主日礼拝

覆いは取り去られ

「覆いは取り去られ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記 第34章29-35節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第3章12-18節  
・ 讃美歌:208、412、579

コリントの信徒への手紙二3章4節に、「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前に 抱いています。」と書いてありました。それを受けるようにして、ただ今共に聞きました12節では「こ のような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちふれてふるまっており」とパウロは語ってい ます。先に確信といい、ここでは、望みといっています。信仰による確信のあるところには、また信仰 による希望があります。このような確信や希望のあるところでは、大胆に語る勇気を持つことが出来 ます。パウロは恐れてはおりません。ただ、神様に与えられた自由を持って、大胆に語ることができ るのです。その大胆さによって、パウロは今回、イスラエルの偉大な指導者であったモーセと自分を比 較して、語りたいことを語り始めます。ではそのパウロの語りたいこととはなんだったのでしょうか。 それは、今日読まれた最初の節である12節でパウロが語っている「確信」と「希望」についてです。パ ウロが「確信に満ち溢れている」と言っているその確信とはなにか。それは絶望からの救いという確 信です。パウロは「希望を抱いている」と、言いました。その希望とは一体何か。それは18節に記 されている、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくという希望です。パウロは、絶望 から自分は既に救われているという確信をもっています。またパウロは、実際に苦難にあい、食べる ことも寝ることもできなくなるほどに苦しみながら伝道しているけれども、自分の行末は、主と同じ姿 に変えられるのだという希望を持っています。それらがパウロの確信であり、希望であります。その希 望はパウロだけではなく、わたしたちにとっても希望であり、確信であります。パウロは、この確信と 希望を、コリントの人々にこの手紙を通して伝えようとしています。そして、神様は今、このコリン ト信徒の手紙を通して、わたしたちにこの希望と確信を伝えようとなさっています。

パウロはこの確信と希望を語るために、あの偉大な指導者モーセを引き合いに出して語り始め ます。ですので、まずモーセとはどのような人であったか振り返ってみたいと思います。モーセは、イ スラエルの第一の指導者であり、イスラエルの人々をエジプトから救い出した人でありました。モーセ は、かつてイスラエルの人々に、神様の言葉を伝えていた者でもありました。また、モーセは、イス ラエルの人々に、神様の律法を与えた人であり、どの時代のイスラエルの人々からも、比類の無い、 尊敬を集めている人でありました。モーセは、王でもなく、祭司でもありませんでしたが、王以上に、 祭司以上の働きをした者でありました。またモーセはあらゆる預言者の父でもありました。かくして、 モーセこそ、イスラエル史上、神様の御心をもっともよく解釈できる者であり、またもっともよく神様 の言葉を取り次ぐことができたものでありました。その偉大なモーセがしたことだけれども、わたしパ ウロは、確信をもってしないことがあると、13節にパウロは書いています。パウロは、わたしたちは「モ ーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けた ようなことはしません。」と書いています。
パウロは、なぜここで、モーセを引き合いに出したのでしょうか。それは、自分があの偉大な指導 者であるモーセよりも、すごいものであるということをアピールしたかったからでしょうか。それはちがいま す。パウロが、ここでモーセを引き合いに出したのは、自分の本当に語りたい希望と確信を際立た せるためです。パウロが語りたい希望と確信は、この手紙の3章で語られ続けてきた「新しい契約」 ということと、関係しています。 4~ 6節では、新しい契約に仕える務めと、古い契約に仕える務め のこと、 7~ 11節ではその新しい契約に仕える務めの栄光と古い契約に仕える務めの栄光のことを 語っていました。新しい契約に仕える栄光と、新しい契約を結ばれた者の恵みと希望を際立たせるた めに、古い契約とモーセを引き合いに出して、古い契約に生きていた自分たちのかつての姿を今描き 出そうとしています。古い契約とは、旧約聖書に書かれてあるように、シナイ山でイスラエルの民と神 様が結んだ契約のことです。そこには、モーセが関与しています。この契約が結ばれた時に、同時に 律法が与えられました。モーセが古い契約と律法を与えられた時のことについては、今日共に読みまし た出エジプト記34章の始めのところに書かれてあります。34章の最初の所をまとめますと、モーセが 主に呼ばれ、二つの石の板をもってシナイ山に登れと命じられ、そこに上り、主なる神様と出会い、 契約を結ぶことを宣言され、神様が戒めを語られる、それをモーセが石の板に書き記した。これが34章 の前半のまとめです。今日共に読みました、出エジプト記34章29節以下では、モーセがシナイ山で神 様から告げられた契約の内容と戒めをイスラエルの人々に語り伝えたことが書かれています。そこで、 面白いことは、モーセが神様と語り合っている間に、モーセは顔が光っていて、山から下りてきても、 民にその神様の戒めの話をしている時も、顔が光っており、民は恐れてモーセに近づくことができなか ったということです。民が恐れていたからなのか、モーセは初めて契約と戒めのことを語り終わった時 に、自分の顔に覆いを掛けたということが33節に書かれています。それから、モーセは、主なる神様 の前にたって神様と語る時と、民にその話を聞かせる時だけ、顔の覆いをはずしていて、それ以外の 時は、自分の顔に覆いをかけていたということが書かれています。

パウロはこのモーセの顔の覆いのことを取り上げています。13節で、モーセは、「消え去るべきも のの最後をイスラエルの子らに見せられまいとして、自分の顔に覆いを掛けた」と解釈しています。 出エジプト記を見てみても、モーセが「何かの理由によって、顔に覆い掛けた」とかいてありません ので、これはパウロの独自の解釈といえるでしょう。パウロがここで言っている「消え去るべきもの」 とは、前の7節に書かれているモーセの「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」とその「栄 光」のことです。つまり、このシナイ山で与えられた律法、十戒に仕える務めは「消え去るべきもの」 であって、またその務めから得られる「栄光」も消えてしまうものであったということです。その消え てしまう栄光に照らされても、モーセの顔が光り輝いていたと7節で、パウロはそのように語ってい ます。モーセが「消え去る栄光や消え去るべき務めの終わりを見せないために、顔に覆いをしてい た」というパウロの理解は、つまり、モーセの持っていた光栄ある務めもいつかは終わる、モーセは その輝きの「終わり」を、イスラエルの人々に見せたくなかったということです。これはモーセに対し ての正しい理解であるとは言いがたいですが、パウロはそのように理解していました。「小さくなって消 えていく光、栄光をイスラエルの人々に見せたくなかったから、モーセは顔に覆いしていたんだ。」「し かし、わたしはそのようなことはしません」ということが、パウロが13節で言っていることです。14節 で、少し話の流れが変わります。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました」とあります。こ の「彼ら」とは「イスラエルの民」つまり「ユダヤ人」のことです。モーセと自分の比較だったので すが、ここで、突然、昔から現在までに至るイスラエルの人々への批判に変わります。「今日に至る まで、古い契約を読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。」とあります。「考え が鈍くなっている」という言葉の「鈍くなっている」という言葉のものと意味を見てみると、「頑固に なった」「強情になった」「頑なになった」という意味になります。彼らは、頑固になったということは、 つまり融通が効かなくなった、受け入れる力のなくなった、と理解もできるでしょう。古い契約であ る律法を読む時に、彼らは顔に覆いをしている。読む時に、顔に覆いをしていたら前の文字もち ゃんと読めません。その顔の覆いと言われているのが、まさにここで言われている頑なさのことです。 そのように頑なな心をもってしまい、古い契約の真意がわからなくなってしまった。さらに、それは、 昔の人だけでなく、今日に至るまで、彼らが古い契約である律法を読む時に、同じ覆いが取り去 られないままであると、パウロは言うのです。15節でも「このため、今日に至るまでモーセの書が読 まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。」そのことが語られています。
この心の覆い、「頑なさ」を持っているのは、イスラエルの民だけではないでしょう。「今日に至る まで」とパウロが語っている、「今日は」パウロの手紙を書いている時の今日だけではなくて、今、こ の時代の今日にといってもよいでしょう。そして、また現代のイスラエルの民だけに言われているので はなく、これは、わたしたち一人ひとりに向けても語られています。わたしたちも、旧約聖書に書か れている古い契約である律法、特に十戒を読んでみても、そこにある、神様の真意や御心を直ぐ様 知ることはできません。契約の真の意味を知ることできません。わたしたちの心にも、「頑なさ」があ ります。前に、このコリントの信徒への手紙二の説教をした時に、3章6節の「文字は殺しますが」 ということを語った時に、人の頑なさについてお語りいたしました。その時に「文字」とは「条件」 であると語りました。古い契約である律法は、まさに文字で書かれたものです。その文字を、救い の「条件」のようにして、わたしたちが受け取る時に、わたしたちは頑なになってしまいます。かつ てのパウロがその、典型でした。律法に書かれてある文字、すなわち条件を、絶対視するようになり、 それに仕えるように、その掟を違反するものを裁くものになっていました。かつてのパウロはクリスチ ャンを捕らえては、裁判所に引っ張っていき、死刑にしていました。かつてのパウロにとって、クリス チャンたちは、イエス様を神と崇めていたので、「何者をも神としてはならない」という律法を違反を しているものにしか見えていませんでした。そのため、彼は裁判所に彼らを引っ張りだし、裁き、彼 らを死刑にしていました。パウロは、この古い契約を前にして、律法を知ろうと努力し、律法の文 字通りに生きましたが、逆に頑なになってしまい、自分の罪が顕になってしまいました。わたしたちも、 なにか、こうしなければいけないという「条件」を前にして生きると、どんどん頑なになっていきます。 良き礼拝者になるためには、良き夫、良き妻に、良き社会人に、良き学生になるための条件を、わ たしたちが自らで作り上げる時に、わたしたちは、自分で自分をその条件で縛り、その条件以外を 認めようとしなくなっていきます。良き夫は、家事手伝いをしっかりし、赤ちゃんの世話もしっかりし、 妻のサポートをしっかりする。それを、絶対条件にしてしまうと、わたしは、赤ちゃんの世話をしない、 妻のサポートをうまくできない自分をさばき始めます。ダメな夫だなと。「あまり無理をしないでいいよ」 と言われても、ちゃんとやりたいと頑なになって、休息を拒むことをあります。これはたとえです。こ れは、「条件」に固執していることで、頑なになっていると言えますが、逆から考えれば、頑なになる 心があるから、わたしたちは条件に固執してしまうといえるでしょう。わたしたちも、イスラエルの人 々も、かつてのパウロも頑なな心を持っています。人間の頑なさは、どこから来るのか、それは、 わたしたちの持つ罪からです。この罪から生まれる頑なさを持つわたしたちが律法を読んでも、覆い を被ったままなにか読むのと同じように、なにも見えないし、わからないのです。これは、ただ律法 だけがわからないのではありません。罪に支配され、わたしたちの心が頑なになっているのならば、神様 の言葉が語られても、わたしたちはわからないということです。
この心の覆い、頑なさ、つまり罪は自分の力では取り去ることはできません。モーセは、顔の覆 いでしたので、自分で付けるも外すもできました。しかし、わたしたちの心の覆いは、自分の手で被せ たり外したりはできません。また、修行をして、精神を鍛えとしても、それができるようになるわけでは ありません。この頑なさという心の覆いは、すべての人がおっている罪に根ざしているものですから、 自分でも、隣人の人でも取り去ることはできないのです。心の覆いの掛かった頑ななわたしは、自分を 条件によって縛り上げ、傷つけ、強く締め付けます。また頑な心を持つわたしは、隣人にも、厳し く当たり、縛り付け、傷つけます。頑なな心は、他者を受け入れることを拒み、隣人を否定し、ま た愛する者をも否定し、家族を批判し、社会を否定し、次第にこの世界のものすべてを拒絶したくさ せます。それ故に、頑なな心もつわたしたちは、孤独となっていきます。自分の力では、その頑なさを どうすることもできません。隣人も社会もその頑なさと、それを生み出す罪から救うことはできないの です。その罪と罪の生み出す頑なさを持っているわたしたちの前には、絶望しかありません。
今日、パウロはコリントの人々に確信と希望を語るために、手紙を書いたと冒頭で申し上げました。 また神様が、今日わたしたちに、確信と希望を伝えようとされているとも申し上げました。パウロの確 信とはなにか。それは、この絶望からの救いです。パウロは、わたしたちには、どうしようもできない、 心の覆いであるあの頑なさ、それを生み出す罪は、「それはキリストにおいて取り除かれる」と14節 後半で確信をもって語っています。パウロは、わたしたちにはどうしようもできなかった頑なさを生み出 す罪、心の覆いそのものである罪を、イエス様が取り除いてくださると確信しています。「ではどのよ うにすれば、イエス様がその罪を取り除いてくださるのだろうか」ということが、わたしたちの気にな る所です。パウロは15節後半で「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」と語っています。 わたしたちが、「主の方に」つまり「イエス様の方に向き直れば」その罪も、頑なさも、心の覆い も取り去られると語っています。「イエス様の方に向き直る」、これはつまり、わたしたちが悔い改め るということです。悔い改めるとは、なにかわたしたちが反省をするということではありません。悔い改め るとは、自分の全存在を神様の方に向き直すということです。それまでわたしたちは、神様を無視して 生き、自分自身ばっかりを見ていたり、なにかの条件を気にしたり、隣の人と自分を比較してばかりし て生きていました。しかし、条件や自分や他人ばかりを気にしていたその自分を捨て、その自分の目 や心や魂、自分の全部を神様に向けるということ。自分を捨て、神様に向き直り、神様の支配を求 め、神様に委ねること。それが悔い改めです。簡単に言い換えるのならば、自分や他人、なにかの条 件を信じて生きるのでなく、イエス様を信じて生きるということです。イエス様を信じるのならば、 覆いは取り去られるということです。わたしたちは、自分では、頑なさも、心の覆いも、罪もどうしよ うもできません。イスラエルの人々は、古い契約つまり、律法をちゃんと守りさえすれば、自分たちは救 われる、大丈夫だ、と思っていました。しかし、この古い契約である律法では、人の罪は取り除く ことができなかったのです。しかし、その罪を唯一取り除くことが出来る方、それがイエス様です。わ たしたちの罪を取り除くために、イエス様は何をされたのか。イエス様は、わたしたちの罪を取り除 くために、死なれたのです。それはなぜか。それは罪を償うための対価は死であったからです。ほんと うはわたしたちが死ななければならなかったのですが、イエス様がわたしたち人の罪の負債を、ご自身の 命と引き換えに払ってくださったのです。わたしたちは、そのイエス様が差し出してくださったその救 いを受け取るだけです。自分を捨てイエス様の救いの業を受けいれること、それがイエス様を信じる ことです。その時、わたしたちは、イエス様によって、心の覆いを取り除かれるのです。
しかし、わたしたちは、簡単に悔い改めるということができるわけではありません。また、わたしたち はイエス様を信じ、洗礼を受けた後でも、イエス様を信じることを忘れたり、自分ばかりを見つめ て頑なになったりすることの多い者たちです。わたしたちは、自分自身では罪や心の覆いを取り外す ことができないのと同様に、悔い改めることも、イエス様を信じ、従うことも自分の力ではできません。 パウロは、17節で、「ここでいう主とは、霊のことですが」と突然、「主の霊」、つまり「聖霊なる神様」 のことを語り始めます。パウロがここで突然聖霊なる神様の話を始めたのは、まさに、わたしたちが、 悔い改めることや、信じることは、聖霊なる神様によってなされるからだと意識しているからです。「主の 霊のおられるところには自由があります」とパウロは語ります。聖霊なる神様のおられる所には自由があ る。聖霊なる神様のおられる場所とはどこか。それはわたしたちの内側そして、わたしたちの間です。わ たしたちは、洗礼を受けてクリスチャンになったとき、賜物として聖霊なる神様を与えらます。その時か ら、わたしたちの内側に聖霊なる神様が住まわってくださいます。わたしたちが、悔い改めて、イエス 様の方に向き直し、頑なさを捨てられ時、同時に聖霊なる神様がわたしたちの内に宿ってくださりま す。その時、わたしたちは、もはや罪に支配されていません。聖霊なる神様が内から、わたしたちを支 配してくださっています。その聖霊なる神様の支配は、わたしたちを自由にします。聖霊なる神様は内 から、頑なさや強情さ、不寛容を生み出していた罪からわたしたちを解放し、自由にしてくださいます。 聖霊なる神様はただわたしたちを、解放して下さるだけでなく、18節でパウロが語るように、「わたした ちは皆、~中略~主と同じ姿に造りかえられていきます。」主と同じ姿に造りかえられる。それは、わ たしたちが神になるということではありません。そうではなくて、わたしたちは、罪から開放され、頑な 心から解き放たれてから、頑なだった者から受け入れる者へと、反抗的だった者から従う者へと、 裁く者から赦す者へと、悲しむ者から喜ぶ者へ、拒絶する者から愛する者とへ造りかえられるとい うことです。これが主と同じ姿となるということです。このように聖霊なる神様は、イエス様を信じ るわたしたちを、「このように必ず造り変えていって下さる」ということが、パウロにとっての「希望」 だったのです。これをパウロは語りたかったのです。そしてこの希望は、わたしたちの希望でも有ります。 わたしたちもまた、このように主と同じ姿にかえられていくのです。イエス様を信じて、洗礼を受けた けど、その後、ちっとも自分は変わっていないなぁと思ってしまうのがわたしたちです。しかし、そうで はないんです。わたしたちは、間違いなく必ず変えられていきます。なぜなら、今わたしたちは、覆いを 取り外されて主なる神様と向き合っているからです。パウロは、18節で「わたしたちは皆、顔の覆い を除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえら れていきます」と言います。パウロは、わたしたちが、「神様の栄光を鏡のように映し出しながら、変 えられていく」と語っています。神様の栄光を映し出していた人のたとえを、パウロは、数節前で取り 上げていました。それは、あのモーセのことです。モーセはシナイ山で神様の言葉を聴き、モーセが神 様に話しかけるという、神様との交わり、コミュケーションをとっている時に、顔が栄光に照らされ輝 いていました。わたしたちは、今、この礼拝において、神様の言葉を聴き、また讃美と祈りをもって神 様に応えていきます。わたしたちもまた、この礼拝において神様とのコミュケーションをとっているのです。 そのわたしたちは、あのモーセのようには、顔が光っているわけではありませんが、主なる神様の栄光を この礼拝において受けているのです。顔が光ったり、体が光ったりするわけではありません。しかし、わ たしたちは先ほど述べたように、受け入れ、赦し、愛し、従い、喜ぶ者に変えられます。その造り かえられていくわたしたちの存在が、神様の栄光を帯びているのです。パウロが「栄光から栄光へ」と 言っているのは、わたしたちが、主なる神様という真の栄光から、交わりを通して、変えられていき、 わたしたち自身が小さな栄光、小さな光となるということです。真の栄光から、わたしたちが変えられ て小さな栄光へとなる。栄光から栄光へと変えられていくのです。この栄光から栄光へという言葉は、 伝道の言葉でもあります。わたしたちが、神様の栄光を帯びた小さな光として、世に出て行く時、世 の人々は、この小さな光から、真の光へと導かれます。「栄光から栄光へ」です。パウロは、このコ リントの信徒への手紙二で、わたしたちのクリスチャンのことについて、多くの表現を用いて語ってきま した。パウロは、あなたはキリストの香りである、あなたはキリストの手紙である、今回は、あなたはキ リストを示す小さな光である、としてわたしたちを表現します。つまりパウロはわたしたちを「キリスト を表す使者」として、見ているということです。わたしたちは、キリスト知らせる使者です。言い換え ればわたしたちは全員、伝道する者、伝道者です。わたしたちは、イエス様によって罪から救われた確信 を持っている伝道者です。わたしたちは、聖霊なる神様によって、受け入れる者、赦す者、愛す者、従 う者、喜ぶ者に造り変えられていく希望を持っている伝道者です。今この礼拝を通して神様との交わ りを得たわたしたちは、光っています。この確信と希望を持って光っています。わたしたちは、今、古 の伝道者パウロの意志を受け継ぎ、今から、小さな光となって、真の光、真の栄光へと隣人を導く ために、栄光から栄光へと導くために、世にでて行きます。栄光を身に帯びてこの世を駆けてゆきま しょう。

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