主日礼拝

子とする霊

「子とする霊」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第11章1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章14-17節
・ 讃美歌:323、339

命の霊、真理の霊
 キリスト教会の基本的な信仰内容を言い表している使徒信条の言葉に基づいてみ言葉に聞いています。今はその第三の部分、聖霊なる神への信仰が語られているところです。「我は聖霊を信ず」とあります。父なる神と、その独り子主イエス・キリストを信じることと並んで、聖霊なる神への信仰を、代々の教会は告白してきました。その聖霊を信じるとはどのようなことなのかを、これまで二回にわたって聖書から聞いてきました。これまでに示されてきたことは、まず第一に、聖霊は私たちに命を与えて下さる、命の霊だということです。聖霊のお働きによってこそ私たちは本当に生きることができる、しかも、肉体の死をも越えて神が与えて下さる新しい命を生きることができる、と聖書は語っているのです。第二に示されたことは、聖霊は私たちに真理を悟らせて下さる、真理の霊だということです。その真理とは、私たちが神に背き逆らっている罪人であり、神に裁かれて滅びるしかない者だという、人間の罪と滅びの真理であると同時に、神がその私たちのために、独り子イエス・キリストを遣わして下さって、その十字架の死と復活そして昇天によって、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さる、という救いの真理です。主イエス・キリストによる救いの真理。それは私たちが自分自身の内面やこの世の現実をいくら見つめていても見えて来ないし、分かりません。真理の霊である聖霊こそがそれを示し、分からせて下さるのです。このように聖霊は命の霊であると共に真理の霊でもあり、私たちが神を信じ、主イエス・キリストによる救いにあずかって、新しい命を生きていくことを具体的に実現して下さる方です。私たちを、神と共に生きる者として下さるのが聖霊なのです。

主を畏れ敬う霊
 先ほど朗読された旧約聖書の箇所、イザヤ書第11章1節以下にも、主の霊である聖霊が宿って下さることによって、神と共に生きる者とされることが語られていました。その2節に、主の霊は「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」であると語られています。これらの言葉は、先ほどの「真理の霊」ということを様々に言い換えていると言えます。主の霊が、まことの知恵を与え、何が真理なのかを識別できるようにして下さる。それによって、思慮深さと共に勇気をもって生きることができるようになる。そのように主の霊に導かれて主を知った者は、主を畏れ敬って生きる者となる、というのです。そして3節にはこれを受けて「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」とあります。主の霊、聖霊は「主を畏れ敬う霊」だということが強調されています。主を畏れ敬うことこそがまことの知恵である、というのは聖書の基本的な信仰です。私たちをその信仰に生かすのが主の霊、聖霊なのです。

イザヤが預言した救い主
 ところでここに語られているのは、神の霊はこのように働く、という一般論ではなくて、ある人に神の霊が注がれる、という預言です。「彼は」主を畏れ敬う霊に満たされる、と言われています。その彼とは、1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と語られている人です。エッサイとはダビデ王のお父さんの名前ですから、エッサイの株から出るとか、その根から育つというのは、ダビデ王の子孫として生まれる、ということを意味しています。ダビデ王の子孫である「彼」に、主の霊がとどまり、彼は主を畏れ敬う霊に満たされるのです。それは、ダビデの子孫として現れると約束されている救い主メシアのことを指しています。メシアは、主を畏れ敬う霊に満たされて、救い主としての働きを行うのです。その働きとはどのようなものかが3節後半以降にこのように語られています。「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。これが、主を畏れる霊に満たされた救い主の働きです。彼は「裁きと弁護」を行うのです。つまり有罪か無罪か、白か黒かをはっきりさせるのです。人間の間の争い事においてではなくて、神の前での裁きにおいてです。「知恵と識別の霊」に満たされた彼は、神の前での決定的な裁きにおいて、救われる者と滅びる者を明らかにするのです。しかも彼は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」と言われています。表面に現れた、上辺だけのことで判断するのではなく、隠された真実を明らかにして正しい裁きをする。つまりこの裁きにおいては、ごまかしはきかないし、嘘は通らないのです。人間の目はごまかし、隠しておくことができたとしても、「知恵と識別の霊」に満たされたこの方の前では、人間が隠している全てのことが暴き出されて正しく裁かれるのです。
 それはとても恐ろしいことです。この裁きにおいて「自分は無罪だ」と言える人は一人もいません。隠されていることが全て明るみに出されてしまうなら、私たちは誰もが、滅びるべき罪人とされざるを得ないでしょう。だとしたらこの「彼」は、救い主ではなくて、私たちを滅ぼす裁き主だと言わなければならないのではないでしょうか。しかしそこで4節に語られていることが意味を持ってきます。「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」とありました。主の霊に満たされた彼のなす裁きと弁護は、弱い人、貧しい人のための裁きであり弁護なのです。その根本には、弱い人、貧しい人、苦しんでいる人に対する神の慈しみがあるのです。「目に見えるところや耳にするところによってではなく」ということの深い意味はそこにあります。見た目の美しさや豊かさ、人間の間での評判の良さなどに左右されるのではなくて、弱く、貧しく、苦しんでいる人に対する愛による裁きと弁護を、主の霊に満たされた彼は行うのです。それは彼が「主を畏れ敬う霊」に満たされているからです。主なる神が、弱く貧しく苦しんでいる者を慈しみ、愛して下さっている、その主のみ心をしっかりと受け止め、それに従うことが、主を畏れ敬うことです。主を畏れ敬い、そのみ心に従って裁きと弁護をするがゆえに、彼は「救い主」なのです。

主イエスによる裁きと救い
 イザヤが預言している「彼」とは、主イエス・キリストです。主イエスは、ダビデ王の子孫としてお生まれになりました。エッサイの株から萌え出た芽、その根から育った若枝とは主イエスです。その主イエスの上に、神の霊がとどまったのです。その霊は、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」でした。主イエスは「主を畏れ敬う霊」に満たされて、救い主としてのお働きをなさったのです。そのお働きは、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というものでした。つまり主イエスは、裁きと弁護をなさり、救われる者と滅びる者とを明らかになさったのです。その裁きは、目に見えるところによってでも、耳にするところによってでもなくなされます。だからごまかしはききません。嘘は通りません。人間の目はごまかし、隠しおおせても、「知恵と識別の霊」に満たされた主イエスの前では、人間が隠している全てのことが明るみに出されるのです。つまり、私たちが、神を神として敬わず従わず、自分を主人として、神に敵対して生きている罪人であることが、主イエスによって明らかにされ、私たちは滅びるしかない者であることがはっきり示されるのです。
 しかし、「主を畏れ敬う霊」に満たされた主イエスによる裁きは、同時に、弱い人、貧しい人のための裁きでした。弱く貧しく苦しんでいる者を慈しみ、愛して下さっている主なる神のみ心を、主イエスはしっかりと受け止め、それに従って裁きをなさったのです。具体的には、神の独り子であり、ご自身が神であられる主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さり、苦しみ悲しみに満ちたこの世を生きて下さったのです。そしてさらに、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。罪のゆえに私たちが受けるはずの裁きと滅びを、神の子である主イエスが代って引き受けて下さったのです。それによって私たちは滅びから救われ、罪を赦されて新しく生きることができるようになりました。つまり主イエスによって、私たちの罪と滅びが明らかにされると共に、主イエスご自身がその罪と滅びを代って引き受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しと新しい命が与えられたのです。それが、主イエスのなさった救い主としてのお働きです。主イエスのご生涯において、とりわけその十字架の死において、罪人に対する神の裁きと、神が弱い人、貧しい人、苦しんでいる人を慈しみ、救って下さる愛が、同時に示され、実現したのです。主イエス・キリストはそのようにして、私たちの救い主となって下さったのです。

主イエスは聖霊に満たされて救いのみ業をなさった
 主イエスが私たちの救いのみ業を実現して下さることができたのは、神の独り子であられたからです。神の独り子であり、ご自身がまことの神であられる主イエスが、私たちと同じ人間となり、私たちの罪を全て背負って、身代わりになって十字架にかかって死んで下さったのです。私たちが受けるべき裁きと滅びを、神の子である主イエスが引き受けて下さったのです。それは本来あり得ないことです。このあり得ない、驚くべき出来事によって、神による救いが実現しました。この救いは、主イエスの父である神が、罪によって滅びるしかない私たちを憐れんで下さり、なおも愛して下さって、救いを与えるために独り子である主イエスをこの世に遣わして下さったことによって実現しました。しかし同時に、神の子である主イエスもまた、弱く貧しく苦しんでいる罪人である私たちを慈しんで下さっている父なる神のみ心をしっかりと受け止め、それに従ってこの世を生き、十字架の死に至るご生涯を歩み通して下さったのです。父なる神のみ心を、子なる神主イエスがしっかり受け止め、それに従って歩んで下さったことによってこの救いは実現したのです。主イエスは、「主を知り、畏れ敬う霊」である聖霊に満たされて、神の子としての歩みを全うされたのです。

聖霊に満たされることによって与えられるまことの信仰
 私たちは、この聖霊を信じる、と毎週の礼拝において告白しています。それは、主イエスの上にとどまり、主イエスが満たされた「主を知り、畏れ敬う霊」である聖霊が、私たちにも降り、とどまり、私たちもその聖霊に満たされて、主なる神を知り、畏れ敬って生きる者とされることを信じ、願っている、ということです。神を知り、畏れ敬うこと、つまり神のみ心が分かるようになり、それにしっかり聞き従うことが信仰です。私たちはともすると、神のみ心ではなくて、神についての自分の思いや願いに固執して、「神はこうであるはずだ」という自分の思いを信仰と勘違いしてしまいます。そうではなくて、神のみ心をこそ畏れ敬わなければなりません。その神のみ心を私たちに示して下さるのが聖霊です。聖霊に満たされることによってこそ、神のみ心が分かるようになるのです。そのみ心は、主イエスご自身が聖霊に満たされることによって受け止め、それに従ってご生涯を歩まれたみ心です。つまり神が、弱く貧しく苦しんでいる罪人である私たちを慈しみ、愛して下さっている、そのみ心です。主イエスはそのみ心を受け止め、それに従って、弱く貧しい人々と共に生き、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。それによって、私たちが罪を赦され、神との良い関係を回復されて新しく生きることができるようにして下さったのです。主イエスのご生涯と十字架の死において示されているこの神の恵みのみ心を、つまり私たちに対する神の愛を信じて、そのみ心を大切にして生きることこそが信仰です。「主を知り、畏れ敬う霊」である聖霊に満たされることによって、その信仰が私たちにも与えられるのです。

聖霊によって神の子とされる
 この聖霊のお働きによって、私たちは、神の独り子主イエスと一つにされ、同じ神の恵みのみ心に従って生きる者とされます。それは私たちも、主イエスと共に神の子とされる、ということです。元々神の子であるのは主イエスお一人であって、私たちは神に造られた被造物であり、しかも神に背いている罪人なのですから、神の子になることなどあり得ません。しかし、「主を知り、畏れ敬う霊」である聖霊を私たちも受け、独り子の命をすら与えて下さった神の愛のみ心を示され、それを受け止め、そのみ心に従って歩むようになる時に、私たちをも神の子として下さっている神の恵みのみ心を知らされるのです。

神の子とする霊
 本日の新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章14節以下にそのことが語られています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。神の霊によって導かれることによって、私たちは神の子となる。それは、神の子と呼ばれるのに相応しい清く正しく立派な者になれる、ということではありません。そのような思いはむしろ「人を奴隷として再び恐れに陥れる」思いです。奴隷は、主人の命令通りにできなければ厳しく罰せられるのです。だからいつもびくびく恐れて、主人の顔色を伺っていなければならないのです。神の子となるには清く正しく立派な者にならなければ、というのはその奴隷の思いと同じです。そこには、神の子らしくちゃんとできなければ叱られてしまう、という「恐れ」ばかりが生じるのです。しかしここに語られているのは、神はあなたがたとそのような関係を結ぼうとしているのではない、そうではなくて、子として愛して下さっているのだ、ということです。そのことが、独り子イエス・キリストのご生涯と十字架の死において示されているのです。聖霊は神の父としての愛をあなたがたに分らせ、信じさせて下さる。この聖霊に満たされることによって、あなたがたも神の子とされ、主イエスと共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのだ、とパウロは言っているのです。16節には「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。聖霊こそが、私たちが神の子とされていることを証しして下さる。それは、私たち自身には、そのことが分からないということです。自分でいくら考えても、自分の現実を見れば見るほど、神の子であるなどとは思えない、神が自分を子として愛して下さることなどあるはずがない、と思ってしまうのです。でも聖霊は、「あなたはもう神の子なのだ、神が独り子イエス・キリストによってあなたの罪を赦し、新しく生かして下さっているのだ」と語りかけて下さっているのです。そして聖霊は、語りかけるだけでなく、私たちを主イエスと結びつけて下さっています。具体的には、洗礼によってキリストの体である教会の一員として下さっている、まだ洗礼を受けておられない方々もここにはおられますが、その方々をもこの礼拝へと導くことによって、主イエスのもとへと招いて下さっているのです。この聖霊の語りかけとお働きを受けることによって、私たちの霊、神の恵みをなかなか受け入れられない私たちの頑なな心にも、子として下さっている神の愛を信じる思いが与えられていくのです。
 このように、神の霊、聖霊は、私たちを神の子として下さる霊です。聖霊によって、主イエスの父である神を知り、神がその独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっていることを知らされ、その神のみ心を受け止めてそれに従って生きるようになる、つまり神を畏れ敬う者となる時に、私たちは自分が主イエスと共に神の子とされていることを信じて、喜びと感謝をもって生きることができるようになるのです。

将来への希望を与えて下さる聖霊
 17節には、「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とあります。聖霊によって神の子とされることによって、私たちは神の相続人となる。これは不思議な言葉ですが、相続人とは、将来相続することを約束されている人、という意味です。つまり、神の子とされることによって、将来への確かな希望が与えられる、ということが語られているのです。神が私たちを愛して、独り子イエス・キリストと結び合わせ、私たちをも子として下さった、それは、独り子イエス・キリストに既に与えられた復活と永遠の命が、将来私たちにも与えられる、ということです。主イエス・キリストによって実現した救いにあずかり、神の子とされた私たちの歩みは、肉体の死によって終わってしまうものではありません。神の独り子主イエスが、十字架の死の苦しみを経て、復活と永遠の命の栄光を与えられたように、私たちも、この世の人生における、そして誰もが迎える死における苦しみの先に、復活と永遠の命の栄光を与えられるのです。神の子とされるとは、その将来への希望を抱いて生きる者とされる、ということです。聖霊は私たちに、その希望を与えて下さるのです。

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