「四人の女性たち」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第38章24-30節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章1-17節
・ 讃美歌:
アブラハムから始まる系図
先週に続いて、マタイによる福音書の冒頭にある「イエス・キリストの系図」からみ言葉に聞きたいと思います。この系図はアブラハムから始まり、ダビデを経て主イエス・キリストに至るものです。アブラハムから始まっていることに大きな意味があるのだ、ということを先週お話ししました。アブラハムから、主なる神の民であるイスラエルの歴史が始まったのです。イスラエルの民の歴史の始まりは、罪によって神の祝福を失ってしまっている人間を救い、もう一度祝福へと入れて下さろうという主なる神の救いのみ業の始まりでもあります。主は、アブラハムとその子孫をご自分の民として選び、立て、その歩みを導くことによって、罪人である人間を救い、祝福を回復して下さろうとしておられるのです。アブラハムから始まった神のその救いのみ業が、ダビデ王を経て、主イエス・キリストへと繋がり、主イエスにおいて実現した、ということをこの系図は語っています。ですからこの系図は、旧約聖書と新約聖書を結びつけている、ということも先週申しました。旧約聖書に語られている、イスラエルの民を通しての主なる神の救いのみ業は、イエス・キリストへと繋がっており、イエス・キリストにおいて実現したのです。だから新約聖書の冒頭の第一頁にこの系図があることにはとても大切な意味があるのです。
神の恵みのみ業の連なり
ですからこの系図は、先祖からの血の繋がりを表している単なる家系図ではありません。そもそもこれは図ではなくて、誰々は誰々をもうけ、という文章の連なりです。その「もうけ」は原文では「生んだ」という言葉だと先週申しました。親が子を生んだ、という出来事の連なりが語られているのです。それは単なる自然現象ではなくて、主なる神のみ業です。主なる神が、それぞれの人々の人生を導いて、子どもを与え、親として下さったのです。そこには、系図に名前が出て来なくても、それぞれの子を生んだ母である女性たちのことも見つめられています。主なる神によって、一人の男と一人の女の間に子どもが生まれる。それによって、アブラハムに与えられた神の約束が受け継がれていったのです。その約束とは、先週読んだ創世記12章のはじめのところに語られていた、アブラハムとその子孫が「祝福の源」となり、地上の氏族は全て彼らによって祝福に入る、という祝福の約束です。子どもが与えられるという主なる神の恵みのみ業の連なりによって、祝福の約束が継承されていったのです。
四人の女性たち
この系図に並んでいるのは基本的に男性の名前です。父が息子を生んだ、という言い方が繰り返されています。それは、アブラハムに与えられた神の祝福の約束が息子イサクへ、そしてイサクからヤコブへ、というふうに、父から息子へと継承されていったからです。血の繋がりということを見つめるなら、NHKの「ファミリーヒストリー」のように、父方と母方の両方をたどる必要があります。しかしこの系図は、神の祝福の約束の継承を語っているので、このように父から息子へという語り方になっているのです。しかし先ほども申しましたように、その息子を生んだ母である女性たちのことが忘れられているわけではありません。その証拠に、この系図の中に、何人かの女性たちの名前があげられています。基本は「誰々は誰々をもうけ」と語られている中に時々、「誰々は誰々によって誰々を」とあります。「誰々によって」と言われているのは、母となった女性の名前です。先ず3節に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。このタマルが女性です。5節には「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを」とあります。このラハブとルツが女性です。そして6節後半には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。「ウリヤの妻」は当然ながら女性です。この四人の女性たちが、祝福を受け継ぐ子を生んだ母としてこの系図に出て来るのです。その他の全ての人の誕生においても母たちがおり、その中には名前が知られている人もいます。イサクを生んだアブラハムの妻はサラですし、ヤコブを生んだイサクの妻はリベカだし、ユダを生んだヤコブの妻はレアです。でもこれらの人たちの名前はこの系図に出て来ません。あの四人だけが出て来るのです。それは何故でしょうか。そこから、この系図に込められたメッセージが見えてきます。本日はそれを聞き取っていきたいのです。
タマル
先ず3節の「ユダはタマルによってペレツとゼラを」というところです。これは、先ほどその一部が読まれた創世記第38章に語られている話です。長いので24節以下を朗読してもらいましたが、そこだけではこの話の内容はよく分かりません。38章全体を後で読んでいただきたいと思います。24節に「あなたの嫁タマル」とあります。この「嫁」は息子の妻という意味です。タマルはユダの長男エルの妻だったのです。しかしその長男は子を残さずに死にました。そういう場合イスラエルにおいては、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならない、という掟がありました。しかし弟オナンはその掟に従わなかったために死にました。ちなみにその時のオナンの行為が「オナニー」という言葉の元になったのですが、それは置いておいて、次はその下の弟、つまりユダの三人目の息子であるシェラがその役目を引き受けるはずでした。しかしユダは、上の二人の息子が死んでしまったのはタマルのせいだと思い、彼女をシェラと結婚させようとしませんでした。それを知ったタマルは、娼婦に身をやつしてユダに近づき、舅であるユダと関係を持って妊娠したのです。そこからが24節以下です。「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者がありました。夫に死に別れた嫁タマルが妊娠した、それは姦淫の罪を犯したからだ、と思ったユダは「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ」と言ったのです。しかしタマルは、ユダと関係を持った時に、ユダの持ち物を得ていました。それを示して、「私のお腹の子の父親はこの品の持ち主です」と言ったのです。それを見たユダは、それが自分であると認めざるを得ませんでした。こうしてタマルがユダとの間に生んだ双子がペレツとゼラだったのです。つまり、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」というのは、ユダは息子の嫁と関係して子をもうけた、というものすごい話なのです。聖書にはこんな話も出てくるのか、とびっくりします。しかし何よりも驚くべきことは、アブラハムからダビデを経て主イエス・キリストに至る、神の祝福の約束の継承、神の救いのみ業の歴史を語るこの系図の中に、ユダが息子の嫁タマルと関係してペレツが生まれた、ということが位置づけられていることです。先ほど申しましたように、ユダには妻との間に三人の息子たちがいました。上の二人は子を残さずに死にましたが、三人目の息子シェラがいたのです。本来ユダの跡を継ぐはずなのはこのシェラです。しかし神の祝福の約束は、シェラへではなく、タマルが生んだペレツへと受け継がれたのです。そしてその継承の先に主イエスによる救いが実現したのです。人間の罪にまみれた醜悪な出来事が、主なる神の救いのご計画の中にこのように位置づけられており、主イエス・キリストによる救いへと繋がっている、ということがここに語られているのです。
ラハブとルツ
次に5節の「サルモンはラハブによってボアズを」です。これは「ヨシュア記」第2章以下に語られている話です。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民は、主なる神が遣わしたモーセに導かれてエジプトを出て、四十年の荒れ野の旅を経て、モーセの後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、ついに神の約束の地カナンへと入りました。そこで最初に攻め滅ぼし、占領したのがエリコの町でした。ラハブは、そのエリコの町の遊女でした。彼女は、ヨシュアが遣わした二人の斥候をかくまい、エリコ攻略の手引きをしました。彼女は、主なる神がエリコの町をイスラエルの民のものとしようと定めておられ、そのみ心は必ず実現すると信じていたのです。このことによって、元々イスラエルの民の一員ではなかったエリコの遊女ラハブとその一族は、イスラエルの民の中に迎え入れられました。そしてラハブはサルモンという人の妻となり、ボアズを生んだのです。エリコの遊女だった異邦人ラハブが、主なる神の祝福を受け継ぐ子を生んだのです。
5節後半には「ボアズはルツによってオベドを」とあります。これは「ルツ記」の話です。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブの地に移り住んだイスラエル人エリメレクとナオミ夫妻の息子が、モアブの地で結婚した相手がルツです。つまりルツはモアブ人の女性でした。夫も息子たちもモアブの地で死んでしまったので、ナオミはベツレヘムに帰ることにして、息子の嫁たちを嫁という立場から解放して実家に帰らせようとしましたが、ルツは、姑であるナオミと共に生きることを望み、イスラエルの地に来たのです。そのようにしてベツレヘムに来たルツが、ボアズと出会いその妻となった、というのがルツ記の物語です。こうしてラハブと同じようにルツも、イスラエルの民ではない異邦人でしたが、神の祝福の約束を継承する子の母となったのです。ルツがボアズとの間に生んだ子オベドは、ダビデ王のおじいさんです。つまりモアブの女ルツがダビデ王のひいおばあさんとなったのです。
全ての人々への救いのみ心が示されている
このラハブとルツは、アブラハムからダビデを経て主イエス・キリストに至る神の祝福の約束の継承、救いのご計画に、イスラエルの民ではない異邦人が招かれ、用いられていることを示しています。主イエス・キリストの系図は、主イエスがイスラエルの民の血統を純粋に受け継いでおり、多民族の血など一滴も混じっていない、ということを語ってはいません。ラハブやルツの名をあげることによってこの系図は、主なる神が、イスラエルの民の歴史、つまり救いのご計画の中に、他の民族、異邦人をも招き入れて下さり、用いて下さったことを語っているのです。そのことは、アブラハムに与えられた最初の約束に既に示されていました。創世記12章に語られていたその約束には、アブラハムとその子孫であるイスラエルの民が「祝福の源」となり、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と語られていたのです。主なる神がイスラエルをご自分の民として選び、立て、導いて下さったのは、イスラエルの民だけを救うためではなくて、世界の全ての人々をご自分の祝福に入れてくださるためだったのです。主なる神はこの世界と全ての人間を創造し、祝福して下さいました。しかし人間は神から離れて罪に陥り、与えられていた祝福を失っています。アブラハムから始まったイスラエルの民の歴史を通して、主は世界中の全ての人々を、もう一度ご自分の祝福へと導き入れようとしておられるのです。異邦人であるラハブとルツの名前がこの系図に記されていることによって、異邦人をも救いへと招き入れて下さる主なる神のみ心が示されています。そしてそのみ心が、主イエス・キリストによって実現に至った、とこの系図は語っているのです。
ウリヤの妻
さて次は6節後半の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」です。ダビデのもとで確立したイスラエル王国はその子ソロモンへと受け継がれました。この時代は、イスラエルがその歴史において最も栄えた、繁栄の時代です。しかしその継承は、これまたまことに醜悪な罪の中でなされたのです。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。聖書はここでも、とんでもないことをさらりと語っています。これは「サムエル記下」の11、12章に語られていることです。そこにはダビデとの間にソロモンを生んだ女性の名前が出て来ます。バト・シェバというのです。でもこの系図は、その名前を語らずに「ウリヤの妻」と言っています。バト・シェバはダビデの妻ではなくて、ウリヤの妻でした。ウリヤはダビデ王の家来である将軍の一人です。ダビデは家来であるウリヤの妻を見初め、ウリヤから奪って自分の妻の一人にしたのです。そのためにダビデは、ウリヤを戦争の前線に送って、戦死するように仕向けました。要するに家来をわざと戦死させてその妻を自分のものにしてしまったのです。ソロモンが生まれたのは、ウリヤが死んでバト・シェバがダビデの妻となってからですから、その時点ではもうウリヤの妻ではありません。しかしこの系図は、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と語っています。つまりダビデ王が犯した大きな罪をことさらに示しているのです。この系図が読まれるたびに、ダビデのとんでもない罪が思い起こされ、記憶されるのです。
人間の醜悪な罪の中で、祝福の約束が継承される
先週も申しましたが、私たちは系図というものを、自分たちの家柄の良さを誇り、自分の先祖にはこんな立派な人がいたのだと示すためにあるものと思いがちです。世間一般においてはそうでしょう。しかしこのイエス・キリストの系図はそうではありません。先ほどのユダとタマルの話もそうですが、この系図は、アブラハムからダビデ王を経て主イエス・キリストの誕生に至る歩みの中に、人間の深い罪と、それによって引き起こされたまことに醜悪で、悲惨で、残酷な出来事があったことをことさらに見つめているのです。きれいな系図にしようと思えば、タマルのことには触れずに、他の人たちと同じように、ユダはペレツをもうけ、とだけ語ることもできたのです。ウリヤの妻のことは語らずに、ダビデはソロモンをもうけ、というだけにすることもできたのです。しかしこの系図は敢えてこれらの女性たちのことを語ることによって、人間の罪と、それによって引き起こされた醜悪な事態を見つめ、明らかにしています。そこに、この系図の大事なメッセージがあるのです。つまりこの系図は、アブラハムに与えられた神の祝福の約束が、人間の様々な深い罪の中で継承されていったことを語っているのです。全ての人を祝福へと入れて下さろうとする神の救いのみ業が、人間の罪とそれによる悲惨な出来事を通して前進していったことを描いているのです。それは、人間の様々な罪とそれによる悲惨な出来事にもかかわらず、主なる神はアブラハムに与えたあの祝福の約束、救いの約束を保ち続け、人間の罪の現実の中でも救いのみ業を前進させて下さり、そしてついにその救いを主イエス・キリストにおいて実現して下さった、ということでもあります。神は、一旦約束して下さったことを決して投げ出すことなく、必ず実現して下さるのです。
私たちが意識していなくても
しかしそれだけではありません。この系図は、アブラハムからダビデを経て主イエス・キリストに至る継承を語っています。継承されてきたのは神の祝福の約束、救いの約束です。アブラハムに与えられた主なる神の祝福が、世代から世代へと受け継がれてきたのです。その歴史には、豊かな繁栄の時代もありました。逆に衰退の時代もありました。罪の結果国が滅ぼされ、他国に移住させられたような時もありました。そういう苦しみ悲しみ絶望の中で、神の祝福の約束など忘れ去られていた時代もありました。自分たちは神の祝福を継承している民だ、という意識も失われていた時もあったのです。しかしイスラエルの民が、自分たちは主なる神の民とされており、神の祝福を継承していることを忘れていた中でも、神のみ業は行われており、親から子へと、祝福が継承されていたのです。この系図はそのことを示しています。そこに主なる神の大いなる恵みがあります。私たち自身が意識していなくても、自覚を失ってしまっていても、そして大きな罪に陥って、本当は隠しておきたいような醜悪な出来事を引き起こしてしまった中でも、その私たちの歩みを通して、主なる神の救いのご計画は進んでいくのです。また主なる神は、ラハブとルツの話に示されているように、その救いのみ業に、元々は神の民ではなかった、神の民とは関係なく生きていた者をも、新たに招き入れて下さり、用いて下さって、祝福の継承者として下さるのです。つまり神の祝福は閉ざされてはおらず、常に開かれており、新たな人々を迎え入れて下さるのだということも、この系図が示しているのです。
人間の罪を受け継ぎ、背負って下さった主イエス
それと共にこの系図は、人間の歩みにおける罪をはっきりと見つめています。ユダとタマル、ダビデとウリヤの妻のことがその典型です。しかしこの人たちだけが罪を犯したわけではないでしょう。語られてはいなくても、この系図に記されている人々一人ひとりの歩みにも、様々な罪があったのです。それは、私たち一人ひとりの人生を見れば明らかです。この系図は罪ある人間の連なりであり、そこで継承されているのは人間の罪だとも言えるのです。そしてその罪の連なりが、主イエス・キリストへと流れ込んでいるのです。罪ある人間の連なりの中に、神の独り子イエス・キリストが生まれて下さったのだと、この系図は語っています。つまり主イエス・キリストは、ユダとタマル、ダビデとウリヤの妻の話に典型的に示されており、全ての人が共通して陥っている罪を背負ってこの世に生まれて下さったのです。そしてその罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、罪のために神の祝福を失っている私たちが、赦されて神の祝福に入る、という神による救いの約束が実現したのです。マタイによる福音書はそのことを語っていきます。その冒頭においてこの系図は、主イエス・キリストが、神による祝福の約束、救いの約束を受け継ぎ、それを実現して下さる方として、同時に人間の罪の歴史を受け継ぎ、背負い、そこに救いを実現して下さる方として生まれて下さったことを語っているのです。