「天から与えられる住みか」 教師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第98編1-9節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第5章1-10節
・ 讃美歌:6、327、580
召天者記念礼拝
本日の礼拝は召天者記念礼拝です。お手もとに召天者の名簿をお配りしました。この名簿は基本的に1986年以降に天に召された方々のお名前を記したもので、指路教会の142年の歴史において、教会員として天に召された方々は勿論これ以前にももっとずっと大勢おられます。昨年のこの礼拝以降、13名の方々が新たにこの名簿に加えられました。直近においてはこれら13名の方々のことを、そしてさらにそれ以前に天に召された多くの方々のことを覚えつつ、私たちはこの礼拝を守っているのです。
体を離れて主のもとに住む
天に召された方々のことを覚える、と申しましたが、それは何をすることなのでしょうか。その方々のことを思い出して忘れないようにする、ということでしょうか。でもそれならば、わざわざこうして教会に集まって礼拝をしなくても、それぞれの家で出来ることです。私たちが教会において召天者記念礼拝を行なうのは、本日読まれたコリントの信徒への手紙二の第5章の8節に語られている信仰のゆえなのです。8節に「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とあります。「体を離れて」というのは、この肉体を離れて、ということであり、肉体が死んで、ということです。肉体の死によって私たちは、体を離れて主のもとに住む者となる、という信仰をパウロは語っているのです。その主とは、復活して天に、つまり父なる神様のもとに昇られた主イエス・キリストです。私たちが死ぬことを「召天」、天に召される、と言うのは、主イエスのもとに召され、主イエスのもとに住む者となる、という意味においてなのです。ただしこの「住む」という訳はあまり適切ではないと思います。「住む」という言葉にはどうしても「ある場所に」というイメージが伴います。しかしパウロがここで見つめているのは、死んだらどこに住むことになるのか、ということではなくて、死んだら体を離れて主イエスと共にいる者となる、ということです。そして自分は体をもってこの世を生きるよりもむしろそのことを望んでいる、と言っているのです。その前提には6節があります。6節には「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とあります。体を住みかとしている限り、つまり肉体をもってこの世を生きている限り、主から離れている、しかし死んで体を離れることによって主と共にいることができる、だからそのことをむしろ望んでいるのです。
主と共にいる者とされた召天者
「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」とはどういうことでしょうか。私たちは、肉体をもってこの世を生きる中でも、主イエス・キリストと出会い、信仰において主イエスと共に歩むことができます。しかしこの世の歩みにおいては主イエスをこの目で見たり、手で触れることはできません。自分が主イエスと共に生きていることは信じるしかないことです。誰かに「イエスが共にいる証拠を見せろ」と言われてもその人を納得させることができる証拠を示すことは出来ないのです。このようにこの世を肉体をもって生きている限り、自分が主イエスと共にあることは目に見える現実ではありません。それゆえに私たちの信仰の歩みは時として苦しみや悲しみに、あるいは疑いに陥るのです。「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」というのはそういうことです。しかし死んで肉体を離れると、主イエスがご自分のもとに私たちを迎えて下さるのです。私たちを、確かに主イエスと共にいる者として下さるのです。主イエスは十字架の上で、共に処刑されている人の一人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対して、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。主イエスはここで、「あなたも私と一緒に天国に行く」とおっしゃったのではありません。「あなたは死んで、私と共にいる者となる」ということがこのお言葉のポイントです。主イエスを信じ、主イエスに依り頼みつつ死んだ人を、主イエスはご自分と一緒にいる者として下さるのです。死んで体を離れて主と共にある者となるとは、この主のお言葉が私たちにおいて実現することです。パウロはそのことを、体を住みかとして主から離れている地上の生活よりも望ましいと言っているのです。私たちが今日覚えている召天者の方々は、パウロが望んでいるこの幸いを与えられた人々です。この方々は体を離れて主イエスによって迎えられ、主イエスと共にいる者とされたのです。
私たちが召天者記念礼拝を行なう理由がそこにあります。私たちは礼拝において、父なる神とその独り子主イエス・キリストを礼拝します。そこに、主イエスと共にいる者とされている召天者の方々と私たちのつながりがあるのです。礼拝において主イエス・キリストと共に生きる者とされることによって、その主イエスのもとに召され、主イエスと共にいる者とされている召天者の方々とも共にあることができるのです。私たちの主の日の礼拝は、召天者の方々と私たちを結びつける絆です。頌栄の29番は「天のみ民も、地にある者も、父、子、聖霊なる神をたたえよ、とこしえまでも」と歌います。まさに今私たちは地にある者として、主イエスと共に天にいる召天者の方々と声を合わせて、主なる神を礼拝し、ほめたたえているのです。ですから礼拝こそ、召天者の方々のことを覚えるのに最も相応しい場なのです。
地上の幕屋と永遠の住みか
このように私たちは、信仰をもって死んだ方々のことを、天に召され、主イエスと共にいる者とされている方々として覚えているわけですが、本日の箇所が語っている大事なことは、死んで主イエスと共にいる者とされることが私たちの救いの完成ではない、ということです。最初の1節にこうあります。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。「わたしたちの地上の住みかである幕屋」これが肉体のことです。「幕屋」というのはテントのことで、永続的な建物とは違う、簡単に取り壊して移動することができる住みかです。ここでは、肉体は永続するものではなく、滅びて行くもの、死んでいくものだ、ということが見つめられています。幕屋である肉体は死んで滅びていく、しかし、私たちには神によって建物が備えられているのです。この「建物」は幕屋とは違う、しっかりとした永続的な家のことです。肉体は幕屋のように滅びていくが、神は私たちのために、「永遠の住みか」を用意して下さっているのです。
天から与えられる住みかを上に着る
この永遠の住みかは、地上の住みかである幕屋つまり肉体が死んで滅びることによって与えられる、とこの1節は語っているように思われます。しかしそのことを、地上の肉体が死ぬと神が天国に迎えて下さって、そこを永遠の住みかとして下さる、というふうに捉えてしまうのは間違いです。それだと、肉体が死んで滅びることによって、魂が天国に行ってそこで永遠に生きる、という話になります。滅びていくものである肉体から解放されることによって魂が永遠の命を得る、それが救いだということになるのです。しかしここでパウロが言っているのはそういうことではありません。確かに、地上の住みかである肉体を離れることによる救いが見つめられています。それをパウロは地上の住みかを脱ぐ、脱ぎ捨てる、と表現しています。しかし2節で彼が語っているのは、地上の住みかを脱ぎ捨てることを救いとして求めているのではなくて、「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」いるのだということです。地上の住みかである肉体を脱ぐことが救いなのではなくて、神が与えて下さる住みかを着ることが救いなのです。4節の終りにも「天から与えられる住みかを上に着たいからです」とあります。肉体を脱ぎ捨てることが救いなのではなくて、神が与えて下さる住みかを着ることが救いなのです。1節に、「地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている」と語られていたのはこのことです。地上を生きているこの肉体は死んで滅びていくけれども、神がそれに代る、新しい、幕屋のように滅びていくものではない、永遠の建物を与えて下さる、それが救いなのです。それは、魂が肉体から解放されて永遠の命を得るということではありません。それだったら肉体を脱ぎ捨てることで救いが実現することになり、神が与えて下さる新しい住みかを着ることがなくなってしまうのです。
復活と永遠の命
神が与えて下さる新しい住みかを着るとはどういうことなのでしょうか。それは、復活して永遠の命を生きる新しい体を与えられる、ということです。幕屋のように滅びていく地上の体に代って、神が永続する建物を、もはや滅びることのない体を与えて下さるのです。地上の体を脱ぎ捨てて裸になることが救いなのではなくて、神が与えて下さるこの新しい体を着ることが救いなのです。神は私たち人間を、魂だけではなく、体をもって生きる者として造って下さいました。救いもまた、魂だけではなく、体を含めて与えられるのです。私たちが、魂と体とを持った者として永遠の命を生きる者となることこそが、神による救いの完成なのです。そのためには、死んで滅びていく体が復活して、もはや死ぬことのない、滅びることのない体が与えられることが必要です。救いの完成は、体の復活において実現するのです。そのことがこの手紙の4章14節にこのように語られていました。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。私たちは遅かれ早かれ肉体の死を迎え、地上の住みかである体を脱ぐことになります。しかし主イエスを死の力から解放して復活させ、永遠の命を生きる体をお与えになった父なる神が、私たちをも復活させて、新しい体を与えて下さり、御前に立たせて下さる時が将来来るのです。それこそが私たちの救いの完成です。この私たちの復活が起るのは、この世の終りに、主イエスがもう一度来られる時です。復活して天に昇られた主イエスは、今は父なる神のもとにおられますが、いつか、そこからもう一度おいでになる、と聖書は告げています。その主イエスの再臨によって、この世は終り、また私たちの救いが完成するのです。私たちが天にある永遠の住みかを与えられ、魂と体とを持った者として永遠の命を生きる者とされるのは、将来のこと、この世の終りに実現することなのです。
キリストの裁きの座の前に立つ
この世の終りにもう一度来られる主イエス・キリストによって、全ての者の裁きが行なわれます。そのことを語っているのが、本日の箇所の最後の10節です。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行なったことに応じて、報いを受けねばならないからです」とあります。これが、主イエスがもう一度来られた時になされるいわゆる「最後の審判」です。主イエス・キリストがもう一度来られる時に、私たちは復活して、キリストの裁きを受けるのです。その裁きにおいて、善であれ悪であれ、体を住みかとしていた時、つまり生きていた時の行いに応じて報いを受けなければならないとしたら、復活しても結局裁かれて滅ぼされてしまうかもしれないではないか、と思います。その通りです。私たちは、自分が神によって救われることを当たり前だと思ってはなりません。神はこの世界と私たちを造り、導き、そしてお裁きになる方です。お裁きになるとは、最終的に私たちの救いと滅びをお決めになる、ということです。私たちはそういう神の裁きの前に立たなければならないのです。そのことをちゃんと意識して、神に対する恐れをもって生きなければならないのです。そのことをこの10節は教えています。神を恐れる、という緊張感を失った信仰はもはや信仰ではありません。神を自分の欲望を満たすための道具として利用しているだけの身勝手な思いになってしまうのです。だから私たちは、この世の終りにキリストの裁きの座の前に立つことを恐れをもって意識していなければならないのです。
キリストによる救いの確信
しかしそこで同時に見つめるべきことは、その裁きをなさる方は主イエス・キリストなのだ、ということです。主イエス・キリストは、神の独り子であられるのに、私たちのために人間となってこの世に来て下さり、そして私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さった方です。つまり主イエスはご自分の命を犠牲にして、私たちの罪を赦し、私たちが神の前に立つことが出来るようにして下さった方なのです。父なる神は、主イエスを復活させて下さることによって、その十字架の死が私たちの罪の赦しのための救いの出来事であったことを示して下さいました。また、主イエスの復活は、主イエスと結び合わされてその救いにあずかる者を、父なる神が主イエスと同じように復活させ、永遠の命を生きる者として下さる、その約束、保障でもあります。このように主イエス・キリストは、私たち罪人のために十字架と復活による救いを成し遂げて下さった方なのです。その主イエスによる裁きの前に私たちは立つのです。私たちの行いに応じて裁きがなされるなら、私たちに救いの可能性はありません。裁かれ、永遠の滅びを宣告されるしかないのです。しかし私たちをお裁きになる主イエスは、ご自分の十字架の死と復活のゆえに、私たちが既に罪を赦されている者であることを宣言し、永遠の命を与えて下さるのです。この主イエスによる裁きにおいて、私たちの救いの完成が与えられるのです。主イエスを信じ、主イエスと結び合わされて生きている私たちも、主イエスと結ばれた者として死に、今主イエスと共にいる者とされている召天者の方々も、そのことを確信することができるのです。
救いの完成を希望をもって待ち望む
つまり今この礼拝を守っている私たちにおいても、既に体を離れて主と共にいる者とされた召天者の方々においても、救いの完成は将来のことであり、主イエスがもう一度来られてこの世が終わる時にこそ与えられるのです。死んで体を離れて主イエスと共にいる者とされることが救いの完成ではない、と申しましたのはそういうことです。そして勿論それは先程も述べたように、死んだら魂が天国に行ってそこで永遠に生きる、ということでもありません。召天者の方々は、死んで肉体を離れて主イエスと共にいる者とされ、そして今、主イエスを復活させた父なる神が、主イエスと共に自分たちをも復活させて下さり、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さる、その救いの完成を、希望をもって待ち望んでおられるのです。それは今肉体をもってこの世を生きている私たちも同じです。私たちは、2節にあるように「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」。4節にも「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが」とあります。目に見える事柄においては主から離れているこの世の生活において、私たちには様々な苦しみや悲しみがあります。負わなければならない重荷に喘ぎ苦しみ、押しつぶされそうになります。さらに、愛する者の地上の住みかである幕屋が死によって滅びてしまう、その別れの悲しみがあります。また自分自身の幕屋が次第に古びていき、ついには滅びてしまうことの悲しみがあり恐れがあります。私たちはそのような苦しみや悲しみ、恐れの中で、そこからの救いを願い求めて生きているのです。その救いは、地上の住みかであるこの幕屋を脱ぎ捨てて、魂だけになって天国に行くことによって得られるのではありません。神が備えて下さり、天から与えて下さる永遠の住みかを着ることによって、つまりこの世の終りに主が私たちをも復活させて下さり、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さる、その時にこそ実現するのです。4節の後半でパウロはそのことを、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」と表現しています。死ぬはずのものであるこの体を脱ぎ捨てるのではなくて、その体を含めた私たちの全体が、命に飲み込まれるのです。その命とは勿論、主イエス・キリストの復活によって父なる神が私たちにも約束して下さっている命です。この命が、魂と体をもって生きている私たちを飲み込んで覆い尽くし、私たちを支配し虜にしている罪と死とを滅ぼして、もはや死ぬことのない、滅びることのない、永遠の命を生きる者として下さるのです。主イエスの十字架の死と復活によって神はその救いを約束して下さったのです。私たちは地上の幕屋にあって苦しみもだえつつ、この救いの完成を希望をもって待ち望んでいるのです。
主に喜ばれる者でありたい
先に天に召された召天者の方々は、地上の幕屋において生きることに伴う苦しみ悲しみ恐れからは既に解放され、主イエスと共にいる者とされています。そして主と共にある喜び、平安の中で、世の終わりに父なる神が与えて下さる復活と永遠の命を待ち望んでいるのです。将来与えられる救いの完成を待ち望んでいる、という点では、召天者の方々も、なおしばらく地上を生きていく私たちも同じです。パウロは9節でこう言っています。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。体を住みかとしてなお地上を生きていく私たちも、体を離れて主と共にいる者とされている召天者の方々も、主による救いの完成を待ち望んでいる者として願うことは一つです。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。主イエスに喜ばれる者とは、立派な善い行いに励んでいる者と言うよりも、主イエスの十字架と復活によって罪人である自分が救われることを信じている者、主イエスを信頼している者です。つまり世の終わりにもう一度来られるキリストによってなされる裁きを正しく恐れつつも、その裁きにおいて自分が主イエスの十字架と復活によって罪を赦された者として永遠の命を与えられることを信じて待ち望んでいる者です。召天者の方々は既にその「主に喜ばれる者」とされました。その人々の天における礼拝に心を合わせて、私たちも地上で主を礼拝し、主による救いに感謝し、主がもう一度来られることによる救いの完成を待ち望み、主に喜ばれる者として生きていく、そのためにこの召天者記念礼拝はあるのです。