「大祭司キリスト」 牧師 藤掛順一
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙一 第5章1~10節
驚くべき出来事
今宵私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えて祈るために集いました。本日はいわゆる「受難日」、受難週の中でも、主イエスが十字架につけられて死なれたその日です。主イエスの苦しみの最も極まった日と言うことができます。教会は古来この受難週を、主イエスの苦しみと死とを特に覚える週として覚えてきました。私たちの教会では伝統的に青年会の主催によって毎朝早朝祈祷会が持たれ、また夜にもこのように共に聖餐にあずかる礼拝を行っています。しかし、このような集会が毎年恒例の年中行事のように行われていくことによって、ある程度長く教会生活を続けていくと、ともすれば私たちは、主イエスの苦しみと死とを覚えることに慣れてしまって、そのことへの驚きを失ってしまうことがあるかもしれません。神様の独り子であられる主イエス・キリストが苦しみを受けて死なれるというのは、本来あり得ない、驚くべき出来事です。本日ご一緒に読むヘブライ人への手紙も、その驚きによって書かれていると言うことができます。その驚きを私たちも共にかみしめたいと思います。
激しい叫び声をあげ、涙を流しながら
主イエス・キリストの苦しみが、本日の箇所の7節にこう語られています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。主イエス・キリストは、肉において生きておられた地上のご生涯において、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、祈りと願いとをささげられた。ここに、これを書いた人の驚きが感じ取れますし、それは私たちにとっても驚くべきことなのではないでしょうか。私たちは普段、柔和でやさしい主イエスのお姿を思い浮かべます。また、神様のみ言葉を語り、病を癒し、悪霊を追い出す力ある業、奇跡を行った主イエスを思い浮かべます。しかし、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈っておられる主イエスのお姿というのは、あまり思い浮かべないのではないでしょうか。あるいはそんなことは主イエスのお姿としてはそぐわない、と感じているかもしれません。だとしたら、その私たちが抱いている主イエスのイメージは修正されなければなりません。主イエスは、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈られた方だったのです。
ゲツセマネの祈り
福音書の中でこのような主イエスのお姿が語られているのは、いわゆる「ゲツセマネの祈り」の場面です。逮捕される直前に、主イエスはゲツセマネの園で、これから自分が歩まなければならない十字架の死への道を思い、悲しみもだえて「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われ、そして「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたのです。主イエスの汗が血の滴るように落ちた、とも語られています。この主イエスの苦しみの中での祈りは、まさに激しい叫び声をあげ、涙を流しながらの祈りだったと言うことができます。本日の箇所が語っているのはこのゲツセマネの祈りにおける主イエスのお姿なのだ、と多くの学者たちも考えています。けれども、このお姿をゲツセマネの祈りだけに限定してしまう必要はないでしょう。むしろこれは、主イエスのご生涯全体について語っている言葉だと言ってよいと思います。どの場面がそうだ、というのではなく、主イエスはその地上のご生涯において常に、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈っておられたのだと思うのです。
苦しみによって従順を学ぶ
主イエスの苦しみは、次の8節ではこのように言い表されています。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。「多くの苦しみによって従順を学んだ」、それが、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈ったことの意味です。主イエスのご生涯は、苦しみの連続でした。最後のいわゆる受難、十字架の死だけが苦しみだったのではありません。神の国の福音を宣べ伝えていく中でも、人々の無理解に苦しめられました。弟子たちですら、主イエスのことを本当には理解していなかったのです。またユダヤ人の指導者であったファリサイ派やサドカイ派の人々からも憎まれ、敵視されました。彼らの憎しみと群衆の無理解による失望とが一致した時に、主イエスは捕えられ、十字架につけられたのです。このような、周囲の人々から受ける苦しみだけではありません。そもそも、神様の独り子、まことの神であられる方が、一人の人間としてこの世に生まれ、人間として生きること自体が既に苦しみなのです。主イエスにおいて、苦しみは、外から偶発的に襲ってくるものではなくて、ご自分の歩みの本質に属するものだったのです。その苦しみの生涯の中で主イエスは、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈りと願いをささげつつ、父なる神様への従順を学ばれました。神様への従順とは、神様との交わりにしっかり留まり、そのみ言葉を聞き、それに従っていく、ということです。主イエスの祈りはそのための戦いでした。そのことが、あのゲツセマネの祈り、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」に最もよく現れています。苦しみの中で、しかし自分の思い願いではなく、神様の御心が行われ、それに従っていくことができるように、と主イエスは、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈られたのです。それはゲツセマネの園においてのみでなく、主イエスのご生涯を通して常に繰り返されてきた祈りだったと言えるでしょう。主イエスは苦しみの生涯の中でこの祈りを祈りつつ、父なる神様への従順を学んでいかれたのです。そして9節にあるように、「完全な者となられた」のです。つまり、父なる神様への従順を完全に貫き通されたのです。それが主イエスの十字架の死なのです。それゆえに私たちは、主イエスの苦しみと死とを覚える時に、主イエスがお受けになった想像を絶する苦しみを偲ぶだけでは足りないのです。そこに主イエスの、多くの苦しみの中での、激しい叫び声をあげ、涙を流しながらの、神様への従順のための祈りにおける戦いがあったことを覚えなければならないのです。
大祭司
この主イエスの戦いは何のためだったのでしょうか。ご自分が完全な者となり、父なる神様のみ心に適う御子として再び父のもとに迎えられるためでしょうか。そうではありません。この主イエスの戦いは、私たちのためだったのです。9節から10節にかけては、主イエスがこの戦いを戦い抜いて完全な者となられたことによって、「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」とあります。この祈りにおける戦いを戦い抜くことによって、主イエスは、救いの源となって下さった、別の言い方では、私たちのための大祭司となって下さったのです。
大祭司とは、旧約聖書において、神様とその民イスラエルとの間の執り成しをする者です。具体的には、民の罪の赦しのために、年に一度、神殿の至聖所に入っていけにえを捧げるのです。そのことによって人々の罪が赦され、新しい一年も神様の民として祝福の内に歩むことができるようにすることが大祭司の務めです。それゆえに大祭司が救いの源と呼ばれるのです。主イエスが、多くの苦しみの中で、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、神様への従順のために祈りの戦いを戦い抜かれたのは、この大祭司となって下さるためだったのです。もちろん、旧約聖書のエルサレム神殿の大祭司と、新しいイスラエルである教会のための、つまり私たちのための大祭司である主イエスとでは違いがあります。旧約の大祭司が捧げたのは動物のいけにえだったのに対して、主イエスが捧げたいけにえは、ご自分の命でした。動物のいけにえは人間の罪を完全に贖うことはできません。それゆえにそれは毎年繰り返されなければならなかったのです。しかし主イエスは、神様の独り子であるご自身の命というこれ以上ない犠牲を私たちのためにささげて下さったのです。それゆえにそこでなされた贖い、罪の赦しは、全ての時代の神の民の、全ての罪を贖う、一度限りで決定的な、繰り返される必要のない、完全なものだったのです。二千年前の主イエスの十字架の死が、私たちの罪の赦しの出来事でもあったのです。主イエスが完全な者となられた、その完全さとは、私たちのための完全な大祭司ということなのです。主イエスが苦しみの中で激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、神様への従順のための祈りの戦いを戦い抜かれたのは、私たちのための大祭司となって、私たちと父なる神様との間を執り成して下さり、罪の赦しの恵みを与えて下さるためだったのです。
思いやり深い大祭司
しかしヘブライ人への手紙がここで驚きをもって語っていることがもう一つあります。それは2節を読むことによって見えてきます。2節に「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」とあります。これは1節に、大祭司が人間の中から選ばれて任命される者だと語られているのを受けてのことです。大祭司は一人の人間として自分も弱さを身に負っている、それゆえに自分と同じ弱い、無知であり迷いやすい人間のことを同情し、思いやることができるのです。大祭司とはそのような者であり、その大祭司に主イエス・キリストがなって下さったのです。神様の独り子であられる主イエスが人間となって下さったことの意味はそこにあります。一人の人間となり、その弱さを身にまとわれたことによってこそ、人間のことを思いやることができる大祭司となられたのです。あの7節の「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」という主イエスの苦しみの描写は、このことを語っていると言うことができます。つまり、主イエスは私たちと同じ、弱さを持つ人間となって下さったのです。その弱さゆえに様々な苦しみを負う者となって下さったのです。その苦しみの中で、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげつつ歩んで下さったのです。それは私たちが、人間としての弱さや無知のゆえの迷いの中で、また死の恐れの中で、涙を流しながら神様の救いを叫び求めていくのと同じ姿です。つまりここに、主イエスが、私たちの弱さを深く思いやって下さっていることが語られているのです。8節の「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」というのもそれと同じことを言っています。御子である主イエスは、もともと神様と父と子というよい関係の中におられたのです。従順を学ぶ必要などない方だったのです。しかしその主イエスが、私たちと同じ弱さを持つ人間となって下さって、その弱さの中で神様への従順を学んで下さったのです。私たちは、罪によって神様に背き、従順でなくなっている者ですから、その私たちが従順を学ぶところには苦しみが伴います。苦しみの中でしか神様への従順を学ぶことができないのが私たちなのです。主イエスはその私たちのために、ご自分も苦しみの中で神様への従順を学んで下さったのです。そこに、主イエスの私たちへの深い思いやりがあるのです。ヘブライ人への手紙は、主イエスが私たちのための大祭司となって、私たちの弱さを共に担い、それによる苦しみの中で神様への従順を学んで下さった、その主イエスの私たちへの思いやりを、驚きをもって見つめているのです。
私たちも従順の道を歩む
私たちが、主イエスの苦しみと死とを覚えるとは、この主イエスが私たちのために歩んで下さった神様への従順の歩みを、私たちも歩んでいくことに他なりません。そこにおいて私たちも、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげつつ歩むことになります。私たちも、多くの苦しみによって従順を学んでいかなければならないのです。その道は、私たちの力で歩み切れるものではありません。しかし主イエスが、私たちのための思いやり深い大祭司として、この道を歩み切り、ご自身の命をささげて私たち罪人のための贖いを成し遂げ、永遠の救いの源となって下さったのです。この主イエスの執り成しによって、神様は私たちの、激しい叫び声と涙の中での切なる祈りと願いとを聞き入れて、罪と死の支配から救い出し、永遠の命へと導いて下さるのです。