「この世に倣わず」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エゼキエル書 第18章21-32節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章1-2節
・ 讃美歌:51、392、516
信仰者の生活の前提となること
本日は横浜指路教会の創立143周年の記念礼拝ですが、先々週と先週に続いて本日も、ローマの信徒への手紙第12章1、2節をご一緒に読みたいと思います。この箇所からみ言葉に聞く中で、教会の歴史に思いを馳せていきたのです。
この手紙の12章以下には、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者たちの生活についての教えが語られています。12章1、2節には、その信仰者の生活の前提となる三つのこと、第一は、その生活の土台は何か、第二は、その生活はどのようにして成り立つのか、そして第三は、その生活が目指すものは何かが語られているのです。
私たちはこれまでの二回の礼拝で、1節を読むことによってその第一と第二のことを示されてきました。それを振り返ってみますと、第一の、キリスト信者の生活の土台は何か、それは「神の憐れみ」であることが、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言い表されていました。神が、罪人である私たちに、深い憐れみによって独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さった、その憐れみを土台として、その救いに感謝し応えていくことがキリスト信者の生活なのです。第二の、その生活はどのようにして成り立つのか、そのことは1節後半の、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」に示されています。自分の体を、生活全体を、神にお献げして、神のものとなり、神に用いていただく、そのようにしてこそキリスト信者としての生活は成り立つのです。信仰者の生活とは、自分を神にお献げして、神のものとなって生きることです。そしてそれこそが「あなたがたのなすべき礼拝です」とも言われています。礼拝とは、自分を神にお献げすることです。日曜日、主の日に行われるこの礼拝だけではなく、毎日の具体的な生活において、信仰者は神に身を献げて生きるのです。主の日の礼拝はその礼拝の生活の頂点であり、またそれを支える土台です。私たちは主の日の礼拝においてみ言葉によって力を与えられて、そこから、神に身を献げて生きる日々の生活へと押し出されていくのです。そのようにして一週間を歩み、そしてまた主の日の礼拝へと戻って来る、それがキリスト信者としての生活であることが1節に語られており、それを先週聞いたのです。
信仰生活が目指しているもの
本日は2節を読んでいきたいと思います。この2節には、信仰者の生活の前提となる第三のこと、キリスト信者の生活が目指すものは何か、が語られています。2節の始めに「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあります。ここの原文を直訳すれば、「この世と同じ形にされてはならない」となります。キリスト信者として生きるあなたがたは、この世の鋳型にはめられて、この世と同じ形にされてはならない、と言われているのです。この世に倣わず、この世とは違う形をもって生きることが、私たちが信仰生活において目指していくべきことなのです。
「この世」とは
この教えの前提には、「この世」は避けるべき悪いものだという理解があります。そこから私たちは「この世」をいわゆる「俗世間」と考えてしまうことが多いのではないでしょうか。「俗世間」には人間の欲望などの罪が渦巻いており、富や権力を持つ強い者が弱い者を食い物にしている、そういう弱肉強食の、愛のない世界だ。そういう俗世間のあり方に倣ってはならない、それに染まってはならない、それが「この世に倣ってはならない」という教えの意味だと理解していることが多いと思うのです。この教えをそのように捉えることによって、そこには二種類の、正反対の反応が生まれます。一つは「その通りだ」という反応です。正しい生き方の理想を掲げてこの世の現実と戦おうとしている人にとっては、「この世に倣うな」という教えは、理想を失わず、現実と妥協せずに正しいことのために戦おう、という励ましの言葉として受け取られるのです。しかしそこにはもう一方で、「そんなこと言われても」という反応も生まれます。我々はこの世の現実の中を、まさに「俗世間」を生きているのだ。そこにおいてある役割を担い、務めを果していくためには、ある点では俗世間のあり方に従い、他の人々と同じ歩みをしなければ何も出来ない。俗世間に染まらずに生きようとしたら、山の中にでも籠るか、修道院のような所に入るしかないではないか、という反発も起って来るのです。しかしこれはいずれも、ここでパウロが語っている「この世」の意味の誤解から生じる反応です。パウロが「この世」と言っているのは、「俗世間」のことではありません。「この世」とは、主イエス・キリストによる救いを示される前の古い世界のことです。つまり「この世」とは、罪に満ちた俗世間のことではなくて、キリストを知らない、キリストと関わりのない世界のことなのです。
新しい時代が始まっている
「この世」の「世」という言葉は「世界」という意味ではありません。そういう空間的な意味の言葉ではなくて、これは「時代」と訳すことができる言葉です。つまりパウロは「この時代に倣ってはならない」と言っているのです。その場合の「この時代」とは、イエス・キリストが来られ、その救いのみ業が行われる前の、罪と死に支配されている時代、神の恵みによる救いを受けていない古い時代です。主イエス・キリストが来られたことによって、今や神の救いの恵みが支配する新しい時代が始まっているのです。パウロが「この世、この時代」の対極に置いているのは、「あの世」とか、あるいは「俗世間」とは対照的な「聖なる世界」ではなくて、イエス・キリストによってもたらされた新しい世、新しい時代なのです。キリスト信者はこの新しい世、新しい時代を生きているのです。パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節でこう言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。洗礼を受け、キリストと結ばれたことによって私たちは新しくされ、新しい時代を生きる者とされているのです。キリスト信者としての生活とは、この新しい時代を、新しくされて生きることなのです。 新しい時代は、主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的に始まりました。キリスト信者は、主イエスによってもたらされた新しい時代を生きています。しかし古い時代、「この世」は依然として大きな力をもって私たちを捕えようとしています。私たちを、古い時代の古い生き方の鋳型にはめようとしています。それゆえに、「この世に倣ってはならない、その鋳型にはめられて同じ形にされてはならない」と勧められているのです。古い時代の古い生き方を捨てて、主イエス・キリストによってもたらされた新しい時代に即した新しい生き方を身に着けること、それがキリスト信者としての生活の目指す所なのだ、と2節は語っているのです。
眠りから覚めるべき時が来ている
このことは、この後の13章11、12節に語られていることへと繋がっていますので、そこを先取りして読んでおきたいと思います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と言われています。それは、「夜は更け、日は近づいた」ことを知っているということです。夜、それが古い時代、「この世」です。それはもう過ぎ去ろうとしている。そして日が近づいている。つまり主イエス・キリストによってもたらされた新しい時代が明け初めようとしているのです。そのことを知らされているのがキリスト信者です。だから、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ている」。これがキリスト信者の生活のあり方です。夜が明けようとしていることを知っている者として、夜の眠りから覚めて、朝を迎えるのに相応しい生活をしていくのです。けれども、「夜は更け、日は近づいた」という言い方からも分かるように、今はまだ朝ではありません。むしろ夜が更けているのです。夜の闇が最も深まっており、闇だけが目に見える現実なのです。古い時代、「この世」が今はまだ大きな力を振るっています。その闇が私たちを眠り込ませようとしています。それが、この世に倣うとか、この世の鋳型にはめられてしまうということです。つまりそれは、主イエス・キリストによって新しい時代がもたらされ、神による救いの恵みが既に示されているのに、その明け初めようとしている朝を思わず、夜がいつまでも続くように思い、闇の中に眠り込んでしまうことです。言い替えれば、主イエスによる救いを信じないで生きることです。それが「この世と同じ形にされる」ことであり、そうならないようにとパウロは戒めているのです。
どのような前提に立って生きるか
ですからこれは、「妥協せずに理想を追い求めなさい」ということではないし、「汚れた俗世間から離れて生きなさい」ということでもありません。私たちがキリスト信者としての生活において目指していくのは、私たちが思い描く理想の実現ではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の救いの恵みを本当に信じて、その救いに支えられて生きることなのです。その生活は、俗世間から離れたところで営まれるのではありません。私たちが生きているのはこの現実の世界です。この現実の世界を、どのような前提に立って生きるかが問われているのです。先程の13章の言葉で言えば、今がどんな時であると認識して生きるか、です。信仰者は、自分自身と人々の罪が渦巻く悲惨な現実の中を生きています。そのことをしっかり見つめつつその中で、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が既に新しい時代を始めて下さっていること、主イエスを信じ、主イエスと結び合わされることによって自分が新しくされ、新しい時代を生きる者とされることを信じて、その救いに支えられて生きるのです。それがキリスト信者としての生活なのです。
神によって自分を変えていただく
この新しい時代を生きるためには何が必要か、それが2節後半に語られていることです。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。キリスト信者としての生活とは、このことを目指し、追い求めていく歩みなのです。「心を新たににして自分を変えていただく」とあります。「自分を変えていただく」というところには「形を変えられる」という言葉が使われています。つまり、「この世の鋳型にはめられてこの世と同じ形になるのでなく、むしろ形を変えられていきなさい」と勧められているのです。信仰者として生きる上で私たちが根本的に目指し、求めていくべきことは、「自分を変えられていく」ことです。それは神がして下さることです。神によって自分を変えられていくことが信仰者の生活の基本なのです。私たちは、自分で自分を保ち、この世に倣わず、この世の鋳型にはめられないようにしようと努力しても、それによって「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」者となることはできません。何故ならば私たちが自分で、これこそ神の御心であり、善いことであり、神に喜ばれる完全なことだ、と思うことというのは、結局は自分の、人間の思いだからです。だから私たちは、自分が思う神の御心を行って生きようとすることによって、自分の思い、人間の思いに捕えられていくのです。その自分の思いは、その時代の世の中の風潮や人々のトレンドなどによって左右され、形作られているものですから、結局そこに、「この世に倣い、この世の鋳型にはめられる」ことが起るのです。ですから私たちが、自分はこの世に倣わず、この世の鋳型にはめられずに生きている、と思うことほど危険なことはありません。それは、私たちが自分の思いを神の思いとして絶対化している、ということであり、それこそがこの世の鋳型にはめられた姿なのです。そうならないためには、神によって自分を変えていただくことが必要です。私たちが信仰において目指していくべきことは、自分の決意や努力で正しく生きて行くことではなくて、神によって自分を変えていただくことです。自分の思いが神のみ心によって常に正され、変えられ、新しくされていくことを受け入れ、そのことを祈り求めていくことこそが、信仰の生活において目指すべきことなのです。そのことは、自分の体を神にお献げする礼拝においてこそ起ります。自分をお献げする礼拝においてこそ信仰の生活が成り立つというのはそういうことです。自分自身を神にお献げし、神のものとなって、神のみ心によって用いていただこうとする中でこそ私たちは、この世に倣うことなく、むしろ心を新たにして自分を変えていただくことができるし、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」ことができるのです。
教会の歴史を振り返る土台
私たちが教会の歴史を振り返っていくことにおいて土台とすべきであるのもこのことです。主イエス・キリストの十字架と復活における神の憐れみ、救いの恵みによって、143年前にこの教会が誕生し、今日まで歩んできました。日本においては最も長い歴史を持っている教会の一つであることは確かです。しかし、その歴史の長さを誇ることには意味がありません。キリスト教会の二千年の歴史の中で、143年というのはまだまだ生まれたばかりの「ひよっこ」です。しかし感謝すべきことに、この143年の間、この教会において、神への礼拝が献げられてきたのです。私たちの先達たちが、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる礼拝に生きてきたのです。主の日の礼拝において、キリストの十字架と復活によって神の救いが既に実現し、新しい朝が明け初めていることを示され、その恵みによって押し出されて、日々の生活において、自分自身を神にお献げし、神によって新たにされて、人間の思い、この世の思いとは違う、神の御心をわきまえてそれに仕える歩みを与えられてきたのです。そのことを神に感謝し、主を誉めたたえることこそ、私たちが教会の歴史を振り返って今なすべきことです。しかしそこに同時に見えてくるのは、143年の歩みの中で、必ずしも常に、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる礼拝がなされてきたわけではない、ということであり、教会に連なる者たちの生活が常にそのように自らを神に献げるものとなっていたわけではない、ということであり、それゆえに、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」をしっかりとわきまえて生きることができず、むしろこの世に倣ってしまい、この世の鋳型にはめこまれ、この世と同じ形になってしまっていたこともあったということです。それは、過去の人々がどうだったというよりも、現在ここで礼拝をささげ、信仰の生活を送っている私たち自身のことを振り返ってみれば一目瞭然です。教会の歴史は、神の憐れみによって礼拝がなされ、礼拝を中心とする信仰者の生活が営まれてきた歴史であると共に、「なすべき礼拝」ができずに、信仰による生活がきちんと形成できなかったために、この世と同じ形になってしまい、目に見えるこの世界の夜の闇に飲み込まれて眠り込んでしまった人間の罪の歴史でもあるのです。そのことを自分自身の事柄として認め、神のみ前で悔い改めることも、今私たちがしなければならないことです。
何を目指していくのか
そしてそのように教会の歴史を振り返ることによって、私たちが今、そしてこれから、何を目指し、何を努力していくべきなのかが示されます。それは、今この教会へと主によって導かれ、その構成員とされている、あるいはそこへと招かれてこの礼拝に共に集っている私たちが、どのような信仰の生活を築いていくか、そこにおいて何を目指していったらよいか、ということです。そのことを、ローマの信徒への手紙12章1、2節が指し示してくれているのです。私たちは神の憐れみによってこの礼拝へと導かれています。礼拝において、聖書が語っている神のみ言葉を聞き、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられた罪の赦しと、復活と永遠の命の約束を示されています。そして今日もその恵みにこの体をもってあずかるための聖餐が備えられています。神の憐れみによって与えられているこの礼拝が、まことの礼拝となり、信仰の生活を支えるものとなるために、私たちは主の恵みに応えて、自分の体を、自分自身を、神にお献げしたいのです。そしてそのことによって聖霊のお働きを受け、心を新たにして自分を変えていただきたいのです。自分の思いや考えを神の御心と思い込み、それを絶対化し、それによってこの世の鋳型にはめられていくことから解放されて、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」を常に新しく神から示されて、その御心に従って生きる者となりたいのです。
悔い改めつつ生きる
それは言い替えれば、私たちが悔い改めつつ生きるということです。神が私たちに求めておられるのは悔い改めです。「心を新たにして自分を変えていただき」つつ生きる信仰者の生活とは、悔い改めつつ生きることなのです。今年私たちは宗教改革500年を覚えて歩んでいますが、ルターの宗教改革の始まりとなった「九十五箇条の提題」の第一は「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」でした。悔い改めは、私たちが何か罪を犯したと自覚し、神に赦していただかなければと思った時にだけすることではありません。私たちの全生涯が、つまり日々の生活の全てが、悔い改めであることを主イエスは望んでおられるのです。そのことによってこそ、私たちは、この世に倣うことなく、この世の鋳型にはめられてしまうことなく、常に神との交わりに生き、その中で「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」を常に新たに示されて生きることができるのです。先程共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第18章21節以下は、悔い改めへの勧め、促しです。31節には「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」とあります。私たちが自分で新しい心と新しい霊を造り出せるわけではありません。それは神が、主イエス・キリストによる救いの恵みの中で、聖霊のお働きによって造り与えて下さるものです。私たちはそのことを求めて信仰の生活を送るのです。神はそのことによって、私たちを生かそうとしておられます。31節の続きには、「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」とあります。主なる神は罪人である私たちを裁いて滅ぼし、殺そうとしておられるのではありません。私たちが主のみもとに立ち帰って、新たにされて生きることをこそ願っておられるのです。このみ心に応えて、主のもとに常に立ち帰りつつ歩むことによってこそ、私たちは教会の歴史をさらに前進させていくことができるのです。