主日礼拝

共に生きる

「共に生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章9-21節
・ 讃美歌:55、120、392

偽りのない愛に生きるための勧め
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙の第12章9節以下を読んでおりまして、本日は三回目です。これまでに12節までを読んできました。本日は13節と14節からみ言葉に聞きたいと思います。
 日本語の聖書で読むと、12節の終わりにマルがあり、13節から新しい文章が始まっているようになっていますが、これまでに繰り返し申してきましたように、9節後半の「悪を憎み」から13節までは、原文においては切れることのないひとつながりの文章です。つまり、13節も9節からのつながりの中で理解しなければならない、ということです。このひとつながりの文章は、9節の冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」に続いて語られています。これも繰り返し申していますが、この文章は原文においては命令文ではなくて、「愛には偽りがない」という宣言の文章です。パウロはここで教会の人々に対して、神の偽りのない愛を受け、主イエス・キリストによる救いにあずかっているあなたがたは、偽りのない愛に生きることができるのだ、と宣言しているのです。そしてその偽りのない愛とはどのようなものかを9節後半から13節までのひとつながりの文章において語っているのです。そのことを生かして訳すならばこうなります。「愛には偽りがない。悪を憎みつつ、善に密着しつつ、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いつつ、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えつつ、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りつつ、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けつつ、旅人をもてなすように努めつつ」。つまりここに並べられているのは、「ああしなさい、こうしなさい」という命令文の連なりではなくて、「あなたがたは偽りのない愛に生きることができる」という励ましであり、そのための具体的な勧めなのです。本日読む13節も、キリスト信者が偽りのない愛に生きていく、その具体的なあり方を語っています。主イエス・キリストを信じてその救いにあずかり、洗礼を受けて教会に連なる者として生きている私たちは、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなしつつ生きることへと招かれているのだ、ということです。

私たちは聖なる者
 「聖なる者たち」というのは、教会に連なる信仰者たちのことです。主イエスを信じて洗礼を受けた者が「聖なる者たち」です。「いや自分はそんなに聖なる者ではない」と思うかもしれませんが、この「聖なる」の意味は、清く正しく立派な生活をしている、ということではありません。神のものとされている、ということです。私たちが信仰を告白して洗礼を受け、教会に加えられているのは、私たちが何か立派なことをしたからではなくて、神が私たちを選んで下さり、信仰を与えて下さることによって、私たち一人ひとりに「あなたはわたしのものだ」と言って下さったからです。それゆえに私たちは「聖なる者」なのです。だから私たちは「自分は聖なる者ではない」と言ってはならないのです。それは「自分は神のものではない、神による救いにあずかっていない」と言っていることになるのです。

貧しさを分かち合う
 教会における兄弟姉妹、信仰の仲間たちが皆「聖なる者たち」です。その人々の貧しさを「自分のものとして彼らを助け」とあります。この新共同訳はなかなか苦心した訳です。以前の口語訳聖書では、「貧しい聖徒を助け」とだけ訳されていました。しかしここに用いられている言葉は、「助ける」という意味であるよりも「分かち合う」とか「交わりを持つ」という意味なのです。つまりパウロが語っているのは、神のものとされている私たちの間で、貧しさを共に分ち合おう、ということです。そういうニュアンスを生かすために新共同訳は「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」と訳したのです。これはとても大事なことです。「貧しい者を助けなさい」と言われているなら、「自分も貧しいんだからそんな余裕はない。むしろ助けてほしい方だ」ということにもなります。しかし言われているのは「貧しさを分かち合う」ということです。それは自分が豊かでなくても、余裕がなくても、誰にでもできることだし、なすべきことです。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」は、一部の豊かで余裕のある人たちだけがすることではなくて、信仰を与えられて聖なる者とされた全ての者が、その気になりさえすれば誰にでもできることなのです。お互いの貧しさ、弱さ、欠けを分かち合い、助け合って共に生きる、それが偽りのない愛に生きることであり、キリストによる救いにあずかっているあなたがたはそのように生きることができるのだ、とパウロは語りかけているのです。

旅人をもてなす
 「旅人をもてなすよう努めなさい」というのも「貧しさを分かち合う」ことの一つの具体的なあり方です。この当時の旅は、現在とは比べものにならないくらい危険で、苦労の多いものでした。今では、豪華客船による世界一周の旅とか、センチメンタル・ジャーニーとか、「そうだ、○○行こう」という宣伝があったりして、そんな旅に出られたらいいなと思うわけですが、当時は、旅人というのはそれだけで苦しみの中にある人、危機に直面している人だったのです。その旅人をもてなし、宿を貸し、彼らが疲れを癒され、体力を回復して旅を続けることができるようにすることは、その人の命に関わる、現実的なそして具体的な援助だったのです。パウロ自身も何度も伝道の旅をしており、その中で様々な苦しみ、危険な目に遭いました。その旅路において信仰の兄弟姉妹によるもてなし、助け、支えをどれほど有り難く思ったことでしょうか。その「もてなし」は、今日言われているような「おもてなし」とは違って、その人が生きて旅を続けることができるように支えることだったのです。そのように旅人をもてなすよう「努める」のだと言われています。努めるとは「追い求める」という意味の言葉です。旅人をもてなすことを追い求めるのです。それは、ただ待っていて来たら迎えてあげるというだけでなく、自分から出て行って、もてなしを必要としている人を捜し出し、招いて迎え入れるということを意味していると言えるでしょう。旅人を見つけ出してもてなすことによって、あなたがたは偽りのない愛に生きることができる、とパウロは語っているのです。

教会にいる旅人
 この「旅人をもてなす」ということが今日の教会において、また社会において持っている意味を見つめたいと思います。教会には、この礼拝には、いろいろな意味での「旅人」がいます。文字通り旅行中の日曜日にこの教会の礼拝に参加した、という方もおられるでしょう。あるいは、地方から大都会横浜に出て来て、家族もおらず知り合いも少ない中で働いている、学生生活をしている、という人もいるでしょう。外国から日本に来て生活している方々もおられます。社会のグローバル化に伴って旅人もグローバル化しているのです。それらの旅人が、イエス・キリストの父である神を礼拝することを求めてここに集って来ておられる、そういう旅人を教会は迎えて、もてなすのです。それは、ご馳走をするというよりも、その人々を喜んで迎え、声をかけ、信仰の仲間として受け入れ、その苦しみ、困難、不安に寄り添い、共に生きるということです。そのことに努めていくこと、つまり困難をかかえている、不安を覚えている、助けを必要としている旅人がこの礼拝に共に集っていないか、自分の隣に座っていないか、そういう人を自分から捜し出して、語りかけ、交わりに迎え入れていくこと、それが「旅人をもてなすよう努める」ことなのです。
 さらに、教会には別の意味の旅人もいます。自分の人生には何かが足りない、確かな支えが欲しい、生きる意味や目的を知りたい、苦しみや悲しみからの救いが欲しい、そのような思いをもって礼拝に集って来ている方々がいます。それらの方々は魂における旅人であり、やはり旅人としての心細さ、不安をかかえているのです。私たち信仰者もこの世を旅人として歩んでいます。しかし私たちは、まことの羊飼いであられる神が共にいて下さり、旅路を守り、導き、養って下さっていることを知っています。そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第23編です。まことの羊飼いであられる神のもとで私たちは、天の故郷を示され、人生の確かな支えを与えられ、生きる意味や目的を示されています。そして神の独り子であられる主イエス・キリストが苦しみ悲しみの中でも共にいて下さるのです。だから私たちは、不安や心細さをかかえている魂の旅人を教会に迎えて、私たちと一緒に、まことの羊飼いである主なる神によって導かれつつ、天の故郷に向かって旅をしていきましょう、と語りかけるのです。それこそが、私たちのすることができる最大のもてなしです。もてなすべき旅人は周りに沢山います。その人々に声をかけ、交わりを築いていくこと、それが「旅人をもてなすよう努める」ことなのです。
 さらには、以前は他の教会に連なっていたのだけれども、様々な事情によってそこで礼拝を守ることができなくなって、今この教会で礼拝を守っている、という旅人もいます。そこには人それぞれにいろいろな事情、経緯があります。社会が多様化している中で、教会もまことに多様化しており、聖書に記されているキリストの福音がきちんと語られなくなったり、人間の弱さや罪の結果としての対立が生じて修復できないようなこともあるのです。そういう苦しみの中で、福音による慰めと支えを求めて避難して来る人々がいます。「教会難民」と言うと表現が悪いですが、そういう現実があるのです。そのような事情をかかえてこの礼拝に集っている人々も、私たちが迎え入れるべき旅人なのです。

社会における旅人
 このことから私たちはさらに、この社会全体における、旅人をもてなすという課題へと目を向けさせられます。今日の世界の大きな問題の一つは「難民問題」です。内戦や紛争や政治的迫害によって母国から逃れて他の国に移住する難民が非常に多くなっており、その人々をどう迎え入れるかが国際社会の大きな課題となっています。しかし日本にはそういう問題が起っていません。それは日本が難民に対して扉を閉ざしているということです。「難民鎖国」というのが日本の現実です。要するに日本は、苦しみをかかえて逃れて来る旅人を門前払いし、もてなそうとしていないのです。「旅人をもてなすよう努めなさい」という教えはそういう問題にも私たちの目を向けさせるのです。

旅人をもてなすには
 旅人をもてなすというのは、自分たちとは違う異質な人を受け入れ、交わりを持つということです。そこには様々な問題やトラブルが起ることが予想されますから、私たちはそのことに抵抗を覚えます。日本が難民を受け入れないのは、基本的に一体感の強い日本の社会を乱されたくないからでしょう。いろいろな人々が入って来て混乱が起ることを恐れているのです。余所者は入れないで自分たちの共同体を守りたいという思いが働いているのです。教会においてもそういう思いが働きます。自分たちの親しい、よく分かり合っている仲間の交わりを乱されたくない、という思いです。しかし伝道するというのは基本的に、新しい人を迎え入れていくことです。それによって既存の交わりは常に新しくされ、変えられていくのです。勿論教会は信仰を受け継ぎ、それによって生きる群れであって、その信仰自体が変わってしまうことはないし、あってはなりません。しかしそれを信じる人間は人それぞれ様々な個性を持っているのですから、新しい人が加われば当然そこにある交わりの姿は変わっていきます。そのことを受け入れ、求めていくのでなければ伝道はできません。つまり「旅人をもてなすよう努めなさい」という勧めは私たちを伝道へと促しているのです。伝道して新たな人々を迎え入れ、自分たちの交わりが常に新しくされ、変えられていくことを求めていくように促しているのです。そのようにしてこそ私たちは偽りのない愛に生きることができるのです。真実の兄弟愛に生きる群れを築くことができるのです。そのように共に生き始めようではないか、とパウロは私たちに勧めているのです。

祝福の命令
 さて14節からは新しい文章が始まります。ここからは、この翻訳の通りに「~しなさい」という命令の文章です。どうしてここからは命令文なのでしょうか。それは、語られている内容によることです。この14節は、直訳するとこのようになります。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福しなさい、呪ってはならない」。「祝福を祈りなさい」と訳されていますが、「祈る」という言葉は原文にはないのであって、端的に「祝福せよ」と命じられているのです。しかもその命令が二度繰り返されています。なぜ二度も繰り返し命令するのか、それは祝福すべき相手が「あなたがたを迫害する者」だからです。自分を苦しめ、いじめる者を祝福することが命じられているのです。「呪ってはならない」という否定の命令もつけ加えられています。本来なら、自然な思いにおいては、呪ってやりたいような相手なのです。その相手を祝福するなんてあり得ないことです。しかし神は私たちにそのようにお命じになるのです。神に命令されなければ、神に強制されなければ、私たちはとうていそのようなことはできません。だからここは命令文なのです。14節以下にはそういう命令文が連ねられているのです。
 このことから分かるもう一つのことは、13節までと14節以下では、関わりを持つ相手が違うということです。13節までは基本的に、信仰における兄弟姉妹との間で偽りのない愛に生きることが見つめられてきました。14節からは今度は、迫害する者、敵対する者、つまり基本的には教会の兄弟姉妹ではない、外の人々との関係が見つめられているのです。しかし基本的にはそうですが、教会における信仰の兄弟姉妹の関係も決して理想的な、偽りのない愛の関係となっているわけではありません。私たちの愛はしばしば偽りに陥り、罪に汚れていきます。だから教会における交わりの中で「迫害」を受けてしまうようなことも、苦しめられたりいじめられたりすることも起るのです。そういう意味では、14節以下に語られていることは教会の外の人々との関係、というふうにはっきり線を引いてしまうことはできません。教会の兄弟姉妹との間であれ、外の人々との関係においてであれ、自分を迫害する者を祝福せよ、と神は私たちに命じておられるのです。

パウロはこの命令をどう受け止めたか
 しかし神はどうしてそんなとんでもないことをお命じになるのでしょうか。なぜ、自分を迫害し、苦しめる者を、呪うのではなくて祝福しなければならないのでしょうか。この神の命令を語っているのはパウロですが、これはパウロが自分で勝手に考えた命令ではありません。主イエス・キリストご自身がそのようにお命じになったのです。マタイによる福音書の第5章44節にこのように語られています。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。また、ルカによる福音書の第6章27、8節にもこのようにあります。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。つまり「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」というのは主イエスご自身の教えであり、パウロはそれをそのまま伝えているのです。しかし私たちは、パウロがこの主イエスのご命令をどのように受け止めているのかを想像してみなければなりません。「あなたがたを迫害する者」、それはパウロ自身の以前の姿です。パウロは元々はユダヤ教ファリサイ派のエリートであり、律法を守ることによってこそ神の民としての救いを得ることができると固く信じており、十字架につけられたイエスをキリスト、救い主と信じるキリスト教徒を迫害し、教会を滅ぼすことに情熱を傾けていたのです。その彼が、使徒言行録9章に語られているあのダマスコへの道において、復活した主イエスと出会ったことによって180度の転換を与えられ、イエス・キリストを信じ、主イエスによる救いの福音を宣べ伝える者となったのです。この主イエスとの出会いにおいて彼は「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」というみ言葉を聞きました。「あなたは私を迫害する者だ」ということを主イエスによって示されたのです。自分は神がお遣わしになった主イエスを迫害し、敵対し、苦しめていた、その自分を、主イエスは選び、捉えて、罪を赦し、救いにあずからせて下さったのです。キリストに呪われて滅ぼされるしかない自分が、祝福されたのです。この決定的な体験の中で彼は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という主イエスの教えを聞いたのです。それはパウロにとってもはや一つの教えではなくて、主イエスご自身が自分のためにして下さった救いのみ業でした。主イエスは、迫害する者である自分の罪を全て背負って、十字架の苦しみと死を引き受け、自分の罪を赦し、祝福を与えて下さったのです。しかもそのことは彼の知らない間に既に行われていたのです。そのことを彼はこの手紙の第5章8節でこのように言い表していました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。この神の偽りのない愛を示された彼は、「自分を迫害する者を祝福せよ」という主イエスの命令を、あり得ない、とんでもない命令としてではなくて、むしろ当然のこととして、神の恵みに満ちた命令として受け止めたのです。

呪いから祝福へ
 このようにして救いにあずかったのはパウロだけでしょうか。まだ罪人であったとき、キリストが死んでくださったことにより、神が愛を示して下さった、その神の愛によって祝福を受け、罪を赦され、救いにあずかった、それは私たち一人ひとりが皆そうなのではないでしょうか。私たちもかつてのパウロと同じように神に背き、神のみ心よりも自分の思いを第一として歩んでおり、その結果神の恵みを見失い、隣人との良い関係を損ねてしまっています。神に呪われて死ぬべき私たちなのです。しかし主イエス・キリストがその呪いを私たちのために代って引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。そこに示された神の愛によって、呪いは打ち破られ、祝福へと変えられたのです。主イエスの十字架におけるこの神の偽りのない愛の中で、「自分を迫害する者を祝福せよ」という命令が与えられているのです。それは先程の「旅人をもてなすよう努めなさい」も同じです。主イエスご自身が、魂の拠り所を見出せずに、どこに向かって歩んでいけばよいのか分からない、寄る辺ない不安と心細さの中にいた旅人であった私たちを迎え入れて下さり、天の故郷を示して下さり、良い羊飼いとなって養い、守り、導いて下さることによって豊かにもてなして下さったのです。その主イエスが私たちにも「私があなたにしたように、旅人を迎えてもてなしなさい」と言っておられるのです。私たちは人間関係の中で、お互いに対して罪を犯し、人を傷つけまた傷つけられることの中で呪いの思いに満たされていく者です。しかし呪いの思いからは何一つ喜ばしいこと、建設的なこと、明るく前向きなことは生まれません。呪いは祝福へと変えられなければならないのです。そのために、主イエス・キリストは十字架の死によって呪いをご自分の身に引き受け、私たちには祝福を与えて下さったのです。この祝福の中で生きるために私たちは、自分を迫害する者を呪うのでなく祝福しつつ、その人と共に生きることを追い求めていくのです。

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