主日礼拝

真理による自由

「真理による自由」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ネヘミヤ記 第9章32-37節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章31-38節
・ 讃美歌 ; 16、402、394

 
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。主イエスが語られた言葉です。
「真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、最も世に知られている聖書の言葉の一つと言って良いでしょう。ヨーロッパの高等教育機関や研究所に行くと入り口の所にギリシャ語やラテン語でこの言葉が掲げられていることが多いようです。ヨーロッパだけでなく、日本においても目にする事があります。私が通っていたキリスト教主義の大学の図書館の入り口にもやはりこの言葉が掲げられていました。又、国立国会図書館にもこの言葉が掲げられているのです。学生時代、本来ならば教会の入り口にこそ掲げられるべき言葉が図書館に掲げられるのを見る度に嬉しく思う反面、少なからず違和感を覚えていたのも事実です。
 国会図書館に掲げられている言葉は、確かに聖書の御言葉から取られているのですが、聖書の御言葉がそのまま用いられているのではありません。「あなたたち」という言葉が、「われわれ」という言葉に変えられていて、「真理がわれらを自由にする」となっているのです。このことは、世間で、この言葉をどのようなものとして聞いているかを現しています。聖書において「真理はあなたがたを自由にする」と言った時、この言葉を語っているのは、主イエスです。私たちは、それを神の言葉、御言葉として聞いています。しかし、「真理がわれらを自由にする」と言った時、この言葉を語っている主体は、私たち人間です。ですから、ここでは、この言葉を神の言葉としてではなく人間の語る言葉として聞いているということになります。同じ言葉でも、それを神によって語られたものとして聞くか、人間の言葉として聞くかによってでは全く別のものになってしまうのです。

 この言葉が図書館に掲げられている時、そこで意味されていることは、私たちの学問的探求によって真理に到達し、そこから自由を得ることが出来るということです。もちろん、そのように言って間違いではありません。人間の探求によって得てきた真理によって、私たちは科学的な発展を遂げ、豊かな生活を享受するようになりました。又、自由や人権、デモクラシーと言った政治的な文化価値を得てきました。そのことによって、様々な迷信から解放されてきたのです。私たちはこのような真理探究の努力を常になしてきたし、これからもなしていくことでしょう。
 しかし聖書が語ることは、このような「真理」探求とは異なります。聖書が語る真理は人間の学問的に探求によっては発見することが出来るものではないし、まして図書館にこもって勉強することによって得ることが出来るものではないのです。
 教会でしばしば聞かれる言葉に、「勉強不足なものですから」というようなことがあります。私自身も何度か語ったことがあります。自分は聖書を勉強していないというのです。もちろん聖書は書物ですから、私たちの信仰生活には、それを読むことによって知識を得るという側面があります。又、教会や神学が歴史の中で生み出してきた膨大な文書や、伝統があり、それらを学ぶことで、私たちの信仰生活は豊かになることも事実です。しかし、そのように努力して勉強した結果として、ここで言われている真理を知るのではないのです。

 この箇所を読んでいて、思い起こす歌があります。金子みすずさんの童謡に、「だれがほんとを」というものです。

 だれがほんとをいうでしょう、
 わたしのことを、わたしに。
  よそのおばさんはほめたけど、
  なんだかすこうしわらってた。
 だれがほんとをいうでしょう、
 花にきいたら首ふった。
  それもそのはず、花たちは、
  みんな、あんなにきれいだもの。
 だれがほんとをいうでしょう、
 小鳥にきいたらにげちゃった。
  きっといけないことなのよ、
  だから、いわずにとんだのよ。
 だれがほんとをいうでしょう、
 かあさんにきくのは、おかしいし、
  わたしは、かわいい、いい子なの
  それとも、おかしなおかおなの
 だれがほんとをいうでしょう、
 わたしのことをわたしに。

 小さい子供が、自分の姿について「ほんとのこと」を語るものがいるのかという問を発してる歌です。自分で自分のほんとの姿がわからない。色々なものに聞いてみるのです。しかし、誰も、「ほんと」を語ってくれないのです。これは子供に限らず私たちが誰しも直面する問であるように思います。「わたし」についてほんとを語るものが果たしているのだろうか。社会や自然に聞いて見ても分からない。いや、そもそも、「わたし」にとって、「ほんと」があるのだろうかと思うことすらあるのです。

 ここで主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」と言われています。ここで言われている真理は「わたしの言葉にとどまる」ことによって知られるということが言われているのです。主イエスの言葉にとどまる、その時に知らされる「真理」があるというのです。又、ヨハネによる福音書において、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われています。主イエスご自身が、真理であると言われています。ですから、主イエスの言葉にとどまるということは、主イエスご自身を見ることでもあるのです。

 ここで、この言葉が語られた文脈に目を向けて見たいと思います。この言葉の前には「イエスは、ご自身を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。本日お読みした箇所の直前に「多くの人々がイエスを信じた」とあるのを受けているのです。主イエスが祭りの時に神殿で語られた教えを聞いて、信じた人が大勢いたのです。「信じる」ということは、私たちの救いにとって欠かせないことです。プロテスタント教会の信仰の中心の一つは、信仰義認ということです。人間の善い行いではなく信仰によって救われるということを大切なこととして重んじています。私たちは、「信じる」ということを救いの条件のように考えているかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書においては、「信じる」という言葉は必ずしも積極的な意味で使われていないのです。例えば、主イエスのなさったしるしを見て信じた人々をイエス御自身は信用されなかったということが記されています(2:23~)。「主イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」と言われています。主イエスは、「信じる」という時の私たちの内にある、不確かさ、脆さを知っておられるのです。今日お読みした箇所で「信じた」と言われている言葉は、ある特定の時に信じた、一時的に信じたということを現す表現がなされています。この人々は信じ続けたのではないのです。たまたま、祭りが行われている神殿で主イエスが力強く叫ばれるのを聞いて引きつけられたというのかもしれません。この時、主イエスの語ったことを自分なりに理解したつもりになって、妥当性があると判断できたから「信じた」のかもしれません。けれども、その後ずっと、同じように信じたのではないのです。いずれにしても、ここで「信じた」と言われていることは、一時的な独り善がりな信仰であったと言って良いと思うのです。
 私たちが「信じる」という時、そこには様々なきっかけがあります。人生の歩みの中で大きな経験をしたり、感情が高揚している中で神秘的な体験をしたりする中で、「信じる」ということがあります。又、自分が幼いころから、当たり前のこととして伝えられてきたこと、しきたりや、伝統と言ったものを自分の内で絶対化することによって、「信じる」ということがあります。しかし、そのようなきっかけで信じる信仰は独り善がりなものであることがあるのです。そこでは、いったんは信じても自分の都合に合わなくなると捨て去ってしまうようなことが起こり得るのです。信仰も自分の自由な判断のもとにおいているのです。
 そのようなことを知った上で、主イエスは「信じた」ものに対して、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われるのです。ただ、御言葉を聞いて、その時に「信じた」というだけではだめで、本当の弟子というのは、主イエスの言葉にとどまるものであると言うのです。「とどまる」というのは、そこに居続けることです。それは、一時は信じても、後は主イエスの下を離れてしまうということではありません。主イエスの言葉を聞き続けると言ってもいいでしょう。そして、聞き続ける中で、主イエスの言葉によって、自分の存在が根底から支えられているということです。

 この時の、イエスを信じたユダヤ人たちは、主イエスの言葉にとどまっていませんでした。人々は、主イエスの言葉を聞くとすぐに、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして語るのですか」と語ったことが記されています。ユダヤ人たちは、「あなたたちは自由になる」と言われたことが納得できなかったのです。自分たちは既に自由であると思っていたからです。ですから、今の自分が不自由な状態、奴隷状態だとは思っていなかったのです。
 自由とは、私たちにとって極めて重要な価値であると言って良いでしょう。自由のために命をかけて戦った人、自由を得るために自分の命を捨てた人というのは洋の東西を問わず見いだすことが出来ます。自由であることは私たちが最も重んじている価値の一つであると言ってもいいと思うのです。
 この時、ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にあり、不自由を経験していたのです。しかし、この時、政治的な不自由の中にありながら、自分たちは決して不自由であるとは考えていました。ユダヤの人々は、自分たちアブラハムの子孫、であり、自分たちは救いにおいて選ばれているとしていたのです。イスラエル、神の支配の民とされていることは、神の真理によって生かされていることであって自分たちは自由であると考えていたのです。ですから、自由になる必要を感じなかった、主イエスの下に留まる必要を感じなかったのです。

 そのような人々に対して、主イエスは、「はっきり言っておく」と言って語ります。「罪を犯す者は罪の奴隷である」。「はっきり言っておく」とは、主イエスが特に強調して語られる時に用いられる表現です。自分はアブラハムの子孫であるということによって、自分の救いを確信しようとする人々、独り善がりな信仰によって、本当の神の御言葉にとどまっていない人々。に向かって、「あなたは罪の奴隷だ」と言われるのです。自分たちは誰にも支配されていないと思っているかもしれないが、そのように思っている時に、実は罪に支配されているというのです。
 ある神学者が罪について次ぎのように語っています。罪とは、「われわれが神から奪い取ったあの恐るべき間違った自由である。われわれは家出したのである。父無しに活動出来ると信じて自分自身の世界に突進して行ったあの放蕩息子の家出を、行ったのである。そして放蕩息子は、父無しに活動する。そして彼のこの自由そのものが、消し難い奴隷状態に変化する。われわれは一人残らず、この奴隷状態を知っている」。
 先週は、花の日の総員礼拝で放蕩息子の譬えに聞きました。自分の父を死んだものとして扱い、自分の相続するはずの財産をもらって旅に出て放蕩の限りを尽くす息子の話です。この息子は、父の下にいるという状態を窮屈に思い、そこから自由になろうとして、その下を離れていったのです。聖書は、このように、自分の判断で、自由になろうとして父の下を離れていくことこそ、人間の罪だと聖書は語っているのです。そこにあるのは、父を亡き者にして、自分勝手に生きようとする歩みです。しかし、そのような歩みは、すべて自分の自由に出来る歩みに見えて、実際には罪の奴隷になっている歩みだというのです。

 自分たちが自由であることを主張する人々に対して、主イエスは「あなたたちがアブラハムの子孫であることは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている、わたしの言葉を受け入れないからである」と語られます。主イエスは、ご自身のことを信じた人々に対して、「わたしを殺そうとしている」と言われているのです。私たちはこのことに少なからず驚きを覚えます。この箇所を解釈して、主イエスの言葉を聞いて信じた人々と、「あなたたち」と呼びかけられている主イエスを殺そうとしている人は異なる人なのだと考える人もいるのです。しかし、私たちはこのことを、しっかり受け止めなくてはいけません。主イエスの言葉にとどまらない、独り善がりな信仰こそが、主イエスを殺そうとすることにつながるのです。
 ここで、殺そうとしていることの理由として、「わたしの言葉を受け入れない」ということが言われています。この言葉は、場所を得ないとか、根をおろさないという意味の言葉です。主イエスの言葉が自らの内に根をおろしていない。主イエスの言葉が占めている場所がないのです。主イエスを閉め出して、自分の自由を確保しようとしているのです。しかし、実は、そこで確保された場所というのは、私たちが罪に支配されている部分なのです。主イエスを信じていると言っていながら、心の内では、主イエス以外のものが場所を占めている。信仰においてすら、自分の自由を確保しようとするのです。しかし、そこには、そのような信仰であったからこそ、人々は信じていながら主イエスを殺そうとして、最終的には十字架に架けてしまうのです。

 ここで、主イエスは、「奴隷は家にいつまでもいるわけではないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と語られます。ここで言われている、子とは主イエスご自身のことです。主イエスが私たちを自由にすれば、わたしたちは本当に自由なると言うのです。そして、ここでの子という言葉と、真理という言葉は「自由にする」ということで結ばれています。ですから、真理とは主イエスそのものでもあるのです。人々が十字架につけた主イエスが、その、十字架の死によって、私たちの罪の贖いとなって下さっている。そのようにして、私たちを愛して下さっている。それが、聖書が語る真理だというのです。
 私たちが、自分は誰の奴隷でもないという思いから、主イエスの言葉にとどまらない。とどまらないどころか殺そうとする。しかし、その殺意の中に主イエスご自身が赴かれるのです。自らの自由を確保しようとして、罪の奴隷となってしまっているものに、本当の自由を得させるために、自らの命を投げ出されるのです。

 私たちは、主イエスの前で、信じるということにおいてさえ自分勝手である自分、神から奪い取った間違った自由に生きようとするために、「神を殺そうとしている」自分を見いだします。しかし、私たちの罪にもかかわらず、私たちが、神によって愛されていることを知らされるのです。罪の奴隷となって、根本的に神に敵対している私たちの反逆にも関わらず、その反逆をはるかに勝る強さで、神が私たちの罪に対抗し勝利しておられるということを知らされるからです。

 放蕩息子は財産を使い果たし、ぶたの食べるいなご豆を食べるようになります。そこで、我に返って父親のもとに返る決心をするのです。それまでの自由だと思っていた自分が、罪の奴隷となっていたということを悟るのです。家に帰りながら何と言おうか考える。そして、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と言うことを決心するのです。しかし、家に到着する前に、父親が息子を見つけ、走り寄る、そして、息子の言葉を全て聞き終わる前に、喜んで受け入れて下さるのです。このような方が、私たちの父でいて下さり、主イエスと共に、私たちも「父よ」と呼ばせてくださるのです。
 私たちは、この主イエスの業に私たちは繰り返し立ち返るのです。そのようにして、私たちは御言葉にとどまり続けるときに、私達は罪から解放されて、真の意味で自由なものとされているのです。ここに聖書が語る、私たちの真理があります。

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