主日礼拝

真理の霊

「真理の霊」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第16章7-15節
・ 讃美歌:321、344

聖霊を信じる
 礼拝において毎週告白している使徒信条に導かれてみ言葉に聞いています。先週から、使徒信条の第三の部分、聖霊なる神への信仰が語られているところに入りました。「我は聖霊を信ず」からのところです。父なる神と、子なる神主イエス、そして聖霊なる神を信じるのが教会の、そして私たちの信仰です。その聖霊とはどのような方なのか、聖霊を信じるとはどういうことなのか、この5月にそのことを聖書から聞いていこうとしているのです。
 先週は、聖霊は私たちに命を与えて下さる方だ、ということをみ言葉から聞きました。聖霊が私たちの内に宿って下さっていることによって私たちは生きているのだし、その聖霊のお働きによってこそ、新しく生かされるのです。つまり聖霊が命を与えて下さるとは、希望を与えて下さるということでもあります。聖霊を信じることによって私たちは、肉体の死をも越えて神が私たちを新しく生かして下さるという希望に生きることができる、それが先週聞いたみ言葉でした。

真理の霊
 本日の説教の題は「真理の霊」です。聖霊は「真理の霊」でもある、と聖書は私たちに告げています。そのことが、先ほど朗読された新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第16章の13節に語られています。13節の前半には「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。聖霊は、私たちを導いて真理をことごとく悟らせて下さる「真理の霊」なのだと語られているのです。その13節の前の12節にはこうあります。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」。これに続いて13節で「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と語られているのです。つまり聖霊は、私たちが理解できていない真理を悟らせてくださるのです。私たちは、真理を全く理解できないわけではありません。私たちが既に知っており、理解している真理もあります。私たちが理解できた真理の蓄積によって人間の文明は進歩してきたと言えます。だから私たちは真理を全く知らないわけではありません。しかし、聖霊が来て下さることによって初めて悟ることができる真理もあるのです。その真理は、私たちが自分の知識や経験を元にして自分の頭でいくら考えていても理解できないし、悟ることができません。その真理を悟らせて下さるのは聖霊なのです。ですから聖霊を信じるというのは、自分が知っており悟っている真理によってのみでなく、聖霊が示し、悟らせて下さる真理によって生きる者となる、ということです。聖霊はどのような真理を私たちに示し、悟らせて下さるのでしょうか。

世の誤りを明らかにする霊
 ヨハネ福音書16章8節に「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。ここに出てくる「その方」が13節において「その方、すなわち、真理の霊」と言われているわけですから、これは真理の霊である聖霊が来れば、ということです。聖霊は、罪について、義について、そして裁きについての真理を悟らせて下さるのです。罪についてとは、私たち人間には罪がある、ということです。その罪とは、あれこれの悪いことをしている、というよりも、その根本にある、この世界を造り、私たちに命を与えて下さっている神に背き逆らい、その神と良い関係をもって生きていないということです。私たちは皆そういう罪に陥っているのだ、という真理が聖霊によって示されるのです。次に義についてと言われています。義とは聖書において、今申しました「神との良い関係」のことです。神が私たちを愛して下さっていることを知り、それに応えて自分も神を愛して生きる、そういう良い関係があることが「義」なのです。しかし私たちが罪に陥っているということは、神との良い関係を失っているということです。つまり私たちは義を失っている、という真理が聖霊によって示されるのです。そして裁きについてです。それは神こそがこの世界と私たちを支配しておられ、お裁きになるのだ、ということです。罪のために神との良い関係を失っている私たちは、その神によって裁かれ、滅ぼされずにはおれません。そういう真理が聖霊によって示されるのです。真理の霊である聖霊は、私たちが罪に陥っており、義を失っており、裁きの下にあるという真理を明らかにします。それらをまとめて「世の誤りを明らかにする」と言われているのです。この世は、つまり私たちは、誤りに陥っている、そのことを聖霊が明らかにするのです。私たちは、この世界にいろいろな誤りがあり、それによって様々な悲惨なことが起っていることを既に知っています。ウクライナにおける戦争もそうだし、知床の観光船の事故などもそうです。それらのこの世の誤りの根本には、人間の神に対する罪があり、その罪によって義が、つまり神との良い関係が失われているという事実があるのです。そして神は、そのような罪に陥っているこの世と私たちをお裁きになるのです。この根本的な真理は、この世の出来事だけをいくら見つめていても見えて来ません。真理の霊である聖霊によってこそ、この根本的な真理が示されるのです。

聖霊によって目を開かれる
 このように聖霊は、私たちに見えていない、私たちが理解していない、あるいは見ようとしていない真理を示し、悟らせて下さる方です。だからこそ私たちは、聖霊によって真理を悟らせていただかなければならないのです。私たちは、自分に見える、理解できる真理しか、さらに言えば自分の見たい、理解したい真理しか見つめようとしていません。真理を見つめる私たちの目にはフィルターがかかっていて、自分の見たい真理、自分に都合のよい真理だけしか見えないのです。だから私たちは自分でいくら目を見開いて真理を見よう、知ろうとしても、それで真理を悟れるわけではないのです。真理を本当に悟ることができるようになるのは、私たちの外から来て、私たちの内に宿ってみ業を行なって下さる神の霊、聖霊によってです。聖霊を信じて生きるとは、聖霊によって常に新たに目を開かれ、真理を悟らせていただきながら生きるということなのです。

弁護者である霊
 真理の霊である聖霊によって私たちは、自分の罪を、自分が神との良い関係を失っていることを、そしてそのような私たちを神がお裁きになることを示されます。聖霊によって世の誤りが明らかにされるのです。だとしたら、聖霊が来て真理を悟らせて下さることは、苦しいこと、つらいことだということになります。聖霊によって真理を示されるのはつらく厳しい体験だけれども、私たちにとってそれは必要なことだから我慢しなければならない、ということなのでしょうか。しかしヨハネ福音書16章が語っているのはそういうことではありません。ここでは、聖霊が来て下さり、真理を悟らせて下さることが、喜ばしいこと、待ち望むべきこととされています。そのことをはっきりと示しているのが、本日読まれた箇所の冒頭の7節です。こう語られています。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。これに続いて8節の「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」が語られているのです。「その方」つまり真理の霊である聖霊がこの7節では「弁護者」と言われています。聖霊は弁護者として来て下さるのです。それは8節の「世の誤りを明らかにする」との繋がりで語られていることです。つまり聖霊はこの世の、私たち人間の誤りを明らかにします。人間が罪に陥っており、神との良い関係を失っており、神に裁かれて滅びるしかない者であるという真理を明らかにするのです。しかし同時にそこで聖霊は、「弁護者」であって下さいます。神の裁きにおいて、私たちのことを弁護して下さるのです。聖霊はそういう弁護者として来て下さる。だからそれは喜ばしいこと、待ち望むべきことなのです。
 でも聖霊はいったい私たちについてどんな弁護をするのでしょうか。私たちのための弁護などそもそも可能なのでしょうか。人間は罪を犯してなどいない、神との良い関係を失ってもいない、人間は無実だ、という証拠を示して弁護するようなことは出来るのでしょうか。そんなことは決してできません。私たちが神に背き逆らう罪を犯しており、その罪によって神との間の愛し愛される良い関係を失っていることは紛れもない事実であって、それを否定することなど決してできないのです。私たちには神の前で弁解の余地はないし、どんな弁護者であっても弁護の材料を見出すことはできないのです。しかし聖霊は私たちの弁護者であって下さる。それはどうして可能なのか、そのことが今読んだ7節に示されているのです。

主イエスが去って行くことによって
 ここは主イエス・キリストのお言葉です。「わたし」とは主イエスです。主イエスは「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言っておられます。「わたしが去って行く」とは、捕えられ、十字架につけられて死ぬことであり、さらには、復活して父なる神のもとに昇ることでもあります。そのようにして主イエスは、弟子たちのもとを去って行き、天の父なる神のもとに行こうとしておられるのです。それによって弟子たちはもはや主イエスを肉の目で見ることはできなくなります。そのように私は去って行こうとしているが、それはあなたがたのためになるのだ、と主イエスは言っておられます。主イエスが去って行くことによって、弁護者である聖霊が彼らのところに来るからです。主イエスが去って行かなければ弁護者は来ない、とも言われています。主イエスが去って行くことと、弁護者である聖霊が来ることは分かち難く結びついているのです。「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」とも語られています。父のもとに行った主イエスご自身が、弁護者である聖霊を弟子たちのもとに送って下さるのです。聖霊は、復活して父なる神のもとに行かれた主イエスから送られる弁護者なのです。

主イエスの十字架と復活と昇天による救い
 ここには、聖霊が弁護者として来て下さることと、主イエスが去って行くこと、つまり十字架の死と復活と昇天が深く結びついていることが示されています。聖霊は、十字架にかかって死に、復活して天に昇られた主イエスから遣わされる神の霊です。だからこそ、私たちの弁護者であることができるのです。つまり聖霊による弁護は、私たちの無実を証明することによってなされるのではありません。それは事実ではないのだから、そんなことは誰にも出来ないのです。しかし聖霊は、神の独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天の事実を証拠として示すのです。人間は確かに罪人であり、神との良い関係を失っており、裁かれて滅ぼされるしかない者です。けれども、その人間の罪を、神の独り子である主イエス・キリストが全て背負って、十字架にかかって死なれたのです。人間がその罪のゆえに受けなければならない死と滅びを、主イエスが代って引き受けたのです。それによって人間の罪はもう償われ、赦されているのです。そして神はその主イエスを復活させ、天に昇らせて下さいました。主イエスは今、天において、私たちのことを父である神に執り成して下さっているのです。その主イエスの執り成しによって、神と私たちの良い関係は回復されています。神は愛をもって私たちの罪を赦して下さり、私たちもその愛に答えて神を愛して生きることができるようになったのです。つまり、人間の罪によって失われた義が回復されたのです。10節に「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と言われているのは、そのことを語っています。主イエスが十字架の死と復活そして昇天によって父のもとに行かれたことによって、地上を生きる私たちはもはや主イエスのお姿を見ることはできませんが、その主イエスによって、罪の赦しが与えられ、神との良い関係が、つまり義が回復されたのです。主イエスの十字架の死と復活と昇天によって実現したこの神の救いの真理を私たちに示し、それを悟らせ、その救いを私たちの内に実現して下さるのが聖霊です。聖霊はそのようにして私たちのための弁護をして下さっているのです。つまり聖霊が弁護者であるのは、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天によって、神が私たちに与えて下さった救いによることです。この神による救いの真理を、聖霊は私たちに示し、悟らせ、その真理によって生きる者として下さるのです。私たちは罪を犯しており、神との良い関係を失っており、それゆえに神に裁かれて滅ぼされるしかない者です。その真理を、私たちは自分では悟ることができないし、見つめようとしません。聖霊によってこそその真理が示され、明らかにされます。しかし聖霊は、私たちの罪と滅びの真理を明らかにすると同時に、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天によって、その罪が赦され、神との良い関係が回復されているという神の救いの真理をも明らかにして下さいます。この真理も、私たちが自分自身のことやこの世のことをいくら見つめて考えていても知ることができないものです。真理の霊である聖霊こそが、主イエス・キリストによる神の救いの恵みの真理を示し、悟らせて下さるのです。そのようにして私たちの弁護者であって下さる聖霊が来て下さることは、喜ばしいこと、待ち望むべきことなのです。

助け、慰め、励まして下さる聖霊
 「弁護者」という言葉には、神の裁きにおいて罪人である私たちのために弁護をして下さる、というイメージが強くあり、それにひきずられがちです。しかし聖霊のお働きは、神の前での裁きという場面においてのみなされているのではありません。「弁護者」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「助け主」でした。原文の言葉の元になっているのは「傍に呼ぶ」という言葉であり、それは助ける、慰める、励ますなどといろいろに訳すことができます。真理の霊である聖霊は、神の裁きにおいて私たちのために弁護をして下さるだけでなくて、私たちを助けて下さり、慰めて下さり、励まして下さるのです。つまり聖霊は、私たちがこの世を生きていくあらゆる場面において、共にいて下さるのです。私たちは時として大きな苦しみや悲しみの中に突き落とされます。自分の罪深さにおののき、恐れを覚えることもあります。自分の弱さに嘆き、どうして自分はこんなにダメなんだろうと絶望してしまうようなこともあります。しかしそのような私たちのところに、復活して天に昇られた主イエス・キリストのもとから聖霊が遣わされて、私たちを助け、慰め、励まして下さるのです。真理の霊である聖霊は、私たちに、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天とによって既に実現している神の救いの真理を示し、悟らせて下さいます。この世の出来事や自分自身の目に見える現実を見つめている中では、私たちは苦しみや悲しみから抜け出すことはできないし、自分の罪や弱さによる絶望から解放されることもありません。しかし聖霊は、神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さっていること、そして復活して天に昇られた主イエスが、私たちのことを父なる神に執り成していて下さり、神と私たちとの良い関係を回復して下さっていることを示し、悟らせて下さるのです。その聖霊が私たちの内に宿り、み業を行なって下さることによってこそ、私たちは、主イエス・キリストによる救いにあずかって生きることができます。「我は聖霊を信ず」という信仰によってこそ、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天による救いが私たちの現実となるのです。

救いの真理を告げ知らせる者として
 本日は、旧約聖書、イザヤ書第61章のはじめのところをも共に聞きました。その1節に「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」とあります。主なる神の霊、聖霊が、神による救いの真理を示し、悟らせて下さることがここにも語られています。貧しく苦しんでいる者に神の救いの良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、いろいろな束縛に捕らわれ、つながれている者に自由と解放を与えて下さるのが、聖霊のお働きです。そのお働きによって、嘆き悲しんでいる者に慰めと喜びが与えられ、暗く沈んでいる心が、神を賛美する心へと変えられていくのです。しかもここに語られているのは、神の霊が注がれることによって、そのような神の救いの真理を悟り、それによって生きることができるようになるだけでなく、その良い知らせを告げ知らせる者として立てられ、遣わされる、ということです。真理の霊である聖霊は、主イエスによる救いの真理を私たちに悟らせて下さると共に、その救いの恵みを証しし、宣べ伝える者として立て、遣わして下さるのです。本日は、その聖霊のお働きによって、この群れに、川嶋章弘牧師が立てられます。聖霊なる神が、川嶋先生の内に宿って下さり、主イエス・キリストによる神の救いの真理を悟らせ、その福音を宣べ伝える伝道者として立て、そしてこの群れに牧師として遣わして下さったのです。私たちはその聖霊のお働きに感謝して、先生と共に主に仕えていくのです。そしてその聖霊は、私たち全ての者にも注がれ、宿り、み業を行なって下さっています。私たちは、聖霊によって、主イエスの十字架と復活と昇天とによって神が実現して下さった救いの真理を悟らせていただき、その救いの恵みによって日々助けられ、慰められ、励まされながら、神が与えて下さったこの救いの良い知らせを宣べ伝えていくのです。

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