主日礼拝

皆、罪の下にある

「皆、罪の下にある」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:イザヤ書第59章1-15節a
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第3章9-20節
・ 讃美歌:18、22、432、67、79

皆等しく罪の下にある  
 ローマの信徒への手紙は、1章18節から3章20節までが一つの区切りです。本日をもってその区切りが終わります。この部分に語られていることは、何度も申してきましたが、人間の罪と、それに対する神の怒りです。そしてそれは、人間の中には罪を犯している者がおり、そういう者たちに対して神が怒っておられるということではなくて、私たち人間は皆、一人残らず、罪を犯しており、神の怒りの下にある、その点において、自分たちだけは特別だと主張できる者はいない、ということなのです。本日の箇所の最初の9節にそのことがはっきりと語られています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。「わたしたち」とは、この手紙を書いたパウロもその一人であるユダヤ人のことです。ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれ、律法や割礼を与えられた特別な民なのであって、ギリシア人に代表される異邦人、まことの神を知らない者たちとは違う、自分たちには優れた点があるのだ、と思っていました。パウロは、そういうユダヤ人の誇りを徹底的に打ち砕き、我々ユダや人に優れた点は全くない、ユダヤ人も異邦人と全く同じように罪の下にあり、神の怒りの下にあるのだ、と言っているのです。つまり、神の前で罪人であるという点で、人間は皆平等だということです。聖書は、神の前での全ての人間の平等を語っているとよく言われますが、その根本にあるのは、罪人であるという点での平等です。持って生まれた能力とか性格とか、また育った環境などにおいて、人間は決して平等に造られてはいません。ここに集っている私たちだけに限っても、それぞれに様々な違いがあります。その多くは、自分の努力でどうすることもできない、生まれつきの違いです。そういう生まれつきの違いを感じる時に私たちは、人のことをうらやましく思い、神様は不公平だ、と思うことがよくあります。この世の現実において、人間は決して平等だとは言えない、神の前で人間は平等だなどというのは嘘だ、と思ったりするのです。しかし聖書が神の前での人間の平等として見つめているのは、能力のあるなしや育った環境のことではなくて、人間の罪なのです。神に対しても隣人に対しても、愛することができずに、むしろ憎んだり傷つけたりしている、そういう罪に陥っていることにおいて、私たち人間は皆神の前で平等なのです。私たちはこのことを聖書からしっかり聞き取らなければなりません。そこにこそ、全ての人に平等に与えられている神の救いの恵みが見えてくるのです。神の前での人間の平等ということを、境遇における平等と考えてしまうと、私たちは、神は不公平だという不平不満に捕われて、自分の人生を喜びをもって積極的に生きることができなくなります。賜物においても境遇においても、様々な違いのある私たちが、神の前で人間は平等であることを知り、人を分け隔てなさらない神の救いの恵みにあずかって、喜んで積極的に生きていくために先ず知らなければならないのは、人間は皆等しく罪の下にあるということなのです。それゆえにパウロはこの手紙の最初に、しつこいほどに、全ての人間の罪について語っているのです。本日の箇所はその部分の締めくくりなのです。

私たちを支配している罪の力  
 この手紙は1章18節以来ずっと、人間の罪について語ってきたと申しましたが、しかしよく読んでみると、「罪」という言葉が出て来たのは本日の9節が最初です。いやそんなことはない、2章1節に「自分自身を罪に定めている」とあったではないか、と思うかもしれませんが。しかしこれは「罪に定める」という動詞、別の訳し方をすれば「断罪する、有罪の判決を下す」という言葉であって、「罪」という名詞が原文にあるわけではありません。また2章12節には「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」とありました。ここに出て来るのも「罪を犯す」という動詞であって、「罪」という名詞ではないのです。「罪」という名詞に当る表現でこれまでに出て来たのは、例えば1章18節の「不信心と不義」という言葉でした。あるいは1章29、30節には、人間の犯している罪が具体的に並べられていました。「むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き」などです。しかし「罪」という名詞はこの3章9節で初めて語られているのです。これは決して偶然ではないでしょう。これまでの所では、不信心と不義にせよ、具体的な罪の行為にせよ、私たち人間がそのような罪を犯していることが見つめられていたのです。しかしこの3章9節で初めて出て来た「罪」という言葉はそういう意味で用いられてはいません。ここでは「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と言われているのです。つまりここで見つめられているのは、私たちは皆、罪という力の下に支配されている、ということです。これまでの所では、私たち人間がいろいろな罪を犯していることが見つめられていました。「不信心と不義」にしても、私たちが神を信じないことであり、義しくないことを行なうことです。1章29、30節の罪の具体的なリストにしても、私たちが犯しているいろいろな罪が並べられていたのです。そういう意味では、これまでの所では、様々な罪の行為を私たちが自分の意志で行なっていること、つまり私たちの主導権の下で罪の行為が行なわれていることが見つめられていたのです。しかしその人間の罪を語る部分の締めくくりである本日の箇所においてパウロは、私たちが様々な罪の行為を行なっているのは、実は私たちが罪の下に置かれているからだ、罪という力によって支配されてしまっているからだ、ということを語っているのです。つまり主導権を持っているのは実は私たち人間ではなくて、私たちを支配している罪なのだ、私たちはその罪の支配の下で翻弄されているのだ、ということです。パウロがここで初めて「罪」という名詞を使っているのは、私たちが犯す個々の悪い行いのことではなくて、私たちの思いと行いとを支配している強烈な力としての罪を示し語るためなのです。  
 このことは決して、だから罪を犯しているのは私たちの責任ではない、ということではありません。パウロはそのような言い逃れの道を開こうとしているのではなくて、私たちが陥っている罪は、私たちがちょっと反省して、これからはなるべく罪を犯さないように努力しようとすることで解決するものではない、ということを語ろうとしているのです。私たちが主導権を持って罪を犯しているなら、私たちの努力次第でその罪から抜け出すこともできるでしょう。いわゆる倫理、道徳の教えはそういうことを語っています。宗教の中にも、ほとんど倫理、道徳の域を出ないものが沢山あります。しかし聖書が語っているのは、人間の倫理的、道徳的な努力によって罪は解決しない、ということです。罪は私たちの主導権の下にあるのではなくて、私たちを支配している力だからです。その支配が打ち砕かれなければ、罪からの解放はないのです。罪に支配されている事実をそのままにして、その中で何を努力しても、根本的な解決にはなりません。五十歩百歩、どんぐりの背比べのようなことにしかならないのです。私たちが陥っている罪から抜け出すために、先ずはっきりと知らなければならないのは、罪の圧倒的な力が私たちを支配していることなのです。そのことを見つめることなしに、倫理的、道徳的な努力によって何とかしようとすることは、虚しいばかりか、結局罪の支配を温存することになるのです。パウロはそのことを示すために、全ての人は罪の下にある、罪に支配されてしまっている、と言っているのです。

旧約聖書の証言によって  
 パウロは10節から18節で、旧約聖書の言葉の引用によって、罪の力にどうしようもなく支配されてしまっている人間の姿を明らかにしています。旧約聖書において神ご自身が、全ての人が罪の支配下に置かれていることを語っておられることを明らかにしているのです。その10節以下を味わっていきたいと思います。ここは旧約聖書のいろいろな箇所からの引用がつなぎ合わされています。どこからの引用であるかはいちいち申しません。知りたい方は、新共同訳聖書の後ろの付録の中の、「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」を見ていただきたいと思います。今は、出所よりも語られている内容に目を向けたいのです。

神を探し求める者はいない  
 先ず10?12節は、「正しい者はいない。一人もいない」で始まり、「善を行う者はいない。ただの一人もいない」に至ることから分かるように、一人の例外もなく、全ての者が罪の支配下に置かれていることを語っています。そしてそれは11節によれば、「悟る者もなく」、つまり神のみ心を悟る者がおらず、「神を探し求める者もいない」ということです。罪の支配下に置かれることによって私たちは、神を探し求め、み心を悟ろうとする思いを失うのです。私たちの罪は、あれこれの悪い行いから始まるのではなくて、私たちが神を真剣に求めなくなり、神のみ心を悟ろうとしなくなるところに、既に罪の支配が始まっているのです。そしてそれによって12節にあるように「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった」のです。「役に立たない」というのは「無益な、実を結ばない、腐った」ということです。罪の支配下で私たちは、無益な、実を結ばない、腐った者になってしまっている。それは具体的にはどういうことなのかが13節以下に語られていきます。

言葉における罪  
 13節以下は二つに分けることができるでしょう。13、14節には「のど、舌、唇、口」について、15節以下には「足と道」について語られています。「のど、舌、唇、口」は、人間の言葉について、「足と道」は人間の行ない、生き方について語っていると言うことができるでしょう。罪に支配されている人間の言葉と行ないが見つめられているのです。罪に支配された私たちの言葉はどうなっているか。「彼らののどは開いた墓のようであり」とあります。開いた墓からは死体の腐臭が立ち昇るのです。私たちののどから出る言葉も悪臭を放つものとなっている。それは具体的には、「彼らは舌で人を欺き」ということです。「二枚舌」という言葉があるように、私たちの舌は人を欺いて陥れようとしたり、自分に都合のよいことだけを語って自分の利益を守ろうとするのです。言葉は、神が私たち人間に与えて下さった大いなる賜物です。しかし私たちは神の恵みの賜物である言葉を欺きの手段にしてしまうことがいかに多いことでしょうか。「その唇には蝮の毒がある」。まさに私たちの言葉は毒を持ったものとなっており、言葉によって人を殺しているのです。「口は呪いと苦味で満ち」。私たちの口から出る言葉が呪いと苦味で満ちている、つまり悪意、妬み、恨みなどのこもった言葉となっている、表向きは相手のことを思い親切に語っているような装いの下で、実は呪いと苦味が隠された言葉を語っているようなことも多々あります。そのような言葉によって私たちはどれだけ人を傷つけているでしょうか。私たちが罪の支配下に置かれてしまっていることは、言葉においてこそ最もよく現れているのです。そのことを語っているもう一つの個所である、ヤコブの手紙第3章8?10節を読んでみたいと思います。「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。「同じ口から賛美と呪いが出て来る」、神を賛美し、感謝し、祈る、まさにその舌の根が渇かないうちに人を呪い傷つけ殺す言葉を吐く、それが、罪の力にどうしようもなく支配されている私たちの姿なのです。

行ないにおける罪  
 15節以下には「足と道」のことが語られています。足は道を歩いていくものです。私たちがどのような道をどのように歩いていくのか、つまり私たちの行ない、生き方が見つめられているのです。その私たちの足は「血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある」。言葉によってだけでなく、様々な行ないによって私たちは人の血を流し、破壊と悲惨を生み出しています。「彼らは平和の道を知らない」とあるように、私たちは、破壊と悲惨をもたらすことはあまりにも得意ですが、平和を造り出すことができない、平和のためにどのような道を歩んだらよいのか分からないのです。身近な人間関係においてもそうです。こじれてしまった関係に平和を回復することはとても難しいことです。一つの家庭、家族を本当に平和なものとして育て上げていくこともまことに難しいことです。聖書において平和(シャローム)という言葉は、ただ争いがないというだけではなくて、もっと積極的な、祝福が満ちている状態を言う、ということを思えばなおさらです。本当に平和な、祝福に満ちた人間関係を築くための道が私たちにはなかなか分からず、むしろ破壊と悲惨を作り出してしまうことが多いのです。  
 それは身近な人間関係のみのことではありません。国と国、民族と民族の間に平和を実現するための道を私たちは知りません。世界には様々な対立、紛争が絶えず、そのために人が傷つき、殺され続けています。そういう対立が激しくなってきている世界の現実の中で、どのように国の安全を守るかが今大きな問題となっています。今国会で議されている安保関連法案は、「積極的平和主義」に基づいています。それは、平和を守るために、自衛隊がもっと積極的に、自由に、海外でも武力を行使できるようにしよう、という考え方です。そういうことによって平和が守れるともし本当に考えてこの法案が出されているのだとしたら、それは余りにも平和への道を知らないあり方だと言わなければならないでしょう。しかしそれはただ現政権を批判していればすむものではありません。複雑な国際情勢の中で、本当に平和を築くための道をなかなか見出せない、それが罪に支配されている私たちの姿なのです。

神への畏れがない  
 18節には「彼らの目には神への畏れがない」とあります。これが、これまで語られてきたことの根本にある問題です。神への畏れがないこと、それが罪に支配された人間の根本的な姿であり、そこから様々な具体的問題が生じているのです。神への畏れなしに語られる言葉は、欺きに満ち、毒を含み、人を傷つけ殺すものとなるのです。神への畏れなしになされる行いは、血を流すのに速く、破壊と悲惨を生み、平和を生まないのです。それでは神を畏れるとはどういうことなのでしょうか。それは、神の前に自分が罪人であることを本当に認め、その罪の赦しを願い求めてひれ伏すことでしょう。たとえ敬虔そうな顔をして神を礼拝していても、形の上でひれ伏していても、神の前で自分が罪人であることを認めておらず、罪の赦しを願い求めていないなら、本当に神を畏れ敬っているとは言えません。そして本当に神を畏れ敬っていないことが、その人が罪の支配下にいることの印なのです。つまり、自分が罪に支配されていることを認めない人こそが罪に支配されているのです。罪に支配されてなどおらず、自分でしっかり生きていると思っているから、神のみ心を悟ろうとせず、神を探し求めず、罪の赦しを願い求めようとしないのです。罪の支配はこのように巧妙です。罪は私たちに、自分は罪に支配されていないと思わせることによって、実は決定的に私たちを支配しているのです。パウロは本日の箇所で、旧約聖書の言葉を引用することによってそのことを語り示しているのです。

律法の意味  
 19、20節でパウロは、自分たちユダヤ人が神に選ばれ、律法を与えられたことの意味を語っています。それは自分たちに優れた点があるからではなくて、神に選ばれ、律法を与えられた自分たちでさえ、それを正しく実行することができない罪人であることが明らかになることによって、全ての人々が神の前に罪を犯しており、罪の支配下に置かれていることがはっきりする、そして全世界が神の裁きに服するようになる、そのためにユダヤ人は選ばれ、律法を与えられたのです。ユダヤ人は、律法を与えられているから罪がないのではなくて、神の前で罪のない人は一人もいないことが明らかになるために律法を与えられたのです。つまり律法は、それを行うことによって救いを得るためではなくて、人間に罪の自覚を与えるためにこそ与えられたのです。

罪の支配を認めることによってこそ  
 パウロがこのように、全ての人が例外なく皆、罪に支配されていることを語ったのは、その罪の支配からの解放、救いは、人間の力によってではなく神によってこそ与えられることを示すためです。私たちがここを読んでなすべきことは、自分の罪を反省して、それを克服するために努力していくことではありません。そのような自分の反省や努力で、つまり倫理や道徳によって罪をどうにかできる、と思うことこそが罪の思う壷なのです。罪は、私たちがそれを克服しようと努力していくことの中で気づかないうちに私たちを支配します。そして私たちに、自分はこれだけ罪と戦っているのだ、という誇りや自負を植え付け、それに比べてあの人は何だ、と人を批判する毒のある言葉を語らせるのです。パウロがユダヤ人の抱いている誇りを徹底的に打ち砕こうとしているのは、まさにその誇りや自負によって罪がユダヤ人たちを支配しているからです。それは彼自身の体験でもあります。彼は以前、ユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、律法を行なうことによって神の前に正しい者として生きているという誇りを持ち、異邦人たちを軽蔑し、キリストによる救いを信じている教会を迫害していたのです。しかし主イエス・キリストとの出会いによって彼は、自分の抱いていた誇りが、実は罪の巧妙な支配によってもたらされたものであり、それによって自分がいかに毒のある言葉を語り、血を流すのに速い歩みをしていたかに気づかされたのです。その自分自身の体験からして彼は、罪の巧妙な支配から解き放たれるためには、自分で努力して罪と戦っていってもだめで、自分が罪に支配されており、自分の力でそこから抜け出すことはできないことを認めて、神による赦しを求めていくことこそが必要だということを確信したのです。それで彼は、この手紙の本論の最初の所、1章18節から3章20節において、全ての人が罪の支配下に置かれていることをしつこい程に語ったのです。

主イエスによる罪の赦しにあずかる  
 それは決して絶望の言葉ではありません。このことを前提として、この後の21節以下には、神の独り子イエス・キリストの十字架と復活によって実現した罪の赦しが、ただキリストを信じる信仰によって全ての者に平等に与えられるという喜ばしい知らせ、福音が語られていくのです。罪の赦しの福音は、「皆、罪の下にある」ことを認めることによってこそ私たちに与えられます。そしてそこには、私たちの反省や努力によっては決して実現しない、罪の支配からの解放への道が示されていくのです。主イエスによる罪の赦しをいただくことによってこそ、毒を含み人を傷つけ殺す私たちの言葉は、互いに愛し合い、生かし合い、良い交わりを築いていくものへと変えられていきます。血を流すのに速く、破壊と悲惨を生んでいる私たちの足は、平和の道を歩むものへと変えられていきます。この主イエスによる罪の赦しに私たちをあずからせるために、主は洗礼を定めて下さいました。本日、一人の姉妹がその洗礼を受けます。この姉妹も、自分が罪の支配下にあることを認め、主イエスによる救いにあずかりたいと願って、車椅子で礼拝に集っておられます。罪ある私たち人間が、自分の力によってではなく、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって救いにあずかる、その大いなる神の救いのみ業が、今日もここで実現するのです。

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