「あなたも招かれている」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第5章 1節-7節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第2章 1節-12節
・ 讃美歌21; 155,579,286
序 フィリポとナタナエルの二人を弟子とした主イエスは、それから三日目のある日に婚礼の席に招かれました。後に「カナの婚宴」として広く知られるようになった結婚式です。キリスト教信仰に基づいて行われる結婚式においては、捧げられる祈りの中によくこの時の出来事が引用されます。「ガリラヤのカナで主が最初の奇跡を起こしてその栄光を現されたように、今この場にも臨んでくださって、あなたの御栄を現してください」という言葉をもって祈り、結ばれようとしている二人の上に、主の祝福と導きを願い求めるのです。教会にあまり来たことのない方でも、友人や知人の結婚式に出席するために教会に来る機会があると、必ずと言ってよいほどこの言葉が聞かれるので、いったい「カナの奇跡」とは何のことなのかと興味を持たれる場合もあるのではないかと思います。先ほど読まれました聖書の箇所が、あの祈りの言葉で指し示されている出来事を伝えているのです。
1 当時の結婚は次のように行われたと考えられています。女性は身を清め、白衣をまとい、宝石などを身につけ、ヴェールをかぶります。そして花嫁の帯を締めて式に臨みました。一方、着飾った花婿は友人親類などに伴われて花嫁の家に行き、花嫁は両親の祝福を受けて、花婿に渡されます。そして普通二人は花婿の家に行き、そこで祝宴が開かれるのです。この祝宴は翌日再開され、長いときには一週間も続いたといわれています。こうした祝宴に招待されることは大変名誉なことと考えられました。そこでは祝辞が述べられ、音楽や踊りなどがにぎやかに行われたようです。
けれども、福音書はこうした結婚式の様子についてあまり丁寧には語っておりません。いやむしろほとんど関心がないといってもよいのではないでしょうか。実にこの結婚式が誰と誰の結婚であったのかについてさえ、福音書は関心を持っていないのです。沈黙しているのです。語られているのは、当日招かれた人の中に、主イエスの母と、主イエスご自身、そして弟子たちがいたということであり、そこで起こった一つの事件です。しかも、華やかで楽しげな結婚式の舞台裏で人知れずに起こった事件の一部始終なのです。
どういう手違いが生じたのか、婚宴の途中でぶどう酒が足りなくなってしまったのです。このままではせっかくのお祝いの席も後が続かなくなって興ざめに終わってしまいます。祝宴を催している新しいカップルにとっても、その家族にとっても、また給仕長にとっても、恥ずかしい事態になるでしょう。今のようにすぐ近くのスーパーに買いに行くというえあけにもいかなかったのでしょう。にぎやかな宴会の一方で、舞台裏のお勝手では給仕係の者たちや調理係の者たちが大声を上げながら走り回り、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませているのです。
主イエスの母もこの祝宴の準備に、何らかの形で関わっていたのでしょうか。この緊急事態を感じ取って、ぶどう酒がなくなったという事実を主に報告します。「ぶどう酒がなくなりました」。ところが主イエスはこの母からの語りかけに対して、ちょっとぎょっとさせられるような答え方をされています、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。主イエスは親子のような肉によるつながりの中での、命令や要求に従うという形でご自身を現すことはなさらなかったのです。母の言葉は事実だけを報告している言葉のようも思えますが、そこには「あなたがなんとかしてあげたらどうですか」という暗黙の要求なり、願い出なりも含まれてはいないでしょうか。主イエスはそうしたわたしたちの願いや望みを実現してくださる神としてご自身を現すことをいったんは拒否されるのです。ご自身がどのような意味で神であるのか、いつ、どのような形で御子なる神としてご自身を現されるのか、それを決めるのは神ご自身のよしとされるところ、お決めになるところによるのだ、と言われているのです。それ以外のところ、たとえば主がわたしたちの願いどおりに夢や願いを実現してくれるかどうかという尺度を持ち込むとき、わたしたしは神がまことに神であるかどうかを判定する基準を自分の中に持つ過ちを犯してしまうのではないでしょうか。人間が思うような形で神はご自身を現されるのではない、神がよしとされる時と所に従って、神はご自身が神であることを現される、それがわたしたちの信仰ではないでしょうか。それゆえに、わたしたちが信仰を持って歩む時、人間的には理解できないような苦しみや悩みに直面することも出てくることがあり得ます。「神様、いったいなぜですか!」と訴え、叫びたくなるようなことも起こり得るのです。けれどもそこでわたしたちが祈る時、このお方と向き合い、語りかけてくださる主の言葉に聴き、このお方をよりよく知り、その深みにある思いを知らされていくという出来事が起こるのではないでしょうか。祈りとは「生ける神との談話」だと言われるのも、この意味を含んでいるように思えます。このお方と語り合い、その思いをより深く知らされ、どんな中にあっても、このお方を神として歩むことが、結局はもっとも揺るぎのない、確かな歩みであることを、わたしたちは祈りの中で知らされるのではないでしょうか。
主イエスの母はこの直後に言っています、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。そこには「神がご自身のよしとされるところに従って、ことをなしてくださるように」、という思いへと母の心が導かれていった様子が感じ取られるのです。
2 主イエスは他の誰からの要求によるのでもなく、ご自身の自由と権威に基づいて命じられます、「水がめに水をいっぱい入れなさい」、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。この水がめは二ないし三メトレテス、すなわち80から120リットル入りのものといわれていますので、それが六つ分といえばかなりの量です。しかもこの瓶から汲み出された水はすべて極上のぶどう酒に変わっており、そのとびきりの味は宴会の世話役が思わず花婿を呼んで問いただすほどであったというのです。お勝手裏で起こった奇跡です。宴会場では、何事もなく祝宴が続いていったことでしょう。けれども、その背後では、驚くべき神の御手が働いていて、その営みが支えられ、守られていたのです。
わたしたちの日々のささやかな営み、何気なく、当たり前のように思っているかもしれない歩みの中にも、主なる神の深いご配慮と支えと守りがあるのではないでしょうか。そしてそこに満ち溢れている恵みは、わたしたちがお返しすることができるたぐいのものとは違う圧倒的な恵みなのではないでしょうか。もちろんわたしたちが神の恵みにお応えし、日々新たに造りかえられ、「聖なる者」とされていく、という側面が信仰生活には伴っています。けれどもそれは、わたしたち人間の世界で普通考えられているような、贈り物に対して、同じ内容のお返しをするといったたぐいの話ではないはずです。もしわたしたちが神の恵みに同じだけの功績をもって、よい業をもってお返しができると考えるなら、そもそもわたしたちの罪による神様への借金はがんばって働けば返済可能な程度の罪だったということになりはしないでしょうか。わたしたちが救い出され、日々新しく救い出されているところの罪は、そんな安っぽい、簡単に処理できるようなものなのでしょうか。もしそうだったとしたら、ユダヤ人たちが清めに用いていた瓶の水だけで用は足りていたのです。そうではなくてなぜ水がぶどう酒に変わる必要があったのかが大切なのです。清めの水を用いて自らを清くしようとする営みが破れるところ、人間が自分の力でもって清く生きようとする努力の崩壊するところ、自分が祝宴を設けて主をお招きして喜ばせようとしていたところが、とても事情はそんな具合ではなかったのだと知らされるところ、そこにこそ、「主の栄光」が現れ出るのです。
わたしはこの一週間、ほとんどの間風邪をひいて不自由な思いをしました。熱を出して床についている間、いろいろなことを考えました。「藤掛先生や教会の皆さんにご心配をおかけして申し訳ないなあ」、「神学校を卒業する時、主任の下で担任教師として教会に仕える者は、教会の一致を守り、病気さえしなければあと何も要らないくらいのことを教えられたなあ」、「次の主の日までに何とか回復しないといけないなあ」・・・いろいろと思いを巡らしましたが、同時にこの間、たくさんの方々が祈りに覚え、ご配慮くださったことも知らされました。それはわたし自身、お返ししようのない主の恵みの中に生かされていることを深く思い知らされる出来事となったのでした。わたしたちの歩みもまた、あのお勝手裏の出来事のような恵みに支えられて、初めて日々の営みをゆるされているように思えるのです。福音書の記者は「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(1:16)と証しているとおりです。まずこの恵みを認め、喜んで受け入れる中から、応答や聖化の歩みも始まっていくのです。
結 預言者イザヤはかつてイスラエルの家を万軍の主のぶどう畑になぞらえて預言の歌を歌いました。主なる神がよいぶどうが実ることを願って、これ以上できないというほどの手を尽くして手入れをしてあげたのに、そのご期待に沿えずに酸っぱい実を実らせてしまう、それがわたしたちの現実の姿なのだ、と聖書は語りかけているのです。「清めに用いる水がめ」そのままでは、わたしたちを救い出す力は持たないのです。この水がめは「極上のぶどう酒」、すなわち主イエスの血潮をその内にたたえなくてはならなかったのです。このカナで行われた最初のしるしは、主イエスの十字架の出来事をすでに指し示しているのです。主イエスはこの時すでに、わたしたちの罪を引き受け、神の前に担い切る思いを確かにされていたのです。何がお勝手裏で起きているか何も知らずに、食い、飲み、嫁いだり、めとったりしているわたしたちの姿を見つめ、愛し抜くことを決意しておられたのです。神の国の喜びの食卓に招くことを願っておられたのです。
このことを知らされる時、わたしたちは聖餐の恵みを改めて覚えるのです。それはとこしえの命に与かる喜びの宴に、主イエスこそが招き手となって、わたしたちを呼んでくださっているということなのです。キリストがその御血潮によって打ち立ててくださった新しい契約にわたしたちが目を開くよう求めておられる、ということなのです。実はあの祝宴を準備したのは新しく結婚する二人でもなく、宴会の世話役でもなく、まことに主イエスご自身であったのです。まことの祝いの食卓を整え、わたしたちを招いておられるのは主イエスご自身です。御国の祝宴を、教会は聖餐において味わい始めているのです。
先日も、一人の姉妹が病床で洗礼を受けられ、引き続いて聖餐の食卓に与かりました。事前の準備の時には、「細かいことは何も分からないし、周りの人にもいろいろ迷惑をかけてきたけれど、神様にお任せすることが大切なんですね」という意味のことをおっしゃっていました。周りの家族もわたしたちも聖餐の喜びに共に与かりました。「まことに神はここにもおられる」と思いました。教会員であるお嫁さんも、「これで今までの苦労もすべて報いを受けました」と告白されていました。長い人生の中でかさを増してきた重荷や心にひっかかり続けてきた痛みも取り除いて癒し、周囲の愛の労苦も報われて感謝に変えられる、それが主イエスの招いておられる食卓です。わたしたちが信仰の目を開かれ、主の招きを知り、信仰を告白してその招きに応える者とされること、そのことを主イエスは今日も熱心に待っておられます。いつも新しく主の恵みの言葉を聴き、神の臨在の輝きを仰ぐ日々へと、わたしたちを招いてくださっているのです。