主日礼拝

目から涙をぬぐいなさい

「目から涙をぬぐいなさい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章15-17節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章13-23節
・ 讃美歌:54、457

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東の国の学者たちの来訪
マタイによる福音書を連続して読みながらみ言葉に聞いておりまして、先週と今週は第2章、主イエス・キリストの誕生の話、つまりクリスマスの物語です。先週読んだ11節までのところには、東の国の占星術の学者たちが、ユダヤ人の王の誕生を告げる星を見て、その王を拝むためにはるばる旅をしてきたこと、そして幼な子主イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を献げたことが語られていました。子どもたちによる降誕劇、クリスマスページェントで必ず演じられる場面です。主イエスの誕生の物語はルカによる福音書にもあって、そこには、人口調査のために強いられた旅先のベツレヘムで主イエスが生まれ、飼い葉桶に寝かされたことが語られています。そこから主イエスは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。またルカは羊飼いたちに天使が表れて救い主の誕生を告げ、彼らが幼な子主イエスに会いに来たことも語っています。これらのことによってルカは、主イエスが貧しさの中で生まれたこと、救い主の誕生を知らされたのも、人々に蔑まれていた羊飼いたちだったことを語っているのです。それに対してマタイは、東の国の学者たちが主イエスを拝むためにやって来て、黄金、乳香、没薬の宝を献げたことを語ることによって、主イエスの誕生の物語に、幻想的でメルヘンチックな、そしてちょっとゴージャスな雰囲気をもたらしています。ルカとマタイの話を合わせることによって、主イエスの誕生を描くページェントは豊かなものになっていると言えます。どちらか片方のみだったら、あまり面白くないものになってしまうでしょう。このようにマタイが語っている学者たちの来訪は、クリスマスの物語に幻想的でほのぼのとした明るさをもたらしているわけですが、しかしこのことは、まことに暗く悲惨な出来事をもたらしたのです。そのことが、本日の箇所、13節以下に記されています。
東の国の学者たちは、ユダヤ人の王の都であるエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。しかしその時エルサレムにいた王ヘロデのもとに子どもが生まれたわけではありませんでした。ヘロデとは違う、新しい別の王、ユダヤ人のまことの王の誕生がこの学者たちによって告げられたのです。ヘロデはユダヤ人の祭司長や律法学者たちを集め、その王はベツレヘムに生まれると聖書に書かれていることを確かめると、学者たちをベツレヘムへと送り出し、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言いました。しかしその魂胆は、その子を見つけ出して殺してしまおうということでした。学者たちはベツレヘムへと出発しましたが、彼らを主イエスのもとに導いたのは、東方で見たあの星でした。彼らは星に導かれて、つまり主なる神さまの導きによって、幼な子主イエスと出会い、喜びにあふれて礼拝し、献げものをしたのです。そして彼らは夢で「ヘロデのところに帰るな」という神からのお告げを受けたので、ヘロデに報告することなく自分の国へと帰って行った、そこまでが先週の箇所に語られていたことです。

ヨセフとその家族が受けた苦しみ
本日の13節には、主の天使が夢でヨセフに現れたことが語られています。マタイ福音書において、天使が主のみ言葉を告げるのは必ずヨセフです。ルカ福音書は母マリアにスポットを当てて語っていますが、マタイ福音書においては、ヨセフが主のみ言葉に従って歩むことによって、主イエスの誕生の物語が進んでいくのです。13節でヨセフに告げられたのは、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」ということでした。ヘロデの魔の手から幼な子主イエスと母マリアを守るために、家族を連れてエジプトに避難するようにと主はヨセフに命じたのです。これは要するに、難民となって他国に逃げる、ということです。ロシアのウクライナ侵略によって、多くのウクライナの人々が難民となり、国を離れています。日本に避難して来ている人たちもいます。着のみ着のままで他国に逃れなければならなかった人々の苦しみ悲しみに私たちは心を痛めていますが、ヨセフの家族もまさにそういう苦しみを味わったのです。
本日の箇所の19節以下には、主イエスの命を狙っていたヘロデが死んだ後、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、ヘロデが死んだのでイスラエルの地に帰るようにと告げたとあります。ヨセフはこのたびも、主のお告げの言葉に従って、幼な子主イエスとマリアを連れてイスラエルの地に帰って来たのです。しかし、ヘロデの子であるアルケラオがユダヤを支配していたので、そこに住むことには恐れを覚えました。すると再び主のお告げがあって、ガリラヤ地方のナザレに住むことになりました。こうして、主イエスはガリラヤのナザレで育ち、後に「ナザレのイエス」と呼ばれるようになったのです。しかしこのことは、難民だった彼らがようやくイスラエルの地に戻ることができたけれども、なお身の危険を感じざるを得なかった、ということを意味しています。生まれたばかりの主イエスはこのように命の危険にさらされたのです。ヨセフは、天使に示された主なる神のみ言葉に従ってマリアを妻として迎え入れ、マリアが自分との関係によってではなく産んだ子にイエスと名付けて自分の子として受け入れ、マリアと主イエスを守るために、次から次へと襲いかかってくるこのような苦労、心配を負ったのです。マタイ福音書はこのヨセフの主なる神への献身を語っています。先にも申しましたように、このヨセフの信仰と献身とによって、主イエスはダビデ王の子孫として生まれるメシア、救い主として生きることができたのです。救い主イエスの誕生において、マリアの夫ヨセフの果たした役割はこのようにまことに大きいことをマタイ福音書は語っているのです。

幼児虐殺
ヨセフたちがこのような身の危険の中に置かれ、苦労を負うことになったのは、あの東の国の学者たちが、ユダヤ人の王の誕生の知らせをもたらしたからです。幻想的でほのぼのとした明るさをもたらしている彼らの来訪が、大きな苦しみや悲しみを生じさせたのです。ヨセフとその家族が苦しみを受けただけではありません。あの学者たちの来訪が、さらに大きな悲惨な出来事をもたらしたことが本日の箇所の16節以下に語られているのです。16節に「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあります。学者たちは、新たに生まれた王のことを詳しく調べてヘロデに報告するように言われていましたが、ヘロデのところに帰るなとのお告げを受けたので、報告せずに帰ってしまいました。そのためにヘロデは、王として生まれた幼な子を特定することができなくなった。そのことに怒り狂ったヘロデは、ならば該当する地域と年齢の男の子を皆殺しにしてしまえ、と命じたのです。こうして、ベツレヘム周辺にいた幼い男の子たちの虐殺が起こりました。ある日突然兵士たちがやって来て、幼い男の子たちを殺して回ったのです。とんでもないことですが、同じようなことがウクライナにおいて起っていることを私たちは知らされています。ですからこの話を、二千年前はこんな野蛮な時代だった、で済ますことはできません。こういうことは今現在も世界のあちこちで起こっているし、私たちの国も、先の戦争において同じようなことをしたのです。このような悲惨な出来事が、東の国の学者たちの来訪によって起った、と聖書は語っているのです。

自分が王であり続けようとするヘロデ
それは勿論、彼ら学者たちの責任ではありません。彼らは、ユダヤ人の王の誕生を知り、その王を拝みに来ただけです。しかしそのことが、ユダヤの王だったヘロデの心に、自分の王位を奪おうとする者が現れた、という不安をもたらしたのです。先週も申しましたように、ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。ローマ帝国の権力の後ろ盾によって王としての地位を守っているのです。つまり彼は自分がユダヤ人のまことの王とは言えないことを意識しているのです。だから、ユダヤ人のまことの王の誕生の知らせを聞いた時に、いよいよ自分の王位を奪おうとする者が現れたと感じて不安と焦りを覚えたのです。そして彼はその新しいまことの王を、まだ子どものうちに抹殺してしまおうとしたのです。ヨセフが家族を連れてエジプトに逃げなければならなくなったのも、ベツレヘム周辺の幼児が虐殺されたのも、このヘロデの、自分の王位を守ろうとする思いによってでした。自分が王であり続けようとする人間の思いがいかに悲惨な出来事を生むか、ということをこの話は示しているのです。

自分が王であろうとしている私たち
そしてそれは、決してこのヘロデだけの問題ではない、ということを先週も申しました。ユダヤ人の王の誕生の知らせを聞いて不安を覚えたのは、ヘロデだけではなかったのです。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と3節にありました。ヘロデだけでなく、エルサレムの人々も、まことの王の誕生に不安を覚えたのです。まことの王の誕生の知らせは、全ての人々にとって脅威であり不安をもたらすのです。それは、私たち一人ひとりが皆、自分の人生の王となっているからです。自分の命も人生も自分のものだ、自分の思い通りにするのだ、自分の願いを実現することが人生の目的だ、ということを当たり前だ思っている私たち一人ひとりが、小さなヘロデなのです。しかし、主イエス・キリストは、その私たちのまことの王としてお生まれになりました。主イエスの誕生の知らせは、主イエスこそが私たちのまことの王であられ、私たちは自分の人生の王ではない、ということを告げているのです。私たちが自分の人生の王であることは、ヘロデがユダヤ人の王であるのと同じように相応しくないことであり、私たちは偽りの王なのです。偽りの王はまことの王に王位を明け渡さなければなりません。しかし私たちはそのことを認めなくない。自分の人生の王はあくまでも自分だと言い張るのです。主イエスを自分の王として迎えるのは嫌なのです。だから私たちもヘロデと同じように主イエスを抹殺しようとする。表面的には「わたしも行って拝もう」というポーズを取っていても、心の中では、自分の人生の王座は決して渡さないぞと思っているのです。そういう私たちの思いから、様々な悲惨なことが起る、私たち自身も苦しむことになるし、周囲の人々にも大きな苦しみを与えることになる、そういうことがここに語られているのです。それはまさに今この世界で起っていることです。ロシアのウクライナ侵略はまさにそういうことの典型だと言えるでしょう。しかしそれだけでなく、私たちそれぞれの生活においても、自分が王であろうとすることによって、いろいろな問題が生じ、人間関係が破綻し、苦しみ悲しみが生じているのです。本日の箇所に語られているまことに悲惨な出来事は、自分が王であろうとしている私たち人間によってこの世界に起っている現実なのです。

エレミヤの預言
マタイ福音書は17節で、ヘロデによるこの幼児虐殺が、エレミヤの預言の実現だったと語っています。その預言が18節です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これは本日共に読まれたエレミヤ書第31章の15節です。このエレミヤの預言が、ヘロデによる幼児虐殺において実現した、とマタイは言っているのです。それは、このことは神が預言しておられたことだから仕方がないのだ、ということではありません。エレミヤがここで語っているのは、ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、人々がバビロンへと連れて行かれた「バビロン捕囚」の嘆き悲しみです。ラケルとは、イスラエルの民の先祖であるヤコブ、彼がイスラエルという名前を主なる神から与えられたのですが、その妻であり、イスラエルの民の母を意味しています。その母が、「子供たちがもういない」、つまりイスラエルの民がバビロンに捕囚として連れ去られたことを、慰めをも拒むほどに深く嘆き悲しんでいるのです。マタイはこのラケルの嘆きを、ヘロデによって子供を殺された母親たちの嘆きと重ね合わせているのです。そのことによってマタイは、ラケルに、つまりイスラエルの民に対して主がお語りになったみ言葉が、子どもたちを虐殺されたこの母親たちにも、そしてそのような悲惨な現実の中で苦しみ悲しんでいる私たち一人ひとりにも語られ、告げられていることを示そうとしているのです。主なる神がラケルに語られたみ言葉が、エレミヤ書31章の16、17節にあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。主なる神は、嘆き悲しむラケルに、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語りかけておられるのです。連れ去られた息子たちは敵の国から帰って来る、だからあなたの未来には希望がある、と告げておられるのです。子どもたちを殺された母親たちの、慰めをも拒む深い悲しみ嘆きに対しても、主なる神がこのような救いと希望を告げておられることをマタイは示そうとしているのです。

罪の赦しによる救いと希望
主がここで告げておられる救いと希望は、バビロン捕囚からの解放と帰還です。「息子たちは、敵の国から、自分の国に帰って来る」とあります。敵の国であるバビロンに捕えられ、連れ去られてしまった、そのバビロン捕囚はそもそも何故起ったのでしょうか。この後の18、19節にはこう語られています。「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。『あなたはわたしを懲らしめ/わたしは馴らされていない子牛のように/懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し/思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ/若いときのそしりを負って来ました」。「エフライム」というのはイスラエルの民のことです。彼らは、主なる神に背いたために懲らしめを受けたのです。その背きとは、彼らをエジプトにおける奴隷の苦しみから自分たちを解放し、約束の地を与えて下さった主なる神を礼拝せず、従わず、ご利益を与えるとされる他の神々、偶像の神々を拝むようになったことです。つまり彼らは、主なる神が王であることを認めず、自分が王となろうとしたのです。偶像というのは、自分の思い通りになる、つまり自分が王であり続けることができる神々です。自分が王となろうとしたことがイスラエルの民の背きの罪であり、バビロン捕囚はその罪に対する神の懲らしめだったのです。その苦しみの中で、彼らは後悔し、悔い改めて、「あなたは主、わたしの神」という信仰に立ち帰りました。そのイスラエルの民に対する主なる神の思いが20節に語られています。「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる」。主なる神はイスラエルの民を、ご自分の民として、息子として、愛しておられるのです。罪のゆえに彼らに懲らしめを与えましたが、それは彼らを本当に愛しているからこそです。だから主は、懲らしめを与えつつ、彼らを憐れまずにはいられないのです。この主なる神の憐れみによって、捕囚からの解放と帰還が実現するのです。つまり、主が告げておられる救いと希望は、自分が王となろうとする罪のゆえに苦しみの中にいる民が、悔い改めて主に立ち帰り、主をこそ自分の王としてお迎えすることによって、神が憐れみをもって彼らを赦し、もう一度神の民として歩ませて下さる、という救いと希望です。自分がどこまでも王であろうとする罪のゆえに、自分自身も苦しみに陥り、周囲の人々にも大きな苦しみを与えてしまっている私たち人間の罪の現実を描きつつ、エレミヤの預言が実現したことを語ることによってマタイは、主なる神が私たちにも、「私は憐れみをもってあなたの罪を赦す。だから、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」と語りかけて下さっていることを示そうとしているのです。

救いと希望の始まり
しかしこの救いと希望は、この時点ではまだ実現していません。今目に見える形であるのは、慰めをも拒むような深い悲しみ嘆きの現実です。救いと希望はまだ隠されているのです。それが実現するのは、ナザレの町で育ち、「ナザレのイエス」と呼ばれるようになった主イエス・キリストが、神の国、神の恵みのご支配の到来を告げて下さり、様々なみ業によってそれを示して下さり、そして十字架にかかって死んで下さったことによってです。ヘロデがまことの王として生まれた主イエスを抹殺しようとしたように、小さなヘロデである私たちも、主イエスを王として迎えることを拒み、自分が王であり続けようとしています。その私たちの罪のゆえに、主イエスは十字架につけられて殺されたのです。つまり私たちの罪が主イエスを殺したのです。しかし父なる神はその主イエスの死を、私たちの罪を全て背負って身代わりとなって死んで下さった、贖いの死として下さいました。そして主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さったことによって、私たちの罪を赦し、私たちをも神の子として、復活と永遠の命を与えると約束して下さったのです。主イエスの十字架と復活によってこそ、神による救いと希望が実現しました。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」という神の語りかけは、主イエスの十字架と復活によってこそ実現したのです。その救いと希望が、主イエスがこの世に来られたことによって始まったのです。

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