主日礼拝

つまずきを乗り越えて

「つまずきを乗り越えて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第43章 1-7節
・ 新約聖書; 使徒言行録 第28章 1-16節

 
ローマ到着

 いよいよ、使徒言行録の最後の章に入りました。この第28章には、パウロが、長い旅の末にようやくローマに到着したことが語られています。パウロのローマ到着をもって使徒言行録はしめくくられているのです。ローマ行きの志が最初に語られたのは19章21節においてでした。この時彼は第三回伝道旅行の途上にあり、エフェソにいました。その後の彼の歩みは、聖書の後ろの付録の地図の8、「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただきたいと思います。エフェソはいわゆる小アジア、今日のトルコの西のはじ、エーゲ海に面したところにあります。そこから彼はギリシャに渡りましたが、その後はローマとは反対方向である東に向ってエルサレムに行きました。彼が伝道して生まれた異邦人の諸教会と、エルサレムを中心とするユダヤ人の教会との一致のために、どうしてもその必要があったのです。そのエルサレムでパウロはユダヤ人たちに殺されそうになり、その騒ぎのためにローマ帝国の囚人となり、カイサリアに2年間監禁された後、囚人としてローマへと護送されたのです。その船旅の経路が地図の9、「パウロのローマへの旅」に記されています。エフェソからギリシャを経てエルサレムに行き、そしてローマへ行くという旅は、今日、全て飛行機を使って移動するとしてもかなりの大旅行です。約二千年前の当時、これだけの距離を旅することは並大抵のことではなかったでしょう。実際先週読んだ27章におけるローマへの船旅において、彼の乗り込んだ船は嵐によって漂流し、浅瀬に乗り上げ、命からがら、やっとの思いでマルタ島に上陸することができたのです。本日ご一緒に読むところは、このマルタ島における出来事と、そこからローマまでのパウロの旅路の最後のところです。長い、苦しい、困難な旅を経て、ようやくパウロはローマに到着するのです。

信仰の旅路

 この使徒言行録を書いた人、ルカは、本日の箇所に「わたしたち」とあるように、パウロのローマへの旅に同行した人でした。パウロと共に嵐の海に苦しみ、難破してマルタ島に泳ぎ着くという体験をしたのです。パウロと共に歩んだこの旅は、彼にとってまさに信仰の旅路でした。主イエス・キリストを信じて、主イエスから与えられた使命を果たそうとする時、その歩みには様々な困難や妨害が、逆風や嵐が襲ってくるのです。そして時には乗っている船が沈没してしまうようなことが起るのです。そのような試練の中で、神様に守られ、導かれつつ歩んでいく、そういう信仰者の旅路を、ルカは自分自身の体験を通して語っているのです。それゆえに読む私たちも、ここに自分自身の信仰の歩みを、信仰をもってこの世を生きるその旅路を重ね合わせることができます。先週読んだ27章の船旅はまさにそうでした。本日の、マルタ島上陸からローマ到着までの旅路においても同じことが言えます。ここに語られているパウロの歩みは、私たちの信仰の旅路とどのように重なり合うのでしょうか。そのことをご一緒に見ていきたいと思います。

蝮にかまれたパウロ

 難破した船から海に飛び込んで脱出したパウロたちは、着の身着のままでマルタ島に上陸しました。そのように泳ぎ着いた彼らを、この島の住民たちは大変親切に迎えてくれました。「降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれた」と2節にあります。ところが、パウロがそのたき火に一束の枯れ枝をくべると、その中に蝮がいて、パウロの手に絡みついたのです。「絡みついた」は口語訳聖書では「かみついた」です。火の熱さで飛び出して来た蝮が、パウロの手に噛みついたと考えてよいでしょう。4節には、蝮が彼の手にぶら下がっていたとありますが、それも、噛み付いてぶら下がっていたということでしょう。絡みついただけで噛みついてはいなかった、などという読み方は不自然です。そのことは、この様子を見た島の住民たちが思ったことからも分かります。彼らは4節にあるように「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」と思ったのです。この人は人殺しのような大変悪いことをしたのだ、だから、嵐の海からは助かっても、正義の女神は彼を見逃しにすることはなく、蝮に噛まれて死ぬのだ、ということです。日本の諺で言えば、「天網恢々、疎にして漏らさず」というところでしょう。

つまずき

 この事態は、勿論パウロの命の危機なのですが、それ以上に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロが、人殺しの極悪人で、天罰を受けるべき人と思われてしまったという意味で、伝道における大きな妨げとなる事態です。主イエス・キリストによる救いの恵みを告げる福音、神様のみ言葉は、人を通して宣べ伝えられていきます。伝道の基本は、人から人への伝達です。それゆえに、宣べ伝える人がどのような人であるか、他の人々からどのように見られているか、ということが大きな影響を及ぼさずにはいないのです。福音を宣べ伝えている人が、人殺しの極悪人と思われてしまったなら、もはや伝道どころではありません。誰もその人の言うことに耳を貸さなくなるのです。そういうことが、他ならぬパウロの身に起ってしまった、というのがこの出来事です。そしてここに、この出来事が私たちの信仰の歩みと重なり合う点があります。先週読んだ27章には、信仰者パウロが船に乗り込んでいたために、同船していた他の全ての人々が力づけられ、励まされ、命を救われたということが語られていました。私たちはそこに、家族を始めとするこの世の様々な共同体の中で、私たちが信仰者として立てられていることが神様の大いなる祝福、恵みであるということを見ることができたのです。私たちが信仰をもってこの世を生きる時に、その私たちの周囲の人々が、勿論私たちの力によってではなくて神様の恵みによってですが、神様の祝福にあずかっていくという感謝すべき出来事が確かに起るのです。しかしまた他方で、私たち信仰者の有り様やそこに起る出来事が周囲の人々のつまずきとなり、私たちの姿が主イエス・キリストの福音の妨げとなり、神様の栄光を損ねてしまう、という悲しいことも起ります。そのことを私たちは誰でも体験しているのではないでしょうか。そういうことが、大伝道者パウロにおいても起ったのです。

つまずきを乗り越えて

 それゆえに本日の箇所が語ろうとしていることの中心は、神様が、そのような信仰のつまずき、伝道の妨げとなることを取り除いて下さった、という点にあります。パウロが自分の手にぶら下がっている蝮を火の中に振り落とし、何の害も受けなかったというのはそういうことです。これはパウロ自身の奇跡的な力を示す出来事ではありません。パウロには蝮の毒をも制する力があったのだ、という話ではないのです。これは神様の恵みの力による奇跡です。神様はパウロの命を蝮の毒から守って下さっただけではなくて、信仰者の歩みにおいてしばしば起る、周囲の人々をつまずかせ、伝道の妨げとなってしまうような事態を、恵みの力によって取り除き、つまずきを乗り越えさせて下さったのです。島の人々は、パウロが今にも体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと思って見ていましたが、いつまでたっても何も起こりません。それで彼らは考えを変え、「この人は神様だ」と言い始めたのです。蝮に噛まれたら人殺し、それで何も害を受けなかったら今度は神様というのは、あまりにも単純な話だとも思われます。しかしここに、人間の評判というものがいかにうつろいやすく、ちょっとしたことでガラリと変わってしまう、という現実が示されていると言えるでしょう。私たちにおいても、何かちょっと良いことをすると周囲の人たちから「さすがに信仰を持っている人は違いますね」などとおだてられるかと思うと、逆に何か失敗や批判されるべきことがあると今度は「クリスチャンのくせに何だ」などと言われたりするのです。そのようにうつろいやすい人間の評判の中で、私たちはしばしば、自分の姿が伝道の妨げ、つまずきとなってしまう、ということを体験します。そういうつまずきを、神様がその恵みの力によって乗り越えて下さり、伝道を前進させて下さるということを、この出来事は示しているのです。

信仰の死

 しかしこのことはさらに深く掘り下げて考えなければなりません。パウロは蝮に噛まれたのです。当時は、蝮に噛まれたことは死を意味していました。人々の反応からそれが分かります。パウロはもう死ぬしかない、という状況に置かれたのです。ローマへと向かう旅の途上で、志半ばにして死んでしまうところだったのです。このことを私たちの信仰の旅路に重ね合わせてみるならば、その途上で信仰の命を失ってしまう、つまり不信仰に陥り、信仰が死んでしまうこととして考えることができます。肉体の死とは別に、信仰の死があるのです。信仰が、蝮に噛まれて死んでしまうということが起るのです。蝮は蛇です。聖書において蛇というと、最初の人間アダムとエバを誘惑して神様に背かせ、罪を犯させたあの蛇のことを思い起こします。あの蛇はサタン、悪魔の象徴です。信仰において蛇にかまれるとは、あのサタンの誘惑を私たちも受けることだと言えるでしょう。あの蛇は、アダムとエバに、神様のもとで、神様に従って生きることは不自由な、束縛された、自分らしく生きることができない窮屈な生活だと思わせ、だから神様に背いて、自分の思い通りに、自分が主人になって生きることを勧めたのです。その唆しによって彼らは、食べてはいけないと言われていた木の実を食べたのです。蛇に噛まれるとは、私たちもこの誘惑に陥り、神様のもとで、神様に従って生きることをやめ、自分が主人となって、自分の思いによって生き始める、ということです。この蛇の毒によって私たちの信仰は死んでしまうのです。信仰とは神様との生きた交わりですが、それを失ってしまうのです。私たちが周囲の人々につまずきを与える者となるのはこのことによってです。私たちの姿が、神様の栄光を損ない、人々をイエス・キリストの福音から、信仰から遠ざけてしまうようなことが起るのは、私たち自身の信仰が罪の毒によって命を失い、神様のもとで、神様と共に生きる歩みでなくなっているからです。逆に言えば、信仰が本当に生きており、神様のもとで、神様と共に歩んでいるならば、その歩みが人につまずきを引き起こすことはないのです。勿論その場合にも、反対を受けたり、理解されない、ということは起ります。しかしそれはつまずきとは違います。つまずきは、「あの人は信仰があるような顔をしているけれども、本当は人殺しだ」と思われることによって起るのです。つまり表面的には信仰者であるようなことを言い、信仰によって生きているように装っているけれども、実際に語っていること、行なっている業においては、自分中心であり、人を傷つけ、殺している、そういうことが見られる時に、つまずきが起るのです。そのように、信仰者において表面と内実がかけ離れてしまう、それは信仰が死んだものになっているということであり、その原因は、神様ではなく自分が主人になって生きていることにあるのです。私たちが人につまずきを与えてしまうことの根本には、このような深刻な事態があるということを見つめなければならないのです。

十字架と復活によって

 本日の箇所は、先程も申しましたように、このつまずきを神様が乗り越えて下さったことを語っています。それは具体的には、蝮の毒によって死ぬしかないと誰もが思ったパウロが、死なずに生かされたことによってでした。神様は私たちにも、このような恵みを与えて、私たちのもたらすつまずきを乗り越えて福音を前進させて下さるのです。つまり、罪の毒によって死ぬしかない私たちの信仰の命を、恵みの力によって守り、生かして下さるのです。その恵みは、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられている救いの恵み以外ではありません。私たちがサタンの毒に犯されて神様に背き、神様のもとで生きることをやめて自分が主人になって歩んでいってしまう、その罪を主イエスは全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの死によって、私たちの罪が赦されたのです。赦されたということは、その罪がもはや毒として私たちの命を奪うことはなくなったということです。そしてさらに主イエスの復活によって、私たちに新しい命が、神様の祝福の下で生きる命が与えられたのです。私たちがもたらすつまずきを、神様が恵みの力によって乗り越えて下さるのは、このことによってです。つまりそれは、私たちの不信仰や失敗から生じてしまういろいろなつまずき、不都合の尻拭いを神様がして、どうにか丸く納め、あまり人々のつまずきにならないようにして下さる、というようなことではないのです。それは例えて言えば、蝮の毒を中和する解毒剤を与えるようなものです。神様がなさったのはそういうことではなくて、もはや死ぬしかなかったパウロを生かして下さったということです。死ぬはずのパウロに命が与えられたのです。その命は、主イエス・キリストが身代わりになって死んで下さったことによって与えられた復活の命を象徴しています。復活の命を与えられ、それによって生きていくこと以外に、つまずきを乗り越える道はないのです。そしてその復活の命は自分で獲得するものではなく、神様が与えて下さるものです。神様が、主イエス・キリストの十字架と復活によってこの命を与えて下さり、私たちを主イエスとの生きた交わりの内に歩ませて下さる、そのことによってこそ、私たちの信仰は生きたものとなり、私たちの罪がもたらす全てのつまずきが乗り越えられて、神様の救いのみ業が前進していくのです。

癒しの業

 さて7節以下には、パウロが、この島の長官プブリウスの父親の熱病と下痢を癒したということが語られています。蝮の毒から守られ、神様によって生かされたパウロは、そのことによって島の人々のつまずきを乗り越え、今度は人々に神様の恵みを分け与えていく働きをすることができるようになったのです。その働きは、病の癒しという形で行われました。プブリウスの父を皮切りに、9節にあるように、島のほかの病人たちにも癒しが与えられたのです。パウロはこの島でもっぱら癒しの業をしています。それは他の所での伝道の様子とは違っていて、いささかとまどいを覚えますが、ルカがここで見つめようとしているのは、パウロ自身が神様によって蝮の毒から守られて与えられたその命が、人々にも分け与えられていった、ということなのではないでしょうか。それはむしろ私たちの事柄として考えていった時に意味深いものとなります。つまり、罪の毒によって死ぬしかない私たち、周囲の人々につまずきを与えてしまうことの多い私たちを、神様が、主イエス・キリストの十字架と復活によって赦し、生かして下さる、新しい命を与えて下さることによって、私たちの周囲の人々にも、その命が及んでいくのです。私たちがもたらすつまずきを、神様が乗り越えて下さって、私たちの周囲の、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、いろいろな意味で病んでいる人々が、主イエスが与えて下さる命によって癒され、力づけられ、喜びを与えられていくという恵みのみ業が実現していくのです。私たちが、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられる新しい命を本当に生きていくなら、神様との生きた交わりの中を歩んでいくなら、このような大いなる恵みの実りが与えられるのです。

信じる者に伴うしるし

 パウロを通して行われたこれらの素晴らしい働きは、パウロだから出来たのであって、私たちのような普通の人間にはこんなことはとても出来はしない、などと思ってはなりません。ここで、マルコによる福音書の第16章17、18節を読みたいと思います。復活された主イエス・キリストが弟子たちに現れて、彼らを伝道のために全世界に派遣された時のみ言葉です。主イエスはこのように約束して下さったのです。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。パウロはまさにこの主イエスの約束通りのことを体験したのです。この約束は、信じる者全てに与えられています。私たちも、主イエス・キリストを神の子、救い主と信じるなら、この約束を与えられるのです。ここに約束されていることは、私たちの力や可能性を見つめるならば、とうていあり得ないことです。私たちは悪霊を追い出したり、手で蛇をつかんだり、毒を飲んでも害を受けなかったり、病人に手を置いて癒すことなどできはしないのです。しかし主イエス・キリストは、「信じる者にはこのようなしるしが伴う」と言っておられます。信じる者にはそういう力が与えられると言っておられるのではないのです。信じる者にこれらのしるしを伴わせて下さる方がおられるのです。それは、信じる者と共にいて下さり、十字架の死と復活によって新しい命を与えて下さる主イエス・キリストご自身です。共にいて下さる主イエス・キリストの力によって、信じる者は蛇をつかむのです。蛇とは先ほどの、人を罪に陥れ、神様に背かせる者、サタンです。主イエスが共にいて下さるので、私たちはサタンの尻尾をつかむことができるのです。私たちを陥れて神様に背かせ、自由だと思わせて実はサタンの奴隷にしてしまい、滅びへと引きずり込もうとするサタンの策略を見抜き、それと戦っていくことができるのです。また共にいて下さる主イエス・キリストによって、信じる者は毒を飲んでも害を受けないのです。この毒は罪の毒です。私たちは日々、罪の毒を飲んでいます。知らない内に飲んでしまっている毒もあれば、自分で飲んでいる毒もあります。その毒は、私たちの心を麻痺させ、良心を眠り込ませ、思いやりを失わせ、怒りやいらだちで満たし、人との交わりを破壊し、神様との交わりである信仰をも失わせていきます。しかし十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが共にいて下さることによって、その罪が赦され、その毒は力を失い、私たちは神様の救いの恵みの中で生かされていくのです。また共にいて下さる主イエス・キリストによって、信じる者が病人に手を置けば治るのです。それは私たちが奇跡的な癒しをするということではなくて、主イエスによって生かされている私たちを通して、主イエスの命が、恵みと祝福が、苦しみの中にある人々にも及んでいくのです。神様の恵みが及ぶ時に、人は健康を回復します。日々の生活に慰めと支えと平安が与えられ、人生が明るくなります。神様に委ねることができるようになって、思い悩みから解放されるのです。自分の持っている様々な意味での財産、豊かさによってプライド、誇りを保っていくような生活、その裏返しとしてのコンプレックス、劣等感に苦しむ歩みから解き放たれて、本当に健康に生きることができるようになるのです。さらに、共にいて下さる主イエス・キリストによって、信じる者は悪霊を追い出すことができるのです。悪霊は人にとりつき、神様を見上げることができなくさせます。主イエス・キリストによって実現している神様の恵みのご支配を目を上げて見ることができなくなって、自分の思い、願い、苦しみ、悲しみの狭い部屋の中に閉じこもってしまうなら、そこには悪霊が支配しているのです。主イエス・キリストによって実現している神様のご支配を信じる信仰者は、悪霊の支配下にある人に、この神様のご支配を指し示すことができます。私たちは、呪文か何かを唱えて悪霊を退散させることはできませんが、主イエス・キリストを、そこに実現している神様の恵みのご支配を指し示すことはできるのです。それによって人が目を上げ、神様を見上げるようになるなら、悪霊は退散するのです。また、共にいて下さる主イエス・キリストによって、信じる者は新しい言葉を語ります。私たちがもともと語っている言葉は、罪の毒に満ちた、しばしば人を傷つけ、殺してしまう言葉です。その私たちの言葉が周囲の人々につまずきを与えてしまうことが多いのです。しかし共にいて下さる主イエス・キリストの力によって、私たちの言葉は変えられていきます。自分のプライドにこだわる、人を責めてばかりいる、思いやりのない、苦い言葉から、主イエス・キリストの恵み、慈しみ、愛を映し出す優しい言葉へと変えられていくのです。キリストの福音は、そのような言葉によってこそ宣べ伝えられていくのです。

 信じる者にはこのようなしるしが伴う、という約束が私たちに与えられています。求められていることは、これらのしるしを行うことができるように努力することではありません。主イエスのこの約束を本当に信じることです。この約束をして下さった主イエスが必ず共にいて下さり、私たちにもこれらのしるしを伴わせて下さることを信じて求めていくことです。パウロの旅路に共におられた主イエスは、私たちの旅路にも共にいて下さるのです。

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