「恵みの座に近づこう」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第84編2-5節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第4章14-16節
・ 讃美歌: 351、60、509、67、81
大人も子供も
教会では6月の二回目の日曜日、つまり今日のことを「花の日」と呼んでいます。この日のもう一つの呼び方は「子供の日」です。きれいなお花を飾って神様の恵みを思うとともに、その神様の恵みの中で子供たちがすくすくと成長していくことを願って礼拝が行なわれるのです。私たちの教会ではこの日、いつもは別々に礼拝をしている、大人の人たちと、教会学校の生徒や保護者の方々とが一緒に礼拝をします。教会学校の皆さんどうですか。指路教会では毎週こんなに沢山の大人の人たちが神様を礼拝しているのです。大勢の大人の人に囲まれて、緊張しているかもしれませんね。でも、みんな、この教会でいつも一緒に神様を礼拝している神様の家族です。皆さんには、こんなに沢山の家族がいるのだということを覚えておいて欲しいと思います。 大人の皆さん、教会学校ではいつもこれらの子供たちが、また保護者の方々が礼拝をしています。どうぞこれらの方々のことを覚えてお祈り下さい。そしてよろしければ、毎週午前9時から行なわれている教会学校の礼拝にも参加してみて下さい。みんな、信仰における皆さんの子供、孫、ひ孫です。孫の顔を見に来るつもりで教会学校に来ていただけたらと思います。
洗礼
さて今日は、普通の花の日の礼拝にはない、特別なことが行なわれます。一人の方が洗礼を受けるのです。教会学校の生徒の皆さんから見たらお姉さんです。「おばさん」と言うのはちょっと気の毒な若い方です。もうじきお母さんになろうとしています。だんだんお腹も大きくなってきておられるので、なるべく早い方がよいと思い、今日のこの花の日の礼拝で洗礼を受けることになりました。実はこのお姉さんも、子供の頃、別の教会ですが、皆さんと同じように教会学校に通っていたそうです。それから、皆さんの中でも多くの人たちが通っているキリスト教学校の卒業生です。キリスト教学校や教会学校を通して、イエス様との出会いを与えられ、神様が導いて下さって、今日、洗礼を受けて神様の家族である教会のメンバーになろうとしているのです。
イエス様と一つにされる
洗礼を受けるってどういうことなのでしょうか。どんなことをするのかはこの後見ていれば分かります。でもその洗礼を受けるとどうなるのでしょうか。一言で言えば、イエス様と一つにされるのです。イエス様というぶどうの木につながる枝となるのです。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とおっしゃいました。そして、ぶどうの木である私にしっかりつながっていれば、あなたがたは豊かに実を結ぶことができる、とおっしゃいました。そのぶどうの木であるイエス様にしっかりつながる者となって、おいしいぶどうの実を実らせることができるようになるために、私たちは洗礼を受けるのです。
イエス様の同情
そういうふうに洗礼は、私たちがイエス様とつながり、一つになることです。でも、私たちがイエス様とつながり、一つになることができるのは、実はイエス様の方が先に私たちとつながり、一つになって下さったからなのです。そのことを、先ほど読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第4章14節以下が私たちに教えてくれています。最初の14節に、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」とあります。「偉大な大祭司」の意味はちょっとおいておくとして、それはイエス様のことであり、そのイエス様が私たちに与えられているのだ、と言われています。そして15節には、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」とあります。大祭司であるイエス様が、私たちと同じように試練に遭われたのです。「私たちと同じように」というところが大事です。イエス様は私たちと同じ人間になってこの世に生まれて下さって、私たちと同じようにいろいろな試練、つまり苦しみや悲しみを味わって下さったのです。でもイエス様が受けた試練はそれだけではありませんでした。イエス様は十字架にかけられて殺されたのです。死刑になってしまったのです。皆さんの中で、死刑になったことのある人はいますか。いないよね。ということは、イエス様は私たちと同じどころか、誰よりも深い苦しみ、悲しみを体験なさったのです。しかもそれはイエス様が何か悪いことをしたからではありません。イエス様は私たちの罪、私たちがした悪いことを全部引き受けて、私たちの身代わりになって死刑になって下さったのです。神様の独り子であられるイエス様は、このようにして私たちのところに来て下さり、私たちと同じになり、一つになって下さったのです。だからイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではない、と言われています。同情するというのは普通「かわいそうに思う」ということです。私たちがする同情はそれだけで終わってしまうことが多いです。だから私たちは「同情なんかしてほしくない」などと思ったりもします。でもイエス様は、私たちのことを「かわいそうに思う」だけではなくて、私たちに代って苦しみを受け、死んで下さったのです。イエス様の同情は、私たちと一緒に苦しんで下さり、私たちのために死んで下さる同情です。私たちがイエス様とつながり、一つになることができるのは、この同情のおかげなのです。私たちが洗礼を受けてぶどうの木であるイエス様とつながり、豊かに実を結ぶ者とされていくために、イエス様が先ず、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。
大祭司であるイエス様
このイエス様が「大祭司」だと言われていました。大祭司というのは、神様に背き逆らっている罪のためにそのままでは神様のみ前に出ることができない人間たちのために、神様との間を取り持つ人です。昔イスラエルでは、一年に一度、大祭司が犠牲の動物の血を神様に献げることによって、人々の一年間の罪が赦される、という儀式が行なわれていました。大祭司のおかげで、神様の愛が取り戻される、と考えられていたのです。でもそういう儀式はすべて、本当の大祭司であるイエス様が成し遂げて下さる救いの予告編のようなものでした。イエス様は、十字架にかかってご自分が血を流して死ぬことによって、私たちのための罪の赦しを実現して下さったのです。このイエス様が、私たちのための大祭司として神様との間を取り持って下さるおかげで私たちは、神様が私たちのことを本当に愛して下さっていることを知ることができるし、その神様の愛を信じて、安心してみ前に進み出ることができるのです。
大胆に恵みの座に近づこう
最後の16節に、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあります。「恵みの座」というのは神様のみ前のことです。イエス様が来て下さるまでは、そこは恐しい「裁きの座」でした。私たちは、神様をも人々をも、愛するよりも憎んだり傷つけたりしてしまう罪に捕えられているからです。でも、イエス様という本当の大祭司が来て下さって、私たちの弱さに心から同情し、憐れんで下さって、私たちの身代わりになって十字架にかかって死んで下さったので、神様のみ前に出ることはもう恐ろしいことではなくなりました。そこは「裁きの座」ではなく「恵みの座」になったのです。大祭司であるイエス様のおかげで、私たちは今や、大胆に、恵みの座に近づくことができます。びくびく恐がりながらではなくて、神様の愛を信じて、安心して、喜んで、み前に出ることができるのです。
礼拝から遣わされて
イエス様による救いを信じて洗礼を受けることによって、私たちはこのように、神様のみ前に喜んで大胆に進み出ることができるようになります。そうなると、毎日の生活の中でも、喜んで、大胆に歩むことができるようになるのです。私たちにはいろいろな不安や心配があります。「うまくいくだろうか」「ちゃんとできるだろうか」「失敗したらどうしよう」「恥をかいたらいやだ」「人に批判されてしまうのではないか」。そういう不安や心配に捕えられていると、何もできなくなっていきます。「やってみよう」ではなくて「やめた方がいい、どうせだめだ、余計なことをするとロクなことはない」という気持ちに支配されてしまいます。でも、イエス様が私たちのためにこの世に来て下さって、弱い私たちに心から同情して下さって、十字架にかかって死んで下さるまでして、私たちに神様の愛を示して下さったことを信じて、イエス様と共に歩み出すならば、私たちは、失敗や、恥をかくことや、誤解されることを恐れて消極的になるのではなくて、喜んで、大胆に、自分に与えられている賜物を生かして、神様と人々を愛し、仕えていくことができるようになるのです。そのための土台が、日曜日のこの礼拝です。私たちは、大人も子供も、毎週こうして礼拝を守ることによって、神様の憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づいているのです。そしてこの礼拝で、私たちの本当の大祭司となって下さったイエス様から神様の愛を示され、勇気と力とを与えられて、新しい一週間のそれぞれの生活へと遣わされていきます。一週間の始めの日であるこの日曜日に、神様のみ前に出て礼拝をすることによって、私たちは大胆に、喜んで、積極的に、神様と人々とを愛し、仕えていくのです。