主日礼拝

霊の賜物

「霊の賜物」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨエル書第3章1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章8-15節
・ 讃美歌: 329、54、492

ローマ訪問の願い
 初代の教会の最大の伝道者だったパウロが、ローマの町の教会宛に書き送った「ローマの信徒への手紙」を礼拝において読み始めています。前回まで3回にわたって、1章1~7節の、手紙の冒頭の挨拶の部分を読んできました。本日と来週は8~15節を読みます。パウロはここで挨拶に続いて、宛先であるローマの教会の人々に対して自分が抱いている思いを語っています。その思いとは一言で言えば、これからあなたがたのところを訪ねたい、ということです。その願いは先ず10節にこう語られています。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。ローマへ行ってあなたがたに会いたい、その機会を神が与えて下さるようにと彼は願っているのです。また13節にもこうあります。「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」。ここから分かることは、パウロはまだローマに行ったことがない、ということです。パウロがローマの教会の人々に会いたいと思っているのは、以前にも訪ねて知っている人々との旧交を温めたい、またお会いしたい、ということではありません。まだ行ったことのない教会の、会ったことのない人々との新たな出会いを彼は求めているのです。それは彼が、「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」いるからです。「何か実りを得たい」というのは、勿論商売して金儲けをしたいということではありません。パウロは今、地中海沿岸の地域を旅して回りつつ、イエス・キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝えています。彼が得たいと望んでいる実りとは、キリストの福音を信じて神の救いにあずかる人が興されることです。つまりその実りは伝道の実りです。その伝道の実りをローマにおいても得たいと彼は願っているのです。「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも」とあります。パウロは、地中海沿岸の多くの地域、町において、異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝えてきたのです。異邦人というのは、もともとはユダヤ人がユダヤ人でない人のことを軽蔑して呼んでいた言葉です。ユダヤ人は自分たちだけが神に選ばれて救いにあずかる神の民であり、自分たち以外の民族は全てひとまとめにして「異邦人」と呼び、神の恵みの外にいる人々と考えていたのです。パウロもユダヤ人であり、もともとはそのように考えていました。しかし主イエス・キリストとの出会いによって彼は、旧約聖書以来の神の救いが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、ユダヤ人のみでなく全ての民に、つまり異邦人にも及んでいること、神が異邦人をも救いへと招いて下さっていることを知らされました。そして前回読んだ5節にあったように、「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。異邦人に福音を告げ知らせる使命を帯びた使徒として彼は立てられたのです。彼の伝道によって様々な地域の多くの異邦人たちがキリストを信じるようになりました。それが、ほかの異邦人たちのところで彼が得た実りです。同じ実りをローマにおいても得たいと彼は願っているのです。14節で彼は「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」と言っています。この責任は、神から与えられた使命を果たす責任です。神が独り子イエス・キリストによって全ての人々を救いへと招いて下さっているという喜ばしい救いの知らせ、福音を告げ知らせる使命を与えられて使徒とされた彼は、全ての人々にその福音を告げ知らせる責任を自覚しているのです。それを受けて15節が語られています。「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」。異邦人にキリストの福音を告げ知らせる使徒としての使命、責任をローマにおいても果したい、そのためにローマを訪れたいと彼は思っているのです。

さらにイスパニアへ
 ローマを訪れたいというパウロの願いはこの手紙の終わりにも語られています。それは15章22節以下です。15章22節に「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました」とあります。本日の箇所の13節の、「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」と同じことが語られているわけです。この15章と合わせて読むことによって分かるのは、ローマの人々に福音を告げ知らせることがパウロの最終目的ではないことです。15章では彼は、ローマの教会の人々から送り出されてイスパニアへ行きたいと言っています。それは今のスペインです。彼はこれまで地中海の東側の地で伝道してきましたが、今後は先ず、地中海の真ん中に位置しローマ帝国の首都であるローマへ行き、そこを拠点として帝国の西の方で伝道したいと思っているのです。またこの15章からもう一つ分かることは、そういう願いを持ちつつ、今彼が向かおうとしているのは、むしろ反対方向のエルサレムだということです。彼は今、第三回伝道旅行の途上にあり、ギリシアの南の方のコリントにいると思われます。これからの予定としては、先ずはローマとは反対の東に向かい、地中海の東の果てであるエルサレムに行ってある仕事を済ませ、それからローマへ、そしてローマからイスパニアへ向かう、そういうまことに壮大な計画を彼は思い描いているのです。

主による計画変更
 しかし私たちはここで勘違いをしないようにしなければなりません。パウロは自分の情熱や野望に基づいて壮大な計画を立て、それを実現しようとしていたのではないのです。本日の箇所の13節にも、15章の22節にも語られているように、彼はこれまでもローマに行きたいと願っていましたが、その計画を「妨げられて」きました。つまり計画を立てても思い通りにいかないことを何度も経験してきたのです。しかし彼はそこに神の導きを見ています。神が彼の計画を妨げ、他の道へと進ませてきたのです。彼の計画はそのように神によって常に変更され、修正させられてきました。そしてむしろそのことによって彼は、自分が思ってもいなかった大きな働きを与えられていったのです。使徒言行録の第16章にそのことが語られています。16章6、7節を読んでみます。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」。これはパウロの第二回伝道旅行における出来事ですが、ここに「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊がそれを許さなかった」とあります。本日の箇所や15章で「妨げられた」と言っているのもそれと同じことです。それは具体的には何らかの妨げ、困難な状況があって、これから進んで行こうとしていた道の変更を余儀なくされたということです。そのことを使徒言行録は聖霊あるいは主イエスの霊によることだったと語っているのです。それはパウロ自身がそう受け止めていたということでしょう。このように聖霊によって妨げられ、計画変更を強いられた結果、この後彼らは初めてアジアからギリシアへと渡ることになったのです。つまりこのことによってキリストの福音がアジアからヨーロッパへと伝えられていったのです。この体験によってパウロは、神が自分を異邦人の使徒として用いようとしておられるという確信をよりはっきりと与えられたことでしょう。パウロはこのように、自分の願いや計画したことがその通りにはならず、神によって変更されることを体験しながら伝道していったのです。だから彼は自分が計画していること、願っていることが必ずしもその通りになるとは思っていないし、また自分の計画や願いがその通りにならないからといって失敗したとか挫折したと思って落ち込むことはありません。この後も、イスパニアに行こうという彼の計画は実現しませんでした。ローマへ行くことは、彼が思っていたのとは違う仕方で実現しましたが、彼はそこで殉教の死を遂げたのです。そういう意味では、この手紙で彼が語っている願いや計画は実現しなかったのです。しかしそのように自分の計画を神によって妨げられ、変更させられていったことを通して、パウロの生涯は、キリストの福音をより力強く証しし、主なる神の栄光をより鮮やかに現すものとなったのです。

教会の指導者として
 パウロのこの後の歩みまで先取りしてしまいましたが、話を戻して、本日の箇所でパウロが語っているローマの教会の人々への思い、願いをさらに見ていきたいと思います。あなたがたのところに行って福音を告げ知らせたいという思い、願いを彼は語っているわけですが、その目的が11節ではこのように語られています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、〝霊〟の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」。〝霊〟の賜物を分け与えてあなたがたの力になりたい、とパウロは言っています。「〝霊〟の賜物」とはどのようなものなのでしょうか。「霊」という言葉が〝〟付きで訳されていますが、それはこの言葉が単に「内面的な」とか「精神的な」というような一般的な意味ではなくて、父なる神、子なるキリストと並ぶ「聖霊なる神」を指していることを示しています。つまり「〝霊〟の賜物」とは「聖霊が与えて下さる賜物」です。パウロは、聖霊が自分に賜物を与えて下さっているので、それを分け与えてあなたがたの力になることができる、と言っているのです。
 彼がそのように言うことができるのは、冒頭の1節に語られていたように、彼が神の福音のために選び出され、召されて使徒となったからです。使徒とは、キリストによる救いの知らせ、即ち福音を宣べ伝える全権を神から委ねられて遣わされた者です。つまり使徒であるとは、神によって福音を語る権威を与えられ、教会の指導者として立てられているということです。パウロは聖霊によってそういう賜物を与えられているのです。そのようにして与えられた権威によって彼は福音を告げ知らせており、今このような手紙をローマの教会に書き送っているのです。またこれからローマへ行って、直接福音を告げ知らせ、教会の人々を力づけようとしているのです。つまり11節の、「あなたがたにぜひ会いたいのは、〝霊〟の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」という言葉には、自分は聖霊によって福音を伝える使徒としての権威を与えられ、教会の指導者として立てられているというパウロの思いが込められているのです。

互いに励まし合う交わり
 しかしパウロはそれに続く12節ではこう言っています。「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。ここでは彼は、自分がローマの人々に賜物を分け与え、力になるだけでなく、自分もローマの人々の信仰によって励まされたい、つまりお互いの信仰によってお互いに励まし合いたい、と言っています。この「励ます」という言葉は、「慰める、勧める」とも訳せる幅広い意味を持った言葉です。パウロは、自分がローマの教会の人々に福音を告げ知らせて力になるだけでなく、ローマの教会の人々と、お互いに励まし合い、慰め合い、勧め合う、信仰における交わりを築こうとしているのです。
 この11節と12節が続いて語られていることがとても大事です。つまりパウロは、11節にあるように、自分が聖霊によって使徒としての権威を与えられ、教会の指導者として神によって立てられており、その賜物を教会の人々に分け与えて力づけることができる、ということを強く意識しています。しかしそれは、自分は上に立つ者、神によって権威を与えられ、賜物を分け与える者なのだから、教えることはあっても教えられることなどない、励ますことはあっても励まされる必要はない、ということではありません。彼はむしろ、教会の人々の信仰によって自分も励まされ、力づけられるのだと言っており、そのことを願っているのです。お互いに励まし合い、慰め合い、勧め合う関係を築こうとしているのです。宗教改革者カルヴァンはこの12節について味わい深いことを言っています。「彼は何と謙遜に語っていることだろうか。彼は、経験の浅い初心者からも、自分が力づけられることを拒絶しないのである。また彼の言っていることはこういう意味でもある。即ち、キリストの教会には、私たちのための益を何らもたらすことができないほど賜物に乏しい人は一人もいない」。つまり、キリストを信じてその救いにあずかり、洗礼を受けて教会に加えられている者たちは、お互いがお互いのための益をもたらし、お互いを力づけることができる賜物を与えられているのです。どんなに経験の浅い、昨日洗礼を受けたばかりの初心者であってもです。〝霊〟の賜物つまり聖霊による賜物は、特別な人にだけ、例えば使徒として立てられているパウロだけに与えられているのではありません。全ての信仰者にそれは与えられているのです。私たちが主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に連なる者となることは、私たちの力によることではなくて、聖霊のお働きによることです。信仰者は誰でも皆、聖霊に導かれており、聖霊による賜物を与えられているのです。皆がパウロのように使徒としての賜物を与えられているわけではありません。しかしお互いに力づけ合い、励まし合い、慰め合い、勧め合うことができるだけの賜物を、聖霊は私たち一人一人に与えて下さっているのであって、それが全く与えられていない者など一人もいないのです。12節のパウロの言葉はそういうことを意味しているのだと、カルヴァンは私たちに気づかせてくれているのです。

賜物の分かち合いに生きる中でこそ
 私たちが自分に与えられている聖霊の賜物に気づき、それを分かち合う交わりを築いていくためには、他の人を励まし慰め力づけることを心掛けていくことが必要であり、同時に、他の人によって自分が励まされ慰められ力づけられることを求めていくことが必要です。つまり信仰において他の人との交わりを築いていくことが必要なのです。私たちが洗礼を受けてキリストの救いにあずかり、聖霊による賜物を与えられたのは、つまり一言で言えば私たちに信仰が与えられたのは、自分に与えられた救いの恵みを喜び、慰めと支えを受けて生きるためだけではなくて、その賜物を他の人々と分かち合い、お互いの信仰によって励まし合う交わりを築くためなのです。
 勿論信仰は基本的に自分と神との一対一の関係です。そこには他の人の入り込む余地はありません。他の人のことを気にして左右を見回している目を神の方に向け、自分一人で神に相対することなしには信仰は成り立ちません。しかし神とのそのような関係によって主イエス・キリストによる救いにあずかった者は、キリストの体である教会の一員とされ、キリストの命を共に受ける兄弟姉妹との交わり、関係へと神によって導き入れられるのです。その交わりは、自分が聖霊によって与えられている賜物、信仰によって与えられている恵みを他の人に分け与えて力づけ、同じように他の人に与えられている賜物、恵みを分け与えられて力づけられていく交わりです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、そのような賜物の分かち合いに生きるのです。
 そのような交わりに生きることによってこそ、自分に与えられている聖霊の賜物が見えるようになります。私たちは、他の人との交わりを持たずに一人で信仰者として生きていると、聖霊の賜物が与えられていることがよく分かりません。自分に与えられている賜物がはっきりと見えてこないのです。兄弟姉妹との交わりの中で、他の人の力となり、また他の人から励ましや慰めを受け、互いに支え合い励まし合っていく中でこそ私たちは、自分に与えられている聖霊の賜物を実感することができるようになるし、他の人に与えられている賜物を感謝と喜びをもって実感することができるようになるのです。そのようにして私たちは、聖霊の賜物が一人一人それぞれに与えられていることをはっきりと知り、それを分かち合いつつ生きる信仰の交わりを築くことができるのです。

信仰の交わりを妨げるもの
 カルヴァンは先ほどの文章の続きでこう言っています。「しかし私たちは、自分の嫉妬やプライドによって、そのようにお互いに益を受け合うことを妨げられる。私たちの、虚しい名声に酔う心の高ぶり、他者を軽蔑し、軽んじる思いによって、私たちは、自分が十分な、あり余るものを持っているかのように思ってしまうのである」。聖霊による賜物を分かち合い、お互いに励まし合い力づけ合う交わりを築くことを妨げるものは、私たちの嫉妬やプライドです。プライド、誇りによって私たちは、他の人の賜物を感謝し喜び、それによって自分が励まされ力づけられることを拒んでしまいます。自分は十分な、あり余るものを持っているから、人に励ましてもらったり、力づけてもらう必要はない、と思ってしまうのです。しかしそれは、自分の弱さを自分で認めたくない、人にも見せたくない、という思いであり、人に励まされたり力づけられたりすることは、人に弱みを握られ、自分がその人より劣っていることを認めることになって悔しい、という思いです。それは劣等感から来る嫉妬です。プライド、誇りと劣等感、嫉妬はコインの両面であって、それらによって私たちは、お互いの賜物を喜び合うことができなくなり、人の賜物にケチをつけ、批判するようになり、人を励まし力づけることも、自分が励まされ力づけられることもできなくなっていくのです。カルヴァンはそのような人間の現実をも見据えているのです。

福音に基づく信仰の交わりを
 パウロはこの手紙によって、まだ会ったことのないローマの教会の人々との間に、お互いの賜物によって励まし合い力づけ合う信仰の交わりを築こうとしています。その土台は、主イエス・キリストの福音です。神が罪人である私たちを、独り子イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さっており、私たちはただ神の恵みによって、つまり良い行いによってではなく、立派な人になろうと努力することによってでもなく、主イエス・キリストによる救いを信じることのみによって、その救いにあずかり、神の子として新しく生きることができる、神がそのように私たちを愛して下さっている、という喜ばしい知らせ、福音は、私たちを、自分の虚しいプライドへのこだわりから解放します。同時に、劣等感や嫉妬心からも解放します。プライドと嫉妬から解放されることによって私たちは、人を批判し軽蔑し軽んじるのでなく、その人に与えられている賜物を認め受け入れて、それによって自分が励まされ、力づけられることを喜ぶようになります。そして自分に与えられている賜物をも人を励まし、力づけるために用いることを喜ぶようになるのです。キリストの福音にしっかりと立つ信仰による交わりを、私たちも築いていきたいのです。

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