「良心と信仰」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 詩編、第86編 1節-17節
・ 新約聖書; 使徒言行録 、第24章 1節-27節
総督のもとでの裁判
使徒言行録第24章には、カイサリア駐在のローマ帝国ユダヤ総督フェリクスのもとへと護送されたパウロが、そこで裁判を受けている場面が語られています。エルサレムでユダヤ人たちのリンチによって殺されそうになったパウロは、ローマ帝国の守備隊によって、治安を乱す張本人として逮捕されました。それはユダヤ人たちの手から救い出されたということでもありました。ユダヤ人たちは、ローマの兵営に保護されているパウロを暗殺する計画を立てましたが、守備隊の千人隊長リシアはそれを知ると、パウロを急遽、カイサリアの総督のもとへと護送したのです。それによってパウロを暗殺するチャンスを失ったユダヤ人たちは、総督のもとに出向き、パウロを訴えて、ローマ帝国の裁判によって死刑に追い込もうとしているのです。そのために、1節にあるように、大祭司アナニアが、長老数名と弁護士テルティロを伴ってカイサリアにやって来たのです。そのようにして、総督フェリクスの前でパウロの裁判が始まりました。2~9節には、弁護士テルティロによってなされた、原告側の論告が記されています。
ユダヤ人たちの訴え
彼らがここでパウロを訴えている事柄は二つです。一つは、5節前半の「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」だということです。「世界中」というのは、ローマ帝国の全域という意味で、当時ユダヤ人はローマ帝国内の各地に住んでいたのです。この訴えによって彼らは、パウロが、ローマ帝国の各地に騒動を引き起こそうとしている危険人物だ、と言っているのです。彼らの訴えのもう一つのことは、5節の後半、パウロが「ナザレ人の分派」の主謀者だ、ということです。これは今度は、宗教的な面から、パウロとその説いている教えの危険性を主張するものです。「ナザレ人の分派」とは、当時ユダヤ教の立場からキリスト教を呼んでいた言葉です。イエス・キリストがガリラヤのナザレ出身であられたことから、ナザレ人イエスをキリストと信じる人々のことがこのように呼ばれたのです。当時ユダヤ教は、ローマ帝国の公認の宗教として存在を認められていましたが、彼らはパウロの教えを「分派」と呼ぶことによって、ユダヤ教にとってこれは異端であり、従ってローマ帝国において存在を認められるべきでない危険な教えだ、と主張しているのです。このようにユダヤ人たちは、パウロが政治的にも宗教的にも、ローマ帝国にとって危険な存在であると訴えているのです。
パウロの弁明
この告発に対してパウロが語った弁明が10~21節です。原告側が弁護士を引き連れて集団で来ているのに対して、パウロには弁護人もなく、ただ一人でこれに立ち向かわなければなりませんでした。孤軍奮闘、四面楚歌という状況です。しかしそのような中でのパウロの弁論は堂々たるものです。彼は先ず、自分がエルサレムに上ってからまだ十二日しかたっていないことを述べています。町を騒がす陰謀を企てるような時間的余裕はなかった、ということです。また、神殿でも会堂でも町の中でも、自分がだれかと論争したり、群衆を煽動したりするのを、だれも見た者はないし、自分が騒動を引き起こしているという証拠を挙げることができる者もいない、と言っています。ユダヤ人たちの訴えは全く根拠のない、証拠を挙げることのできないものなのです。むしろ騒ぎを引き起こしているのは彼らユダヤ人の方です。17節以下でパウロは、自分は神殿で清めの儀式を行い、供え物を献げていただけなのに、ユダヤ人たちが言いがかりをつけてきて騒動を起こしたのだ、もし私に何か嫌疑があるなら、正規の手続きを踏んで総督に訴えるべきだった、だから治安を乱しているのは私ではなく、ユダヤ人たちの方だ、と語っています。これは非常に説得力のある弁論です。訴えの第一の点については、これで勝負あった、という感じです。
しかしパウロにとってより大切なのは、むしろ第二の点、信仰の問題です。ここにおいてパウロは、自分の信じていることはユダヤ人たちが「分派」と呼んでいる教えだ、ということを率直に認めています。14、15節を読んでみます。「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」。ここに、パウロが宣べ伝えているキリスト教の教えと、ユダヤ教の教えとの関係が明確に示されています。キリスト教の教えは、ユダヤ人の伝統的な教えからすれば「分派」と呼ばれている道です。つまりキリスト教はユダヤ教とは違う新しい教えなのです。しかしそのような新しい教え、あるいは新しい道によってパウロらが礼拝し、従っているのは、「先祖の神」です。ユダヤ人たちが信じ、その民として歩んできた旧約聖書の神様です。新しい別の神を礼拝しているのではないのです。そしてキリスト信者は、「律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じて」います。旧約聖書の教えを、キリスト教会も、信仰の土台としているのです。このようにパウロは、キリスト教会の信仰が、ユダヤ教からは分派とされるような新しさを持ち、ユダヤ人の伝統と切れている面を持つと同時に、主なる神様の民として歩んできたユダヤ人の歴史を受け継ぐものであることを明らかにしているのです。そして、この信仰の中心には、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」がある、それもまた、ユダヤ人たちの中の、特にファリサイ派の人々と共通する信仰であるわけで、彼はそのことを既にエルサレムの最高法院においても力強く語ってきたのです。
信仰の証し
このような弁論を展開するパウロの姿は、彼を死刑にしようと訴える人々の前にただ一人立たされている被告という状況を考えると、まことに堂々とした力強いものです。彼は事実無根の訴えに対しては、その訴えには根拠がないこと、騒動を起したのは自分ではなく、むしろ相手方であることを明確に主張しています。しかし彼は、無罪を勝ち取り、自分の命を守ることのみを考えているわけではありません。自分の信仰はユダヤ人たちが分派としているものだ、ということを自から認めています。信仰の事柄においては、自分の立場が不利になることが予想されても、信じるところを率直に告白しているのです。つまり彼の弁明は、自分のための弁明ではなく、主イエス・キリストを信じる信仰の証しです。そこに、大伝道者パウロの真骨頂が現れていると言えるでしょう。パウロの強さとは、どのような場面においても、自分の立場がどうなるかを顧みずに、主イエス・キリストを証しすることができる、ということなのです。
責められることのない良心を保って
このような彼の強さはどこから来るのでしょうか。彼はもともと性格的に、損得を顧みずに使命に生きることができる強さを持っていた人だったということでしょうか。そうではないのです。パウロはここで、自分は一生懸命努力しているのだ、ということを語っています。それが16節です。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」。パウロは常に努力しているのです。損得を顧みずに使命に生きることができる強さは、生まれながらの性格と言うよりも、絶えざる努力の結果なのです。しかし彼は何を努力しているのでしょうか。「責められることのない良心を絶えず保つように努めている」。良心に責められるところがないように、良心的に生きようと、彼は努力しているのです。「良心的に生きる」とはいったいどのようなことなのでしょうか。またそれはどのようにして可能となるのでしょうか。
良心とは?
私たちは「良心」という言葉をどのように受け止めているでしょうか。ある国語辞典で「良心」を引くと、「自分の本性の中にひそむ欺瞞、打算的行為や不正直、不誠実、ごまかし、怠惰の念などを退け、自分が正しいと信じる所に従って行動しようとする気持」とありました。私たちは良心をだいたいこのように捉えていると言えるでしょう。簡単に言えば、「自分が良くないと思うことを退け、正しい、良いと思うことを行なおうとする気持」です。日本人は伝統的に、このような意味での良心を強く持っています。よく、西洋人が、日本人には無信仰、無宗教の人が多いと聞くと、「それでは倫理や道徳がどうして成り立つのか」と不思議に思うということを聞きますが、それは、日本人の心に、「良心」が大きな力をもって存在しているからです。いや、「存在していた」ともはや過去形で言わなければならないのかもしれません。そのことに暗澹たる思いを抱かずにおれませんが、伝統的には、日本人のメンタリティーには、「良心に恥じることをするよりは死を選ぶ」という思いがあったのです。つまり「良心」は日本人の心の中で、西洋人にとって「信仰」が果たす役割をしていたのです。言い換えれば、日本人にとっては、良心こそが神であった、ということでしょう。現に多くの人は、神とは人間の良心の象徴だと考えています。ですから信仰というのも、「良心に恥じない生活をすること」だと思っている人が多いのです。良心という言葉は、日本人の倫理観、宗教観を考える上でとても大事な、鍵になる言葉だと言えるでしょう。そのような日本的な良心と、聖書の語る良心とは、同じなのでしょうか、それとも違うのでしょうか。
共に知る者
先ず、言葉そのものから考えてみたいと思います。日本語の良心は文字通り「良い心」という字ですが、新約聖書の言葉であるギリシャ語における良心は、「共に」という言葉と「知る」という言葉が組み合わさって出来ています。つまりその意味は「共に知る者」なのです。これは多くの西洋の言語にそのまま受け継がれていて、例えば英語で良心はconscienceですが、conは「共に」、scienceの方は「サイエンス」と同じスペルになるわけで、知る、知識という意味です。つまり西洋の言語における良心は、自分の傍らにあって、自分の思いや行動を自分と共に見つめ、共に知っている存在です。そう言われれば、日本語の良心にもそういう意味があることに気づきます。「良心の声」という言い方がありますが、それは、自分の中のもう一人の自分が、おまえのしていることはそれでよいのか、と問う声です。そのように私たちの思いや行動を見つめている「共に知る者」としてのもう一人の自分が良心であると言えるわけです。しかし、まさにそこに、日本的な良心と聖書の良心の根本的な違いも見えてきます。「共に知る者」が「もう一人の自分」であるのが日本人の良心です。しかしパウロがここで語っている良心における「共に知る者」は、「自分の中のもう一人の自分」ではありません。そのことがよりはっきりと分かるのは、23章1節におけるパウロの言葉です。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」。ここにも良心という言葉があります。パウロは、自分は良心に従って生きてきた、と言っているのです。しかしそこに、「神の前で」という言葉が加えられています。本日の所の16節でも、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心」とありました。パウロにとって、良心に従って生きるとは、神様の前で、神様に対して生きること、つまり、神様の方を向いて、神様と共に生きることなのです。ですからパウロにおいて「共に知る者」は、もう一人の自分ではなくて、自分の外にいる神様です。神様こそが、自分の思いや言葉や行いの全てを、共に見ておられ、知っておられる方なのです。この神様のまなざしの前で、責められることのないように生きることが、良心に従って生きることであり、パウロは常にこのことを努力していたのです。それによって彼は、自分の立場が不利になるかもしれない場面においても、主イエス・キリストを信じる信仰を曲げることなく証しすることができたのです。
良心的に生きるためには
このパウロの姿は、私たちに、本当に良心に従って生きることはどのようにしてできるのか、という問いを投げ掛けています。私たちの受け継いでいる日本的な良心においても、悪を退け、善を行おうとする道徳的意志としての良心が力を発揮することは事実です。しかし、そのような意志は、例えばパウロがここで置かれているような切羽詰まった状況の中で本当に力を発揮するでしょうか。「自分が正しいと信じる所に従って行動しようとする気持」というのは、結局自分の気持です。自分がどう思うか、が良心を左右するのです。良心は「もう一人の自分」だと先ほど申しましたが、「もう一人の自分」など本当はいないのであって、それも自分の思いの一部です。つまり、日本的な良心においては、自分の傍らにいて、自分の思いや行動の全てを共に見ており、共に知っている存在は、本当の意味ではいないのです。日本的な良心はやはり自分の中の「良い心」なのであって、「共に知る者」ではないのです。そのような良心は、「ここぞ」という肝心な時に本当に力を発揮できるでしょうか。人間誰でも、自分がかわいいのです。自分が不利になったり、損をしたり、苦しみにあうことは嫌なのです。そういう素朴な、それだけに根強い思いに打ち勝って、自分が不利になっても、損をしても、苦しみを負うことになっても、なすべき正しいことをする、という歩みを生み出す力を、この良心は持っているでしょうか。むしろ、決定的な瞬間に、良心は眠り込んでしまう、目をつぶってしまう、ということが多いのではないでしょうか。
良心の力
誤解をしないでいただきたいのですが、これは、日本人の良心は無力で、西洋人の方が良心的だ、ということではありません。日本人だろうと西洋人だろうと、神様という、自分の外にいて共に知る者である方の前で、そのまなざしの中で生きる、ということがなければ、良心には力がない、ということです。そのことを示すエピソードが、本日の箇所の24節以下にあります。この裁判の数日後、総督フェリクスは妻ドルシラと共に、パウロのところに信仰の話を聞きにやって来たのです。「キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」とありますから、パウロが宣べ伝えているキリストの福音について聞こうとしてやって来たのです。フェリクスがそのようなことをしようと思ったのは、一つには26節にあるように、パウロから金をもらおうという下心があったからです。裁判を有利に進めてやるから賄賂をよこせ、というわけです。しかしもう一つには、ユダヤ人である妻ドルシラの希望があった、と考えることができます。このドルシラは、使徒言行録第12章に出てきたヘロデ王の娘で、主イエスがお生まれになった時のあのヘロデ大王のひ孫に当たります。彼女はユダヤ教徒であったある人の妻だったのですが、大変な美人だったそうで、ローマ帝国のユダヤ総督として着任したフェリクスに見初められ、離婚してフェリクスの妻となりました。フェリクスは勿論ユダヤ教徒ではない、異邦人です。つまり彼女は、ユダヤ人の律法を破り、信者である夫を捨てて異邦人の男のもとへ走ったのです。そのような自分の歩みについて、ドルシラにもそれなりに良心の痛みがあったのでしょう。だから、自分と同じようにユダヤ人でありながらユダヤ人たちから裏切り者として憎まれており、異邦人にも救いを宣べ伝えているというパウロの話を聞いてみたいと思ったのではないでしょうか。このフェリクスとドルシラの前でパウロは、25節にあるように、「正義や節制や来るべき裁きについて」語りました。パウロの言葉は彼らの良心を揺さぶり、罪の意識を与えたに違いありません。「フェリクスは恐ろしくなり」とあることがそれを示しています。しかし最終的には、彼らの良心は眠り込んでしまいます。彼らは悔い改めに至ることなく、結局そのままになってしまったのです。自分の心の中で、「自分のしているこのことはよくないことだ」と思っていても、そういう良心だけでは、自分の歩みを正すことはできないし、損得を顧みずに本当に正しいことを行う力は出て来ないのです。それができるのは、神様の前で、神様に向き合って生きるという信仰における良心によってのみなのです。彼らも、「共に知る者」という意味を持った「良心」という言葉を知っていました。けれども、本当に「共に知る者」であられる神様を自分の心の外に見出すことができていなかったので、その良心には力がなかったのです。
復活と来るべき裁きの希望
パウロは、自分の外にあって自分の思いや行動の全てを見つめ、知っておられ、また歩むべき道を示して下さる神様との交わりに生きています。そのことによって彼は、損得を乗り越えて、与えられた証しの使命に生きる力を得ることができたのです。それは決して、神様にいつも監視されているから下手なことはできない、ということではありません。あるいは神様が彼に、「お前は死刑になってもよいから、この務めを果たせ」という恐ろしい命令を下し、本当は嫌なんだけれど、悲壮な思いでその命令に従っている、ということでもありません。パウロが神様のまなざしの中で与えられていたのは、希望です。しかも、肉体の死をも越える希望、復活の希望です。15節で彼は「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と言っていました。この希望です。「正しい者も正しくない者もやがて復活する」。それは、神様の前での裁きを受けるために復活するのです。その裁きにおいて、永遠の救いと滅びが決まるのです。パウロがフェリクスとドルシラに対して語った「来るべき裁き」とはそのことです。フェリクスとドルシラにとってはそれは、恐怖をもたらす教えでした。しかしパウロはこれを「希望」と言っています。来るべき裁き、つまり最後の審判を見つめることは、パウロにとっては希望であり、喜びと力の源だったのです。それは彼が、自分は神様の裁きにおいても滅ぼされることのない正しい人間である、という自信を持っていたからではありません。そうではなくて、彼は、主イエス・キリストと共に生きていたからです。パウロは神様と共に、そのまなざしの中で生きていた、それは主イエス・キリストと共にということであり、そのまなざしは、主イエス・キリストによって自分を見つめているまなざしです。神様の独り子イエス・キリストは、罪人である私たちを滅びから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さった救い主です。神様の前で正しい者ではない、来るべき裁きにおいて、本来なら滅ぼされるしかない自分が、主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦されて、新しい命、永遠の命の約束を与えられている。主イエス・キリストと共に歩むことによって、彼はそのような神様の恵みのまなざしの中を生きているのです。それゆえに彼は、正しい者も正しくない者もやがて復活し、来るべき裁きを受ける、そのことをも、希望をもって待ち望むことができるのです。
神の慈しみのまなざしの中で
本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第86編を選びました。この詩を歌った詩人は、深い苦しみ、嘆きの中にいます。彼を苦しめている人々がいるのです。その人々のことが14節で、「彼らはあなたを自分たちの前に置いていません」と語られています。神様を「共に知る者」として持っていない者たちが、それゆえに神様を恐れることもなく、傲慢にふるまい、詩人を苦しめているのです。それに対して詩人は、ひたすら神様に呼び求め、神様を慕い、依り頼んでいます。神様と共に歩み、そのまなざしの中で生きているのです。そこにおいて詩人は、5節にあるように「主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に豊かな慈しみをお与えになります」と、あるいは15節にあるように「主よ、あなたは情け深い神。憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる」と歌うことができます。神様のまなざしの中で生きる者は、このような慈しみと恵みの中で生きることができるのです。主イエス・キリストは、この慈しみと恵みを私たちのために実現して下さいました。パウロも、そして私たちも、主イエス・キリストにおける神様の慈しみと恵みのまなざしの中に置かれています。主イエス・キリストの父なる神様が、私たちの傍らにいて、この慈しみと恵みのまなざしによって、私たちの全ての思いと行いを見つめ、共に知っていて下さるのです。だから私たちは、安心して、希望を持って、与えられた務めに誠実に励むことができるのです。損得、利害を超えて、なすべきことをして生きることができるのです。そこに、本当に良心的な歩みが与えられます。自分の努力によって良心に恥じない生き方をすることが信仰なのではありません。むしろ、主イエス・キリストにおける神様の慈しみと恵みのまなざしの中で生きることによってこそ私たちは、神様に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めていくことができるのです。