「神はわが砦」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第46編1-12節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌:12、361、377
讃美歌377番
「神はわが砦」という題でお話をします。この題は、この後ご一緒に歌う讃美歌377番のタイトルです。讃美歌21を開いて377番を見ていただきたいのですが、讃美歌のタイトルというのは、一節の歌詞の最初の言葉となっています。「神はわが砦 わが強き盾、すべての悩みを 解き放ちたもう」と歌い始めるので、この讃美歌は「神はわが砦」というタイトルになっているのです。以前はこの冒頭の歌詞は「神はわが櫓(やぐら)」でした。その呼び方で覚えておられる方も多いかと思います。この最初の歌詞は、先程朗読された旧約聖書の箇所、詩編第46編の冒頭の言葉から来ています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。砦とは、避けどころ、苦難の時そこに逃れることができ、守ってもらえる場所です。神こそが私の砦、避けどころ、苦しみの時に逃れることができ、守ってくださる方だ、とこの詩編は、そしてこの讃美歌は歌っているのです。この讃美歌の歌詞はそれに続いて、「悪しきものおごりたち、邪(よこしま)な企てもて 戦(いくさ)を挑む」となっています。悪い者たちが邪な企てを立てて戦いを挑んで来る、その戦いにおいて、神こそが私の砦となり、私を守って下さる、と歌っているのです。砦も盾も、戦いをイメージさせる言葉です。しかもこの戦いは、敵が攻めて来る、戦いを挑んで来る、それに対する守りの戦いです。敵に攻められているという危機の中で、神こそが砦、避けどころとなって下さる、と歌っているのです。
宗教改革500年
この讃美歌377番の「神はわが砦」というタイトルの上のところに、「行事暦 宗教改革記念日」とあります。宗教改革記念日に歌われるべき曲、ということです。宗教改革とは、1517年にマルティン・ルターによって始められたキリスト教会の改革運動であり、それによってカトリック教会から分れてプロテスタント教会が生まれ、世界の歴史において中世から近代への転換をもたらしたとされる出来事です。今年はその開始である1517年から丁度500年の記念の年です。そして、宗教改革記念日は10月31日、つまり来週の火曜日です。1517年10月31日に、マルティン・ルターが、今のドイツのヴィッテンベルクという町の教会の扉に、「九十五箇条の提題」を掲げたことから宗教改革が始まったとされています。つまり、今月こそまさに500年前に宗教改革が始まったその月なのです。今日の礼拝はそのことを覚えて守りたいと思っています。「九十五箇条の提題」を掲げたと申しましたが、要するにルターは当時のカトリック教会のあり方を批判して問題提起をしたのです。それが多くの人々の共感を呼び、またたくまに広がり、教会を揺るがす大きな問題となりました。カトリック教会はローマ教皇の権威によってルターにその主張の撤回を求めましたが、ルターはそれに応じなかったので、カトリック教会は1521年の始めに彼に破門を宣言しました。その年の4月、ルターは神聖ローマ帝国の皇帝カール五世によってヴォルムスという所で開かれた議会に召喚され、審問を受けました。教会から破門され、さらに皇帝からも法的な保護を取り上げられたら、それは当時の社会では文字通り命の危険にさらされることを意味していました。法的な保護を取り上げられた人は殺しても犯罪にならないのです。しかしルターはその審問において、「私の良心は神の言葉の虜となっている。私は一言であっても撤回することはできないし、撤回しようとも思わない。なぜならば良心に反することは正しくも安全でもないからだ。私はここに立つことしかできない。神よ、助けたまえ。アーメン」と語ったと伝えられています。たとえそのために命を失わなければならなくなっても、神の言葉、つまり聖書によって示された信仰の良心に反することはできない、と彼は宣言したのです。そのためにルターは皇帝からも断罪される身となりました。しかし彼をかくまってくれる領主がいたので、殺されることなく改革の活動を続けることができたのです。
神はわが砦
マルティン・ルターはこのようにまさに命の危険を顧みずにキリスト教会の改革に踏み出しました。讃美歌377番はそのルターが作詞、作曲した讃美歌です。この讃美歌の歌詞には、命がけで教会の改革のために戦ったルターの信仰がよく現れています。「神はわが砦 わが強き盾、すべての悩みを 解き放ちたもう。悪しきものおごりたち、邪(よこしま)な企てもて 戦(いくさ)を挑む」。ルターの戦いを念頭に置いて読む時、この歌詞はまさに具体的、現実的なことだと分かります。ルターは、聖書によって示された信仰の真理を、良心に従って主張し、そこに立って教会を改革していく戦いにおいて、神こそが砦、避けどころとなって下さり、自分を守り支えて下さることを体験したのです。その戦いにおいて、驕り高ぶり、邪な企てをもって戦を挑んで来ている悪しき者とは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会や、あるいは皇帝を頂点とする政治的な権力のことだろう、と私たちは思います。彼を亡き者にしようとしているそれらの敵から、神が砦となって守って下さる、という信仰がここに歌われているのだろうと思うのです。
本当の敵
しかしそれは実は違います。勿論ルターはカトリック教会や皇帝という目に見える敵との具体的な戦いに苦しみました。しかし、彼が戦っていた本当の敵は彼らではありません。本当の敵は別にいたのです。ルターの宗教改革は、その本当の敵との戦いから始まったのであって、その結果として、カトリック教会や皇帝が敵になったのです。その本当の敵とは何だったのでしょうか。そのことを語っているのが、先程朗読された新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章の31節以下なのです。実はルターよりずっと前に、この本当の敵との戦いを書き記した人がいたのです。それが、この手紙を書いたパウロという人です。ルターは、パウロの戦いに導かれて、パウロが戦った相手と同じ敵と戦ったのです。聖書に記されているパウロの戦いを再発見したのがルターだったのです。そのことによって宗教改革は起ったのです。
敵対し、訴える者
ローマの信徒への手紙第8章31節以下を見ていきたいと思います。31節の後半に「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とあります。つまりパウロも、敵対する者たちのいる中で、「神はわが砦、わが強き盾」だと言っているのです。敵対する者たちがしようとしていることは何でしょうか。33節には「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」とあります。「神に選ばれた者たち」というのは「神がわたしたちの味方である」と同じことを意味しています。つまり神を信じている信仰者たちのことです。敵対する者は、その信仰者たちを「訴える」のです。訴えるというのは要するに、この人は正しくない、こんな罪を犯している、だから救われるには値しない、と主張することです。訴える相手は神です。敵対する者は、私たちのことを神に、「この人は表面は善人を装って取り繕っているが、実は心の中にはこんな悪い思いを持っており、人の見ていないところではこんな罪を犯しています。だから救われるのに相応しい正しい人ではありません。私はこの人の有罪を主張します」と訴えるのです。次の34節には「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」とあります。訴える者は私たちを罪に定めようとしているのです。つまり私たちを訴えて有罪を明らかにしようとしているのです。パウロはそういう敵との戦いをここに記しているのです。
私たちの罪の事実こそ
私たちを訴え、神の前で私たちの罪を指摘し、有罪を決定的にしようとしている敵、それは聖書において、悪魔とかサタンと呼ばれている力です。ただし、ここで悪魔やサタンの姿を思い浮かべても意味はありません。私たちを訴えて神の前で有罪とするのは私たち自身の罪です。悪魔やサタンが何か悪さをしているからではなくて、私たち自身が神に背き、神をないがしろにする罪を犯しているという事実が、神の前で私たちを訴え、罪に定めるのです。私たちは、人に対しては、自分を装い、取り繕うことができます。あるいはいろいろと言い訳をして、自分の罪を認めないこともできます。そのようにして自分自身をも納得させて「自分は正しいんだ」と思い込んで生きていくこともできるでしょう。でも、神の前ではそれはできません。生きておられるまことの神は、私たちの全てをご存知です。私たちがどんなに表面を取り繕っても、その裏に、心の奥底に、どす黒い罪の思いがあることをお見通しなのです。人の目はごまかせても、あるいは自分の心すらも眠り込ませることができたとしても、神の目をごまかし、騙すことはできません。神の前では、私たちは罪人であり、罪に定められるしかない者なのです。この事実こそが、私たちを根底から脅かしている真実の敵なのです。
パウロもルターも
パウロは以前、教会を撲滅しようとして、クリスチャンたちを迫害し、殺していました。だから彼は自分が神に対してとんでもない罪を犯した者であるという事実といつも向き合っていました。それはルターも同じでした。ルターは修道院に入って厳しい修行を積み、神に仕える生活をしていましたが、しかしどんなに修行に励んでも、それによって、自分が神の前で正しい者、救いにあずかることができる者となったという確信を得ることはできませんでした。むしろ自分の罪深さがより深く見えてきて、このような自分に対して神は怒っておられるに違いない、自分は神の前で罪に定められるしかない者だ、という思いが深まるばかりだったのです。お前のような者はもはや罪に定められるしかない、救われる資格はない、という訴え、断罪の下に、パウロもルターも置かれていたのです。
神が義としてくださる
しかしパウロはそのように自分を訴える敵を前にして、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」と語ることができました。神が私の味方であって下さる、自分を義として下さる、と彼は確信していたのです。なぜそんなことが言えるのでしょうか。教会を迫害していた自分に罪があることは明らかです。お前は有罪だという訴える者の主張はその通りであって、それを否定することはできないのです。しかし、それにもかかわらず、神はこの自分を赦して、義として下さっている、自分の味方となって下さっている、と彼が語ることができたのは、32節に語られていることのゆえです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。神が、罪人である私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡して下さった、それは即ち、神の独り子であられる主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったということです。神の御子イエス・キリストが、罪人である自分に代って死んで、罪に対する裁きを代って引き受けて下さったのです。神はこの主イエスの十字架の死によって、罪ある自分を義として下さったのです。さらに34節には「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とあります。主イエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さっただけでなく、父なる神はこの主イエスを復活させて下さったのです。復活して永遠の命を生きておられる主イエスは、天に昇り、父なる神の右に座っていて、今私たちのために執り成しをして下さっています。つまり私たちのことを父である神に、「この人は確かに罪深い者ですけれども、私がこの人の罪を全て背負って十字架にかかって死にました。そのことに免じて、この人をあなたの子として受け入れてください」といつも願って下さっているのです。このキリストによる執り成しのゆえに、訴える者がどんなに自分の罪を指摘し、断罪しようとしても、そしてその訴えは全て真実だったとしても、神は私を義として下さるのだ、という確信をパウロはここで語っているのです。
私たちのために戦って下さるキリスト
ルターが、自分の罪に苦しむ戦いの中で、聖書と格闘することによって再発見したのは、このパウロの確信でした。自分の罪のゆえに、お前には救われる資格などない、神はお前に対して怒っておられるのだ、と攻め立てられる、その戦いにおいて彼も、パウロに導かれて、自分のために、自分の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストを示されたのです。その主イエスによる罪の赦しの恵みによって、自分を訴え、断罪しようとする敵に打ち勝つことができたのです。ルターにとっての本当の敵はこの、自分を訴えて罪に定めようとする力であり、自分には神の救いにあずかる資格はない、という事実だったのです。その敵との戦いにおいて、神が砦、避けどころとなって下さるという信仰があの讃美歌に歌われているのです。377番の二節の歌詞はこうなっています。「打ち勝つ力は、われらには無し。力ある人を 神は立てたもう。その人は主キリスト、万軍の君、われと共に たたかう主なり」。「打ち勝つ力は、われらには無し」という所が大事です。人間の敵ならば、例えばカトリック教会やローマ教皇や皇帝が相手ならば、戦う術はいろいろあるのです。現にルターを支持した領主が彼を守ってくれたので、その力に助けられて彼は改革を続けることができたのです。しかし本当の敵はそれらではありません。自分が救われ得ない罪人であることを明らかにし、滅びに至らせようとしている自分の罪の現実こそがまことの敵です。それに打つ勝つ力は自分の中にはありません。自分の罪は紛れもない事実であり、それを否定することはできないからです。神の前ではどんな言い訳も役に立たないのです。お前には罪があるではないか。どの面下げて救いにあずかることができるのだ、という訴えの前では、一言も発することができずにうなだれるしかない自分なのです。しかしその私のために神は、力ある人を立てて下さった。それが独り子イエス・キリストです。主イエス・キリストが、私を訴え罪に定めようとしている敵と戦って下さり、十字架の死と復活によって勝利して、私を義として下さっている。この主イエス・キリストによって、キリストによってのみ、私は神の救いにあずかることができるのです。二節の歌詞の最後には「われと共に戦う主なり」とありますが、「われと共に」というのは原文の歌詞の訳としては正しくありません。この戦いにおいて、キリストは私たちの援軍として共に戦ってくれるのではないのです。戦う力は私たちにはないのです。一方的に打ち負かされるしかないのが私たちなのです。その私たちのために、私たちに代って、主イエス・キリストが戦って下さり、十字架の苦しみと死によって、私たちの罪の赦しを、救いを、実現して下さったのです。その主イエスを父なる神は復活させて下さり、永遠の命を与えて下さいました。そのキリストが今、父の右に座っていて、私たちのために執り成して下さっているのです。このキリストの十字架と復活によって、罪人である自分が神に赦されて義とされ、神の子とされて永遠の命の希望に生きる者とされる、それがキリストの福音です。この福音をルターは聖書から、特にパウロの信仰から再発見したのです。彼はこのキリストの福音に基づいて当時の教会のあり方を批判し、キリストの福音にしっかり立つ教会を築こうとしました。その結果、カトリック教会から破門され、皇帝から断罪されたのです。しかしその戦いの中でも、主イエス・キリストの父である神が砦となり、避けどころとなって支え、守って下さったのです。
私たちを脅かしている敵
私たちは今、カトリック教会と戦ってはいません。カトリック教会はその後大きく自己変革を遂げて、今は同じキリスト教の尊敬すべき兄弟となっています。しかしパウロが、そしてルターが戦った根本的な敵は、今も私たちを脅かしています。私たちは神に対しても隣人に対しても罪を犯しており、またいろいろな弱さを持っており、その自分の罪と弱さを思い知らされて苦しみます。また私たちはこの社会においていつも人と比較されており、また自分でも人と自分を比べてしまう中で、自分はダメだ、生きている価値がない、と思わされてしまうことがあります。私たちを訴え、罪に定め、「お前には救われる資格はない」と攻め立てる力は今もそのような仕方で私たちを攻撃しているのです。その敵に打ち勝つ力は私たちにはありません。しかしその私たちのために、神はその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちを義として下さっているのです。そのキリストを信じるなら、私たちは罪に定められることはありません。自分はダメだ、生きている価値がない、という思いから解放されて、神に愛されている者として生きることができるのです。
キリストによる神の愛
神がその御子をさえ惜しまず死に渡して下さることによって私たちに救いを与えて下さったのは、神の私たちに対する深い愛の現れです。パウロも、そしてルターも、自分を罪に定め、滅ぼそうとしている神ではなくて、キリストによって自分を愛し、救いを与えて下さる神を見出したのです。この神の愛の中で生きていくことがパウロの、そしてルターの信仰です。35節には、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」とあります。ここにはいろいろな苦しみが並べられています。それらの苦しみも、私たちを脅かす敵です。しかしどのような苦しみも、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです。さらに38、39節には、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。様々なものが並べられている最初に「死も」とあります。キリストによる救いとは、私たちがどんな災いにも遭うことがなくなるということではありません。私たちを脅かす敵は様々な仕方で私たちを攻め立てます。私たちにはそれに打ち勝つ力はありません。その戦いにおいて私たちは、艱難、苦しみを受けるのです。迫害、飢え、裸、危険、剣を体験するのです。そしてそれによって命を奪われ、死んでしまうこともあるのです。先週も、病によって五十九歳で天に召された一人の姉妹の葬儀を行いました。死は、私たちを神の愛から引き離そうとする最大の力です。それに打ち勝つ力は私たちにはありません。しかし、主イエスは既に私たちに代って十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、そして父なる神は死の力に勝利して主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さっているのです。それゆえに私たちは、死を頂点とするいかなる苦しみも、私たちを神の愛から引き離すことはできない、と確信して歩むことができます。「神はわが砦」とはそういうことです。キリストを信じる者は、神がキリストの十字架と復活によって私たちのために戦い、罪と死に勝利して与えて下さった神の愛の砦に守られてこの世を生きることができるのです。
神こそまことの砦
私たちが戦うべき本当の敵は、人間ではありません。しかし私たちはしばしば、人間を敵としてしまいます。人間を敵とするとき、私たちは力に頼ろうとします。敵よりも強い力を持とうとするし、より強い者の仲間になって守ってもらおうとします。人間の力を砦としようとするのです。そのように人間の力によって相手と対抗し、自分を守ろうとする思いの高まりによって、今この世界が戦いの危機に直面しています。そういうこの世の現実を前にして、私たちが本当になすべきことは、パウロやルターと共に、まことの砦であられる神を信じて、神のもとで生きることではないでしょうか。神は独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって示して下さった愛の内に私たちを守り支えて下さいます。この世のいかなる出来事も、権力を持ったいかなる人間も、そして死の力すらも、キリストによる神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。キリストによるこの救いの知らせ、福音は、宗教改革がそうであったように、人を新しく生かします。苦しみや悲しみの中で慰めを与え、先の見えない状況の中で希望をもって忍耐して生きる力を与えます。そしてそれがひいては世界の歴史を変えて行く力となるのです。