれたての教会は、そのようにしてどんどん数が増していきました。
 そしてわたしたちも、その神の御心によって、主イエスの救いを知らされ、罪の赦しへと招かれました。またわたしたちの教会も、主イエスを証ししていきます。
 この使徒言行録の時から今も変わらず働いて下さる聖霊なる神様の御業を、今日の聖書箇所を通して、わたしたちは今一度、確かに受け止めていきたいと願います。

 さて、今日の箇所は12節「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」と書かれています。15節には、「人々は病人を大通りに運びだし、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」とあります。さらにエルサレムの町の人々だけでなく、外の町からも病人や汚れた霊に悩んでいる人が連れてこられ、そしてそれらの人々は「一人残らずいやしてもらった」のです。

 ここで、4:29に書かれていた、逮捕されたペトロとヨハネが、主イエスの名を語るなと脅されてから釈放された後、そのことを聞いた教会が、心を一つにして祈った祈りを思い出してみましょう。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。
 今日の聖書箇所の「しるしと不思議なわざ」は、この教会の祈りを神様が聞き入れて下さり、実現して下さったことを伝えています。
 しかも、これらのしるしとわざは、祈りにあったように「聖なる僕イエスの名によって」行われたこと、つまり、主イエスご自身の力による癒しのわざなのです。それは、第一に大胆に御言葉が語られるため、罪と死から解放して下さる主イエスの救いが宣べ伝えられるために、その「しるし」として与えられた奇跡であり、恵みなのです。
 そして、「一人残らずいやしてもらった」。主イエスのもとにやってきた人々は、主イエスの復活を聞き、またその名によって、つまり主イエスご自身によって、一人残らずその御手に捕らえられた。そしてただ病が癒され、汚れた霊から解放されただけではありません。人々の病も悩みも痛みもすべてを負って下さり、罪や死にさえも打ち勝って下さった、主イエスの命に生かされる者とされたのです。

 このような多くのしるしと不思議な業が民衆の間で行われ、一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた、とあります。これまでユダヤ人たちがイスラエルの神の民として集まっていた神殿に、今はイエス・キリストを信じる者たちが、新しい神の民として集っていました。この集団は、外の目からはどのように映っていたのでしょうか。

 13節には、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた」とあります。他の箇所でも、この主イエスを信じる集団が人々から好意を寄せられていたことが書かれています。
 権力に逆らって主イエスが救い主であると語り続ける勇敢さがあり、いつも神を賛美し、心を一つにして祈っており、また感謝してみなが自分のものを献げて共有している。そのような群れは感じが良く、好ましく思われていました。でも、あえて自分はここに加わろうとはしないのです。先日にはアナニアとサフィラという夫婦が、代金をごまかして献げものをしたことによって死に、教会のみならず、これを聞いた人々もみな恐れたということも書かれています。生ける神との交わりの中で、真剣に生きる教会の厳しい姿をも見て、教会の外の人々は、あえて仲間に加わろうとせず、距離を取っていたというのです。

 教会には、いつでもそのような面があると思います。わたしのキリスト教ではない友人が、教会の人はみんないい人そうだし優しそうだけれど、一歩踏み込むのは勇気がいる。清らかな感じがする。でも教会は敷居が高い。信じてないのに教会に入ったら悪い気がする。そのように言うのを、聞いたことがあります。
 しかしこれは、当然のことではないかと思います。なぜなら教会は、ただ人が好きに集まっている所ではなく、神に集められた人々の群れだからです。人の世の中に建てられた、生きておられる神との交わりの場所であり、神を礼拝する集団だからです。今の世の中にあって、終わりの日に完成する神の国の先取りをしているところです。当然そこに生まれる緊張感があるはずです。
 教会はわたしたちのために、十字架の苦しみを受け、罪を赦し、そして神が復活させて下さった、その主イエス・キリストと出会う所であり、キリストと結ばれる所であり、救われた者が心を一つにしてキリストを証しする群れなのです。

 そうして、距離を取る人々がある一方で、14節には反対に、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていったとあります。
 教会では聖霊に満たされ、主イエスの復活が証しされ、多くのしるしと不思議な業が行われている。ここに、神から人々への、救いへの招きがあります。そして主イエスの復活の出来事を聞き、この方こそが神が遣わして下さった救い主であると知らされて、悔い改め、罪の赦しを信じる者が大勢いたのです。

 さて、そうして大きく成長していく教会をねたむ人々がありました。
 17節以下「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は、皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕えて公の牢に入れた」とあります。ねたみの原因は、先ほど書かれていたように、教会が民衆から尊敬を受け、称賛されていたから。そして、教会に加わる人が大勢いたからです。自分たちの勢力が危うくなり、権威を失うかも知れない。それは彼らにとって大きな危機であり、脅威であったでしょう。

 そして、主イエスを証しし、教会を指導していた使徒たちを皆、捕えらたのです。これは教会にとって、以前にペトロとヨハネが捕えられた時よりも、さらに深刻な事態です。

 ところがここで、不思議な出来事がありました。
 夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出します。そして、このように命じたのでした。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」。

 天使が牢の戸を開けて使徒たちを解放したのは、逃がすためではありません。「命の言葉を告げさせるため」でした。「命の言葉」、それは主イエスの復活の命であり、罪を赦し、死に打ち勝つ、信じる者に新しい命をもたらす言葉です。
 もし逃がすために解放したなら、行ってどこかへ隠れなさい、身を潜めなさいと命じたことでしょう。使徒たちも、二度と捕まりたくなければ、大祭司やサドカイ派の人々の目の届かないところへ、さっさと行ってしまえばよかったのです。
 しかし天使は、神殿の境内へ行き、命の言葉を残らず伝えるようにと命じ、また使徒たちも、それに従ったのでした。そんな所にいれば、また捕まるのは目に見えています。
 しかし使徒たちは主の天使の命令に従い、夜明けごろから境内に入って教え始めます。夜明けです。まだ人も少ないかも知れません。しかし、少しの時間も惜しんで、一人でも多くの人に命の言葉を告げるために、使徒たちは教え始めたのです。

 いつもこの奇跡のような助けがあるわけではありません。実際、ペトロとヨハネが投獄されたときには、主の天使は現れませんでした。また、神に命じられることが、人間の思いとは違うかも知れません。普通なら、せっかく牢から解放されたのなら、誰しもが逃げることを考えますが、神の御心は命の言葉を告げさせることにありました。
 そうです。神の御心は一貫しています。人々に主イエスの命の言葉を与えるため、すべての人を悔い改めと、罪の赦しへ招くために、神ご自身が使徒たちと共におられ、どのような時も御言葉を宣べ伝えさせるのです。
 使徒たちは苦しまなければなりません。御言葉を宣べ伝えるがゆえに、福音を受け入れられない人々の抵抗を受け、攻撃され、牢に繋がれます。しかし、それらの困難も、使徒たち自身を救い、新しい命を与えて下さった主イエス・キリストのためであり、またその使命を果たすためなら、神からどのような助けも与えられるのです。

 さて、議会を開いて裁判を行おうとしていた指導者たちは、牢に使徒たちがいないことを知らされます。牢にはしっかり鍵がかかっていた上に、番兵が立っていたのにも関わらずです。その時、人が来て、使徒たちが境内で民衆に教えていることが分かったので、改めて捕え、引き立ててきました。

 そして、使徒たちを最高法院、つまり最高裁判所のような所に立たせ、大祭司が尋問を始めました。28節「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」。
 ここで訴えていることは二つです。一つはペトロとヨハネを捕えた時に、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように命令した」のに、その命令に違反したことです。「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広めた」と言っています。この「広める」という言葉は、もとは「満ちる」という言葉であり、自分の教え、つまり主イエスの復活の命の言葉で、エルサレム中を満たしてしまった、ということです。
 もう一つは、主イエスを十字架で殺した、血を流した責任を我々に負わせようとしている、ということです。

 ペトロと使徒たちはこれに答えます。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。この「従う」という言葉は、権威に説得される、権威に従順である、という意味の言葉です。この最高法院の指導者たちは、民の中で権威を持っています。しかしそれは本来、神が、人々を導き、神に従うことが出来るようにと、指導者たちにお与えになった権威のはずでした。しかし、それらの人々が神を受け入れず、神に逆らう時、使徒たちは神の権威に従います。神の御心にのみ従うのです。
 そしてこのように言いました。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」。

 使徒たちが答えたのは、まず教えてはならないと命じられたあの名のお方、イエスは、わたしたちの先祖の神、つまり最高法院の人々も、使徒たちも共に信じてきたイスラエルの唯一の神が、復活させたのだということです。自分たちイスラエルの民を導いてきた神こそが、このイエスにおける救いの御業を行った方なのだ、ということです。
 そして、ここでもまた使徒たちはこの指導者たちの罪を指摘します。「あなたがたが木につけて殺したイエス」と言っているのです。神が救いのために遣わされた方を、イスラエルの指導者であるあなたがたが殺してしまった、と言うのです。しかしそのことさえも神のご計画に用いられました。
 使徒たちは、「神は主イエスを復活させられた」ということ。そして「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられ」たということを言います。
 血の責任を負わせるどころか、そのように神に反逆し、遣わして下さった神の御子を殺す、そのような罪をも、悔い改めさせ、赦すために、主イエスは救い主となられた、神の右に上げられたのだ、と言うのです。
 神は主イエスの御業を通して、すべての人々を神のもとへ立ち帰らせようとし、命の言葉を告げさせ、罪の赦しを宣言し、救いへと招いておられるのです。

 わたしたちも、この救いへの招きを受けています。言い換えれば、わたしたちも悔い改め、罪の赦しを必要とする者なのです。神を神とせず、神に背き、主イエスを十字架に付けた一人なのです。
 いや、わたしはイエスの十字架とは関係ない、と思うでしょうか。そんな何千年も前の、一人の人の死の責任がわたしにあるとは思えない、と考えるでしょうか。
 しかしそうではないのです。主イエスが十字架で肉を裂き、血を流されたのは、このわたしのためであったのです。造り主である神を忘れ、神から離れて生きることは、大きな罪であり、滅びへと向かっていくことです。わたしたちは自分が滅びに向かっていることさえ、知らなかったかも知れません。しかし、神はわたしたちが滅びることをよしとされず、独り子イエスをお遣わしになりました。真の人となられ、わたしたちの苦しみも、悩みも、すべてをご存知の主イエスが、わたしが負いきれない罪を代わりにお一人で負われ、その死によって罪から救い出して下さったのです。
 そして復活され、神の右に上げられた。それは、見えるものも見えないものも、すべてを支配する方となられたということです。罪も死も支配された方が、わたしたちをその神のご支配の中に入れて下さり、神と共に生きる喜びと平安を与えて下さるのです。
 わたしたちの前には、主イエスの十字架が、罪の赦しが示されています。神から離れていた歩みを、神の方に向き直り、神のもとに立ち帰って、神のご支配の中で生きるようにと、招かれています。
 その主イエスの救いが、使徒たちの時代から教会で証しされ、宣べ伝えられ続けており、わたしたちの耳にも、今その命の言葉が届けられているのです。

 使徒たちは言いました。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。
 使徒たちは主イエスの復活と、そして天に上げられた出来事を目撃した、事実の証人です。そして何より、主イエスによって罪赦されて立っており、そこで恵みによって生きている、その使徒の存在、救われた者の存在そのものが、主イエスが救い主であるということを証しするのです。
 そして、「聖霊も、このことを証ししておられる」と書かれていますが、むしろ聖霊なる神こそが主体となって、神に従う者に主イエスを証しする力を与えて下さり、御言葉を大胆に語らせ、またその御言葉を証しするための「しるしや不思議なわざ」を為させて下さる方なのです。
 主イエスを証しする教会の歩みは、教会の誕生の時、聖霊が使徒たちに降ったペンテコステの時から、今日のわたしたちの教会に至るまで一貫して、聖霊の豊かな働きによって導かれ、証しされているのです。

 悔い改めて神に立ち帰ることも、主イエスの罪の赦しにあずかることも、人は自分の意志や努力ですることは出来ません。天に上げられた主イエスが遣わして下さった、聖霊なる神様の働きによって、わたしたちは主イエスを信じ、告白することができます。
 そして、主イエスの命に生かされ、恵みの現実に生きる者とされる時、聖霊によって私たちも力を与えられ、心を一つにして主イエスを証し、命の言葉を告げる者とされるのです。

 今も教会で語られる命の言葉は、2000年も経って古びてしまった言葉ではありません。主イエスという人物の、伝説や昔話ではありません。
 なぜなら、この命の言葉である、復活された救い主イエスは、今も生きておられるからです。今も生きて神の右におられ、聖霊を遣わし、わたしたちと共におられる方なのです。
 教会で語られる主イエスの福音は、今もここで悔い改めさせ、罪を赦すために語られており、またわたしたちを今、生かして下さっている、命の言葉なのです。

 本日は聖餐があります。それはわたしたちに与えられた聖霊のお働きによって、今まさに天におられ、生きておられるキリストの体と血に、目に見えるパンとブドウ酒のしるしを通してあずかること。キリストの新しい命に養われ、生かされるという出来事です。
 説教が聞く神の言葉、そして聖餐は見える神の言葉と言われます。
 説教と聖餐を通して、命の言葉が与えられ、ここに、そのようにして主イエスの体と血に生かされ、養われている群れがあります。主イエスとの交わりに生きている教会があります。
 これこそが、聖霊なる神様が与えて下さる、主イエスが救い主であるという何よりの証しです。
 そして教会で神を礼拝する者たちは、この命の言葉に生かされている事実を体現している存在です。まさに、主イエスを証しする群れなのです。
 わたしたちを悔い改めと罪の赦しへと導き、救いの恵みにあずからせて下さる聖霊が、またわたしたちの存在すべてを用いて、主イエスの救いを証しして下さるのです。

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