クリスマス讃美夕礼拝

み心にかなう人に平和

「み心にかなう人に平和」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第57章14-19節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章1-21節  
・ 讃美歌:260、262、267、259、261

時代の大きな変化の中で、平和を祈り願う
 皆さん、指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。クリスマスの時期になりますと私共は教会の正面に幕を掲げています。そこには「クリスマスに平和の祈りを」と書かれています。これを掲げ始めたのは2006年でした。来年で十年となります。またこの幕を掲げ始めたことに合わせて、この讃美夕礼拝で、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」をご一緒に祈ることを始めました。クリスマスに、特にこの讃美夕礼拝において、皆さんとご一緒に平和を祈り求めつつ歩んで来たのです。今年もその祈りを、さらに深刻な状況の中で繰り返さなければならないことを感じています。
 20世紀の終わりに私たちは、あのベルリンの壁の崩壊から、あれよあれよという間に、ソビエト連邦の消滅に到り、東西冷戦の終結を体験しました。冷戦が終わってこれで世界がより平和になるかと思ったら、21世紀はあの9・11の同時多発テロをもって始まり、以来宣戦布告のない泥沼の戦いが続いています。その戦いの中から、いわゆる国民国家とは全く違う形態の、インターネットでテロ行為を呼びかけ、それに参加することによってどこにいても仲間となっていくような組織が生まれ育ってきました。そのいわゆる「イスラム国」によって今年の春には二人の日本人が無惨に殺害されるという、私たちにとってまことに衝撃的な出来事がありました。フランスにおいても新たに同時多発テロ事件が起き、世界各地で多くの人々がテロの犠牲になりました。内戦状態にあるシリアからは大量の難民がヨーロッパ諸国に押し寄せ、その受け入れを巡って各国の国論が分断されています。その中でイスラム教徒たちが偏見と差別を受けつつあることを私たちは覚えなければなりません。もともとこのような状況を招いたのはイスラム教徒たちのせいではなくて、19世紀以降ヨーロッパの帝国主義国が中東を植民地化し、それぞれの利害によって民族も宗教も無視して線引きをして国家を築かせたことの結果なのです。それらの国が手を引いた後もその人為的な国境だけは残りましたが、欧米や日本のような国民国家は築かれませんでした。そこに、冷戦終結以降、弱肉強食のグローバル経済の波が押し寄せたために、世界の各地で生じている貧富の格差が非常に激しい形であの地において起っており、そこから、絶望的なテロ行為に走る人々が生まれてきているのだと捉えるべきでしょう。
 アメリカを始めとする軍事大国は、テロ組織を壊滅すると言って戦いを続いていますが、この戦争は、太平洋戦争のように日本が無条件降伏をすれば終わるというようなものではありません。どこかの国家と戦争しているのではなくて、いわば「人々」と戦っているのですから、降伏する主体などないわけで、戦いはいつまでも続いていくのです。そしてテロ行為を呼びかけている人々、組織にとっては、攻撃されればされるほど、テロによる反撃を訴える正当性が高まるわけで、その呼びかけに答えて各地でテロを行なう集団が次々に生まれていくのです。そのような世界の情勢の中で今年日本の政府は、アメリカの軍事行動により参加しやすくする方向へと国の舵を大きく切る法律を、多くの国民の理解が得られていない中で、強行に成立させました。平和を守るため、と政府は説明していますが、これがアメリカの戦争に協力するための法整備であることは誰もが感じているところです。自衛隊も、これまでは専守防衛の、日本の国を守るためのみの軍事力だったのが、これからは、世界のどこかへ出て行って戦争をすることになるかもしれない、私たちは今そういう時代の大きな変化に直面しているのです。
 このように世界中に対立があり、戦いがあり、しかもそれがますます深まって多くの人が傷つき命を失っており、平和だ、安全だと思っていた日本もどんどんそこに巻き込まれていき、いつどこで爆弾が爆発するか分からないような状況になりつつある今、私たちはますます真剣に、熱心に、平和を祈り願わずにはおれません。しかし同時に感じるのは、私たちがいくら祈っても、あるいは自分の出来る範囲で声をあげ、行動しても、願っている平和はいっこうに実現しない、それどころかますます遠のいて行くばかりだ、ということです。平和を求める私たちの祈りを踏みにじるような様々な力がこの世には働いていることを感じ、その力の前に無力さ、虚しさを覚えることがあるのではないでしょうか。

イエス・キリストの悲惨な誕生
 しかし今宵私たちは、クリスマスを共に喜び祝うためにここに集っています。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を喜び祝うキリスト教会の祝日です。聖書が語るクリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生の物語は、平和を祈り願う私たちを励まし、支え、勇気を与えてくれます。本日はルカによる福音書第2章から、そのことをご一緒に確認したいと思うのです。
 ルカによる福音書第2章が語るイエス・キリスト誕生の物語の前半には、イエスがローマ皇帝アウグストゥスの時代に生まれたことが語られています。このアウグストゥスはローマ帝国の初代の皇帝とされており、彼の下でローマは当時の地中海世界全体の支配を確固たるものとして、いわゆる「ローマの平和」が実現したのです。そういう意味でこのアウグストゥスは平和をもたらした人であると言えるわけですが、しかしここには、この皇帝が出した住民登録の勅令によって、ガリラヤのナザレに住むヨセフという貧しい男が、身ごもっていたいいなずけのマリアを連れてユダヤのベツレヘムまで、100キロ以上の道程を旅しなければならず、その旅先でマリアは出産をしなければならなかったことが語られています。アウグストゥスが強大な軍事力によってもたらした平和の本質がそこに描き出されているのです。力によってもたらされる平和は、力をもって人々を支配し、押さえつけるものでもあり、弱い立場の人々はその支配によってつらい思いを強いられるのです。イエスの母マリアはそのために旅先のベツレヘムで初めての出産をしなければなりませんでした。7節には「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。彼らは宿屋に泊まることができず、生まれたばかりの赤ん坊を飼い葉桶に寝かせたとありますから、馬小屋、家畜小屋で出産をしたのでしょう。お産をする場所としては最悪です。権力者の思惑に翻弄される弱く貧しい夫婦に、このような悲惨な仕方で一人の赤ん坊が誕生した、それがクリスマスの出来事だったのです。今日の世界に当てはめるなら、シリアから逃れてきた難民のキャンプの中で出産がなされた、というようなことです。7節までに語られているのはそういう悲惨な出来事なのです。

天使の告げた喜び
 ところが8節以下には、それとは正反対の、喜びに満ちた出来事が語られています。ベツレヘムの近くで野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。ダビデの町とはベツレヘムのことです。そこであなたがたのための救い主が生まれた、それは民全体に与えられる大きな喜びだと天使は告げました。さらに天使は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそがその救い主、メシアである、と語りました。この天使の言葉によって、救い主誕生の喜ばしい知らせは、マリアが馬小屋でイエスを産んだという悲惨な出来事とつながるのです。マリアが旅先の馬小屋で出産をし、乳飲み子を飼い葉桶に寝かせたというつらい悲しい出来事こそ、神が救い主メシアをこの世に遣わして下さったという、民全体に与えられる大きな喜びの出来事なのだと天使は、つまり神ご自身が、告げたのです。

天使の賛美
 それに続いて天の大軍が現れて神を賛美したと語られています。今宵この会堂にも神を賛美する歌声が響き渡っていますが、それにも優る天使の大軍による賛美が天地に響き渡ったのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。この天使の賛美は、天においては神に栄光が、地においては人々に平和があるようにと歌っています。救い主であるイエス・キリストの誕生によって、天には神の栄光が、地には人々の平和がもたらされるのです。クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは、神の栄光を現す方であると共に、地に平和をもたらして下さる方でもある、そのことを神ご自身が、み使いたちの賛美の歌によって告げて下さったのです。天使たちが歌ったこの賛美の歌が、地上で平和を祈り願っている私たちを励まし、支えます。私たちはこの天使の賛美の歌によって勇気と力を与えられて、独り子イエス・キリストを遣わして下さった神がこの世に平和をもたらして下さることを信じて、今年のクリスマスも、争いが絶えず多くの人々が傷ついているこの世界の平和を祈り求めていくのです。

み心にかなう人とは
 このようにこの天使の賛美の歌は、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストによって地に平和がもたらされることを歌っています。そこに私たちの希望があり、支えがあるわけですが、しかしその平和は「御心に適う人にあれ」と歌われています。地の平和は、み心にかなう人にこそ与えられるのです。これは、神のみ心にかなう人々には平和が与えられるが、み心にかなわない人には平和は来ない、つまり私たちの歩みや生き方が、神のみ心にかなっているかどうかによって、平和が与えられるか、そうでないかが決る、というふうにも読めます。そうすると私たちは、自分たちの歩みや生き方がみ心にかなっているかどうか、平和に相応しいものとなっているかどうかをよく考えなければなりません。そのように自分たちのあり方を振返り吟味していくことは大切なことだと思います。特に今日のように、憎しみが憎しみを生み、報復が新たなテロを生んでいくような悪循環の中にある時に、どのように歩むことが平和につながる道なのかを私たちは真剣に考えなければなりません。日本の安全保障問題においても、アメリカの軍事行動に協力できるようにすることが本当に国の安全を守ることになるのか、よく吟味しなければなりません。いつまでも東西冷戦の時代の、抑止力によって平和を守るという論理にしがみついているべき時代ではないでしょう。平和を築いていくのに本当に相応しい、神のみ心に適うあり方を追い求めていく必要があります。その意味で、戦争放棄を謳っている日本国憲法第9条はその存在意義を深めていると言えると思います。

私たちは皆、み心にかなう人
 そのように、平和を築いていくのに相応しい「み心にかなう人」であろうとする努力は大切です。しかしこの「地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美は、み心にかなう生き方をしている人たちには平和があるが、そうでない人には平和は与えられない、ということを語っているのではないのです。「み心にかなう人」という言葉の意味については様々な議論があり、訳し方も難しいのですが、根本的に言えるだろうことは、これは「神が好意をもって下さっている人」、という意味だということです。それは言い換えれば「神が愛して下さっている人」ということです。神が愛して下さっているのは、特別に清く正しい人ではありません。神は、私たち全ての者を愛して下さっているのです。私たちがどのような者であっても、どのような問題ある生き方をしていても、どのような罪人であっても、です。どうしてそのように言い切ることが出来るのか。それは、神が独り子のイエス・キリストをこの世に、私たちと同じ人間として生まれさせて下さったからです。イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことは、神の独り子が私たちの貧しさや悲惨さ、苦しみ悲しみの極みにまで降りて来て下さり、その悲惨さや苦しみ悲しみを共に味わって下さるためだったのです。またそのように生れて下さったキリストは、私たち人間の全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。本来神の前に出ることのできない罪人であり、滅ぼされるしかない私たちの救いのために、神の子イエス・キリストが身代わりとなって死んで下さって、私たちの罪を全て赦し、私たちが神に愛されている子として新しく生きることができるようにして下さったのです。神はそのように、貧しさや苦しみや悲しみのただ中にある私たちを、またどうしようもない罪に陥っている私たちを、無条件で愛して下さり、私たちの救いのために独り子イエス・キリストをこの世に生まれさせて下さったのです。イエス・キリストは、罪人であり、弱さをかかえており、苦しみ悲しみに捕えられている私たちの救い主としてこの世に生まれて下さったのです。だから天使は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語ったのです。天地を造り、私たち一人一人に命を与えて下さった神は、ある特別な生き方をしている人々だけでなく、様々な苦しみや悲しみや罪を負っている私たち全ての者に好意を持って下さり、愛して下さっているのです。その愛のゆえに神は独り子イエス・キリストをこの世に生まれさせて下さったのです。その神の愛を喜び感謝する時がクリスマスです。神は、今この讃美夕礼拝に集っている私たちを、一人の例外もなく、心から愛して下さっており、私たちのために独り子イエス・キリストの命を与えて下さっているのです。つまり私たちの皆が、一人残らず、「み心にかなう人」なのです。「地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美は、神が独り子イエス・キリストによって私たち全ての者に平和を与えて下さることを告げているのです。

天使の賛美に励まされて
 それゆえにこの天使の賛美の歌は、平和を祈り願う私たちの確固たる支え、土台でありまた希望です。この世には、支配者たちの思惑によって人々が翻弄され、またその思惑どうしが衝突して戦いが起り、平和が失われる中で弱い者や貧しい者が苦しめられているという現実があります。ベツレヘムの馬小屋での主イエスの誕生はそのようなこの世の悲惨な現実を代表しています。しかしその夜、天からの光が羊飼いたちを照らし、全ての人々のための救い主の誕生が告げられたのです。この救い主イエス・キリストは、貧しく弱い者として生まれて下さり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、天においては神の栄光を、地においては人々の平和をもたらして下さる方です。私たちはこの讃美夕礼拝において、そのことを告げる神の言葉を聞き、そして天使の賛美に声を合わせて神を賛美します。そして「地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美によって力づけられ、励まされて、み心にかなう人、神に愛されている者として、争いや戦いの絶えないこの世の現実へと遣わされていくのです。この世の現実は暗く、憎しみの連鎖が私たちをも捕え巻き込もうとしていますが、私たちのためにこの世に生まれて下さった救い主イエス・キリストと共に歩むことによって、神が私たちを平和のための器として用いて下さることを祈り求めていきたいのです。そのために今年も皆さんとご一緒に、アッシジのフランチェスコの 「平和の祈り」を祈りたいと思います。

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