主日礼拝

幸いな人、マリア

「幸いな人、マリア」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章26-56節
・ 讃美歌:233、175、512

マリアへのお告げ  
 ルカによる福音書第1章を読みつつ、アドベント、待降節を歩んでいます。先週は、エルサレム神殿の祭司だったザカリアに、天使ガブリエルが現れ、子どもがなくて既に老人になっていた彼の妻エリサベトに子どもが生まれると告げたことを読みました。主イエスの先駆けとなり、その道を備える者となった洗礼者ヨハネの誕生が告げられたのです。本日の26節以下には、それから六ヶ月目に、同じ天使ガブリエルが、エリサベトの親類であり、ガリラヤのナザレという町に住むおとめマリアのところに遣わされたことが語られています。マリアが身ごもって男の子を、ダビデの王座を受け継ぐ救い主イエスを生むことを告げるためです。マリアはヨセフのいいなずけでしたが、まだ結婚はしていませんでした。だから天使のお告げに対して、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言いました。老夫婦ザカリアとエリサベトに子どもが生まれることが常識では考えられないことだったのと同じように、いやそれ以上に、おとめマリアが子を生むことも、あり得ないことだったのです。しかし天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」、つまり神の全能の力によってそのことが起るのだと告げました。そしてそれが確かなことであることを示すために、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」と言いました。ザカリアへのお告げとマリアへのお告げの間には六ヶ月の時が経っています。先週の24、5節には、エリサベトが五ヶ月目に「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と語ったことが記されています。つまりエリサベトの妊娠が人々の目に見える仕方ではっきりとしてきたのです。親類であるマリアはそのことを既に伝え聞いていたのでしょう。このことこそ、神にできないことは何一つないことのしるしなのだ、と天使は告げたのです。それを受けてマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と語りました。天使が告げたこと、聖霊によっておとめである自分が身ごもって男の子を生むことを彼女は信じ、その神のみ心を受け容れたのです。

マリアとエリサベト  
 39節以下には、マリアが急いでザカリアとエリサベトの住む山里へと向かったことが語られています。エリサベトに会いに行ったのです。そうせずにはおれなかったのでしょう。マリアにとってエリサベトは、神の不思議な力によって子を宿し、しかも生れて来る子が神によって重大な使命を与えられていると告げられている、という体験を共有することのできるただ一人の人です。つまり自分の戸惑いや困惑の気持ちを理解してくれるであろうただ一人の人なのです。しかもエリサベトはマリアに六ヶ月先だってそのことを体験している先輩です。妊娠六ヶ月になっている先輩の妊婦さんなら、ナザレの町にもいたでしょう。しかしマリアが本当に心を開いて自分の体験を語り、それを理解してもらえる人はエリサベトだけなのです。そのエリサベトにすぐに会いたいと思ったのは当然です。マリアが「急いで山里に向かい」と39節にあるのは、まことにリアリティーのある描写だと思います。そして56節にあるようにマリアはエリサベトのもとに三ヶ月留まり、つまりエリサベトが臨月を迎えるまで共に過ごしました。いろいろなことを語り合ったでしょう。エリサベトはもう老人であり、婚約していたおとめマリアはおそらく14歳ぐらいだったと思われますから、相当の年の差があります。しかしこの二人は、主なる神の不思議なみ業を自分の体において体験している者どうしとして、つまり神に選ばれ、み業のために用いられている者どうしとして、深く理解し合い、共感し合うことができたのです。エリサベトと共に過した三ヶ月は、マリアにとって、主イエスの母となるための大切な備えの時となったのです。洗礼者ヨハネが主イエスの到来に備える者となったのと同じように、ヨハネを宿した母エリサベトも、主イエスの母となったマリアがそのことに備えるための働きをしたのです。本日は、エリサベトとマリア、この二人の女性を見つめつつ、クリスマスに備える信仰を養われたいと思います。

幸いな人、マリア  
 本日の箇所は、天使によるマリアへのいわゆる「受胎告知」と、マリアのエリサベト訪問とから成っています。そしてこのマリアとエリサベトの出会いの中で、いわゆる「マリアの賛歌」が歌われました。それはラテン語における最初の言葉を取って「マグニフィカート」と呼ばれている賛美の歌です。26節から56節に至るこれらの話の根底に流れているのは、マリアが「幸いな人」であるということです。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方」と声をかけました。「おめでとう」は「喜べ」という意味の言葉であり、それが挨拶の言葉ともなっています。天使はその挨拶に重ねて「恵まれた方」とも言っています。「あなたは神から恵みを豊かに受けている人だ」と言ったのです。その恵みとは「主があなたと共におられる」ということです。天使はマリアに、あなたは主なる神の恵みを豊かに受けており、主がいつもあなたと共にいて下さる、だからおめでとう、喜びなさい、と告げたのです。つまりこれは「あなたはとても幸いな人だ」ということです。しかし突然そんなことを言われても、マリアは戸惑うばかりです。そのマリアに天使はさらに「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と告げています。マリアが神によって「恵まれた方」であることをもう一度告げたのです。しかもこの「恵みをいただいた」は直訳すれば「あなたは恵みを見出した」です。マリア自身はまだ何の恵みも見出してはいませんが、しかしこのように語ることによって天使は、主が共にいて下さることによる恵みをあなたはこれから自分自身で見出し、体験し、味わっていくのだ、と言っているのでしょう。彼女がこれから見出し、体験し、味わっていく恵みとは何か。それが31節以下に語られていることです。あなたは身ごもって男の子イエスを生む、その子は、いと高き方の子つまり神の子と呼ばれる偉大な人となり、ダビデの王座を受け継ぐ者、永遠のヤコブの家つまり神の民イスラエルを治める者となる。主が共におられることによってマリアがこれから見出し、体験していく恵みがこのように予告されているのです。あなたはこのような恵みを受けることを約束されている幸いな人なのだ、と天使は告げたのです。

幸いな人、エリサベト  
 マリアが幸いな人であることは、マリアとエリサベトの出会いにおいて、エリサベトの口からも語られています。41節から42節にかけてこのように語られています。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です』」。「祝福された」とは、神の祝福を豊かに受けている、ということです。マリアは多くの女性たちの中で、神によって特別に祝福された人だ、とエリサベトは告げたのです。彼女にそのことを示したのは、彼女が神の恵みによって身ごもっていた胎内の子でした。マリアの挨拶を聞いた時、エリサベトの胎内の洗礼者ヨハネが踊ったのです。このことによって、マリアこそ、ヨハネが道備えをする救い主イエスの母となる人だということが示されたのです。さらにエリサベトは43節でこうも言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。これはマリアが天使に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたことを受けています。マリアは、主が告げて下さったこと、自分が身ごもり男の子を生むことは、人間の常識からしたらあり得ないことだけれども、主が救いのみ業のために自分を用いようとしておられるなら、そのみ心を受け入れ、主に用いていただこうと決心したのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」というのはそういうことです。主によって選ばれ用いられ、自分でもそれを受け入れて歩もうとしているマリアはなんと幸いな人でしょう、とエリサベトは言ったのです。それは自分自身のことでもあります。エリサベトもまた、先程の25節の言葉から分かるように、夫ザカリアに告げられた天使の言葉を、神が自分に恵みを注いで下さった出来事として受け止めていました。神が、救い主の道備えをする者の母として自分を選び用いて下さることを彼女も信じて、そのことを喜んでいるのです。その意味でエリサベトも「幸いな人」です。その幸いを自分自身が感じているからこそ、同じように主に選ばれ、用いられようとしているマリアの幸いを語ることができたのです。

三ヶ月の備えの時  
 このことに注目する時、マリアがエリサベトのもとを訪ね、そこに三ヶ月滞在したことの意味はとても大きいことが見えてきます。「幸いな人」どうしであるこの二人の女が共に過ごした三ヶ月は、特にマリアにとって、主イエスの母となるための、とても大切な備えの時となったのです。エリサベトはこの間に、子供を与えられないままに年をとってしまった自分が味わっていた悲しみや苦しみ、しかしそこに主なる神がみ業を行って下さって、もうそんなことはあり得ないとあきらめていた自分が身ごもることができた、その驚きと喜びを語ったでしょう。それは、単に奇跡的に子供を授かったという喜びではなくて、神の祝福を受けた喜び、神に選ばれ、その救いのみ業のために用いられる喜びです。そしてそれはただ喜びであるだけではありません。生まれて来る子供には神から使命が与えられていることが天使によって告げられています。ということは彼女は、せっかく与えられた子供を、いつまでも自分の元に置いておくことはできないのです。神がお与えになっている使命のためにその子を神にお返ししなければならない時が来るのです。実際洗礼者ヨハネは、成長すると家を離れて荒れ野に住み、救い主の到来に備えるために人々に悔い改めを迫る人になりました。そしてそのためにヘロデに捕えられ、ついには獄中で首を切られて殺されるのです。自分の子供が神に選ばれ、特別な使命を与えられたということは、そういうことをも覚悟しなければならないという事柄なのです。神によって選ばれ、み業のために用いられる幸い、祝福には、そのような苦しみもまた伴うことが予想されるのです。長年この世を生きてきたエリサベトはそれらのことをすべて分かっていたでしょう。そしてマリアに、あなたも神に選ばれ、特別な使命を与えられている子を生むことによって、大いなる幸い、祝福を与えられると共に、苦しみをも受けることになるだろうことを語ったでしょう。しかしそれと同時に、たとえ苦しみが伴うとしても、主なる神に選ばれ、そのみ業のために用いられることは、何物にも代え難い、大きな喜びなのだ、ということをも語ったのだと思うのです。マリアは、神によって選ばれ、み業のために用いられているエリサベトのこの深い喜びに触れつつ、この三ヶ月を過ごしたのです。この体験によって彼女は、天使が自分に告げたことが何を意味しているのか、これから自分にどのようなことが起ろうとしているのかを、それに伴うであろう苦しみをも含めてはっきりと知ることができました。そしてその全てを、味わわなければならないであろう苦しみをも含めて、神が自分に与えて下さっている祝福、幸いとして受け止める信仰を養われたのです。言い替えれば、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と天使に答えた、その自分の言葉の意味するところを改めて受け止め直しつつ、主の言葉が自分の身に成る日のための備えをすることができたのです。自分と同じように神に選ばれ、用いられているエリサベトの深い喜びに触れたことによって、そういう良い備えの時を持つことができたのです。

マリアの賛歌  
 マリアが、エリサベトとの交わりの中で、喜びに満たされて歌ったのが「マリアの賛歌」です。彼女は「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出しました。「おめでとう、喜びなさい。主があなたと共におられる」という天使の語りかけを聞いた彼女が、そのことを信じ受け入れて、「わたしは共にいて下さる神を喜びたたえます」と歌ったのです。また彼女は「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」とも歌いました。天使が、あなたは恵まれた方、幸いな人だ、と告げたことを受けて、彼女自身も、わたしは幸いな者です、心からそう思います、と語ったのです。マリアが、自分に与えられている喜び、祝福、幸いを語り、神をほめたたえているのがこのマリアの賛歌です。その喜び、幸いは、自分にこんな良いことがあった、という個人的な幸福ではありません。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」とあります。マリアは何の変哲もない、特に注目されるべきこともない、どこにでもいる一人の娘でした。「マリア様」などと言われるような聖人ではなかった、つまり神に選ばれ用いられるのに相応しい何かが彼女の中にあったわけでは全くないのです。他の娘たちとの違いは何もなかったマリアに、神が目を留め、選び、救い主イエスの母となさったのです。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」ということを彼女は体験したのです。そのことによって主が示して下さったみ心は、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」ということです。つまり、この世の価値観や人間の下す評価、優劣をすべてひっくり返すような神の救いのみ業が、マリアが生む救い主イエスによって実現するのです。そのようにして、神の民であるイスラエルの救いが実現する、神の救いにあずかる神の民が、救い主イエスのもとに結集されていくのです。マリアが歌っている喜び、幸いはこのように、主なる神がご自分の民を救って下さる、そのみ業のために用いられる喜び、幸いです。マリアはエリサベトと共に過ごすことの中で、神のみ業のために選ばれ、用いられる喜び、幸いを示され、その喜びを語って神をほめたたえるこの信仰の歌を歌うことができたのです。

神は私たちをも選び、用いられる  
 マリアがエリサベトとの出会いと交わりによって示され、彼女と共有したこの喜び、幸いに、私たちも招かれています。今こうして礼拝を共に守っている私たちは誰もが、神によって選ばれて、ここに招かれているのです。神が選び、招いて下さっているのでなければ、私たちがここにいることはありません。そしてこの神の選びは、私たちの中に、選ばれるに相応しい何かがあったから起ったことではありません。マリアがそうであったように私たちも、何の変哲もない、世間において特に注目されるべきこともない(中にはそういう人もいるかもしれませんが)、どこにでもいる普通の人なのです。その私たちに、どういうわけか神が目を留めて下さり、この礼拝へと招き、導いて下さいました。それは神が私たちと共にいて下さり、み業のために私たちを用いようとしておられる、ということです。そのみ業とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した救いのみ業です。神は先ず私たちを、キリストによる罪の赦しにあずからせ、罪の支配から解放して下さることによって、この世の価値観、人間の思いによる優劣の評価、そこに生じる優越感や劣等感からも解放して、神を喜びたたえつつ、幸いな者として神と共に生きる人生を与えようとしておられます。そしてそのことによって神は、私たちの周囲の人々にも、ひいてはこの世界全体に、キリストによる神の救いの恵みが伝えられ、人々が罪を赦され、またこの世のあらゆる捕われから解放されて、喜びをもって神と共に生きる者となるという救いのみ業を行おうとしておられるのです。ザカリアとエリサベトという老夫婦も、マリアという若い娘も、みんな主なる神のこの救いのみ業のために選ばれ、声をかけられ、用いられました。彼らを選び、語りかけ、用いて下さった主なる神が、今私たちを選び、語りかけ、用いようとしておられるのです。  
 私たちが彼らから学ぶべきことは、彼らが、神の語りかけに応え、それを信じて受け入れ、そこに与えられる喜び、幸いを自分自身のこととしてそれにあずかっていったことです。それこそが、私たちのなすべきクリスマスへの備えです。この自分が、選ばれる理由など全くないのに、ただ神の恵みによってこうして礼拝へと導かれ、神からの語りかけを聞いている。神が自分に恵みのみ業を行い、そして自分を用いてそのみ業をさらにおし進めようとしておられる、その神のみ心、選びの恵みを信じて受け入れて、「あなたのみ業を私にも行ってください。あなたがこの私を用いて下さるなら、そのみ心がこの身に成りますように」と祈り求めていくことが、アドベントを歩む私たちの信仰なのです。

幸いな人、私たち  
 そして特に本日は、エリサベトとマリアが、神の選びによって自分たちに与えられている喜び、幸いを共有したことに注目したいと思います。先に神の選びを受け、神の力あるみ業を体験しているエリサベトが、今まさにその選びを神から告げられ、これからそのことを体験していこうとしているマリアに、自分に与えられている幸いを語り伝えたことによって、マリアが幸いな人として生きるための備えをしたのです。そのようにして、神に選ばれ、み業のために用いられる者の喜びが、つまり信仰が、継承されていったのです。教会とはそういう場です。先に選ばれ、信仰を与えられ、キリストによる救いにあずかり、その喜びに生きることにおいて神のみ業のために用いられている者が、新たに選ばれ、導かれた人々に、自分に与えられている恵み、喜びを伝えるのです。神に選ばれ、用いられて信仰者として生きることには苦しみも伴います。マリアが歌ったように、この世の価値観や優劣をひっくり返す神のご支配を信じて、この世とは、世間とは全く違う価値観に生きることになるのですから、理解されなかったり、敵対されたりすることもあります。しかしそのような苦しみをも含めて、その全てが神から与えられている幸いであること、主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、本当に「幸いな人」として生きることができることを、私たちは教会において証しし、伝えていくのです。  
 クリスマスは、私たちが神からの語りかけを聞く時です。「おめでとう、喜びなさい。わたしはあなたのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架と復活による救いの業を行った。その救いにあずからせるために私はあなたを選び、招いた。そしてあなたを用いてこの救いの業をさらに前進させたいと思っている。その私の思いを受け止めて、私と共に歩んで欲しい」。この語りかけに応えて生きる時、私たちは本当に「幸いな人」となることができるのです。

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