主日礼拝

神の約束

「神の約束」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記第15章1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第4章13-25節
・ 讃美歌:241、165、412

信仰による義
ローマの信徒への手紙においてパウロは、「信仰による義」を宣べ 伝えています。信仰による義とは何でしょうか。それを彼はこの4章 の5節でこのように言い表しています。「しかし、不信心な者を義と される方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められま す」。つまり信仰による義とは、不信心な者、これは罪ある人という 意味の言葉ですが、罪ある人が、働きがなくても、ということは良い 行いや立派な業をすることが全くなくても、信仰によって神に義とさ れるということです。神に義とされるとは救われるということですか ら、罪ある人が良い行いをすることによってではなく信仰によって救 われる、それが信仰による義なのです。そしてパウロはこの第4章で 、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムも信仰によって義とされ たのだ、と語っています。本日の箇所の最初の13節にも、「神はア ブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その 約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた のです」とあります。アブラハムに与えられた神の救いの約束は、律 法に基づいてではなく、つまり彼が律法を守るという良い行いをした からではなく、信仰による義によってこそ与えられた、そのように語 ることによってパウロは、信仰による義の証人、証し人としてアブラ ハムをここに登場させているのです。このアブラハムに与えられた信 仰による義が、今や私たちにも、神が遣わして下さった救い主イエス ・キリストを信じる信仰によって与えられている、そのことをパウロ はこの手紙において語っています。私たちも罪ある者だけれども、良 い行いや立派な業をすることによってではなく、主イエス・キリスト を信じる信仰によって義とされ、救われる、それがパウロの語ってい る福音の中心なのです。

お目出度い気楽な話?
良い行いや立派な業なしに、ただ信仰によって義とされ救われると いう「信仰による義」は、決して分かりやすい教えではありません。 私たちがそのようなことを人に話した時に、「それはすばらしい教え ですね」という反応が返って来ることはまずないでしょう。むしろ 、「あなたはそんなお目出度いことを本気で信じているんですか」と 言われるのがオチでしょう。私たち自身もそう感じるのです。良い行 いなしに信仰だけによって罪人が救われるなんて、そんな棚からぼた 餅みたいな気楽なことでいいはずはない、と思うのです。しかし、こ の「信仰による義」こそが福音の中心であり、パウロはこの福音を宣 べ伝えるために命を捧げ、ついには殉教の死をとげました。パウロに 続いて多くの人々がこの福音に命を捧げていったのです。単なる「お 目出度い気楽な話」からそのような力や情熱は生れて来ないでしょう 。信仰による義という福音は、人を力強く情熱的に生かし、死をも恐 れない歩みを与えるものなのです。それは何故なのかを私たちは本日 の箇所を読み考えたいのです。
働きなしに、良い行いなしに義とされるという福音を「お目出度い 気楽な話」と私たちが感じるのは、それが私たちの自然な感覚や常識 に反することだからです。神によって義とされる、つまり正しい者と 認められるためには、正しいことをしていなければならない、良い行 いをしているから義とされるのだ、というのが私たちの自然な感覚で す。だから、罪ある人が自分の罪を反省して、良い行いをして神に義 と認められる者となり、それによって救いを得るために努力すること が信仰であって、そういう努力を勧め励ますのが宗教だ、というのが 宗教や信仰についての私たちの常識となっているのではないでしょう か。それゆえに、良い行いをする努力なしに義とされ救われるという 教えはお目出度い気楽な話に感じられ、そんなことでいいはずはない 、と思ってしまうのです。そのために私たちはしばしば、「信仰によ る義」というパウロの福音をねじ曲げて理解してしまいます。「信仰 による義」とは、いわゆる道徳的な良い行いをし、善行を積むように なることによってではなくて、神を信じ、毎週礼拝に通い、日々聖書 を読み祈り、いわゆるクリスチャンらしい信仰の生活に励むことによ って義とされ救われるということだ、という理解です。しかしこれは 、パウロが語っている「信仰による義」とは全く違うものです。なぜ ならそこでは信仰が人間のする「良い行い、立派な業」の一つになっ てしまっているからです。つまり「働きがなくても」ではもはやなく なっているのです。しかし「信仰による義」とは、信仰という良い業 によってでもない、人間のいかなる良い行いにも全くよらない救いな のです。それは私たちにとってとても分かりにくい、つまずきに満ち た、受け入れにくいことなのです。

人間の行いとしての信仰
「働きがなくても信仰によって」ということが私たちにとって分か りにくいのは、私たちが信仰というものを、自分が神を信じて何かを すること、信仰による自分の働きや行いとして捉えているからです。 信仰が自分の働きの一つであるなら、「信仰によって」と「働きがな くても」は結びつきません。信仰に基づく自分の良い行いや立派な働 きによって義とされ救われるということになるのです。それこそが、 ユダヤ人たちが抱いていた、「律法を守ることによって救いが得られ る」という思いでした。パウロは本日の箇所の13-15節において 、アブラハムが義とされたのは律法によってではない、ということを 激しい口調で語っています。13節は先程読みましたが、14、15 節も読んでみます。「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信 仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありませ ん」。律法に頼るとは、律法を行なうという人間の良い行いによって 救いを獲得できると思うことです。そうであれば信仰は無意味となる 、とパウロは語っています。律法と信仰はこの点では対立しているの です。つまりパウロは信仰を、律法を守り行なうことに代表される人 間の良い業とはむしろ対立するものとして捉えているのです。

神の約束の実現を待ち望む
それではパウロにとって信仰とは何なのでしょうか。それを知る鍵 となる言葉は、ここに繰り返し語られている「約束」という言葉です 。神はアブラハムとその子孫に、世界を受け継がせることを約束され ました。その神の約束の実現を信じて待ち望むことこそがパウロが見 つめている信仰なのです。律法を行なうという人間の業によってこの 約束の実現を、つまり人々の救いを達成できるなら、約束を信じて待 ち望むよりも人間が努力してそれを達成していくことが大事になりま す。つまり約束などいらないし、それを信じて待ち望む信仰は無意味 となるのです。しかしパウロが見つめている信仰とは、人間が努力し て良い行いに励むことではなくて、神が約束を実現して下さることを 、つまり神の業、神の働きとしての救いを信じて待つことです。その 信仰において私たちは、自分の業や働きにではなくて、神が私たちの ためにみ業を行い、救いの約束を実現して下さることに目を向けるの です。「信仰による義」とは、信仰という私たちの業、良い行いによ って得られる義ではなくて、神の恵みのみ業、神の約束の実現によっ て与えられる義なのです。それゆえにそれは「働きがなくても」与え られるのです。私たちが「働きがなくても」ということをなかなか受 け入れることが出来ないのは、自分が良い働きをして正しい者、立派 な者になり、それによって救いの確信を得ることを求めているからで す。自分が良い働きをして正しい者となり、救いを得ようとすること をやめて、神の恵みのみ業に目を向け、それを待ち望む者となるので なければ、信仰による義を正しく受け止めることはできないのです。

プライドという罪
私たちが信仰による義をお目出度い気楽な話と感じて受け入れない のもそのような思いによってです。信仰による義は、自分が良い働き をして正しい者となって救いを得ようとしている私たちの思いに反す る教えなのです。それはさらに言えば、自分は正しい者となれる、と いう私たちのプライドを逆撫でする教えなのです。良い行いをして正 しい者になれるという思いを捨てて、ただ神の約束の実現を待ち望む などということは、私たちのプライドが許さないのです。だから「そ んなお目出度い気楽なことを」と馬鹿にしてそれを拒もうとするので す。しかし問題は、私たちが自分の良い業、働きによって正しい者と なり、それによって「世界を受け継ぐ」ことができるのか、というこ とです。神はアブラハムに「世界を受け継がせる」と約束なさいまし たが、それは世界の支配者になるということではありません。神がア ブラハムに約束なさったのは、彼とその子孫が大いなる民となること によって、地上の全ての人々に主なる神の祝福が及んでいく、という ことです。世界を受け継ぐとは、世界の全ての人々に神の祝福をもた らす者となる、ということなのです。言い換えれば世界の人々を救う 者となるということです。そういうことを私たちは自分の良い行いに よって、自分の働きによって実現出来るのでしょうか。それが本当に 出来るならば、私たちがプライドを持って努力することにも意味があ るでしょう。しかしそうでないなら、私たちは、力がないくせにプラ イドだけは高いというまことに扱いにくい者になってしまっているの です。パウロは、私たちは律法を行なうことによって世界を受け継ぐ ことが出来ないばかりか、むしろ律法は怒りを招くものだと言ってい ます。その怒りは神の怒りです。私たちが自分の行いの正しさに固執 して行なっていることは、人々に祝福をもたらすどころか、むしろ人 を傷つけ、殺すような結果を生んでいます。自分が正しいと信ずる者 どうしがぶつかり合って、争い、戦いが起り、泥沼化していくという ことが、私たちの身近な人間関係においても、また国際情勢において も起こっています。自分が良いことをすることによって正しい者であ ることが出来るとする私たちのプライドが人を救うどころか傷つけ、 殺し、神の怒りを招く罪となっていることをパウロは見つめているの です。

信仰によってとは、神の恵みによってということ
信仰による義とは、そのように神の怒りを招くような歩みをしてい る罪人である私たちが、ただ神の恵みによって赦されて義とされ救わ れるということです。働きがなくてもというのは、私たちが立派な良 い行いをしていなくてもというよりもむしろ、自分の働きにおいては 全く罪人でしかない、人を救うどころか悲惨な結果を生むことしかで きない私たちが、ただ神の恵みによって赦されて義とされるというこ となのです。罪人である私たちの救いはそのようにして与えられるの であって、それ以外ではないのです。お目出度い気楽な話だと言われ ようと、私たちはこの救いをいただくしかないのです。自分のプライ ドに固執している余裕はありません。それは例えて言えば、溺れかけ ている者が投げられた浮き輪に必死につかまるようなものです。俺は 泳げるんだ、などというプライドに固執していたら命を失うのです。 溺れかけている者が自分で泳ごうと手足をバタバタさせることをやめ て浮き輪に、あるいは救助隊員に身を委ねることが必要なように、私 たちも自分の行いによって正しい者となろうとすることをやめて、神 の恵みに、神が約束を実現して下さることに身を委ね、待ち望むこと が必要なのです。それこそが信仰であり、その信仰によって私たちは 救いにあずかるのです。パウロはそのことを16節でこのように語っ ています。「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるので す。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に 頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるの です」。ここでは、「信仰によって」が「恵みによって」とすぐに言 い換えられています。つまりパウロはここで、神の約束は信仰によっ て、つまり神の恵みによって実現するのだと言っているのです。信仰 とは、神が約束を恵みによって実現して下さることを信じて待ち望む ことなのです。

アブラハムの信仰
パウロはアブラハムがその信仰に生きた姿を次の17節以下で語っ ていきます。17節の途中から18節にこうあります。「死者に命を 与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハム は信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するす べもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫は このようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりまし た」。ここで見つめられているのは、アブラハムが、子供が生まれな いままに自分も妻も年老いてしまったという現実の中で、神がお語り になった「あなたの子孫は空の星のように多くなる」という約束を信 じ、それによって義とされたという、本日共に読まれた旧約聖書創世 記第15章1-6節です。そのことをパウロは19-22節でこのよ うに語り直しています。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、 既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知り ながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って 神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神 を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だ と、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわ けです」。ここを読むと私たちはまたぞろ、アブラハムは不可能と思 われる現実の中で、神の約束を疑わずに信じるという立派な信仰者と なることによって義と認められたのだ、と思ってしまいそうになりま す。しかし創世記を読んでみるとアブラハムは決していつもここに書 かれているように神の約束を疑わずに信じ続けたわけではないことが 分かります。彼は神からの約束を与えられていたのに、目に見える現 実が変わらないことに苛立ち、自分の力で何とかしようとしました。 妻の女奴隷に子を生ませたりもしたのです。つまりアブラハムがどれ だけ信仰深い人だったかということで言えば、彼はむしろ欠点だらけ の、失敗してばかりの人だったのです。パウロはそのことを知らない のではありません。にもかかわらずアブラハムの信仰をこのように語 ることができるのは、その信仰をアブラハムの立派な働きや正しい行 いとしてではなくて、神がご自分の約束を恵みによって実現して下さ った、その恵みのみ業の中で、弱く罪深いアブラハムが生かされ、神 の約束の実現を体験させられていったことを見つめているからです。 アブラハムが信仰によって義とされたというのは、彼が神の約束を一 瞬たりとも疑うことのない確固たる信仰に生きたからそのご褒美とし て義とされたということではなくて、神が恵みによって彼の罪を赦し て下さったということなのです。創世記を読むと、神がアブラハムに 繰り返し繰り返し約束を与え続けて下さったことが分かります。アブ ラハムは目に見える現実に引きずられて、何度も何度も、神の約束に 信頼することが出来なくなってしまいました。しかしそのたびに神は 彼をこの約束の下へと立ち帰らせて下さったのです。アブラハムの信 仰によってと言うよりも、彼の不信仰にもかかわらず、神の約束は恵 みによって実現していったのです。そのような歩みの中でアブラハム は、神を信じるとはどういうことなのかを知らされていったのです。 彼が知らされたのは、17節にあるように「死者に命を与え、存在し ていないものを呼び出して存在させる神」を信じることでした。神を 信じるとは、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在 させる方を信じることなのです。19節に「そのころ彼はもう百歳に なっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻のサラの体も子を 宿せないと知りながらも」とあります。「衰えており」という言葉は 文字通りには「死んでおり」という意味です。サラが「子を宿せない 」というのも文字通りに訳せば「死んでいる」という言葉です。アブ ラハムもサラも、子を生むという機能においては既に死んでいたので す。しかし神は約束を実現して、その彼らに息子イサクを与えて下さ いました。まさに死者に命を与えて下さったのです。それは彼の信仰 においても言えることです。神の約束に信頼することができず、自分 の力で何とかしようと右往左往してしまうアブラハムは、信仰におい て死んでいる者、存在していないに等しい者だったのです。しかし神 がその恵みによって彼を呼び出して存在させて下さり、神を信じて生 きる者として下さった、そして全ての信仰者がその信仰を受け継ぐべ き「信仰の父」として下さったのです。私たちが受け継ぐべきその信 仰とは、信仰という自分の良い行いや働きによって正しい者、立派な 者となろうとすることではありません。自分の行いや働きは何もない 、むしろ神の怒りを招くしかない罪人である者が、ただ神の恵みと憐 れみによって救いにあずかる、その神の約束の実現を待ち望むことこ そが、アブラハムの信仰なのです。

死者に命を与える神を信じて
パウロは23節以下で、アブラハムがこの信仰によって義と認めら れたことは、私たちのために記されているのだと語っています。私た ちも、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる 神の恵みを知らされています。私たちの罪を全て背負って十字架にか かって死んで下さった主イエス・キリストに、父なる神が命を与え、 復活させて下さったことにおいて、死者に命を与え、存在していない ものを呼び出して存在させる神の恵みが私たちにも示され、与えられ ているのです。24、25節に「わたしたちの主イエスを死者の中か ら復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエス は、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるた めに復活させられたのです」とあります。神の独り子であられる主イ エスが人間となってこの世に来て下さったのは、私たちの罪を全て背 負って十字架にかかって死んで下さるためでした。本日からアドベン ト、待降節に入ります。神の子主イエスが、私たちの罪のゆえに死に 渡されるために人間となってこの世に来て下さったことを覚え、その ことを喜び祝うクリスマスに備えていく時です。主イエスのご降誕、 クリスマスの出来事を覚える時に私たちは、その主イエスが私たちの 罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたこ とをも覚えていきます。さらにアドベントは、復活して天に昇られた 主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちにも復活と永 遠の命を与えて下さることを待ち望む時でもあります。私たちは主イ エスがもう一度来て下さって私たちの救いを完成して下さるという神 の約束を信じて待ち望みつつ生きるのです。主イエスを死者の中から 復活させて下さった方が、存在しない者を呼び出して存在させるその み力によってこの救いの約束を実現して下さることを信じるなら、私 たちもその信仰によって義とされます。その信仰による義とは、私た ちが良い働きをし、信仰者らしい立派な人、正しい人になり、それに よって自分の救いの確信を得ることではありません。良い働きなど何 もない、立派でも正しくもない罪人である私たちが、独り子主イエス の十字架と復活によって私たちの罪を赦して下さり義として下さる神 の恵みと憐れみを受けることによって、終わりの日に完成する神の救 いの約束を信じて待ち望む者とされるのです。この「信仰による義」 を与えられることによって私たちは、自分はどのような良い働きがで きているか、正しい者となっているか、周りの人にクリスチャンらし いと認めてもらえるような生き方が出来ているか、というようなこと を見つめ気にするのをやめて、罪人を赦し救って下さる神に目を向け 、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神の 力を信じて、その恵みに身を委ねて生きる者となるのです。そこにこ そ、信仰によって与えられる本当の平安と喜びがあります。その平安 と喜びこそが、私たちを力強く情熱的に生かし、死をも恐れない歩み を与えるのです。

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