夕礼拝

信仰に入る人、拒む人

「信仰に入る人、拒む人」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章1-6節
・ 新約聖書:使徒言行録 第13章42-第14章7節
・ 讃美歌:127、436

<二つのグループ>  
 先週の夕礼拝では、パウロがピシディアのアンティオキアというところの会堂で語った説教を共に聞きました。説教では、主イエス・キリストこそが、神がわたしたちに与えて下さった救い主である、この方を信じなさい、ということが語られます。それは、このパウロの時代から、今現在も、教会が語り続けていることです。  

 そして、この福音、救いの知らせを聞いた者は、必ず二つのグループのどちらかに属します。それは、信じる人のグループと、拒む人のグループです。この場合、中間派というのは在り得ません。信じることも、信じないこともしない、ということはありません。それは結局は信じていないのです。  
 キリストが世に来られたということは、この方によって救いが与えられるということであり、またこの方によらなければ、救いを得ることは出来ない、ということです。そのことを受け入れるのか、拒むのか。キリストは、神に逆らい、滅びに向かうしかないわたしたちの罪を赦すために、ご自分の命を与えようとして、わたしたちのところに来られました。しかしわたしたちは、キリストを受け入れることを拒み、戸を閉ざしてしまうことも出来るのです。   
 キリストを受け入れるということは、自分自身をキリストに明け渡してしまうことです。しかしそのことは、わたしたちがこれまで大切にしてきた、自分の努力の成果や、プライドや、人生の経験を得て築いてきた価値観などが、全部捨て去られ、ひっくり返されることかも知れません。わたしたちは、そのことをどうやって受け入れ、福音を信じることが出来るのでしょうか。   

<拒む人々>   
 本日お読みした13章、14章では、それぞれピシディア州のアンティオキア、そしてイコニオンという地域で、パウロとバルナバの説教を聞いた人々の反応が書かれています。  
 それぞれのところで、福音を聞いた人々は、信仰に入る者と、反対して弟子たちを迫害しようとする者に分かれました。14章では「ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側に」付き、町が分裂したということが書かれています。   
 そしてこれは、復活の主イエス・キリストが天に上げられ、聖霊が弟子たちに送られて、教会が誕生してから、福音が宣べ伝えられるところで必ず起こってきたことです。信じる者が興されて教会の群れに加わり、一方で信じない者が教会を迫害します。しかしそのようにして、神の言葉、キリストの福音は、確実に広がり、前進してきたのです。    

 さて、13:42では、アンティオキアの会堂でパウロの説教を聞いた人々が、次の安息日にも同じことを話してくれるように頼んだ、とあります。ここはユダヤ人の会堂です。聞いていたのは、13:16にあるように「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」と言われている人々です。「イスラエルの人たち」とは、イスラエルの民の子孫であり、割礼を受けているユダヤ人。また「神を畏れる方々」というのは、異邦人でありながら、イスラエルの神を信じ、割礼を受けてユダヤ教に改宗した人であると考えられます。   

 少し振り返りますと、13:16でパウロが説教で語ったことは、まずイスラエルの民を選び導いてきた神の憐みと恵みの歴史です。そして、旧約聖書に預言されている通り、神はイスラエルの民に救い主、イエス・キリストをお与えくださったこと。しかし民は主イエスを認めることが出来ず、十字架に架けてしまい、しかし、そのことで預言が実現されたことが語られました。そして、神は主イエスを死者の中から復活させ、救いのみ業を完成させ、確かなものにして下さいました。救いの約束を成就して下さったのです。そして、復活し、朽ち果てることのない方となられた、主イエスを信じる者は、誰でも義とされる、とパウロは語りました。つまり、キリストを信じるなら、イスラエルの民だけでなく、誰でも神の前に正しい者とされて、罪を赦され、神との良い交わりの中で生きる者とされる、ということが語られたのです。   
 神に選ばれたイスラエルの民の歴史というのは、ユダヤ人だけを救うためではなくて、異邦人も含めた、全世界の人に救い主を与え、信じるすべての人の罪を赦して下さるために、神が目的をもってイスラエルを選び、神のご計画に従って導かれて来た歴史だったのです。         

 このような話を、ピシディア州のアンティオキアの人々は初めて聞いたので、彼らはまた聞かせて欲しい、と頼みました。キリストの福音に関心を示したのです。   
 ここで、13:43でパウロとバルナバが彼らに対して「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」と書かれていることは重要です。この福音の恵みに触れ、恵みに与りながら、そこに留まることが出来ない者たちがいるからです。      

 44節になると、次の安息日には、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た、とあります。「ほとんど町中の人」というのは少し大げさな気もしますが、しかしユダヤ人や改宗者以外の異邦人も、たくさん主の言葉を聞こうとした、ということです。      

 しかしここで、45節に「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」とあります。パウロの話すこととは、罪の赦しが告げられるキリストの福音であり、信じる者は皆、キリストによって義とされる、ということです。はじめは喜んでこのことを聞いていたユダヤ人の中に、わずかな期間で、ねたみの思いが生じてきました。   
 このねたみや反対の理由は、一つは自分たちが礼拝をまもっている会堂に、いつもはいない異邦人が大勢やってきて、パウロの言葉を聞こうとしている、そのパウロの人気にねたみを覚えた、ということがあるでしょう。      

 しかし、もっと大きな反対の理由は、パウロが語っている福音の内容ではないでしょうか。ユダヤ人は、割礼を受け、また律法をしっかりと守ることで救われると信じていました。また、そのために律法を守ってきたし、その救いの資格を満たすために努力もし、十分に救いに値する者として生きてきたのです。   
 ところが、パウロの福音によれば、割礼も受けていない、律法も守っていない、今日はじめて会堂に入ってきたような異邦人でも、イエスが救い主だと信じ、受け入れるならば、罪の赦しを得て、神との正しい関係の中に生きることが出来る、救いにあずかることが出来る、というのです。それはユダヤ人たちが熱心に律法を守ったりして努力してきたことを台無しにすることです。努力も何もしてこなかった異邦人にも、自分たちの神が、同じように救いを与え、恵みを注がれるということは、何だかとても悔しいことであったでしょう。   
 彼らの心の中には、そのように自分の努力で築いてきたものや、ユダヤ人としてのプライドが満ちていて、キリストの恵みに対して自分を完全に明け渡すことが出来なかったのです。それがねたみとなり、口汚いののしりの言葉となり、神の言葉に反対する者となってしまいました。

<異邦人の方に行く>  
 この激しい反対に、パウロとバルナバは臆することなく、勇敢に語りました。この「勇敢に語る」と言う言葉は、使徒言行録で何度も登場します。4:31では「大胆に」と訳され、「聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」。また本日の箇所の14:3でも「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」とあります。彼らが大胆に、勇敢に語ることができるのは、聖霊に満たされているからであり、また主を頼みとしているから、神ご自身が語らせて下さるからです。    

 ここで語られたのは、13:46のこのようなことでした。 「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために』。」   
 この引用は、本日お読みした旧約聖書のイザヤ書の預言です。ここの「あなた」というのはキリストのことです。主の僕としてキリストが遣わされ、キリストが異邦人の光となり、地の果ての人々にまで救いをもたらす、ということが語られています。このキリストのみ業に仕えるために、パウロたちは、自分たちは神のみ心に従って、異邦人の方に行く、と言っているのです。     

 神の言葉はまず選ばれた民であるユダヤ人に語られました。まずユダヤ人にイエス・キリストは与えられたのです。預言が語られ、その預言の通りにキリストが与えられ、十字架と復活のみ業が行われた、その約束の成就は、他でもないイスラエルの民、ユダヤ人の間で行われたことでした。しかし、ユダヤ人たちは、キリストを受け入れることが出来ず、その福音に反対したのです。そうやって、自分自身を永遠の命を得るに値しない者としてしまいました。そこで、パウロたちは、神が預言されている通り、自分たちはこれから異邦人に伝道をしていく、と言っているのです。

<永遠の命を得るように定められている人>  
 そして、自分たちが努力して得てきた救いの資格を蔑ろにされ、ねたみに燃えるユダヤ人の一方で、異邦人たちは、このパウロが語ってくれる福音を聞いて喜び、主の言葉を賛美した、とあります。民族的にも、これまでの生き方にしても、救いを得る資格も、権利も、何も持っていない異邦人たちは、ただただ、神が自分たちに救い主を与えて下さったということを聞いて、素直に受け入れ、喜んだのです。  

 48節には「そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と書かれています。   
 まず、「永遠の命」というのは、不老不死とかではなくて、主イエスの十字架の死によって罪を赦され、死に勝利された主イエスの復活の命にあずかり、キリストとの交わりの中で生きる命、ということです。わたしたちはキリストの救いを信じて洗礼にあずかり、キリストと結ばれた時から、この永遠の命、神と共に生きる命を生き始めます。   
 そして、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」というのは、神が、永遠の命を得る者を選び、救いを得るように定められているのだ、ということです。  
 つまり、救われる側には、何も理由がない。資格や努力や、自分の力によって永遠の命に到達できるのではない。救いはただただ、救いを与えようと、神がその者を選んで下さり、永遠の命を与えることを定めて下さったことによる、神の恵みのみによるのだ、ということです。  

 ここで、わたしたちはよく勘違いをしてしまいます。神が救う者を選んでおられるのなら、選ばれていない者は救われないのか。救われる人が決まっているなら、わたしたちは何をしても、しなくても、一緒じゃないか。神が、もしわたしを滅びる者として定めておられるのなら、その永遠の命のリストから既に漏れているのなら、もうどうにもならないし、福音を聞いても、信じても信じていなくても関係ないじゃないか、と思ってしまうのです。  
 しかしここで言われていることは、神が一人一人を救うか、滅ぼすかを既に決めていて、わたしたちはその神が決めた運命どおりに、救われたり、滅びたりするんだ、ということではないのです。また、誰が選ばれ、誰が滅びるかなどということは、わたしたちには決して分からないことです。  

 ここに書かれていることは、「信仰に入った」人のことです。この「神の選び」というのは、信じた者が、どうして自分は信仰を得たのだろう、と考えた時に、自分では信じることも、善いものを選ぶことも出来ない、そのような者なのに、神が、自分に恵みを与えて下さり、信仰を導いて下さり、その恵みを受け取ることが出来るようにして下さった、ということを言い表す表現なのです。  
 わたしたちは、どうして自分が信仰を得ることが出来たのか、どうして救われたのか、分からないのです。自己中心的だし、神に逆らうし、疑い深いし、人を傷つけるし、真面目でもなく、正しくもない。自分の側には、何の救われる資格も、要素もない者なのです。そんな神に逆らってばかりのわたしが、キリストの福音を信じて、受け入れる者とされる。それは、神の力によってしか出来ない。神が、わたしを救おうと思って下さり、信仰を与えて下さり、信じることが出来るようにして下さった、そのようにしか考えられない、ということなのです。   
 「永遠の命を得るように定められている人」の「定める」という言葉は、他にも「整える」とか「計らう」という意味を持つ言葉です。神が、わたしたちが永遠の命を得ることが出来るように、すべてを整え、計らって、導いて下さっている。だから、信仰に入ることが出来るのです。その全面的な神の導きと恵みによって、自分が救われているのだ、ということが「神の選び」や、「神が救いに定めて下さった」という言葉で言われているのです。   

 「信じる」こと、神に「従う」ことは、自分の力で選んだり、決断出来ることではないのです。もし救いが「私が信じると決断した」ことによるのなら、それはわたしの「『信じる』という良い行い」によって救われたことになります。そうすると、救いは自分の手柄で得たものということになります。もしそうだとしたら、今後、わたしの決断した信仰が揺らいだら、わたしの救いは取り消されるということになってしまうのではないでしょうか。    

 でも救いは神ご自身が、一方的にわたしたちに恵みとして与えて下さったものなのです。神が決断し、神がキリストの福音を聞かせて下さり、救いを与えて下さったのですから、救いを受け入れさせていただいたなら、それは取り消されることはないし、自分自身の信仰がどんなに揺らいだり、弱くなったり、疑い深くなったりしても、神が、わたしたちを捕えて二度と離さないのです。それゆえに、わたしたちは、自分の意志や決断などに頼るのではなく、神によって救いに与ったことに信頼し、確かな希望を置き、自分をお委ねすることが出来るのです。   
 そうすると、わたしたちは、じゃあ神様が何でもしてくれるから、逆らっても何をしても良い、とはならないはずです。わたしたちはその神にますます信頼し、感謝し、喜んで生きていくのです。その恵みへの感謝と賛美を忘れないこと、救って下さった神に信頼し続けること、それが43節にあったように「神の恵みの下に生き続ける」ということなのです。      

 では、主の言葉に反対し、キリストの福音を受け入れず逆らっているユダヤ人たちはどうなるのでしょうか。ここで、わたしたちは、このことを他でもないパウロが語っていることに注目しましょう。   
 パウロ自身も、かつてはキリストの福音に反発し、教会を激しく迫害し、キリスト者を死刑にすることも厭わないような者だったのです。その時のパウロの心は、ユダヤ人としての自尊心や、律法学者としての知識や、救いのための努力や熱心さで満たされていたでしょう。そこに、キリストの福音が語られても、神の恵みが注がれても、パウロの心は自分が守ろうとしていることで既にいっぱいになっており、受け入れることが出来ず、零れ落ちてしまうばかりだったのです。しかし、パウロは主イエス・キリストに出会い、これまでの自分の救いのための熱心や努力が、神に逆らうものであったことを知りました。パウロのやってきたことは否定され、空っぽにされてしまったのです。しかし、そのようなところに、神は聖霊を満たして下さり、導きを与え、キリストの救いを受け入れる信仰を与えて下さったのです。パウロもやはり、神によって、永遠の命を得るように定められており、神の導きと恵みによって、キリストを信じる者とされたのです。   
 人は、キリストを頑なに拒否し続けて、自分自身を永遠の命に値しない者にしてしまうことも出来ます。しかし、福音を告げ知らされるところには聖霊なる神様の働きがあり、神のご計画があり、すべてを神のみ心に適うように導いて下さることを、わたしたちは信じて良いのです。   
 わたしたちがなすべきことは、キリストの救いの恵みを受けたなら、異邦人がしたように、主の言葉を聞いて喜び、賛美し、その恵みの下に留まって、生き続けること。そして、教会が共に祈りつつ、勇敢に、大胆に、神の言葉を語り続けることです。          

 アンティオキアの町においても迫害が始まり、パウロとバルナバはイコニオンに行きました。そこでも、信仰に入る者と、信じようとしない者があり、町が分裂し、激しい迫害が起こり、また次の町へ行かなければなりませんでした。しかし、そのようにして、キリストの福音は、次の場所、次の場所へと告げ知らされていき、さらに多くの人々を信仰に招いていっているのです。   
 神は、ご自身のご計画をもって、地の果てまで救いをもたらそうとしておられます。永遠の命に、すべての民を招こうとしておられるのです。ここにいるわたしたちもです。神に選ばれているかどうか、などと心配する必要はありません。こうして礼拝に招かれ、福音を聞いている、その時点で、もうわたしたちは聖霊のお働きの中に、恵みの導きの中にあるのです。わたしたちは、その神の招きを、キリストの救いを、喜んで受け入れる者となりたいのです。

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