「唯一の神、唯一の王」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 申命記 第6章4-5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第8章1-6節
・ 讃美歌;321、357、457
偶像に供えられた肉の問題
先週からコリントの信徒への手紙一の第8章に入っておりますが、ここに取り上げられている問題は、「偶像に供えられた肉」についてのことです。異教の神々、偶像の神殿に供えられ、そこでの宗教的祭儀に用いられた肉がその後市場で売られていたのです。ただ一人の神を信じ、その神にのみ仕えるキリスト信者は、そのような肉を食べてもよいのだろうか、という疑問、問いが当時のコリントや、ギリシャ、ローマの町々に住むクリスチャンたちの間に起りました。偶像礼拝を徹底して拒む旧約聖書以来の信仰を受け継ぐ教会において、そのような肉は汚れたものであり、まことの神様の民たる者が口にすべきではないのではないか、という思いが起って来たことはある意味で自然なことなのです。
しかし先週も申しましたように、この問題についてコリント教会からパウロのところに寄せられた質問は、「偶像に供えられた肉を食べてもよいのでしょうか」ということではありませんでした。コリント教会の多くの人々は、このことについて、あるはっきりとした確信を持っていたのです。そのことが、1節の「我々は皆、知識を持っている」という言葉に表れています。ここには括弧がつけられています。こういう括弧は原文にあるわけではなくて、翻訳する時に解釈に基づいてつけられるものですが、確かにこれはコリント教会において言われていたこと、そしてパウロのところに寄せられた質問の中に語られていたことであると思われるのです。コリント教会の人々は、偶像に供えられた肉の問題について、確固たる知識を持ち、それに基づく確信を得ていたのです。そして、その知識が正しいことをパウロに確認するために質問してきたのです。
パウロはこの質問に対して、「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言って、彼らの知識が正しいことを認めています。それを認めた上で、「ただ」と言って、その正しい知識が、人を高ぶらせ、愛を失わせていく危険があることを指摘しています。先週の礼拝においてはそのことを、3節までのところにおいて読みました。本日は、4節から6節を読んでいきたいと思います。ここではパウロはもう一度、コリント教会の人々が持っている正しい知識の内容を確認しているのです。パウロ自身も認めているこの正しい知識とはどのようなものだったのでしょうか。
信仰における知識
4節に「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」とあります。これが、「我々は皆、知識を持っている」と言われているその知識です。「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識を、パウロも、コリントの人々も、共に持っていたのです。先週も申しましたが、これは信仰における知識です。科学的知識や、人間の常識における知識ではありません。ですから、いろいろな本を読んで勉強していけばこの知識が得られる、というものではありません。偶像の神などいないという知識は、科学的な知識を学んでいけば得られるものではなくて、ただ一人の、生けるまことの神様との出会いの中でこそ与えられるのです。私たちに命を与え、人生の歩みを導き、そして命を終わらせられる、ただ一人の神様を知ることによって、人間が手で造って祭っている神々が、まことの神ではない、ということを、つまりそれらが偶像に過ぎないことを私たちは知るのです。コリントの人々に起ったのもそういうことでした。彼らはもともとは、当時の一般のギリシャ人たちと同じように、神々の像を拝んでいたのです。しかし、生けるまことの神様と出会い、その独り子イエス・キリストを信じるようになったことによって、それまで自分たちが拝んでいたものが偶像だったことに気付いたのです。偶像を拝んでいる人は「これは偶像だ」とは言いません。「偶像」という言葉には、神でないものを神に祭り上げている、という悪い意味が込められています。つまりまことの神様を知ることによってこそ、偶像が偶像に過ぎないことが分かるのです。
しかし、自分たちが拝んでいいたものが偶像だったことを知ったコリントの人々の間には二種類の反応が起ってきました。一つは、「偶像に供えられた肉は信仰者にとって汚れたものだから食べるべきでない」という反応。もう一つは、「偶像は神でも何でもないただの木や石の塊に過ぎないのだから、その前に供えられたからといって、それ以外の肉と何ら違いはない、だからその肉を食べることに何の問題もない、何も気にすることなく食べることができる」、というものでした。そのどちらが、信仰においてより正しい知識に基づく相応しいあり方なのだろうか、ということがコリント教会で問題になったのです。信仰における知識は具体的な生活における実践に現れてきます。ですからこの両者の実践における相違の背後には、信仰における知識の相違が隠されているのです。より正しい知識に基づく実践はどちらのあり方なのでしょうか。この論争においてコリントの多くの人々が主張し、パウロも認めた、正しい知識に基づくあり方は、後者の方、つまり偶像に供えられた肉であっても食べることができる、という方でした。偶像に供えられた肉を汚れたものとしてそれを避けようとする感覚は、偶像の神々がその肉に何か影響を及ぼしているということを前提としているのであって、それは、偶像を避けつつなおそれに対してある恐れを抱いていることになります。しかし、ただ一人の神のみが神であり、偶像は神ではない、という信仰的知識が本当に深まれば、そのような偶像への恐れの感覚からの完全な自由、解放が与えられるはずなのです。それこそが正しい知識であり、それに基づくあり方だ、ということをコリント教会の人々は主張しており、パウロもその通りだと言っているのです。
恐れからの解放
世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない、という信仰における知識は、偶像を恐れ、それに供えられた肉を食べることを気にすることから私たちを解放し、自由を与えてくれます。この解放、自由がどのようにして与えられるのかを、パウロは5、6節で語っているのです。
5節に「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」とあります。4節では、偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない、と語られていたのに、この5節では神々の存在が再び肯定されてしまっているように思えるかもしれませんが、そうではありません。偶像の神はいるかいないか、ということを考えているとそのように思えてしまうのですが、パウロがここで見つめているのは、偶像の神々の存在ではありません。彼は、人々の生活が、人生が、神々と呼ばれるものへの恐れによって影響を受け、それに束縛され、いろいろなことを気にする生活になっている、という事実を問題にしているのです。偶像に限らず、神々が人間の生活の支配者となっているのです。だからそこには、「多くの神々」と並んで「多くの主」と言われています。主とは、主人、つまり私たちの生活を支配する者です。神々がいるとかいないとか議論しているのではなくて、その神々を恐れる思いによって、神々が私たちの生活を事実上支配する主人となっており、私たちの生活がそれに束縛され、気にしなくてもよいことを気にさせられてしまう、ということが問題なのです。唯一の神以外にいかなる神もいない、という信仰的知識は、そのような恐れ、束縛、支配から、私たちを自由にし、解放するのです。
多くの神々、多くの主
私たちの生活が、偶像の神々によって支配され、束縛され、神々が私たちの主になってしまうことはどのように起るのでしょうか。このことは、何かの像、例えば仏像とか神棚とか、そういうものの前で手を合わせるかどうか、という問題ではありません。そんなことはしていなくても、偶像の神々に支配され、束縛されることは起るのです。コリント教会で問題にされていたのも、異教の神殿に行って偶像を拝むかどうか、ということではなくて、そんなことは勿論しない人が、しかし偶像に供えられた肉を食べることを気にしてしまう、ということでした。そこに既に、拝みはしなくても、偶像の神々に束縛されてしまうことが起っているわけです。私たちにおいても、そのような束縛は様々な仕方で起ります。例えば、先祖の霊が祟る、という話があります。それは何かの像を拝むこととは直接結びつきませんが、そういうことを恐れるならば、先祖の霊が私たちを支配し、生活を束縛し、それによっていろいろなことを気にして生きるようになってしまうのです。似たようなことに、様々な占いのたぐいがあります。「今日の何座の運勢」から始まって、今流行の風水、家の方角、手相、印鑑の印相、姓名判断など、私たちの周りには実に様々な占いがあります。それらの占いに共通していることは、生まれた日の星座だとか、家の配置や方向、どんな印鑑を使っているか、どういう名前を名乗っているか、ということが私たちの人生に影響を与え、運命を決める、幸せや災いをもたらす、ということです。そのような占いに左右されるならば、私たちの人生は、多くの神々、多くの主の支配下に置かれてしまうのです。そして具体的には、今日は運勢が悪いから、お日柄が悪いから、ということを気にするようになり、家を建てるにしてもその間取りを風水によって束縛されたり、必要もない高い印鑑を買わされたり、手相によるとそろそろ病気になるのではないかと心配したり、親から与えられた名前をわざわざ改名してしまったりというふうに、あれこれのことを気にする不自由な生活に陥るのです。偶像に供えられた肉を食べることに躊躇を覚える、という感覚は、根っこのところでは実はそのようなことにつながっているのです。
唯一の神、唯一の主
世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない、という信仰的知識は、私たちをそのような多くの神々、多くの主の支配から解放します。この知識によって、私たちは、私たちの生活に影響を及ぼしていると思われているいろいろな力、星座とか方角とか印鑑とか名前とか、そういったものが私たちに対して何の力をも持っていない、つまり偶像に過ぎないことを知らされるのです。そして、それらへの恐れから自由になり、それらを気にせずに生きることができるようになるのです。しかしそのような解放は、単に、それらのものは神ではないから何の力も持たない、ということを知識として知ることによってもたらされるのではありません。そういうことはある意味誰でも知っているのです。「今日の何座の運勢」を神からの託宣と思っている人はいないでしょう。そんなことは思っていないけれども、でもいざ何かをするときに、そのことが気になってしまうのです。そこに、人間の弱さがあるとも言えます。ですから、そんなものは神ではない、といくら言われても、あるいはそのように考えようとしても、それで束縛から解放されるわけではないのです。私たちに本当に解放をもたらすのは、むしろ6節に語られていることです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。つまり、「これらのものは神ではない」という消極的な知識によってではなくて、この方こそ生けるまことの神、唯一の神だ、ということを知ることによってこそ、その他のものの束縛から自由になることができるのです。
ところでこの6節は、二つの文章が、互いに対応し合うようにきれいに整えられている、よく考えられた文章になっています。当時の教会で告白されていた信仰告白の文章ではないか、とも考えられているのです。最初の文章は「唯一の神」が主語であり、第二の文章は「唯一の主」が主語です。この二つが、5節の「多くの神々、多くの主」と対照をなしています。多くの神々、多くの主がこの世界には力をもって働き、私たちをいろいろな仕方で束縛し、支配しようとしている。けれども私たちを本当に支配し、導いて下さる神は唯一であり、その神こそが私たちの唯一の主なのだ、という信仰が告白されているのです。この唯一の神、唯一の主との出会いによって、私たちは、多くの神々、多くの主の支配から解放されるのです。「わたしたちにとっては」とあるのも大事です。唯一の神、唯一の主の存在を、評論家のように客観的に眺めているのではないのです。唯一の神、唯一の主は、「わたしたちにとって」の神であり、主です。つまり、自分自身がその神の下に、その主の僕として立つことなしに、唯一の神、唯一の主はわからない、従って、多くの神々、多くの主からの解放も得られないのです。
父である神
「唯一の神」は「父である神」と言い換えられ、「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」と言われています。唯一の神は、父である神でもあられる、ということが見つめられているのです。父である、という言葉には、私たちを愛し、育み、導いて下さる、という意味が込められています。そこが、多くの神々と違うところです。神々は、時として幸運をもたらすかと思えば、一転して不運、災いをもたらす気紛れな存在です。いろいろな占いの前提となっている力は、得体の知れない力であり、私たちと、父と子という人格的な、つまり対話が成り立つ、愛に基づく関係を結ぶことはできません。しかし私たちが信じる唯一の神は、私たちの父であられる方です。万物はこの神から出ている。この世界の全ても、私たちの命、人生も、父である神によって与えられているのです。そしてわたしたちはこの神へと帰っていく。「帰る」という言葉は原文にはなくて、直訳すれば「私たちはこの神へと」となります。それは様々な広がりを持った言葉であって、私たちはこの神に向かって、この神へと顔を向けて生きる、ということでもあるし、命はこの神から出た、ということとの対応で考えるなら、この神のみ手の中へと命を返し、死んでいく、ということでもあります。私たちの誕生も、人生の歩みも、そして死も、この父である唯一の神様のみ手の中に置かれているのです。
唯一の主イエス・キリスト
この唯一の神は、こんな神様がいればいいな、と人間が勝手に考えて造り出した存在、つまり偶像ではありません。唯一の神は、唯一の主によって私たちと出会って下さるのです。「唯一の主」は「イエス・キリスト」と言い換えられています。イエス・キリストこそ、「唯一のまことの主」なのです。私たちは、イエス・キリストを唯一の主と仰ぎ、そのご支配の下に身を置くことによってこそ、私たちを支配し束縛している多くの主から解放されるのです。唯一の神のご支配は、唯一の主イエス・キリストにおいてこそ示され、実現しているからです。
唯一のまことの主イエス・キリストは私たちをどのように支配なさるのでしょうか。主イエスは、この世の王様のように、専制君主のように支配なさるのではありません。主イエスは、唯一の神の独り子であられ、「万物はこの主によって存在し」たとさえ言われるまことの神であられたのに、一人の人間となってこの世に来て下さったのです。しかも、どこかの国の王子様としてではなく、ベツレヘムの馬小屋に生まれた貧しい赤ん坊としてです。そしてさらに私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって私たちは罪を赦されて、唯一の神の恵みの下で新しく生きることができるようになったのです。主イエスのご支配とはこのように、私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって罪を赦して下さる恵みのご支配なのです。この世には多くの主がいて、それらの力が様々に私たちを支配し、束縛しようとしていますが、私たちは、イエス・キリストにおいて、私たちのために命を投げ出して、罪の赦しの恵みを与えて下さったまことの主と出会うのです。さらに主イエス・キリストは、父なる神様の力によって復活させられました。それは神様が、主イエスにおいて、私たちの罪と死の力を打ち破って下さって、神様の祝福に生きる新しい命と体とを備えて下さっていることの保証です。そして復活した主イエスは天に昇り、今は父なる神様のもとから、聖霊の働きによって私たちを導いて下さっています。私たちの誕生も、人生の歩みも、そして死も、この唯一の主イエス・キリストによって、唯一の神の恵みの下に置かれているのです。「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」という6節の言葉は、主イエスによって実現しているこの恵みのことを言っているのです。ここの原文には、「存在する」などという難しい言葉はありません。直訳すれば「万物はこの主により、私たちもこの主により」となります。つまり見つめられているのは、この世の万物と私たちを本当に生かし、導き、救って下さる主は誰なのか、ということなのです。それは、この世に働いているように感じられる得体の知れない様々な力ではなく、私たちのために十字架にかかり、復活して下さった主イエス・キリストなのです。
苦しみの中で
私たちの人生には、時として苦しみが、不幸が襲いかかって来ます。どうして自分がこんな目にあわなければならないのか、と思うようなことがあります。そのような苦しみに遭うと私たちは、得体の知れない力によって自分の人生が翻弄されているように感じます。そしてその正体を、苦しみをもたらしている原因を突き止めたいと思います。そのような思いによって私たちは、占いなどの虜になり、この世の多くの主に束縛されるようになってしまうのです。しかしそこには救いはありません。占い師は苦しみの原因をあれこれ指摘してくれるかもしれません。しかしそこに働いている力は、私たちに語りかけては来ないのです。それはいつまでも「得体の知れない力」であって、その与える苦しみには意味はないのです。意味がなければ、それに耐える力は生まれません。占いは、苦しみの原因は示しても、それに耐える力を与えてはくれないのです。しかし私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったイエス・キリストという唯一のまことの主の下で生きるならば、苦しみの中でも、十字架の主の語りかけを聞くことができるのです。主は私たちの苦しみの原因を教えては下さいません。しかし、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて救いを成し遂げて下さった主が共にいて下さるなら、私たちの苦しみは、主イエスご自身の苦しみと重なり合ってくるのです。そこでは、苦しみの原因を知ることはできなくても、その苦しみは意味のないものではなくなるのです。そしてそこには、苦しみに耐える力も与えられます。十字架の苦しみと死とによって主イエスが与えて下さった救いの恵みを信じて、苦しみに耐えることができるようになるのです。そこにはまた希望も与えられていきます。父なる神様が主イエスを復活させて下さったように、私たちにも、罪と死の力に勝利する新しい命と体とを与えて下さるという希望です。唯一の神を信じて、苦しみの中でも希望を失わず、忍耐して生きる歩みが、唯一の主イエス・キリストによって与えられるのです。別の言い方をすれば、唯一の主イエス・キリストとの出会いによって私たちは、唯一の神が、私たちの父なる神でもあられ、私たちを愛し、育み、導き、救って下さる方であられることを知ることができるのです。この唯一の神、唯一の主の救いの恵みを知ることによってこそ私たちは、この世の多くの神々、多くの主が、偶像に過ぎず、何の力もないことを知り、その束縛から自由になることができるのです。偶像の神々や、占いのたぐいは全て迷信です。しかしそれらの迷信から本当に解放され、自由に生きることができるようになるのは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった唯一の主イエス・キリストを知ることによってであり、この主イエスの父であり、私たちの父となって下さった唯一の神の下で生きることによってなのです。
聖餐の恵み
この後聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、私たちのために十字架の死を遂げて下さった唯一の主イエス・キリストの恵みを深く味わうために備えられています。聖餐にあずかることによって私たちは、唯一の主イエス・キリストとの交わりに生きるのです。そしてそれによって、主イエスの父である唯一の神が、独り子イエス・キリストによって私たちの父となって下さった恵みをも味わうのです。聖餐の食卓に養われる私たちは、この世に働いている様々な力をもはや恐れることなく、占いのたぐいに惑わされることなく、唯一の神、唯一の主を信じて、喜んで活き活きと、自由に生きることができるのです。