主日礼拝

神の教会

「神の教会」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 1節-12節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第20章 28節-32節
・ 讃美歌21; 2、113、393、聖餐 81、聖歌隊 24

 
使徒言行録のクライマックス
 今私たちが礼拝において読んでいる使徒言行録第20章の18節以下には、パウロが、エフェソの教会の長老たちを招いて別れを告げ、教会のことを彼らに託すに当って語った告別説教が記されています。使徒言行録の大きなクライマックスがここにあると言ってもよい箇所です。この説教は、直接には、長老たち、つまり教会の指導者として立てられている人々に対して語られたものですが、しかし先々週、27節までを読んだ時の説教においても申しましたように、指導者たちに求められる心構えや注意事項というのは、要するに教会とはどのようなものであり、またなければならないかを語っているのですから、それは指導者だけが知っていればよいことではなくて、教会に連なる信仰者一人一人がしっかりとわきまえておく必要のあることです。そうであってこそ、指導者として立てられている者たちも、その務めをしっかりと果していくことができるのです。

神の教会
 本日はこの説教の28節以下を読むのですが、最初の28節に、とても大事な、根本的なことが語られています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。この教えはまさに、教会の指導者、監督者として任命された長老たちに対して語られていますが、しかしここに、全ての信仰者がしっかりと捉えておくべきである、「教会とは何であるか」ということがまことに鮮やかに語られています。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」という言葉がそれです。教会というのは建物のことではなくて、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて礼拝を守っている者たちの群れですが、その教会とは、神様が、御子イエス・キリストの血によって御自分のものとなさった群れなのです。つまり教会という群れは、神様のものであり、神様のご意志、み心によって存在しているのです。私たちはこのことをしっかりとわきまえておかなければなりません。 教会は、イエス・キリストを信じた人々が、一人でいるよりは仲間がいた方が心強いから集まって作った団体ではありません。教会は、神様が、御子イエス・キリストの血によって、つまり主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、その神様ご自身の救いのみ業によって、私たちを、神様のものとして下さった、その神様のみ心によって誕生したものです。神様が私たちをご自分のものとするために、代価を支払って下さったのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第52章の3節にこうあります。「主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と」。「ただ同然で売られたあなたたち」とあります。それが、神様のもとから背き去り、罪のとりこになっている私たちです。罪と汚れにまみれている私たちは、もはやただ同然の、二束三文の、価値のない者なのです。ところがその私たちを、神様が買い戻して下さいました。「銀によらずに買い戻される」とあります。二束三文の私たちを買い戻すのに銀などいらない、ということでしょうか。 そうではありません。全く逆です。神様は、私たちを買い戻し、ご自分のものとするために、銀よりはるかに尊いものを、御子イエス・キリストの血を、その命を、支払って下さったのです。御子の血によって私たちをご自分のものにして下さったのです。この神様の救いのみ業によって私たちは神様のものとなりました。私たちが神様を、その独り子イエス・キリストを信じる決断をして洗礼を受けようと思うよりも前に、神様はこのみ業によって私たちをご自分のものとして下さっていたのです。ですから、教会を成り立たせているのは、私たちの思いではないし、私たちの信仰ですらありません。神様ご自身のみ心が、独り子をさえ与えて下さる愛が、神様のものである教会という群れを成り立たせ、支えているのです。

教会は誰のもの?
 このように教会は神様のものです。私たちは、教会を誰のものだと思っているでしょうか。教会は牧師のもの、と思っている人がいるかもしれません。教会を牧師の私有物と思っていることはなくても、教会というのは牧師さんが「やっている」ものであって、自分は日曜日にそこへ行って神様のお話を聞かせてもらう、ただで聞かせてもらっては悪いから代金として献金を支払っている…そんなふうに感じているとしたら、それは事実上教会を牧師のものと思っているということです。あるいは、この教会は伝統ある長老教会ですから、教会はあの偉そうな長老さんたちのものなんだ、と思っている人がいるかもしれません。牧師も含めた長老たち、さらには執事と呼ばれる役員もいるわけで、そういう役員さんたちが教会をやっているのであって、その他の人たちはお客さんのようなものだ、という感覚を持つこともあり得るでしょう。それに対して、いやいやそんなことではいけない、教会は一部の長老や執事のものではなくて、我々みんなのものだ。だからみんなで教会を守り、盛り上げていかなければならないのだ、 という思いを持つこともあるかもしれません。一人一人が教会員としての自覚を持つ、という点では、このような積極的な思いは正しい、望ましいことですが、しかしこの最後の思いも含めて、今申しましたいくつかの思いは、どれも根本的には間違いです。教会は、牧師のものでも、長老や執事のものでも、教会員一人一人のものでもないのです。それは神様のものです。このことをしっかりとわきまえていないと、私たちはとんでもない間違いに陥るのです。教会において、神様のみ心、み言葉よりも、人間の思い、人間の言葉の方が大事にされ、優先されてしまう、という間違いです。それが牧師の思いや言葉であろうと、長老・執事の思いや言葉であろうと、教会員の多数の思いや言葉であろうと、大して違いはありません。教会は神様のものなのですから、そこでは牧師であれ長老・執事であれ教会員であれ、人間の思いや言葉が支配するのではなく、神様のみ心、み言葉こそが支配しなければならないのです。神様が御子の血によって私たちを御自分のものとして下さったというのは、私たちを、 神様のみ心とみ言葉とのご支配の下に置いて下さったということなのです。だから私たちは、自分の思いや言葉よりも、神様のみ心とみ言葉とを大切にして生きるのです。そのことこそが、聖書の教える「救い」なのです。

聖霊による任命
 28節は、この「教会は神様のものである」という根本的なことを前提として、教会の指導者たちのあり方を教えています。先程も読んだ28節においてパウロが語っていることから、二つのことを教えられます。一つは、教会の指導者たちは、聖霊によって任命された者たちである、ということです。「聖霊は、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。神様はご自分のものである教会を指導させるために、聖霊によって人間たちを任命なさるのです。ですから、教会は神様のものであり、神様のみがご支配なさる、ということを、だから教会に人間の指導者などがいてはならない、と考えることは間違っているのです。むしろ聖霊は教会に指導者を任命し、人間による指導体制という秩序を立てるのです。その指導者たちの働きを通して、神様のみ心とみ言葉のご支配が行われるのです。教会に牧師が立てられる、ということを私たちはそのように理解すべきなのです。私たちの教会の矢澤励太伝道師は先日、日本基督教団の正教師試験に合格なさいました。この試験は教団の教師 検定委員会が行なっているものであり、そこで合否の判定をしています。問題を出すのも、採点するのも人間です。そういう意味では世間のいろいろな資格試験と共通したものがあります。しかしその試験に合格されたことに、私たちは神様が矢澤先生を教会の牧師として召しておられる、そのみ心を見ます。そしてこの後、聖霊による任命を表す按手礼において、聖礼典を執行することができる牧師へと任職されるのです。それは聖霊による任命です。同じことは、私たちの群れにおいて長老や執事が任命されることにも言えます。教会総会において私たちは長老、執事の選挙をします。人間の投票によって選出されるのです。しかしそこで選出されることに、私たちは神様がその人を長老、執事として立てようとしておられる、そのみ心を見ます。そしてやはり按手礼において、聖霊によって長老、執事へと任命されるのです。牧師も長老も執事もこのように聖霊によって任命された指導者です。その指導の下に、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会は歩むのです。「聖霊はあなたがたをこの群 れの監督者に任命なさったのです」というのはそういうことなのです。

指導者の務めと責任
 そしてそれゆえにこそ、ここに語られている第二のことが大事です。それは、聖霊によって任命された指導者たちが、神の教会の世話をするために群れの監督者として任命された、という自覚をはっきりと持ち、そのために自分自身と群れ全体とに気を配らなければならない、ということです。つまり、聖霊によって任命された指導者の務めと責任が重大だということです。指導者の務めとして、「神の教会の世話をさせるために」ということが語られています。この「世話をさせる」というところは、前の口語訳聖書では、「牧させる」と訳されていました。原文の言葉は、「羊飼いとして群れを牧する」という意味です。口語訳の方がその感じがよく出ています。聖霊によって任命された指導者は、教会を、自分の好き勝手に支配したり、あやつったりしてはならないのです。むしろ、羊飼いが羊の群れの世話をするように、養い、守り、導くのです。先程から見ているように、教会は神様のものです。この群れの所有者は神様です。指導者は、神様から預けられた群れを、神様のみ心に従って世話 するのです。羊飼いが群れを牧する、それは主イエス・キリストのお働きです。主イエスは、「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃり、まさにその通りにして下さいました。神の教会を本当に牧しておられるのはこの主イエス・キリストです。指導者として任命された者たちは、大牧者イエス・キリストの下で、そのみ心に従って、手足となって働きをなすのでなければ、神の教会の世話をすることはできないのです。ですから指導者たちは、自分の思い、主張、理想などによって群れを指導しようとしてはならないのです。常に、大牧者であられる主キリストのみ言葉を真剣に聞き、それによって自分の思いを打ち砕かれつつ指導の業をしていかなければならないのです。そうでないと、その人の指導は、人間の思いによる指導となってしまい、教会において神様のみ心やみ言葉よりも人間の思いや言葉が優先されることになってしいます。そのような指導は、大牧者キリストのお働きを助けるどころか妨げるものとなってしまうのです。パウロが、「どうか、 あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と言っているのはそのためです。「気を配ること」が求められています。教会の指導者には、気配り、配慮が必要なのです。それは、人間の思いや言葉ではなく神様のみ心とみ言葉とが第一とされていくための気配りです。教会が、人間のものとなってしまうことなく、神の教会として歩むための気配りです。そのために先ず、「あなたがた自身に」つまり自分自身に気をつけなければなりません。自分自身にみ言葉のご支配が確立しているか、自分の思いがみ言葉よりも優先されてしまっていることはないか、そのことにいつも気をつけていることが、教会の指導者に求められる最も大切な心構えなのです。そしてさらに、「群れ全体に」気を配ることが求められています。教会の群れ全体が、本当にみ言葉の支配の下で歩んでいるか、み言葉よりも人間の思いや言葉が支配してしまっていないか、そのことにいつも気を配っていることが求められているのです。

残忍な狼が
 パウロが、エフェソ教会の長老たちとの最後の別れに際してこれらのことをどうしても語っておきたいと思ったのは、教会が実にしばしば、み言葉のご支配から離れ去り、人間の支配に陥っていくということを彼がよく知っていたからです。この教会にも必ずそのようなことが起る、と彼は29、30節で語っています。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。残忍な狼どもが来る、しかも外から入って来るだけでなく、教会の中からも、あなたがた、つまり指導者たちの中からすらも、そういう者が現れるのです。教会の指導者が残忍な狼に変身してしまうことがあるのです。そのことはいろいろな仕方で起りますが、最も深刻なのは、「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる」ことです。「従わせようとする」ということから分かるようにこれは、自分に従う者、自分の子分を造ろうとすることです。 自分を中心とする派閥を造ろうとするのです。そうなると、指導者が教会の群れを荒らす残忍な狼となってしまうのです。「邪説を唱えて」とありますが、たとえ語っている内容は正しいことでも、それによって人間を中心とするグループを作ろうとするなら、その人の言っていることは邪説となり、その指導者は残忍な狼となってしまうのです。

まことの謙遜によって
 このようなことが起らないためにはどうしたらよいのか、それが31節です。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。自分が三年間、エフェソの教会で教えてきた、その姿を思い起こし、それに倣えとパウロは言うのです。そのパウロ自身の姿とは、「夜も昼も涙を流して教えてきた」という姿です。パウロは涙を流して教えてきた、そのことは先々週読んだ19節にも語られていました。その時にも申しましたが、この涙は、「自分を全く取るに足りない者と思う」というまことの謙遜に生きるところに流される涙です。自分を見栄えよく見せようとする偽りの謙遜ではなく、神様の前で自分が本当に取るに足りない者であることを知り、その自分や自分の思いにこだわることをやめて、神様のみ言葉にこそ聞き、み言葉が語って下さることをこそ第一として生きる、それがまことの謙遜です。その謙遜には、涙を流しつつ歩むことが伴うのです。指導者がこのような謙遜によって群れを指導するならば、 その指導は、教会の人々の罪や欠けや弱さを忍耐し、批判や攻撃によって審くのでなく、むしろとりなし祈りつつ諭す、という指導となるはずです。夜も昼も涙を流して教えてきたというのはそういうことです。そのような指導者は、人を自分に従わせて派閥を作るようなことはしません。このような指導者は決して残忍な狼になることはないのです。聖霊によって教会の指導者として任命された者が第一に求めるべきことは、このようなまことの謙遜です。教会が、御子の血によって神様のものとされた神の教会として整えられ、育てられていくためには、立てられた指導者たちが先ず、まことの謙遜を身に付けなければならないのです。そのことを教えるために、パウロは、自分がエフェソで三年間教会を指導してきた、その姿を思い起こし、それに倣えと言っているのです。

み言葉にゆだねられた群れ
 しかしパウロは、それだけでは十分でないことを知っています。言い換えるならば、神の教会が正しく指導されていくためには、パウロの謙遜の模範に倣うよりももっと大事なことがあるということを彼は知っているのです。それが語られているのが32節です。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。パウロは今、エフェソ教会の長老たちとの最後の別れに臨んで、彼らとエフェソ教会の人々全てを、神とその恵みの言葉とにゆだねています。「この教会を君たちにゆだねるからしっかりやれ」と言っているのではないのです。長老たちをも含めた教会全体を、神様とその恵みのみ言葉とにゆだねているのです。このことこそが、何よりも大切なことだとパウロは考えています。教会は神のものだと彼は先に語りました。教会が神様のものであるというのは、教会は神様とその恵みのみ言葉とにゆだねられた群れであり、またそうでなければならない、 ということです。神様とそのみ言葉にゆだねられるなら、教会の歩み、私たちの歩みは、私たちの思いや言葉が支配するのではなく、神様のみ心とみ言葉とが支配し、み言葉によって決定されるものとなるのです。指導者として立てられている者は勿論のこと、教会に連なる全ての者たちがしっかりとわきまえ、追い求めていかなければならないのはこのことです。私たち自身が、またこの群れ全体が、本当に神様とそのみ言葉とにゆだねられたものとなること、それが最も大事なことなのです。そうなっているならば、その群れは、私たちは、大丈夫です。何故ならば、神様のみ言葉は「恵みの言葉」だからです。そしてその恵みの言葉は、私たちを「造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」からです。神様の恵みのみ言葉は、「あなたがたを造り上げ」ます。この「造り上げる」は、「家を建てる」という意味の言葉ですが、同じ言葉は新約聖書のあちこちで、「教会を造り上げる」という意味で用いられています。神様の恵みのみ言葉は、御子の血によって神 様のものとされた教会を築き上げるのです。どこか他所にではありません。ここに、私たちの内にです。神様の恵みのみ言葉は、私たち一人一人を、「聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継」ぐ者として下さるのです。教会は、神様によって聖なる者とされた人々の群れです。それは、清く正しく生きている立派な人々の群れということではありません。聖書において、聖なるという言葉は、神様のものとされた、ということです。神様が、ご自分のものとして下さったなら、どのように汚れた、罪に満ちた者も、聖なる者とされるのです。神様は、御子イエス・キリストの血によって、教会をご自分のものとして下さいました。御子の血によって教会は、聖なる者たちの群れとされているのです。そしてみ言葉は、私たち一人一人をも、その神の教会に招き入れて下さいます。私たちも、聖なる者とされるのです。清くも正しくも立派な者でもない、ただ同然の無価値な私たちが、御子の血によって神様のものとされ、聖なる者とされ、恵みを受け継ぐ者とされるのです。神様の恵みのみ言葉 には、そのような力があります。そのみ言葉にゆだねられて生きるならば、私たち一人一人にも、そのみ言葉の力が発揮されるのです。

洗礼と聖餐
 この後、聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが、肉を裂き、血を流して死んで下さることによって、神様が私たちの罪を赦して下さり、私たちを神様の民に加えて下さった、その恵みを私たちに味わわせ、確信させてくれます。聖餐にあずかることにおいて私たちは、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会に私たちも加えられており、死によっても失われることのない永遠の恵みを受け継ぐ者とされていることを確信させられるのです。この聖餐は、洗礼を受けた者があずかるものです。洗礼を受けるとは、神様が罪人であるこの私を赦し、ご自分のものとするために、御子イエス・キリストの血という代価を既に支払って下さった、その恵みを信じる信仰を言い表して、その救いにあずかり、神の教会に加えられることです。洗礼において神の教会に加えられた者が、聖餐において御子の血による救いの恵みを味わいながら、恵みを受け継ぐ者として歩み続けるのです。それこそが、神とその恵みの言葉とにゆだねられて生きることです。洗礼を受け、 聖餐にあずかりつつ歩む中で、神様の恵みのみ言葉が、私たちの内にその力を豊かに発揮し、私たちを神の教会として造り上げ、共に恵みを受け継ぐ者として下さるのです。

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