主日礼拝

魔術からの解放

「魔術からの解放」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 申命記、第18章 9節-14節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第19章 11節-20節
・ 讃美歌 ; 13、430、469
・ 聖歌隊 ; 47

 
エフェソ伝道
 今私たちは、使徒言行録において、パウロの第三回伝道旅行のことを読んでいます。19章全体が、エフェソにおける伝道の様子を語っています。毎回、聖書の後ろの付録の地図の8「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただいていますが、エフェソは、小アジア、今日のトルコのいちばん西、エーゲ海に面する地域にあります。この町は、当時のローマ帝国アジア州の州都で、人口が25万ぐらいだったと言われています。先週も申しましたように、パウロは以前からこのエフェソで伝道することを願っていました。第三回伝道旅行においてようやくそれが実現し、ほぼ三年間ここに留まって、じっくり腰を落ち着けて伝道したのです。そのエフェソ伝道の様子を知るために、先週も読んだ8節以下の部分にも触れておきたいと思います。10節に、パウロのエフェソでの熱心な伝道の結果、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」とあります。この「アジア州」で意味されているのは、エフェソのみではなく、同じ州にあるラオディキア、ヒエラポリス、コロサイといった町々のことも含まれていると思われます。パウロはエフェソからそれらの町にも足を伸ばして伝道をしたのでしょう。また、このエフェソ滞在中に、新約聖書に収められているパウロの手紙の内の、コリントの信徒への手紙一、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、フィレモンへの手紙などが書かれたとも考えられています。パウロのエフェソでの三年間は、まことに実り多い伝道の三年間だったのです。

神の国の福音
 8節には、パウロがエフェソのユダヤ人の会堂で、「神の国」のことを論じて、人々を説得しようとした、とあります。パウロが宣べ伝えたのは、「神の国」の福音でした。神の国とは、神様のご支配という意味です。それが福音、つまり喜ばしい知らせであるのは、神様が恵みをもって私たちをご支配下さるからです。その恵みのご支配が、神様の独り子イエス・キリストにおいて、その十字架の死と復活において実現した、とパウロは語ったのです。しかし9節には、ユダヤ人たちはこの神の国の福音を信じようとせず、むしろ非難したとあります。ユダヤ人たちは昔から、神様が救い主を遣わして下さり、その方によって神の国が実現することを信じて、待ち望んでいたのです。それなのに、ついにそれが実現したと告げるパウロの言葉に耳を傾けようとしなかったのです。何故でしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた主イエス・キリストによる神の国が、彼らの期待しているものとは違ったからです。彼らは自分なりに、神の国、神様のご支配とは、つまり救いとはこのようなものだ、という思いを、期待を持っていました。パウロが宣べ伝えたイエス・キリストによる神の国、救いは、彼らの思いや期待に合わなかったので、こんなもの神の国じゃない、救いじゃない、と受け入れなかったのです。そのような姿勢は、神の国を信じる者の姿勢ではないことは誰でも分かるはずです。神の国、つまり神様のご支配を信じるとは、そのご支配に従うことであるはずです。神様が示し与えて下さるご支配を受け入れ、それに服するという姿勢が基本的に必要なのです。それなのに彼らは、自分の思い、考え、期待に固執して、それにそぐわないものは拒否しています。それはつまり神様よりも自分が支配し、自分が主人になっているのです。そのようなことでは、神の国の福音を信じて生きることはできません。神の国の福音に生きるためには、自分が主人であることをやめて、神様を主人としてお迎えし、神様に従う者とならなければならないのです。それが、回心する、あるいは悔い改めるということです。パウロが人々に宣べ伝え、アジア州に住む者はだれもが主の言葉を聞くことになった、と言われている「主の言葉」とは、この悔い改めを求める言葉、自分が主人であることをやめ、主イエス・キリストの十字架と復活によって恵みのご支配を打ち立てて下さった神様をこそ主人として迎え入れ、神様に従う者となりなさい、というみ言葉だったのです。

目覚ましい奇跡
 本日の11節以下には、そのようなパウロのエフェソ伝道の中でなされた目覚ましい奇跡のことが語られています。12節にあるように、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」のです。このような奇跡の記述によって聖書が何を語ろうとしているのかを、私たちは正確に読み取らなければなりません。それは、パウロのエフェソ伝道によって、人々が、病に苦しめられ、悪霊に取り付かれたような生活から癒され、解放され、健康な生活を送ることができるようになった、ということです。悔い改めて神の国、神様の恵みのご支配を信じる信仰は、人々の生活を、人生を、新しくし、癒し、健康なものとするのです。聖書はそのことを示すために、このような奇跡を語っているのです。ここにパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けが病気を癒し、悪霊を追い出したとありますが、それは、それらのものに魔術的な力が宿ったということではありません。パウロが、霊験あらたかなお守り札のようなもので人々を癒したということではありません。そのことは、11節の、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という言葉から明らかです。これら全ての奇跡は、パウロの業ではなく、神様ご自身のみ業なのです。パウロは神様のみ業のために用いられたに過ぎません。これらの奇跡を通して私たちが見つめるべきことは、パウロの病気を癒す力ではなくて、神の国、神様の恵みのご支配を告げる福音が語られるところに起る、神様の恵みのみ業なのです。そのような恵みのみ業が、パウロの力によってではなく、主イエス・キリストのみ名によってなされたのです。

主イエスの名によって
 これらの奇跡が主イエスのみ名によって行われ、それが人々の心を打ったことは、13節からも分かります。ここには「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」が出てきて、彼らが、悪霊に取り付かれている人々に向かって、試みに、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみた、とあります。つまりパウロが、主イエスのみ名によって病気を癒したり、悪霊を追い出しているのを見たこの人々は、イエスという名前に特別な力が宿っているのではないか、と思ったのです。彼らがそのように思ったということは、パウロが、自分の名や自分の力でそれらのことをしていたのではない、ということの証拠です。パウロは、主イエスのみ名を示し、その力を証ししていたのです。そのような伝道の中で、神様ご自身が、目覚ましい奇跡を行って下さったのです。

まじない師たち
 さてここに出てくる「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」ですが、「祈祷師」という言葉は前の口語訳聖書では「まじない師」でした。彼らは、まじないをする者、占いや魔術を行う者です。それは本来は、ユダヤ人たちの間にあってはならないはずのことでした。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第18章9節以下にそのことが明確に語られています。占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などは、異教の神々に仕える者たちのあり方なのであって、主なる神様の民であるイスラエルには、そのような者があってはならない、とはっきり語られているのです。ですからこれらの者たちの存在は、当時のユダヤ人たちが本来の聖書の教えからそれてしまっていたことの印でもあるのです。

魔術の本質
 主なる神様の民において、占いやまじないや魔術などがこのように厳しく禁じられているのはなぜなのでしょうか。私たちはそのことをまさに、この祈祷師たちの姿を見ることによって知ることができるのです。悪霊につかれている人に向かって、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言った彼らの言葉に、まじないや占いの本質が現れています。彼らは、自分が口にしているイエスという方を知りません。勿論信じてもいません。信じようと求めてすらいません。ただ、パウロがこの名によって奇跡を行っているから、この名には特別な力があるのではないか、と思い、その力を自分たちも利用しようとしているだけです。つまり彼らは、主イエスによって実現している神の国、神様のご支配に服することなく、つまり神様に自分の心を明け渡すことなしに、自分が主人であり続けながら、その自分のために、神様の力を利用しようとしているのです。それが、まじないや占い、魔術の本質です。そこには、神の国を信じ、自分を神様に明け渡し、自分が主人であることをやめて神様のご支配を受け入れ、神様に従って生きる、ということはありません。つまり先ほど申しました、回心や悔い改めがないのです。それらのことを拒みつつ、ただ自分のために、神でも仏でも何でもいいから頼りになりそうな力を利用する、それがまじない、占い、魔術です。主なる神様がご自分の民イスラエルにそれを固く禁じられたのはそのためです。このようなことでは、神様とその民との間の正しい関係が損なわれてしまうからです。十戒の第三の戒めに、「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるのは、一つにはこのことを言っているのです。主なる神様のみ名をみだりに唱える、それは、自分のためにそのみ名を利用するということです。この人々がイエスのみ名を、それを信じることなしに、つまり主イエスとの交わり、信仰なしにただ利用しようとしている、そのようなことが、「み名をみだりに唱える」ことなのです。  まじない、占い、魔術はこのように、主なる神様との正しい関係を損ない、十戒に違反する罪です。しかしむしろ深刻なのは、そこには、本当に健康な、自由な、悪霊の支配から解放された歩みはない、ということです。まじないや占いや魔術が与える救いは、その場だけの、一時しのぎに過ぎません。悪い事が続くので占い師に見てもらったら、名前の字画が悪いと言われ、改名したとします。その時はそれで一安心かもしれませんが、それで人生の苦しみや不安が全てなくなるわけではありません。また別の苦しみが起ってきます。今度は、住んでいる家の方角が悪いと言われるかもしれません。あるいは、印鑑の印相が悪いのかもしれません。あるいはひところ問題になった霊感商法でよく用いられたように、先祖の魂のたたりがある、と言われるかもしれません。要するにそういうことには際限がないのです。そのようなものに振り回されて、名前を変えたり印鑑を変えたり引っ越しをしたり高価な壷を買ったりするのは、まさに悪霊に取り付かれた、病んだ生活です。そのようなことによって私たちが苦しみから癒されることは決してないのであって、むしろより深く悪霊に支配されてしまうことになるのです。

悪霊に勝つとは
 そのあたりのことが、15、16節に印象深く描かれています。ユダヤ人の祈祷師たちは、悪霊に取りつかれている人に、イエスの名によって「悪霊よ出ていけ」と命じてみたのです。すると悪霊が彼らに言い返しました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」。そして16節にあるように、彼らは悪霊に取りつかれた人によってひどい目に遭わされ、裸にされ、傷つけられて、ほうほうの体で逃げ出したのです。このエピソードは、悪霊と私たちの関係、あるいは、悪霊に打ち勝つとはどういうことかを知る上でとても重要です。悪霊は、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている」と言っています。知っている、とは、この場合、かなわない、悪霊にとって勝ち目はない、ということです。主イエスに「この人から出て行け」と言われたら、福音書に何度も語られているように、悪霊は退散するしかないのです。パウロによってもそうです。それは先程申しましたように、パウロ自身の力によることではなくて、パウロが、自らを主イエスに、主イエスによって実現している神の国、神様のご支配に明け渡し、自分が主人であることをやめて、神様に従う者として生きているからです。そのようなパウロが、悪霊に「この人から出て行け」と命じる時、そこには主イエスご自身の権威、力が働いて、悪霊はやはり退散するしかないのです。このように、主イエスによる神様の恵みのご支配に心を明け渡し、自分が主人であることをやめて神様に従っていく信仰のあるところでは、主イエスの恵みの力が発揮され、悪霊は力を失うのです。悪霊の支配からの解放が起こり、人々が、病に苦しめられ、悪霊に取り付かれたような生活から癒され、健康な生活を送ることができるようになるのです。けれども、この祈祷師たちは、主イエスを信じることをせず、あくまでも自分が主人であり続けながら、イエスの名の力だけを用いて悪霊と対抗しようとしました。そのように、自分が主人であり続けようとしている人間は、悪霊にとって、何の脅威でもないのです。「いったいお前たちは何者だ」、それは、「お前たちなど何も恐くない。物の数にも入らない」ということです。そのように、自分が主人であり続けながら、神様の力を自分のために利用しようとしているところでは、つまり魔術によっては、決して悪霊に打ち勝つことはできず、むしろ悪霊の格好の餌食となってしまうのです。そもそも悪霊の狙いはそこにこそあります。悪霊は、人間に、神様ではなく自分が主人となって生きることができるし、その方がよい、と思わせることによって、人間を神様の恵みのご支配から引き離そうとしています。悪霊の誘いによって私たちは、自分が主人になって、自由に生きているような気にさせられます。しかし実は気が付いたら悪霊に支配され、その奴隷となっているのです。まじない、占い、魔術は、悪霊が人間をそのような罠にはめて自らの支配下に置くための最も有効な手段なのです。

魔術からの解放
  17節には、この出来事を知ったエフェソに住むユダヤ人やギリシア人たちが、皆恐れを抱き、主イエスの名を大いにあがめるようになった、とあります。主イエスのみ名の持つ力が示され、あがめられるようになったのです。それは、あの祈祷師たちが考えたような、主イエスのお名前そのものに魔術的な力が宿るということではありません。主イエス・キリストによって実現した神の国、神様のご支配を受け入れ、そのご支配に自分を明け渡す時に、神様の恵みの力が豊かに働き、人々を、悪霊の支配から解放するのだということが明らかになったのです。  このことを見て、既に信仰に入っていた大勢の人々が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した、と18節にあります。すでに洗礼を受け、信者になっていた人々が、なお犯し続けていた悪行を告白したのです。その悪行とは、具体的には次の19節にあるように、「魔術を行っていた」ということだと思われます。主イエス・キリストを信じ、神の国、神様のご支配の下に生き始めていながら、なお魔術を行っていた者がいたのです。まじないや占いに耳を傾け、その教えを求めていた者がいたのです。これは驚くべき、とんでもないことですが、しかし他人事ではないでしょう。私たちの中にも、同じような思いは起ってくるのです。つまり、主イエス・キリストの十字架と復活による神様の恵みのご支配を信じ、それのみに寄り頼んで生きることにある不足を、不確かさを感じ、もっと別の、もっと確かな安心を自分のものとしたいという思いです。主イエスに半分は心を明け渡しながら、なお残りの半分は自分のものとして残しておいて、そこでは、自分の力である安心、保証を確保したい、という思いです。魔術というのは、オカルト映画に出てくるようなおどろおどろしいものとは限りません。私たちが心の中で、主イエス・キリストに全てを明け渡すことを拒み、自分が主人であり続け、何らかの手段で自分の手元に確かさを確保しておこうとする、それこそが魔術を生む思いです。そのような思いによって、私たちの信仰の中に、占いやまじないに心を奪われていく隙が生じるのです。しかし本日のみ言葉は私たちに、それらのものによっては決して悪霊に打ち勝つことができないことを教えています。主イエスを信じると言いながら、魔術や占いに耳を傾けてしまうところには、むしろ悪霊の格好の餌食となり、悪霊に支配された、不健康な生活が生まれるのみなのです。エフェソの教会の人々はそのことに気付かされたのです。自分たちの中にある、なお魔術を求める思いが、実はこの祈祷師たちのように、神様を自分のために利用しようとすることであり、そのような思いこそが、神様の恵みのご支配の確立を妨げているのだということに気付いたのです。そこで彼らは、そのような罪の思いを告白し、隠し持っていた魔術の書物を持って来て、皆の前で焼き捨てたのです。当時の本というのは、今日とは違い、一字一字が手で書き移された、大変高価なものでした。魔術の本であればなおさらだったでしょう。それゆえに、集められ焼き捨てられた魔術の本の値段は銀貨五万枚にもなったのです。それは大変な財産です。それが全て灰になったのです。これらを焼き捨てることは、一人一人にとって、金銭的に大きな損失だったでしょう。大枚の金を払って手に入れた宝を焼き捨てるようなことだったでしょう。しかしそれらを焼き捨てることによってこそ、彼らの信仰は、神の国の福音に生きる歩みは、本物となったのです。ここで焼き捨てられたのは本ではありません。一人一人の心の中の、魔術を求める思い、主イエスに自分の心を明け渡し、支配していただくことを拒み、自分が主人であり続け、神様を自分のために利用しようとする、その心こそがここで焼き捨てられたのです。それを焼き捨てることによって、彼らは魔術から解放され、悪霊の支配から自由になって、生けるまことの神様の恵みのご支配の下で歩む健康な生活を送ることができるようになったのです。

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