「苦難へと進まれる主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第53章1-10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章32-45節
・ 讃美歌 ; 220、469
主イエスの道
主イエスが進まれる道があります。主イエスの後に従って、その道を歩もうとするものたちがいます。エルサレムに向かう一群の人々、主イエスの弟子たちと従うものたちの一行です。「御一行様」という言葉があります。ツアー旅行などで、一つの目的をもって同行する人々を呼ぶときなどに使われます。主イエスに従うということは主イエスと同じ、一つの道を歩むことです。時代や場所を越えて、この世でキリストを主として歩むものは誰しも、主イエスと歩む一行の中にいます。この一行の中に、現代を生きる私たちもいるのです。私たちが、主イエスに従って歩むというのは、主イエスの道を歩むことなのです。 新約聖書の中に収められた四つの福音書には、それぞれ、特徴があります。今日お読みしたマルコによる福音書は、しばしば「苦難への道行き」とか「十字架への道」と表現されます。福音書は、どれもイエス・キリストの受難を描きます。しかし、中でも、マルコによる福音書は特に、主イエスの受難に焦点をあてているのです。16章からなる短い福音書です。その16章の内、主イエスの生涯の最後の一週間、つまり受難物語に後半の6章を割いているのです。又、この福音書の特徴を表す言葉に「道」という言葉があります。ガリラヤからエルサレムへと続く道です。様々な御業をなさることによって神の国を伝えていたガリラヤから、苦しみの中で十字架につけられるエルサレムへと向かっていく道を歩む主イエスを描いているのです。今朝お読みした箇所は、この道の途中、まさにエルサレムを目前に控えているところです。この後に続く第11章には、主イエスのエルサレム入場が続いていきます。主イエスと一行は、今まさにガリラヤを離れて、エルサレムへ向かおうとしているのです。
先頭に立つ主イエス
32節には次のようにあります。「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」。この時、主イエスは先頭に立って進んでいかれます。エルサレムを目前にして、一行の先頭に主イエスは歩み出られるのです。ここで、私たちは、気づかされることがあります。それは、これまでの歩みの中で、主イエスは先頭におられなかったということです。普通、群れの中で、主である方が先頭を歩み、従う者たちはその方について行きます。ですから、私たちは、主イエスが先頭にいるのが当然だと考えます。しかし、そうではなかったのです。人々は、一つの道を歩んでいく中で、いつの間にか、われ先にと先頭を歩んでいたのです。主に従おうとしていながら、主の前に歩みだしてしまっていたのです。後についていこうとしていながら、先を歩んでしまうのです。それが、「主イエスの弟子たちと従うものたちの一行」の姿でした。
この一行の姿は、私たちの姿でもあります。私たちの内誰が、自分はここでの弟子たちや従う人々とは違うと言い切れるでしょうか。主イエスに従うと言いながら、「私の愛するイエス様はこのようなお方だ」と、自分の望む救い主の姿を思い描く。そのような中でいつしか、自分の思い通りの救い主を求めるようになってしまうことがあります。いつの間にか、自分が主人になって、主人である主イエスを自分の願い通りの方にしてしまおうとするのです。そのような時、私たちは、この時の従う人たちと同じように主イエスの前を歩いているのです。
しかし、主イエスは、エルサレムに向かう途中、ご自身の前を歩む人々を振り切るようにして、先頭を歩まれるのです。明らかに今までいたガリラヤとは異なるところ、エルサレムへと力強く歩み出されたのです。ガリラヤで歩まれるとき、主イエスは、時にご自身を隠し、時に後ろに退いていました。しかし、このエルサレムへの歩み出すとき、主イエスは先頭に立たれるのです。このエルサレムへの一歩において主イエスの他、誰も先頭には立てないのです。私たち人間は常に、ガリラヤに留まろうとするからです。この場所において、真の主であるイエスのみが先頭に立って一歩踏み出されるのです。
ガリラヤ
あるいは、エルサレムへと歩み出すのではなく、ガリラヤに留まっていればよかったのかもしれません。ガリラヤとはどのような場所でしょうか。ガリラヤで主イエスは多くの御業を行いました。重い皮膚病を患うものに「よろしい、清くなれ」と言われました。中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語られました。手のなえた人を真中に立たせて、「手を伸ばしなさい」と言われ、耳が聞こえず舌の回らない人に向かって「開け」と語られたのでした。又、時に、四千人、五千人の人々に食べ物を与え、時に、嵐の中、逆風でこぎ悩む、弟子たちの傍へ湖の上を歩いて近づかれたのでした。そこには、争いや苦難とは無縁であるかのように見える救い主の姿があり、平安と歓喜にさえ満ちている人々がいます。力強い主イエスの御言葉と、待ち望んでいだ救い主と出会えた人々の喜びと賞賛の声がこだましていたことでしょう。しかし、そこは、人間の思いが渦巻く場所でもありました。主イエスに従っていながら、ガリラヤで人々が求めていたのは、自らが望む救いを実現する救い主でしかありませんでした。
人々は、「人の子」と聞いて何を思っていたのでしょうか。旧約聖書の黙示文学は次のように語ります。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることはない」。この言葉から、彼らが想像したものは、自分たちが直面している苦しみ、ローマ帝国の支配からの解放をもたらす力強い「人の子」の像であったことでしょう。けれども、そこで知られているのは、決して真の神の子ではなく、自らが描く救いが投影された救い主でしかありません。それは、言い換えるならば、自分たちに栄光を与えてくれる救い主でしかないのです。
ヤコブとヨハネの母の願い
このことは主イエスの弟子たちの態度に良く表れています。今日、お読みした箇所は主イエスが三度目にご自身の十字架と復活を予告された場面です。それを受けて、主イエスの弟子であるヤコブとヨハネは、主イエスが栄光を受ける時、自分たちの内、一人を右に、もう一人を左に座らせてほしいと願ったのでした。ヤコブとヨハネは、最初に主イエスの弟子となった漁師たちです。主イエスとずっと歩みを共にして来ました。だから、主イエスが栄光を受ける時、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです。しかし、この時、二人が、思い描いていた主イエスが受ける栄光とは、この世での支配、権力の獲得です。二人は、自分自身の望む救い主を求める中で、自らの栄光を求めていたのです。自分の望む救い主を追い求めて、主イエスの前を歩こうとする思いと、自分の栄光を求める思いは深く結びついているのです。そのような中で、僕として従っていながら、いつの間にか、自分自身が主人になってしまう。真の救い主の主になってしまうのです。そして、このことは、何も、ヤコブとヨハネ二人だけのことではありません。41節には次のようにあります。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」。この怒りは、他の弟子たちが、同じことに関心を寄せていたことを表しています。他の弟子たちは、自分たちも同じ思いに支配されていながら、それをストレートに表現することをためらい、我慢していたのです。しかし、ヤコブとヨハネが、自分たちを出し抜いて、栄光を受ける時に、私たちを特別に扱ってほしいという率直な願いをあからさまに願い出たのです。そのために、他の弟子たちは腹を立てたのです。心の中では、皆自分の栄光を求めていたのです。ここには主と共に歩む人々の一行。確かに救いを求めていましたが、決して真の神の子を求めていない、求め得ない一行がいるのです。主イエスに従う信仰生活の中で、自分の願いが実現することをもとめる時、又、信仰によって、何か立派なものになろうとする時、自分の栄光を求めていることがあるのです。
従うものの恐れ
主イエスが先頭を歩みだしたのを見たときの主イエスに従う人々の思いが32節の後半で、次のように記されています。「それを見て、弟子たちは驚き、従う人々は恐れた」。自分たちが主イエスに従っていると思いつつ、一歩先を歩んでいた時には感じることの無かった驚き、恐れであったのではないでしょうか。確かに人々はガリラヤで主イエスがなさった業を見て、驚き恐れました。しかし、この時の驚きや恐れはそれとは少し異なります。エルサレムに向かうことへの恐れです。ガリラヤにいる時、自らが主の一歩前を歩いている時、主のなさる偉大な業に驚愕しました。しかし、主が先頭に立たれる時、今までとは異なる主イエスの姿が示されるということに、人々に驚き、恐れるのです。そこでは、確かに、自らの思いとは異なる救い主が姿を現すからです。その姿が、33節にあります。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」。「人の子」が殺される。しかも、このことが異邦人の手によってそれがなされるということがはっきりと語られるのです。当時のユダヤ人にしてみれば、決して、あってはならないことです。しかし、その理解しがたいことがおころうとしているのです。人間が描く救い主、人間の理想が崩され、真の神の子の姿が表される時、人々はそれを驚き、恐れるのです。
エルサレム
主イエスが進まれようとしている、エルサレムとはどのような場所なのでしょうか。そこで、弟子の一人は、主イエスを裏切り金で売り渡します。他の弟子たちは主イエスを知らないと激しく拒絶し、主イエスの下を離れるのです。そして、主イエスは、異邦人たちから侮辱された上で十字架につけられるのです。そこでは、自らを主として歩む人間の罪が最も鮮明にあらわになるのです。主イエスに対するあざけり、救い主の十字架による死。それは他でもなく、自らを主として歩もうとする人間が生み出す現実です。真の主ではなく自らを主として歩む人間の罪の姿が、ここに示されているのです。主イエスはガリラヤを離れて、このエルサレムへと進まれるのです。天における父なる神のもとに留まらず、世に下られた主イエスは、ガリラヤに留まることなく、エルサレムへと赴かれるのです。真の神の子である主イエスは罪と死の支配する世の只中へと赴かれるのです。もしガリラヤに留まり、驚くべき奇跡によって民の願望をかなえているだけであったなら、弟子たちを恐れさせることもなく、自ら苦しみにあうこともなかったでしょう。けれどもそこに留まっているのであれば、それは偽りの救い主でしかありません。私たちの誰にもその意味を知られることなく、主イエスは一人で、苦難へと進まれるのです。自らを主として歩もうとする私たちに救いを与えるために、主である方が、僕の姿をとられるのです。真の救い主である、主イエスが、先頭に立って、自分自身に固執し続けようとするものたちのために主イエスはエルサレムへ行かれるのです。
エルサレムで示されるのは、私たちの思い描く救い主とはほど遠い、主イエスの姿です。私たちが一歩先を歩いていた時とは異なる主イエスの姿、私たちたちの理想通りの主イエスとは正反対の姿です。しかし、それは他でもなく、自分勝手な救い主を求めてしまう私たちの罪を贖うために、真の神の子がなして下さった救いの御業です。人々の手によって殺された主イエスは三日目に復活されます。それは、私たちの罪が、完全にこの方によって滅ぼされたことを意味しています。
神の御心と私たちの思いとの間には隔たりがあります、しかし、主イエスはその隔たりを越えて、私たちのもとに来られるのです。真の神を十字架に貼り付けて殺そうとするエルサレムの只中に来られるのです。ですから、神の苦難、人々の拒絶があるのです。それがあるところに、神の救いの御業が成し遂げられているのです。そして、主は、その苦しみによって私たちを確かに、癒されるのです。
私たちの歩みだし
私たちは、この救い主である主イエスの後に従います。私たちは、時に、救い主の姿を自分の思いに従わせようとします。ガリラヤに留まって、主イエスの前を歩もうとするのが私たちです。しかし、そこには神の御心はありません。そこにあるのは、私たちの理想、思いだけです。その背後で、主イエスが自らエルサレムに進み出されるのです。そして、主の十字架と復活を知らされた私たちは、主の後に従ってガリラヤからエルサレムへと歩み出すのです。それは、自分自身に留まるのではなく、人間の罪の世の只中に主イエスによって神の子とされたものとして歩みだすことです。
主イエスは、自らの願いを聞いてほしいと願い出たヤコブとヨハネに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われます。「できます」と答えた彼らに、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるようになる」と言われています。杯というのは主イエスが受ける十字架の苦しみを意味します。実際、この二人の内のヤコブは、使徒言行録の12章記述によれば、ヘロデによって殺されてしまいます。福音に生きることによって殺されるという苦しみを経験したのです。ヤコブは、確かに、主イエスがここで語られている杯を飲み、苦しみを受けることになったのです。
この主イエスの杯を飲むというのは単純に命を捧げて殉教するということではありません。命を投げ出せば、神様に従っているというのではありません。ここで、杯を飲む、苦しみを受けるということをもっと広く捉えても良いでしょう。それは、例えば、私たちがいる世の生活の中で証し人として立てられることかもしれません。自分が心の中で実は敬遠してしまっている身近な人を、主が示された愛によって愛することかもしれません。又、教会で示される救いの恵に、ただ与るだけでなく、その救いの恵を携えて、新たな伝道に踏み出すことかもしれません。形はどうであれ、主イエスに従う時、私たちには苦しみが伴います。それらは、どの場合においても、自分自身人間の抱く思いが崩されるからです。主イエスが初めて自らの死と復活を予告された後「わたしの後に従いたいものは自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」といわれたように、自分自身の死を意味することだからです。そして、そのように生きることこそ、主イエスの杯を飲むことであり、主イエスがされたように自ら僕となって仕えることなのです。45節で主イエスは次のように言われています。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕となりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」。私たちが、主イエスに続いて、僕となる歩みを始める時、私たちは主イエスの後に従って歩んでいるのです。
エルサレムへの歩みだし
この世は真の神の子を求めていないように見えることがあります。人間は自らの栄光のみを求め、神に栄光を帰していないかに見えることがあります。私たちが歩みだすエルサレムは悪霊に支配された欲望が渦巻く争いの場でしかないように見えることがあります。地上の教会が形骸化した神なき神殿に見えることがあります。そのような時、私たちの歩む道の行き先に滅びとしての死しかないように思うのです。私たちは、そのような時、この世が神様の御心に敵対し、私たち自身も又、そのような罪の中に身を置いていることを知らされるのです。そして、その現実の力の前にあまりに無力な私たちを顧みる時、何もなすことができないように思われるのです。
しかし、私たちは尚、先頭を進まれる主イエスに従って歩み出すのです。そして、この歩みを続けて行くことによって、主イエスご自身の復活によって示された栄光に与る者となるのです。主イエスは、受難を予告されただけではありません。エルサレムに向かう真の神の子は、この道の先にあるものをも語っておられます。「そして人の子は三日の後に復活する」。主イエスの道を歩む最後に、主イエスの復活の命にも与るという、真の栄光が約束されているのです。主イエスの後に従って歩み出すことは恐れを伴います。しかし、十字架で死に復活された主イエスが、私たちが進む道の先頭にいて下さるのです。この主に従いつつ、仕える者として歩んで行きたいと思います。