主日礼拝

心を開いて

「心を開いて」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第119編25-32節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第6章11-13節, 第7章2-4節
・ 讃美歌: 7、355、90

 7章2節、「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。」という部分は、パウロがコリントの教会の人たちの信頼を取り戻そうと必死に弁明していることが表わされています。この部分を読み、黙想をしている時は、あまり今回の説教には関係してこない部分だなと思っていました。しかし何回か読んでいるうちに、このわたしの考えが間違いだということに気付かされました。パウロは6章4節で「あらゆる場合に神に仕える者としてその実(じつ)を示しています。」と言っています。それゆえ彼は、いつ何時も自分を「神の僕」としての自分を表そうとしていますから、この言葉を書いている時も、神の僕である自分を表わそうとしているということになります。本日は「個人的と思われる弁明や、和解を求める言葉が、どうして福音の宣教、つまり伝道とかかわりがあるのか」ということを初めに、少し考えてみたいと思います。福音を宣べ伝えること、その大部分は、言葉によって行われます。そのために、パウロは一所懸命、話をしましたし、また、たくさんの手紙を書きました。パウロの手紙を読みますと、福音とは何であるかということが、実にこまごまと語られております。この手紙の5章18節はその要約です。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」神様がキリストにおいて、わたしたちを御自分と和解させてくださった。これが福音の内容です。そしてこの神様がキリストにおいてなさって下さった救いの事実を宣べ伝えていく、これが和解の務めです。ですから基本的には主イエス・キリストの話をする、これが、宣教、伝道の根本的な働きです。
 しかし、それが言葉だけだとしたらどうでしょうか。福音を宣べ伝える者自身がその福音を信じ、その福音において生きていなければ、どうでしょうか。福音を宣べ伝える者が、その福音に生きているならば、生きた形で、福音が実を結んでいることがわかり確かなものであるという証しになります。本当に生命の言葉が実を結ぶのだというメッセージは、語る者自身が、その福音に生かされている、実を結んでいるという現実がなければ、その言葉は弱いものになってしまいます。パウロの宣べ伝える福音が、パウロ自身の中に、具体的な姿をとって現れて来る、それが、この6章4節に言われている「あらゆる場合に神に仕える者としてその実(じつ)を示しています。」ということです。
 そういうことを思いながら、今日の聖書を読んでみますと、これは、ただ単にパウロが、人から誤解されて、つらいから、誤解を解いて信頼を回復したい、そういう自分の気持ちから言っているのではなくて、もしもコリントの教会の人々がパウロに対して、誤解したままで和解を受け入れないとするならば、彼らは、和解の福音をも否定することになる。そういう思いで、パウロはここを語っていることがわかります。それを踏まえて、ここを読みますと、言葉の表では、パウロがコリントの教会の人々を和解に招いているのですけれども、実はその背後に、5章20節の言葉が響いていることがわかります。5章20節で彼はこう言っています。「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」ここでは、コリントの教会の人々に神の和解を受けなさいと言っていますが、その神の和解を受けるということは、福音の証し人であり、福音によって生きている、わたしパウロとの和解を受け入れなさい、ということと重なっているのです。そこで、そのことを心において、今日の御言葉を聞いてみたいと思います。

 6章11節「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」パウロはコリントの教会の人々にこうありなさいと言う前に、まずパウロは、自分がコリントの教会の人々に対して、どういう姿勢であるか、どういう心でいるか、ということを語っています。ここで言われている「あなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」という言葉は、口語訳聖書では「口が開かれており心が広くなっている」となっています。「口が開かれている」「心が広くなっている」という言葉はなんだか分かりにくい言葉です。しかし、この反対の言葉を考えてみれば、分かるのではないかと思います。この言葉の反対は「口が閉ざされており、心が狭くなっている」です。わたしたちは人に対して、なにかわだかまりをもったり、その人と衝突したりすると、直ぐ心を閉ざしてしまい、口も閉ざしてしまいます。
 わたしはここを読みながら、ルカによる福音書にある放蕩息子の譬え話を思い出しました。あの放蕩息子は、お父さんの財産を無理にもらっておきながら、自分の好きなように使い果たして、惨めな状態になって、親の所に帰って来ました。彼は、まったくいいことをしていないし、むしろ放蕩の限りを尽くして、財産を食いつぶすという、悪いことをしている。そういう放蕩息子に対して、その息子の兄さんは心を閉ざしています。あれは悪い奴だ、あんなのは自分の兄弟として、弟として思いたくない、そのように心を閉ざしています。そして彼は、その弟と顔を会わせようとしません。これが心を閉ざし、口を閉ざしている状態です。それに対してお父さんはどうだったでしょうか。弟息子は、無一文、無一物になりボロボロになってしまい、その時、後悔し、お父さんに対してしてしまったことを反省し、奴隷になってでもお父さんのもと置いてもらいたい、何とか家に入れてもらおうと思いながら帰ってきました。けれどもお父さんは、そういう反省を聞くことなしに、家におく条件の交渉などなしに、ただ、この弟息子が帰ってきたということを、無条件に喜び、抱きしめました。このお父さんは、息子の態度次第で自分の態度を変えるというのではないんです。どんなにでき損ないの息子でも、どんな失敗をしていても、常にお父さんの心は、息子に対して開かれている。「いつでも帰って来なさい、いつでもあなたを受け入れる。」という心でいたのです。お父さんは、失った息子のことをいつも考えていたでしょう。その時、胸も、心も痛かったでしょう。それでもお父さんは、息子を抱きしめるために心を広げ、腕を広げ続けたんです。あのいなくなってしまった息子を抱きしめるために。お父さんは、その息子が帰ってきた時、黙って口を閉ざしたのではなく、また罪を咎めるために口を開き語ったのではなく、息子が帰ってきたことを神様に感謝するために、喜ぶために、そして祝うために口を開きました。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」これが、心が開かれており、口が開かれているという状態であります。
 パウロは、コリントの教会の人々に対して、そういう状態でありました。コリントの教会の人々がどうであろうと、過ちを犯していようと、わたしは、あなたがたに対して心を開いている、そして、あなたがたが戻ってくることを待っている、あなたがたに対して、本当に真実、「わたしはあなたを愛し、赦している」という自分の愛を告白しようとしている、それが、この最初に言われている言葉です。「コリントの人々よ、あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている」それに対してコリントの人たちは、心を狭くしている、つまり心を閉ざしています。どうしてコリントの教会の人々がパウロに対して心を閉ざしたのか。それはコリントの教会に入ってきた、ある人たちの中傷によって、パウロに対する誤解や疑いを持ったからです。そのことが7章2節に暗示されています。「わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。」コリントの人々は、パウロが人を騙して悪いことをしていると、ある者たちからそのような噂を吹き込まれ、あの兄息子のように心閉ざしてしまったんです。
 そのため、ここでパウロは一つ一つ弁明をしています。ここでは具体的なことを語らず弁明していますが、実はこの手紙全体は、パウロがどう生きてきたか、パウロの宣べ伝える福音がどういうものであるか、ということを、実に懇切丁寧に語っています。今までわたしたちは、この6章までで、パウロがどういう福音を語り、どういう姿勢で生きているかということを、たくさん聞いてきました。そのパウロの様々な弁明や説明の全体が、実は今日読んだところに結集していると言えます。パウロはコリントの人たちの誤解を解き、自分とコリントの人々との間で和解をし、愛の交わりを再び築こうとしています。和解と愛の交わり、これがまさに、愛し愛される関係、赦し赦される関係です。これが福音に生きるということです。これが神様の子としての生き方です。これがなっていない生き方というのは、お父さんのもとにいるのに、心閉ざしているあの兄息子と同じです。父の家に形としては属しているのに、心は属していない、心が父から離れている状態です。弟を赦す父を認めない、そして自分も赦さないというあの兄と同じなのです。パウロはそのようではなくて、本当の意味で、父なる神様のもとに戻って欲しい、抱きしめているお父さんと共に弟抱きしめてもらいたい。そのように、生きてもらいたいと願って今日のことを書いているのです。そのためには、パウロとコリントの人々との本当の和解が必要である。弟息子と兄息子が和解することが、お父さんの愛に生きることだ。だから心開いて受け入れて欲しいと。そういうことを思って、パウロはこの手紙を書いたのです。
 12節は、新共同訳聖書では「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。」となっていますが、元の言葉を訳すと「あなたがたは、わたしたちによって心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていた」と言う文になります。パウロが何か、コリントの人たちを躓かせるような、そういう過ちを犯したために、コリントの教会の人たちが心を閉ざしかけたのかもしれません。しかし、同時に教会を分裂させようとするものたちが、パウロのことを誤解させる発言をしてために、コリントの教会の人たちは自分の内で、パウロに対する、間違ったイメージを持って、その間違ったイメージに向かって、心を閉ざしていたのです。それに対して「本当のわたしを知ってほしい。わたしはどんな時にも、神の僕として自分を現している。わたしの語る福音を聞き、わたしの弁明を聞いてくれたら、あなたがたは心を開いてくれるはずだ」と訴えているのです。

 6章13節で「子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」ここで、パウロは、初めから、「自分には変わらない姿勢がある。それはあなたたちに向かって心を開き、口を開いている」「だから、あなたがたの方も、どうか心を開いてほしい」。「それが本当に福音を信じて、その生活自体を福音によって生きる生活にするということだ。」と言っています。パウロは7章3節で、「あなたがたが、こんな誤解をしているからダメだとか、あなたがたは福音を正しく受け取っていないとか言って、責めるつもりなのではない。あなたがたが本当に福音の恵みに与ってほしい」ということを言っています。責めるつもりがないのは、なぜかというと3節後半にあるように「コリントの人々はパウロの心の中にいて、パウロと生死を共にしている」からです。パウロがここで「あなたたちはわたしたちの心の中にいる」と言っているのは、パウロが「わたしはあなたたちと敵対している関係ではない。敵として見て、身構えながら、攻撃するために厳しいことをいっているのではない。」ということを言いたいからです。
 このパウロの言葉から、「教会の交わり」つまり「わたしたちの兄弟姉妹の交わり」、「兄弟姉妹の関係性」が見えてきます。わたしたち教会の兄弟姉妹は、「生死を共にする仲」なのです。なぜなら、同じキリストの血によって贖われた、同じキリストの生命に与っている交わりだからです。キリストにおいて共に生き、共に死ぬ。既に、生死を共にした、死線をイエス様によってくぐり抜けた関係だということです。そういう関係の中で、パウロはこの言葉を語っています。7章4節「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。」これは決して皮肉を言っているのではありません。コリントの教会は、たくさんの欠点がありました。あなたがたのやっていることは異邦人の中にもないことだと、コリントの信徒への手紙一でパウロが言っているほどです。しかし、それにもかかわらずパウロはコリントの人々を大いに信頼し、大いに誇っている、それはなぜか。それはコリントの人たちの素質とか、能力とか、行為とか、そういうものを土台としているのではなくて、一人ひとりを、神様が選んでくださり、召してくださり、導いてくださり、信仰を与えてくださり、洗礼に与らせてくださり、教会につなげてくださって、父なる神様がご自分のものとして受け入れて下さったというその「真実」をみているからです。だから、たとえどんなにダメでも、傷がついていても、汚れていても、神の聖なる民である。父なる神様の愛する子である。そういうことを、パウロはここで改めて語っているのです。
 「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」これは、1章の初めを読むとわかります。1章3節に、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とあります。ここでパウロは父の神様への最大限の感謝と喜びを現しています。そして、彼は続けてこう言いました。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」パウロは、伝道の旅路でなんども苦難に合い、また教会との関係でも何度も悩んでいました。しかし、その苦難や悩みの中で、神様に慰められるということや、神様に解決を与えられるということを、本当に経験しました。そして、彼はさらに言いました。「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」悩みや苦難に会うということ。それは、神様の慰めを受ける場を与えられたということ。そして同時にその慰めによって、他の悩みにある人に、慰めを語ることができる、慰めを分け合うことができる。パウロはそういうものにさせられていました。ですから、わたしたちも、苦難の時、弱い時、神様から慰めを受け、今度は慰めを分かち合うことのできる者です。数々の苦難、数々の教会の兄弟姉妹との衝突やつまずきを味わったはずのパウロが、「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」と言っているのです。コリントの教会の兄弟姉妹との交わりを通して、パウロは本当にそういう慰めを経験したのです。

 パウロは、コリントの教会の人々にわたしを受け入れてほしい、わたしに心を開いてほしい、そのことは、ただパウロという人間を受け入れるだけではなくて、それを通して、あなたがたは、神の和解を受け入れることになります。なぜならば、パウロは、「わたしという存在が、父なる神様からの赦しが書かれている手紙、そのような喜びの知らせの書かれている福音の書かれている手紙だからである」と考えているからです。わたしたちは、福音を聞く、福音を受け入れるということを、ただ言葉の問題、あるいは知識の問題、あるいは心や感情の問題として受け取りがちです。そして何か生活は、また別だと、そういう分裂した信仰生活に陥りがちでありますけれども、パウロがここで言っておりますように、わたしたちの生活のすべてのことにおいて、わたしたちは福音に出会っているのです。うれしいことだけではなくて、悲しいこと、つらいことにおいても、兄弟姉妹という存在を通しても、わたしたちは、神様の呼びかけを聞いています。わたしたちは、礼拝の説教を通して、福音を聞き、受け取っています。そして慰めを受け取っています。しかし、パウロはそこで終わるのでないことを語っています。この礼拝を通して、わたしたち自身が、わたしたちの生き方が福音となること。同時に兄弟姉妹も福音となる。神様は、この兄弟姉妹を通して、兄弟姉妹との交わりの中で、兄弟姉妹との衝突のなかで、苦難の中でも、慰めの言葉を語ろうとされている、慰めを与えようとされている。だから、わたしたちは、兄弟姉妹を受けとめるのです。互いにぶつかってしまって離れてしまっていても、心開いて、腕を開いて、抱きしめる準備をするのです。心を開くのは、兄弟姉妹だけではありません。神様は、わたしたちまわりにいるあらゆる隣人を通して、語られようとされます。だからわたしたちは、教会の外の隣人、今はまだ放蕩しているかもしれない、愛する人のために、心を開いて、腕を広げて、待つのです。
 わたしたちは、心を開いて、礼拝で神様と交わり、心を開いて兄弟姉妹と交わり、心を開いて隣人と交わる時、わたしたちは、あらゆる方向から、主の慰めと恵みを受け取ることができます。そして、わたしたち、神様の民、神様のこどもたちは、光輝きながら、成長していくのです。

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