主日礼拝

福音は世界へ

「福音は世界へ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第55章1-7節
・ 新約聖書; 使徒言行録 第28章17-31節
・ 讃美歌 ; 301、405、443

 
旅の終わり

 長い、苦しい旅が終わりました。初代教会最大の伝道者パウロの、エルサレムからローマへの旅です。その旅の終わりをもって使徒言行録は締めくくられています。パウロの旅の終わりと共に、使徒言行録を読んできた私たちの旅も終わるのです。二年前の2004年3月に、使徒言行録の講解説教を始めました。その最初の説教において私はこのように申しました。「使徒言行録を読むことは、使徒たちと共に伝道の旅に出ることです。今日から、皆さんと共に、そういう新しい旅に出たいのです。旅路の先に何が待っているのか、どんな素晴らしい体験が、喜ばしい出会いが与えられるのか、とても楽しみです。しかしまた、旅路の途上にはいろいろと苦しいこと、つらいことがあると予想されます。行き詰まってしまうこともあるかもしれません。その時は共に祈り合い、支え合い、助け合って苦境を乗り越えたいと願います。ですから私の説教のためにどうぞお祈り下さい。この旅は、説教する者と、それを聞く皆さんとが共に手をたずさえて歩んで行くものです」。今この旅を終えるにあたって、最初に予想した通りに、素晴らしい体験、喜ばしい出会いを、皆さんと共に沢山味わうことができたことを神様に感謝したいと思います。そして、皆さんが私の説教のために祈って支えて下さったことをも心から感謝します。礼拝の説教は、牧師と会衆の皆さんとが共同で作り上げていくものです。皆さんは説教者のために祈ることによって、また礼拝に出席して真剣に説教を聞くことによって、その作業に参加しているのです。

尻切れトンボ?

 さて、本日をもって使徒言行録を読み終えるわけですが、この終わりのところについて皆さんはどのような思いを抱かれるでしょうか。もしかしたら、少し物足りない、一つの書物の終わりとしてはしっくりこないものを感じておられるかもしれません。使徒言行録の後半には、もっぱらパウロのことが語られてきました。パウロの歩みを語ることによって、主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていき、教会が発展していく様子を語ってきたのです。特に最後の方には、そのパウロが、エルサレムでユダヤ人たちのリンチによって殺されそうになり、その騒ぎによってローマ帝国の囚人となり、その裁判の中でローマ皇帝に上訴したためにローマへと護送されてきた、ということが語られてきました。この裁判の行方がどうなるかは当然私たちの大きな関心事です。ところが28章には、そのことが全く語られていません。伝説によれば、パウロはこの後ローマで、皇帝ネロによる迫害の中で殉教の死を遂げたと言われますが、そういうパウロの最後の様子も語られていません。それらの大事なことが全く無視されていて、ローマに到着したところで終わっているわけです。それは物足りない感じがしますし、この終わり方は尻切れトンボのように感じます。それゆえに、使徒言行録にはまだ続きがあったのだ、と考える人もいます。何らかの事情でこの後の部分が失われてしまったのではないか、あるいは、著者ルカはまだ続きを書くつもりだったのだけれども、ついに書くことができずに終わってしまったのではないか、と推測する人もいるのです。

大胆に語る

 しかしそれらはどれも勝手な推測です。結論から言うならば、使徒言行録は決して尻切れトンボの未完成な書ではありません。物足りなさを感じるとしたら、それは私たちの読み方に問題があるのです。使徒言行録をパウロの伝記として読むなら、確かに、その生涯の最後の大事な部分が欠けており、これからという所で終わっている不完全な伝記ということになるでしょう。しかし使徒言行録は、パウロの伝記ではありません。パウロは確かに主要な登場人物の一人ですが、著者の関心は、そのパウロが宣べ伝えた主イエス・キリストの福音にこそあるのです。そのことが、本日の箇所の最後の、まさにしめくくりの文章にはっきりと示されています。30、31節を読んでみます。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。神の国が宣べ伝えられ、主イエス・キリストについての教えが語られる、このことこそ、使徒言行録を貫くテーマです。しかもそこに、「全く自由に何の妨げもなく」とあります。「全く自由に」と訳されている言葉は、使徒言行録に何度も出てくる大事な言葉で、他の所では「大胆に」とか「勇敢に」と訳されています。大事な言葉ですので、いくつかの箇所を読んで確認しておきたいと思います。まず、4章13節(219頁)です。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き」とあります。ペトロとヨハネが大胆に主イエスのことを証ししたのです。また同じ4章の29節(220頁)には「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りが記され、その後の31節には、その祈りが聞かれて弟子たちが聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしたとあります。弟子たちが聖霊の力を受けて大胆に神の言葉を語っていったことによって、教会が成長していったのです。また9章27節(231頁)には、バルナバが、エルサレム教会の使徒たちに、回心したサウロを紹介するときに、彼がダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した、とあります。この「大胆に宣教した」という言葉は、今の「大胆に」から生まれた動詞です。そして同じ言葉は次の28節では「恐れずに教える」と訳されています。その言葉は13章46節(240頁)では、「パウロとバルナバは勇敢に語った」と訳されています。他にもいくつかの箇所をあげることができますが、このように使徒言行録は、使徒たちが、大胆に主イエス・キリストのことを証しし、神の言葉を語ったことを繰り返し見つめてきたのです。そのことがローマにおいてもパウロによってなされたことをこの最後の31節は語っており、それによって使徒言行録は締めくくられているのです。つまり使徒言行録は、正確に言えば、パウロがローマに到着したことで終わっているのではなくて、パウロがローマで主イエス・キリストのことを大胆に宣べ伝えたことで終わっているのです。パウロがローマへ行こうとしたのはこのためでした。彼はエルサレムで捕えられて囚人となり、その裁判の経過の中で、生まれつき持っていたローマ市民権を用いて皇帝に上訴するという手段を用いましたけれども、それは自分の無罪を勝ち取るためではなくて、当時の世界の中心であったローマで、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える機会を得るためだったのです。その目的が果たされ、ローマにおいて主イエス・キリストの福音が全く自由に、大胆に宣べ伝えられた、そのことを確認して使徒言行録は閉じられています。それはちゃんと筋の通ったことで、決して尻切れトンボの中途半端な終わり方ではないのです。

神のご計画

 このことは、パウロが心に抱いた願い、計画が実現した、ということでしょうか。そうではありません。ローマへ行く計画が最初に語られているのは19章21節です。そこには、先ずエルサレムに行き、それからローマへも行くことを彼が決心した、とありました。しかしその「決心し」は口語訳聖書では「御霊に感じて決心した」となっていました。原文には「霊において」という言葉があるのです。それは「聖霊の働きによって」と読むことができます。パウロのローマ行きの計画は、聖霊によって、つまり神様によって与えられた、神様のご計画だったのです。パウロがローマに到着したことによって、聖霊によって示された神様のご計画が実現したのです。そしてこの神様のご計画は、さらにもっとずっと前の、1章8節において既に示されていました。1章8節(213頁)にこのようにありました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。これは復活された主イエスが弟子たちに語られたお言葉です。あなたがたに聖霊の力が与えられ、それによってあなたがたは、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てまで、わたしの証人となるのだ、と主イエスは言われたのです。使徒言行録は、この主イエスのお言葉がどのように実現していったかを語っています。そしてその「地の果て」がローマなのです。イエス・キリストの福音が地の果てであるローマにまで及んだ、そのことを語って使徒言行録は終わるのです。つまり1章8節の主イエスの約束のみ言葉、そこに示されている神様のご計画の実現を見届けて、使徒言行録は締めくくられているのです。パウロは、その神様のご計画の中で用いられているのです。

エルサレムからローマへ

 このように使徒言行録は、神様の独り子イエス・キリストによる救いの恵みを告げ知らせる福音が、聖霊の働きによって、エルサレムから始めてローマにまで宣べ伝えられたことを語っています。それはただ単に、より広い地域の、より多くの人々に福音が伝えられた、という広さや数の拡大ではありません。エルサレムからローマへ、ということにはもっと深い意味があります。エルサレムはユダヤ人の町です。旧約聖書に記されている神の民イスラエルの歴史の中心です。それに対してローマは、当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の首都です。それはユダヤ人の立場から見れば、神様の民でない人々、いわゆる異邦人の世界の中心です。ユダヤ人は、自分たちこそが神様に選ばれた神の民であり、神様の祝福、救いにあずかる者である。それに対して異邦人たちは、神様の祝福と救いの外にいる、それにあずかることができない人々であると考えていました。つまり、ユダヤ人にとって、エルサレムとローマとの間には、何千キロという地理的な隔たり以上に大きな、神様に選ばれた者とそうでない者、救われる者と滅びる者、という質的な隔たりがあったのです。ですからエルサレムからローマへというのは、ユダヤ人にとっては本来あり得ない展開なのです。救いは、エルサレムにはあるがローマにはない、というのがユダヤ人たちの伝統的な考えなのです。ですから、神様が、救いの恵み、福音を、エルサレムから始めてローマにまでもたらして下さったというのは、神様の救いとは何か、それにあずかる神の民とは誰か、ということにおける大きな転換なのです。
 神様の独り子イエス・キリストによってその転換が実現しました。主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、また父なる神様がその主イエスを復活させて下さったことによって、掟を守って正しい生活をすることによって自分の力で救いを得るのではなく、神様が与えて下さる罪の赦しと新しい命の恵みに、主イエスを信じる信仰によってあずかる道が開かれたのです。そこに、主イエスを信じ、洗礼を受けて主イエスとつながる新しい神の民、新しいイスラエルである教会が誕生したのです。この新しいイスラエル、主イエス・キリストの教会は、あらゆる民族の人々に開かれています。神様は救いの恵みへの門戸を、主イエス・キリストの教会において、全ての民族に開いて下さったのです。エルサレムかローマへ、という福音の展開は、神様の救いとは何か、それにあずかる神の民とは誰か、ということにおけるこの転換を意味しており、使徒言行録はその、神様の救いの新しい展開を語っているのです。

異邦人の救い

 本日の箇所においてもそのことがはっきりと語られています。ローマに到着したパウロが先ずしたことは何だったでしょうか。それは17節にあるように、ローマに住む主だったユダヤ人たちを招いて語りかけた、ということでした。ローマには当時既にキリスト信者たちがおり、教会があったのです。そのことは15節に、ローマからパウロを迎えに来た兄弟たち、つまりキリスト信者たちがいたとあることからも明らかです。またパウロはローマ到着以前に、まだ会ったことのないローマの教会の人々に、「ローマの信徒への手紙」を書き送ったのです。ですからローマに到着したパウロは、当然それらのキリスト信者たち、教会の人々と接触したでしょう。しかしここに語られている彼の活動は、ユダヤ人たちを招き、主イエス・キリストの福音を伝えることでした。その様子が23節にこのように語られています。「そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである」。このように彼は、ユダヤ人たちに熱心に伝道したのです。しかし、ユダヤ人たちの反応ははかばかしくありませんでした。彼らは21、22節によれば、パウロに対して悪い先入観は持っておらず、むしろ彼の語ることをよく聞こうという姿勢を持っていました。しかしパウロの熱心な証しを聞いた彼らの反応は、24節にあるように、ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった、というものでした。パウロはそのように意見が分裂していくユダヤ人たちに、イザヤ書6章の言葉を引いて警告を与えています。あなたがたは、聞いても理解せず、見ても認めようとしない、心が鈍り、耳が遠くなり、目が閉ざされてしまっている、だから、神が主イエス・キリストによって新たに成し遂げて下さった救いの恵みを信じ、悔い改めて神様に立ち帰ることができないのだ、というのです。そして28節でこう言っています。「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」。もともと神様の民であり、独り子主イエスによる神様の救いのみ業を真っ先に受け入れるべき者であるあなたがたがそれを拒んでしまっている。それゆえにこの救いは、異邦人に向けられ、与えられていく。彼らこそ、この福音を受け入れ、これに聞き従い、救いにあずかるのだ…。こうしてパウロはこのローマでも、異邦人たちに、主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えていったのです。それが30節以下に語られていることです。パウロはこれまでの伝道において、どの町でも先ずユダヤ人たちに主イエスの福音を宣べ伝え、彼らに拒まれて異邦人たちに伝道していく、というパターンを繰り返してきました。そのようにして、主イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと及んでいったのです。その転換がローマにおいても起ったことを使徒言行録は語っているのです。

パウロの生涯

 振り返って見るならば、パウロの生涯そのものがこの神様の救いの恵みの転換を表しています。彼は今、異邦人にキリストの救いを宣べ伝える使徒としてローマに到着しました。そこが彼の生涯の終着点となります。それでは彼の出発点はどこだったか。それはエルサレムです。彼が初めて使徒言行録に登場したのは、第7章の、エルサレムにおけるステファノの殉教の場面です。ステファノは、ユダヤ人たちが自分たちこそ神の民であると誇り、神様の掟である律法を守ることや神殿での礼拝をその誇りの拠り所としていることを批判して、主イエスこそ救い主であると語ったのです。サウロと呼ばれていた当時のパウロは、このステファノを殺すユダヤ人たちの仲間であり、そのあと教会を迫害する者たちの中心となっていきました。まさに彼はエルサレムから、エルサレムに代表されるものの代表者として出発したのです。その彼が、9章において、ダマスコに向かう道で、復活された主イエスと出会い、人生の大転換を与えられたのです。それまでの彼は、自分が神の民ユダヤ人であることを誇りとし、律法を守ることでその誇りを確認し、自分は神様の前に胸を張って立つことのできる立派な信仰者である、という自負を持って生きていました。しかし主イエスと出会うことによって彼は、そのような生き方が、神様の御心に真っ向から対立する、神様が遣わされた救い主である独り子を迫害することだったことを示され、一切の誇りや自負を打ち砕かれたのです。そこに示され、与えられたのは、自分の誇りや自負によって生きるのではない、神様に敵対していた罪人である自分をも憐れみ、独り子主イエスが自分の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって罪を赦して下さり、自分をも選んでこの救いの知らせを宣べ伝えさせて下さる神様の愛によって生かされる歩みでした。この大転換によって彼は、ユダヤ人としてのあらゆる誇りや自負から自由になり、神様が、主イエス・キリストを信じる信仰において全ての人々を救いへと招いておられることを確信することができたのです。エルサレムから始まりローマに至るパウロの人生は、主イエス・キリストにおける神様の救いの恵みの大転換と重なり合っているのです。

地の果てとは

 「神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、神様とは縁もゆかりもなかったあなたも、いやむしろ今なお神様に敵対する罪人であるあなたも、罪の赦しの恵みにあずかり、神の民として新しく生かされる。主イエス・キリストを信じることによって、その救いがあなたにも与えられるのだ」。これが主イエス・キリストの福音です。使徒言行録は、このキリストの福音が、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで宣べ伝えられ、それに聞き従う新しい神の民である教会が聖霊の力によって生まれ、育っていった記録です。これが書かれた当時、福音にとっての「地の果て」はローマでした。しかしそのローマは、パウロを始めとする多くの信仰者たちの伝道と、彼らが迫害の苦しみに耐え、殉教の血を流したことによって、約三百年後には、「キリストの都」と呼ばれるようになりました。主イエス・キリストの福音が大胆に語られ続けることによって、世界の歴史はこのように動いていくのです。それでは今日、地の果てとはどこでしょうか。それは、私たちが今置かれているここです。今私たちが主イエス・キリストの福音を聞いている、その場所こそが私たちにとっての地の果てなのです。福音の最前線なのです。エルサレムから始まった、主イエス・キリストの福音を信じ、神様の救いのみ言葉に聞き従う神の民の歴史が、今ここで、私たちのところにまで及んできているのです。神様は今、ここで、私たちの中に、主イエス・キリストの福音に聞き従う神の民の群れを造り出そうと、聖霊によって働いておられるのです。

使徒言行録の続き

 パウロの旅は終わりました。しかし、キリストの福音の歩みは終わることはありません。それは今、私たちをも巻き込みながら、さらに先へと、この歴史の中を進んでいこうとしているのです。使徒言行録を読んできた私たちの旅路も本日をもって終わります。しかしそれは終わりではありません。エルサレムから始まり、地の果てにまで至る神様の救いの歴史が、これからは私たちを登場人物として続けられていくのです。私たちは、使徒言行録の続きを、自分の歩み、人生をもって書き進めていくのです。私たちが自分の知恵や力でそれを書いていくのではありません。私たちがひたすら、主を尋ね求め、主イエス・キリストの福音を聞き、それに聞き従って神に立ち帰り、値を払うことなく与えられる恵みの豊かさを楽しみ、魂に命を与えられていくならば、聖霊なる神ご自身が、私たちをも用いて、使徒言行録の続きを書き進め、福音を世界へともたらして下さるのです。

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