主日礼拝

人間の信仰と神の真実

「人間の信仰と神の真実」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第119編89-96節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第1章4-9節 
・ 讃美歌 ; 323、153、227、72(聖餐式)

 
感謝と賛美

 先週の主の日から、コリントの信徒への手紙一を、礼拝において読み始めました。先週読んだ1~3節には、手紙の書き出しとして、まず差出人であるパウロの名が記され、次に宛先であるコリント教会が名指しされ、そして恵みと平和を祈る挨拶の祝福が記されていました。先週申しましたように、これは当時の手紙の書き方として普通のことだったようです。パウロの他の手紙もだいたい同じような書き出しになっています。そしてもう一つ、パウロの多くの手紙に共通していることは、この書き出しの後に、神様への感謝と賛美の言葉が語られていることです。それが、本日ご一緒に読む4~9節です。これは当時の一般的な手紙の書き方と言うよりも、パウロが諸教会に手紙を書き送る時のいつものスタイルです。しかし、先週の書き出しのところも、決まりきった社交辞令ではなく、パウロの、コリント教会に対する深い思いがそこに込められていたように、この神様への感謝の言葉も、コリント教会のことをしっかりと見据えたものとなっています。パウロがここで神様に何を感謝し、どのように神様をほめたたえているのか、それを注意深く見つめていきたいと思います。

感謝

 先週のところでもそうでしたが、日本語の翻訳になるとどうしても原文の語順が生きないというきらいがあります。4節も、原文の語順を生かして訳すならばこのようになります。「私は感謝している、私の神に、いつも、あなたがたのことで、神の恵みに、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられたところの」。これをもう少し整理するならば、「私はいつも私の神に感謝している」ということがまず語られ、その感謝は「あなたがたのことで」の感謝であることが示され、それはあなたがたが神の恵みをキリスト・イエスによって与えられたことによる、と語られているのです。この原文の語順に即して読むならば、第一に注目すべきポイントは、パウロがあなたがた、つまりコリント教会の人々のことで神様に感謝している、ということです。それは決して当たり前のことではありません。パウロがこの手紙を書いているのは、先週申しましたように、コリント教会に様々な問題が起ってきていたからです。これは捨ててはおけないという、信仰的、また倫理的な問題、罪がこの教会に起っていたのです。この教会はパウロの伝道によって生まれたものでしたが、パウロが去った後、いろいろな間違った教えが入り込み、党派争いが起り、またこの町の社会的な風潮の影響を受けて倫理的な問題が生じてもいたのです。そのようにコリント教会はまことに情けない、問題に満ちた状態になってしまっています。そのことを指摘し、叱り、悔い改めを求めるためにパウロはこの手紙を書いているのです。そういう意味では、彼らのことで感謝するどころではないはずなのです。しかしパウロは、あなたがたのことで神に感謝している、と語ります。それは、最初から厳しいことを言うよりは、まずはやさしく柔らかく語り出した方が得策だ、という打算によることではありません。パウロは本当に心から、コリント教会のことで神様に感謝しているのです。それは、パウロがここで見つめていることが、コリント教会の現状ではなくて、彼らに与えられた神様の恵みだからです。

キリスト・イエスの中に

 このことが、ここで注目すべき第二のポイントです。パウロはコリント教会の人々に与えられた神様の恵みを感謝しているのです。この訳では「あなたがたが神の恵みを受けたことについて」となっていますが、原文の言葉は「あなたがたに与えられた神の恵み」です。あなたがたが恵みを受けたことではなくて、神様が彼らに恵みを与えて下さったことを感謝しているのです。この恵みとはどのようなものでしょうか。この恵みは「キリスト・イエスによって」与えられたものだと彼は言っています。しかしこの「よって」の原文における言葉は、英語で言えばinに当る言葉です。ですから、キリスト・イエスにおいて、あるいはキリスト・イエスの中で、という意味になります。以前の口語訳聖書は「キリスト・イエスにあって与えられた神の恵み」と訳していました。つまりパウロがここで見つめ、感謝している恵みは、キリスト・イエス「から」与えられた何らかの恵みではなくて、彼らコリント教会の人々が、キリスト・イエスの「中で」、キリスト・イエス「にある」者とされたことによって与えられた恵みなのです。同じ言い方は先週読んだ2節にもありました。そこに「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」とありますが、この「よって」もやはり「~において、~の中で」という言葉なのです。つまりそこでも見つめられていたのは、キリスト・イエスが彼らを聖なる者として下さったということではなくて、彼らがキリスト・イエスの中にある者とされたことです。それによってあなたがたは聖なる者とされたのだ、ということをパウロは見つめていたのです。4節で感謝をもって見つめている恵みも、同じように、コリント教会の人々がキリスト・イエスの中にある者とされたことによって与えられたものです。そして次の5節の、「あなたがたはキリストに結ばれ」というところもそれと同じことを語っています。「結ばれ」と訳されている言葉が原文では、先ほどのin「~において、~の中で」なのです。ですからここにも、「キリスト・イエスの中で」ということが語られているのです。つまりパウロはここまでに既に三度にわたって、「キリスト・イエスの中で」という言い方をしているのです。このようにパウロはこの言葉を非常によく使っています。「キリスト・イエスの中にある者とされる」ということに、パウロの信仰の中心があると言ってもよいのです。新共同訳聖書は多くの場合このinを、「キリスト・イエスに結ばれ」と訳しています。そのことを頭に置いてパウロの手紙を読むとよいと思います。

 さてパウロはこのように、この手紙の冒頭において繰り返し、コリント教会の人々がキリスト・イエスの中にある者とされていることを確認していますが、それは、そこに、教会のことを考える上でのパウロの基本的な視点、姿勢がある、ということです。様々な問題をかかえ、罪を持っている弱い人間の群れである教会、しかしそこに連なる者たちは皆、キリスト・イエスの中にある者とされているのです。それゆえに聖なる者とされているのです。パウロはそのことを見つめ、それを神様に感謝しているのです。この感謝から、教会を、そこに起っている様々な問題を見つめていくのが彼の基本的姿勢です。それは言い換えるならば、教会を見つめる時に、人間の営みや働きの姿をまず真っ先に見つめるのではなくて、神様のみ業を、先週のところの言葉で言えば神様の召しを第一に見つめる、ということです。その姿勢のゆえに彼はここで本心から、コリント教会のことで神様に感謝をささげることができるのです。

賜物=カリスマ

 さてそれでは、コリント教会の人々が、「キリスト・イエスに結ばれ」て与えられている恵みとはどのようなものなのでしょうか。それは5節の、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」ということです。コリント教会は、言葉と知識において、大変豊かな恵みを与えられていました。その言葉とは、単なる弁舌のことではなくて、神様の恵みを語る言葉、信仰における言葉、キリストの福音を宣べ伝える言葉です。また知識というのも、一般的な教養のことではなくて、信仰における知識、神様のみ言葉である聖書に関する知識ということでしょう。そういう信仰的な言葉と知識において、コリント教会は豊かな恵みを神様から与えられていたのです。これは決してお世辞ではありません。コリント教会には確かに、このような点で大変優れた人々がいたのです。7節には「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」とあるように、この教会には優れた賜物を持った人がたくさんいたのです。そういう恵みが豊かに与えられていたのです。ちなみに「賜物」という言葉は「恵み」という言葉から来ています。「恵み」はカリス、「賜物」はカリスマです。カリスマという言葉は最近は「カリスマなんとか」というふうに、一般的な日本語としても使われるようになってきましたが、もともとの意味は、神様の恵みによる賜物ということなのです。コリント教会は、言葉と知識において豊かな賜物、カリスマを与えられていました。そしてそのことが、この教会における様々な問題の原因の一つとなっていたのです。賜物は、恵みであると同時に、それをどう受け止め、用いていくかという課題ともなります。すばらしい賜物が与えられていればいる程、それをどう受け止め、用いるかが大事であり、難しくもあるのです。コリント教会の人々は、与えられている豊かな賜物の受け止め方、用い方において間違ってしまいました。そのために様々な問題、トラブルが生じてきているのです。パウロはそのことをこれからこの手紙の中で指摘し、彼らの間違いを正そうとしています。しかしそれに先立ってまず、彼らに賜物が豊かに与えられていることを神様に感謝しているのです。賜物が与えられていることがいけないのではないのです。その賜物が本当によく生かされ、正しく用いられていくことが大事なのです。そしてそのためにはまず、その賜物を神様に感謝することから始めるべきだ、というのがパウロの思いなのです。

キリストの現れを待ち望む

 言葉と知識における賜物が豊かに与えられたことによって、コリント教会には、6節にあるように、「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」のです。イエス・キリストによる救いの恵み、福音についての言葉と知識の賜物が豊かに与えられる時、キリストについての力強い証しがなされます。そして伝道が進展していくのです。コリント教会もそのようにして成長してきたに違いありません。キリストの救いについての証しが確かなものとなることによって教会は成長していくのです。これもまた、神様の大きな恵みです。しかしパウロはそこで、この賜物と恵みが本来何のために与えられているのかを確認しようとしています。それは7節後半の「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」ということです。主イエス・キリストの現れとは、復活して天に昇られた主イエス・キリストが、もう一度この世に来られること、いわゆるキリストの再臨のことです。主イエス・キリストがもう一度来られることによって、この世が終わり、神様のご支配があらわになり、私たちの救いが完成するのです。この「現れ」という言葉は、隠されているものがあらわになる、という意味です。神様のご支配は、主イエス・キリストの十字架と復活によって既に確立しています。しかしそれは今は隠されていて、誰の目にも明らかではありません。信仰によってしかわからないのです。しかし主イエスの再臨の時には、隠されているご支配があらわになり、誰の目にも明らかになるのです。「主イエス・キリストの現れ」という言葉はそのことを意味しています。そしてパウロは、あなたがたはその主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる、と語っています。言葉と知識において豊かな賜物を与えられ、キリストについての証しが確かなものとなることによって、つまり信仰が本当に成長し、深まっていくときに、私たちは、今は隠されている、主イエスにおける神様のご支配を信じ、その現れの日、救いの完成の日を待ち望みつつ生きる者となるのです。

救いは完成していない

 それは言い換えるならば、主イエス・キリストの現れ、つまり主イエスの再臨の日までは、私たちの救いは完成しない、ということです。主イエスの再臨によってこの世が終わるその時まで、私たちの救いは、まだ完成していない、途上の歩みなのです。信仰における言葉と知識の賜物が豊かに与えられ、キリストについての証しが確かなものとなることによって、主イエス・キリストの現れを待ち望む歩みがますます確立します。つまり、信仰における賜物は、どんなに豊かに与えられたとしても、それによって救いが完成してしまうことはないし、もう十分に与えられたからこれ以上求める必要はない、ということにはならないのです。むしろそれは豊かに与えられれば与えられるほど、自己満足から遠ざかり、自らが途上にあることをより深く覚え、主イエス・キリストの現れをより切実に、真剣に待ち望むようになるはずなのです。ところがこの点において、コリント教会の人々は勘違いをしてしまっています。彼らは、与えられた豊かな賜物に満足してしまい、自分たちがもう完成してしまったかのように、もう救われてしまったかのように思っている。そして、主イエス・キリストの現れを待ち望むよりも、自分がどれだけ立派な信仰者であるか、自分たちがどれほど立派な教会を築いているか、ということを誇るような思いに陥っているのです。そこから、党派争いを始めとする様々な問題が生じているのです。パウロはそのことを見据えているがゆえに、あなたがたに与えられている豊かな賜物は、主イエス・キリストの現れを待ち望む歩みのためにこそ与えられているのだ、と語っているのです。

最後まで支えて下さる主

 私たちの救いは、主イエス・キリストの現れ、再臨の日までは完成しません。信仰はこの世が続くかぎり途上にある歩みです。このことは信仰における慢心を戒め、神様の賜物を自分の誇りの種にしてしまう間違いを防きます。しかしそれはある意味では私たちに不安を与えることでもあります。主イエス・キリストの再臨は、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と使徒信条にあるように、神様による審きの時でもあります。その時まで私たちの救いは完成しないとしたら、その審きにおいて本当に救いにあずかれるのだろうか、もしかしたら、審きによって振り落とされ滅びに陥ってしまうことがあるかもしれない、果して自分は救われるのだろうか、その保証はあるのだろうか、という不安も当然生じてくるわけです。パウロはそのために8節を語りました。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」。「わたしたちの主イエス・キリストの日」、それは「主イエス・キリストの現れ」の日、再臨の日、審きの日です。その時に、主イエス・キリストがあなたがたを、「非のうちどころのない者」にして下さる、つまり、神様の審きにおいても決して滅びに陥ることなく、救いにあずかる者として下さる、という約束が語られているのです。そのために、主が最後まであなたがたをしっかり支えて下さるのです。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて」と訳されていますが、「主も」の「も」は、原文においては「主」にかかるのではなくて、「支える」にかかっています。ですからこの8節はこう訳すべきだと言う人もいます。「主はあなたがたを、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められることのない者として最後まで堅く支えても下さる」。「主も支えて下さる」と訳すなら、基本的には私たちが自分で努力して、最後の審判の日に非のうちどころのない者となれるように頑張る、その努力を、主もまた支えて、手助けをして下さる、ということになります。しかし今のように、「主はあなたがたを最後まで支えても下さる」と訳すなら、全ては主のみ業ということになります。主は私たちを召し出して下さり、キリスト・イエスの中にある者、キリストに結ばれた者として下さり、様々な恵みの賜物を与えて、主イエスの現れを待ち望む者として下さっています。その恵みに加えてさらに、神様の審きにおいて、非のうちどころのない者としても下さる、つまり確かに救いにあずからせて下さるという恵みをも与えて下さるのです。そのように主イエス・キリストは、ひとたびご自分の民、キリストの中にある者、キリストと結ばれた者として下さった私たちを、最後までしっかりと支え、導き、面倒を見て、必ず救いにあずからせて下さる、とパウロは断言しているのです。

神の真実と人間の信仰

 このことこそ、9節に、「神は真実な方です」とあることの内容です。この真実という言葉は、約束に対して忠実である、信頼がおける、誠実である、という意味です。私たちを召し集め、ご自分の民、ご自分と結ばれた者として下さった神が、そのみ業を最後まで責任をもって成し遂げて下さる、私たちを最後までしっかり支えて、救いにあずからせて下さる、そこに、神の真実があるのです。この「真実」という言葉は、「信仰」という言葉と、原語においては一字違いです。真実はピストス、信仰はピスティスです。両者は根っこが同じです。神様は私たちに対して真実な方です。その神様に対して私たちが忠実であり、信頼し、誠実である、つまり私たちも神様に対して真実であることが信仰です。つまり神の真実と人間の信仰とは呼応しあっているのです。このことは旧約聖書においても同じです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第119編の90節に、「あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます」とあります。人間の、神様への信仰の決意を述べた言葉として読むことができます。ところが今の90節は口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたのまことはよろずよに及びます。あなたが地を定められたので、地は堅く立っています」。代々に続くのは人間の信仰ではなくて、神のまこと、真実だ、と訳されているのです。このように、同じ言葉が「あなたへの信仰」と訳されたり、「あなたのまこと」と訳されたりする、その言葉が、新約聖書における、神の真実、人間の信仰という言葉につながっているのです。神の真実と人間の信仰とは呼応し合っています。そして大切なのは、神の真実が人間の信仰に先立っている、ということです。9節の全体を読みます。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。真実な方であられる神様が、私たちを、神の子、主イエス・キリストとの交わりに招き入れて下さったのです。「招き入れられた」という言葉は、先週の1~3節に繰り返し語られていた、「召された」と同じ言葉です。それが「教会」という言葉のもとでもあると先週申しました。教会とは、神様に召され、み子イエス・キリストとの交わりに入れられた者たちの、つまりキリスト・イエスの中にある者、キリスト・イエスと結ばれた者の群れです。神様が、恵みによって私たちをその教会へと召し集めて下さったのです。そして真実な方である神様は、私たちを最後までしっかりと支えて、終わりの日の審きにおいても、非のうちどころのない者として救いにあずからせて下さるのです。コリント教会の人々にしても、私たちにしても、非のうちどころのない者であるどころか、問題と罪に満ちた弱い者です。しかしそのような私たちを神様は召し集め、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しにあずからせ、キリストとの交わりへと招き入れ、終わりの日の救いにもあずからせて下さるのです。その神様の真実に応えて、私たちは神様を信じ、感謝しつつ、主イエス・キリストの現れを待ち望んで生きるのです。神様の真実を見つめることから人間の信仰が始まります。そこに、教会における様々な問題に取り組んでいく糸口も与えられていくのです。

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