「キリストはあなたを照らされる」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第34編2-15節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第5章6-20節
・ 讃美歌:127、502、303
惑わされないように
私が主日礼拝の説教を担当します時は、ご一緒にエフェソの信徒への手紙を読んでおります。本日は第5章の6節から20節までの御言葉に耳を傾けたいと思います。エフェソの信徒への手紙は第4章から、私たちの生き方に関わる勧めを語っています。その勧めの内容とは、古い生き方を捨てること、新しい生き方を志すということでした。前回、ご一緒にお読みした第4章25節以下では、特に「言葉」の問題、私たちの舌の問題が繰り返し取り上げられていました。例えば、「偽りを捨て、それぞれの隣人に対して真実を語りなさい」「悪い言葉を一切に口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」更に「あなたがたのあいだでは、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいはどん欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話し、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」というような聖句です。本日の箇所の始めには、それらの戒め、勧めの言葉を受けるようにして、手紙の著者パウロはこう書いています。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順の者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」(5章6-7節)先ほど挙げました「偽り」にしても「悪い言葉」にしても、あるいは「卑わいな言葉や愚かな話し」にしても、それらは、まさに今お読みした6節でいう「むなしい」言葉ということです。
先ほどの戒めでは、それらを口にする人になってはいけないというものでした。6節から7節では、それらの「むなしい言葉」によってあなたがたが惑わされて」はならない、だまされてはならない、というものです。ただ、このもとの言い方は少し違っていて、「あなたがたをそうした言葉でだますような人は誰もいてはならない」「だれもあなたがたをだましてはならない」というものです。したがって、惑わされないようにひとり一人気をつけなさいというより、信仰を共にする共同体としての教会は、そうした「むなしい言葉」が飛び交う交わりであってはならないと言われているのです。そうした人の仲間に引き入れられ、一緒になって交わりを壊すような、そうしたことをしてはならないということです。
キリストに照らされて
本日与えられております箇所、第5章6節から20節の新共同訳聖書以外のいくつかの訳を見てみますと、その多くは6節からではなく、8節から20節までを一区切りとしています。したがって、今取り上げた6節から7節も、むしろその前の箇所とのつながりの中で見られるという理解に立っているということです。そのような流れの中で本日の箇所を捉えていきたいと思います。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです-。何が主に喜ばれるか吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべては光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それでこう言われています。「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(8-14節)
この8節から14節において、鍵となる言葉は「光」と言う言葉です。私たちにとっての「光」とは、主イエス・キリストを思い起こすと思います。しかし、ここで注意したいのは、ここではキリストではなく、「私たちが光である」と言われていることです。8節を直訳しますと、このようになります。「かつて、あなたがたは暗闇であった、しかし今は主にあって光である」。ここでは、私たちのことが「光」として語られています。また「かつて」と「今」という対比によって、私たちの現在が描き出されています。私たちの「今」即ち「光」としての私たちは、闇としてのかつての自分を自らの力によって克服して、今の自分を築き上げたということではありません。そうではなく、私たちはあくまで「主にあって」光である、のです。「主にあって」がなければ暗闇でしかない、そういう者が光とされているのです。私たち自身が自らを光の源として明るく輝いているというのではなく、そうではなくて、14節の引用の言葉にありますように、キリストによって「照らされ」てはじめて、私たちは光であるのです。
洗礼について
私たちは自分は少しはましな人間と思っているとしても、人間としてもそれほど悪くない、信仰もまあまあ、社会人としても、家庭人としても、とくに優れているということではないとしても、人に見劣りするようなことはない、そのように考えているとしても、だから私たちは光である、というのではありません。私たちは暗闇です。罪を繰り返し犯していく、罪人なのです。そのような私たちは主の光に照らされて初めて、主にあってはじめて、光であるのです。そのように考えますと、逆に、つまり「主にあるなら」私たちは誰もがみな光なのではないでしょうか。誰一人光でない人はいない、光とならない人はいないのです。14節は引用の言葉です。聖書からの引用というのではなく、当時の賛歌、更に言えば、洗礼の歌の1節とも言われています。洗礼で起こることを、キリストによって照らされること、眠りから目覚め、更に生まれ変わり、そのようなものとして洗礼を歌っております。洗礼は、古代の教会の人々には、そのようなものとして受け止められていたということです。今や私たちは光である、というのは、洗礼によってキリストの体の肢とされているという事を、そのような者として在り、そのような者として歩むことが許されているということです。
時をよく用いよ
光の子として歩む、キリスト者として歩むとは、もう少し具体的にどういうことでしょうか。既に10節においてパウロはその歩みを、何よりも「何が主に喜ばれるかを吟味する」こととして示していました。それが今、15節以下で、更に詳しく語られています。
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(15-17節)15節以下は、色々なことがふぞろいに書いてあるように見えますが、必ずしもそうではありません。3つの命令の言葉によって全体は構成されています。はじめにその2つを取り上げます。それは、15節の「細かく気を配って歩みなさい」と17節の「悟りなさい」です。
その1つ目、15節の「細かく気を配って歩みなさい」という命令の言葉を、はじめに取り上げます。「気を配って歩む」という言葉の元の意味は「正確に見る」とか「厳密に見極める」という意味です。その意味を生かして訳すならば、15節全体は、次のようになります。「あなたたちは、自分がどのように歩んでいるか、愚か者のように歩んでいないか、賢い者のように歩んでいるか、正確に見極めなさい」。というようになります。自分と言うものをしっかりと見つめること、これが光の子としての歩みの最初に勧められていることです。何が主に喜ばれるかことなのかということを吟味することは、まずそのように、自分を見つめる自己省察から始まるのです。その上で自らの歩みが愚かな者となるか、それとも賢い者となるか、それは始めから決まっているわけではありません。むしろそのために私たちは、私たちに与えられた時をよく用いなければならないし、用いることが許されているのです。私たちに与えられている時間をよく、用いるということが求められているのです。ペトロの第二の手紙の第3章9節では、私たちに与えられたこの時、この瞬間、つまり私たちの人生のこの時ということを説明して、こう述べております。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために」神が「忍耐しておられる」時間と呼んでいます。この時間、与えられた人生を、この時を光の子として歩むその第一歩は、自分をみつめることです。
悟りなさい
二つ目の命令の言葉は17節にありますように「悟りなさい」ということです。キリスト者の生き方、どのように生きるのか、その基準は「主の御心」にあります。私たちはそれを知らない者ではないのです。そのような意味で「無分別な者」な者ではないでしょう。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう書いています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が主の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12章2節)善い悪いということの基準、物差しは、神様の御心に適うかどうかということにあります。神様の御心は、聖書を通して証しされていきます。神の言葉とそして、祈りによって、御心を知ることが私たちに許されています。御心を悟ることが、光の子としての歩みにおいて2番目に求められているのです。
霊に満たされて
三つ目の命令の言葉は18節の「霊に満たされよ」、ということです。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(18~20節)18節以下では、「酒に酔いしれてはならない」と冒頭から戒められています。確かに酒は、今も昔も「身を持ち崩すもと」であり、酔いしれるなどということも、信仰者の生活にはふさわしいものとは言えないでしょう。ただ、ここでは、「酒に酔う」ことを第一に戒めようとしたこと言葉ではなく、むしろ、ここでは「酒に酔う」ということと対比させて、むしろ「霊に酔うこと」「霊に満たされる」ことを、ふさわしいこととして勧めている言葉です。「酔う」という点で両方に共通のことが見て取られているのです。
「霊に満たされる」と言いますと、何か得体の知れないものに取りつかれたようになることを、思い浮かべるかもしれませんが、ここで大切なことはこの18節から20節が礼拝を背景として語られているということです。「詩編」と「賛歌」「霊的な歌」と言うのがどういうものか、それぞれどのように違うのか、はっきりとはしません。同じような言い方がなされているコロサイの信徒への手紙を見ますと、礼拝が想定されているということが示されています。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌によって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(3:16)私たちの心に御言葉が豊かに宿ること、その御言葉によって互いに教え、諭し合うこと、そして賛美を歌い、神をほめたたえること、それはまさに礼拝であり、そのような礼拝にあずかることが、霊に満たされることです。
光の子として歩む
光の子として歩むことの輪郭が比較的はっきりとしてきたのではないでしょうか。何よりも神様の御心を求める歩み、そして、神様の御心を行う生活です。イエス様は今私が何をすることが、どのようなことを口にすれば、喜ばれるか、求めることは大切なことです。先ず、私たちは自分を良く知るということが大切でありましょう。御心にかなう生活のために、私たちは与えられた時、許された人生の時を賢く用いるというこが必要なのです。
私たちは神のご支配の中を生きております。私たちの生きているこの世界が滅ぼされることなく存在しているということ、時を刻みつつ存在しているということ、また私たちがその恵みによって、この日生きることを許されているということ、その背後には神様の忍耐があります。私たちが生きる時は、皆が悔い改めて、救われるのを待っていて下さる神様の忍耐の時でもあります。私たちは本日より、主イエス・キリストのご受難を覚える受難週を歩み始めます。人間の救いのために、神様は独り子を遣わし、十字架において、死と罪の力を滅ぼしてくださいました。主イエスの復活は死の力に勝利をされたということです。私たちは、既に救いの中に置かれております。この主を礼拝しつつ、御言葉に養われつつ、霊に満たされ、主イエス・キリストによって照らされる光の子として歩んで参りましょう。