主日礼拝

なぜ泣いているのか

「なぜ泣いているのか」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第68編20-21節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第20章11-18節
・ 讃美歌:323、392

泣いていたマリア
 イースターの日の朝、マグダラのマリアは主イエスの墓に行き、そこに遺体がないことを知りました。彼女はシモン・ペトロともう一人の弟子にそのことを告げ、その二人も墓が空であることを確認しました。二人の弟子はその後「家に帰って行った」と10節にありました。しかし彼らと共に墓に戻って来たマリアは、そのまま墓に留まりました。そこからが本日の箇所、11節以下です。11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。マリアがこの朝墓に来たのは、主イエスの死を嘆き悲しんで泣くためでした。しかし来て見ると主イエスの遺体が無くなっている、せめて遺体が納められている墓の傍で泣くことによって慰めを得たいと願っていたのにそれができなくなり、深い絶望の内に彼女は泣いていたのです。同じ泣くといっても、これは彼女が願っていたことではありません。泣くことによって次第に平安が得られていくような涙ではななくて、泣いても泣いても慰めが得られない、絶望の涙を彼女は流していたのです。
 彼女は泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。もう何度も、そこに主イエスの遺体がないことを見たけれども、なおもう一度覗き込まずにはおれなかったのでしょう。すると、遺体が置かれていた所に、白い衣を来た二人の天使がいました。天使たちは彼女に「婦人よ、なぜ泣いているのか」と語りかけました。天使は、「あなたの悲しみの原因は何か」と尋ねたのではありません。「なぜ泣いているのか」には、あなたが泣く理由はもうない、泣かなければならない事態は終わり、喜びの出来事が起ったのだ、それなのになぜまだ泣いているのか、泣き止みなさい、そして新しく歩み始めなさい、という意味が込められています。天使はマリアに、悲しみからの解放を告げようとしているのです。
 しかしマリアは悲しみから抜け出すことができません。そのことが彼女の言葉に表れています。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。「わたしの主」という言葉に、彼女が主イエスを深く愛し、慕っていたことが表れています。しかし同時にそこには、「わたしの主」とは彼女にとって、どこかに置かれているはずの遺体のことだということも示されています。彼女にとって問題は、「わたしの主」がどこに置かれているかです。それがこの墓の中に置かれているならば、その前で涙を流し、「わたしの主」と共に時を過ごして慰めを得ることができる。それを願ってここに来たのです。ところが誰かが遺体を取り去ってしまった。そのことに彼女は、「わたしの主」を誰かに奪い取られたという悲しみ、怒り、そして嫉妬を覚えているのです。だから彼女は悲しみから抜け出すことができません。天使が「なぜ泣いているのか」と語りかけても、泣き止むことができないのです。

後ろを振り向くと
 14節には「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」とあります。ここに「後ろを振り向くと」とあるのは本日の箇所においてとても大事な言葉です。マリアは、墓の中を覗き込んでいました。そのマリアが後ろを振り向くと、そこに復活した主イエスが立っておられたのです。墓を見つめ、墓の中に主イエスの遺体を捜していたマリアが、振り向くことによって、復活して生きておられる主イエスと出会った、それが本日の箇所に語られていることです。マリアがどちらを向いているか、何を見つめているかということが、ここでは鍵となっているのです。そのことは実は最初の11節にも語られていました。「マリアは墓の外に立って泣いていた」とありますが、原文を直訳するとここは「マリアは墓に向かって立ち、外で泣いていた」となるのです。つまりマリアが墓の方を向いていた、墓を見つめていたことがこの11節にも語られていたのです。しかし復活した主イエスは、墓の方を向いている彼女の後ろに、つまり墓とは反対の方向におられます。墓を見つめていた彼女が向きを変え、振り返ることによって、復活した主イエスと出会うことができるのです。

だれを捜しているのか
 しかしこの14節においては、彼女はそれが主イエスであることが分かりませんでした。主イエスは、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけました。「なぜ泣いているのか」は天使と同じ言葉です。主イエスも、もう泣くことはない、あなたは泣き止んで新しく歩み出すことができるのだ、なぜまだ泣いているのか、と語りかけたのです。そして主イエスはさらに核心を突く問いを語っておられます。「だれを捜しているのか」。あなたは誰を捜しているのか。それは、あなたは墓の中に置かれている遺体を捜しているが、私は生きてあなたと出会っている、あなたは捜すべきものを間違えている、ということです。ここに、私たちの信仰の根本に関わる大事なことが示されています。私たちも、遺体となって墓の中に置かれている主イエスを捜し求めてしまっていることはないでしょうか。墓に納められた遺体はもうそこから動くことはありません。私たちは墓に行って、この人はこんな人だった、という自分の思い出に浸り、懐かしむのです。私たちが、主イエスはこんな方だった、主イエスの教えはこうだ、と理解して、主イエスを懐かしみ、その教えによって生きようとしているとしたら、その主イエスは墓に納められた遺体のようなものです。もう生きていない、過去の人です。主イエスをそのような方として捜し求めている限り、私たちの信仰は、墓の前で、主イエスのことを懐かしむことにしかなりません。しかもその「主イエスはこんな方だ、その教えはこうだ」という私たちの理解は、多分に自分の願いや主義主張によって脚色されています。自分の願いや考えに合う主イエスを「わたしの主」として懐かしがっているだけ、ということになるのです。しかし主イエスは復活して生きておられます。生きておられるということは、私たちがここにいると思っているところに必ずおられるわけではないし、私たちが願っている通りのことをして下さるわけでもない、ということです。生きておられる主イエスのことを私たちは、分かってしまうことはできないのです。私たちは、主イエスのことを分かってしまいたいと思っているのではないでしょうか。主イエスとはこういう方で、こういうことを教え、こういう救いを与えて下さる、と分かることが信仰だと思っていないでしょうか。しかしそのように私たちが分かってしまって、自分の心の引き出しの中に整理して納めてしまうことができるような主イエスは、墓に納められた遺体と同じです。信仰は、主イエスのことを分かってしまうことではなくて、生きておられる主イエスと新たに出会うことなのです。「だれを捜しているのか」という主イエスの問いかけは、そういう信仰の根本に関わる、非常に深い問いなのです。

わたしが、あの方を引き取ります
 この問いへのマリアの答えは、彼女が遺体としての主イエスを捜していることをはっきりと示しています。彼女はその人が主イエスであることに気づかず、園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言ったのです。彼女が「あの方」と言っているのは遺体です。そして興味深いことに、「わたしが、あの方を引き取ります」の「引き取る」という言葉は、13節で彼女が「わたしの主が取り去られました」と言った、その「取り去る」と、原文においては同じ言葉なのです。つまり彼女は、主イエスの遺体を「取り去った」誰かに対抗して、自分がそれを「取り去ろう」としているのです。主イエスの遺体を「引き取る」べき人はその人ではない、自分だ、自分がそれを引き取って、自分の手元に置きたい、と言っているのです。彼女は、「わたしの主」を誰かに奪い取られてしまったことを悲しみ、怒り、そして嫉妬を覚えている、と先ほど言ったのはそういうことです。主イエスご自身が語りかけて下さっているのに、彼女はその人が自分から主イエスを奪った園丁だと思い、その人に嫉妬し、その人から主イエスを取り戻そうとしているのです。そんな滑稽なことになってしまったのは、彼女が主イエスを、墓に納められた遺体として、過去の人として、自分が知っており、分かっており、自分の心の中にしまっておける、自分の手元に置いておくことのできる方として求めていたからです。彼女は、自分に語りかけた人が主イエスだと気づかなかったからこういうおかしなことを言ったのではありません。それは逆なのであって、主イエスを墓の中に納められている遺体として捜し求めていたから、つまり自分が知っており、分かっており、有り体に言えば自分のものとして手元に置いておくことができる主イエスを求めていたから、復活して生きておられる主イエスが語りかけて下さっても気づくことができなかったのです。

名前を呼んで下さる主イエス
 その彼女に主イエスは「マリア」と語りかけられました。「婦人よ」ではなく、「マリア」と、彼女の名前を呼ばれたのです。主イエスが名前を呼んで下さったことによって彼女は初めて、それが主イエスであること、生きておられる主イエスが自分に出会い、語りかけて下さっていることに気づきました。復活して生きておられる主イエスとの出会いがそこに起ったのです。主イエスの復活を信じるとは、生きておられる主イエスと出会うことです。およそ二千年前にイエスという人が十字架につけられて死んだが、三日目に復活した、そういう出来事が多分本当にあったのだと思う、ということが復活を信じることではありません。それでは主イエスはやはり過去の人であり、そういう意味で墓の中に納められている遺体と変わりはありません。復活を信じるとは、生きておられる主イエスが今自分に出会って下さっていることを信じることです。そしてその信仰は、私たちが努力して獲得できるものではありません。天使が語りかけてもそれは起こらないし、主イエスご自身が「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけて下さっても、私たちが主イエスを墓の中の過去の存在として捜し、主イエスのことを自分の知識の一つとして理解してしまおうとしているなら、それに気づくことができないのです。主イエスはそのような私たち一人ひとりに、名前を呼んで語りかけ、出会って下さいます。主イエスが自分一人の名前を呼んで、パーソナルに、一対一で語りかけて下さることを体験することによってこそ私たちは、復活した主イエスと出会い、復活を信じることができるのです。

心の向きが変わる
 主イエスが「マリア」と語りかけると彼女は振り向いた、と16節にあります。彼女が振り向いたことは14節にも語られていました。さっき振り向いて主イエスと対面して語っていたのに、また振り向くのは変です。でもヨハネはこの「振り向いた」に象徴的な意味を見ているのです。先程から見てきたように、マリアの心はは墓の方を向いていたのです。墓を見つめ、そこに置かれているはずの主イエスの遺体を捜し求めていたのです。しかし復活して生きておられる主イエスは墓の中にはおられません。墓の方を向いている彼女の後ろに、墓とは反対の方向におられ、語りかけらておられるのです。その主イエスの語りかけを受けて振り向くことによってこそ、復活した主イエスとの出会いが起ります。それは、心の向きを180度変えることです。主イエスを墓の中に、過去の存在として求め、自分が願い、思い描いている姿の主イエスを自分のものとして手元に置こうと思っている私たちの心が、180度向きを変えて、生きて語りかけ、新たなみ業を行って下さる主イエスの方に向き変わるのです。それを「悔い改め」と言います。マリアが振り向いたことにヨハネ福音書は、彼女の悔い改めを見ているのです。その悔い改めは、14節で彼女が振り向いた時にはまだ起っていませんでした。本当の悔い改めは、主イエスが彼女の名前を呼んで下さったことによって起ったのです。主イエスが自分の名前を呼んで出会って下さることによってこそ、私たちは心の向きを180度変えることができる、悔い改めて主イエスを信じることができるのです。

わたしの先生
 振り向いたマリアはヘブライ語で「ラボニ」と言いました。それは「先生」という意味であると16節にあります。でもこのヘブライ語はもっと正確に訳せば、「わたしの先生」です。マリアは、振り向いて、復活して生きておられる主イエスと出会い、主イエスを「わたしの先生」と呼んだのです。彼女は13節で主イエスのことを「わたしの主」と呼んでいました。でもそれは墓に納められた遺体のことであり、「わたしの」というのは、私が引き取って手元に置いておくことができる、ということでした。つまり主イエスを自分のものにしておきたいという思いで「わたしの主」と言っていたのです。しかし主イエスが名前を呼んで語りかけて下さったことによって彼女は振り返りました。墓を見つめ、遺体となった主イエスを捜していた彼女が向きを変え、悔い改めたことによって、復活して生きておられる主イエスと出会ったのです。生きておられる主イエスは、自分の手元に置いておける方ではありません。自分の思い通り、願い通りの主イエスではないのです。でもだからこそその主イエスは、彼女を本当に教え導き、新しく生かして下さる方です。自分が願い、思い描いていたよりもはるかに素晴らしい仕方で自分を導いて下さり、救いを与えて下さる主イエスと出会って彼女は「ラボニ」(わたしの先生)と呼んだのです。

父のもとに上る主イエス
 17節で主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから」とおっしゃいました。ここに、復活して生きておられる主イエスは、私たちの思い通りにはならないことが示されています。マリアは主イエスにすがりつきたかったのです。でも主イエスはそれはならないとおっしゃる。「まだ父のもとに上っていないのだから」とはどういうことでしょうか。復活した主イエスは、父なる神のもとに上られるのです。それによって、目に見えるお姿としてはこの地上におられなくなるのです。だから主イエスを信じて生きる信仰者たちは、主イエスのお姿を見ることも、すがりつくこともできない中で生きていかなければならないのです。けれども、むしろその歩みの中でこそ彼らは、いつでも、どこにいても、主イエスと共に生きることができるようになります。それを実現して下さるのが、父のもとに上った主イエスが与えて下さる聖霊です。先週私たちはペンテコステ、聖霊降臨日を祝いました。弟子たちに聖霊が降り、彼らが復活して生きておられる主イエスと共に歩み、主イエスによる救いを宣べ伝えていく者とされたのがペンテコステの出来事でした。ヨハネによる福音書においてそのことは、来週読む、この後の箇所に語られています。ヨハネはペンテコステの出来事をイースターの日の夕方の出来事として語っているのです。いずれにせよ、主イエスを信じる信仰者たちは、聖霊の働きによって、復活して生きておられる主イエスと共に歩んでいくのです。その主イエスは目に見えず、すがりつくこともできません。私たちもマリアと同じように、主イエスにすがりつきたいと思います。でもその私たちの思い通りにはならない。私たちは、目に見えない主イエスを信じて生きていくのです。でもそこには聖霊が働いて下さっています。聖霊は、主イエスをこの目で見たい、すがりつきたいという私たちの願いとは違うけれども、それよりもはるかに素晴らしい恵みを与えて下さるのです。つまり私たちは、聖霊のお働きによって、主イエスのお姿をこの目で見たりすがりつくよりももっと確かな仕方で主イエスと共に歩むことができるし、またいつでも、どこにいても、どのような状況の下に置かれていても、復活して生きておられる主イエスが共にいて下さるのです。

神の子とされて生きる
 主イエスが父なる神のもとに上られることによって実現する恵みを語っているのが17節後半です。主イエスはマリアに、弟子たちのところに言ってこう告げるようにおっしゃいました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」。わたしの父である神は、あなたがたの父でもあり、あなたがたの神でもあるのだ、と主イエスはおっしゃっています。主イエスの十字架の死と復活によってこの救いが実現しました。神に背き逆らっており、神に見捨てられ、滅ぼされてしまっても仕方がない罪人である私たちが、主イエスの十字架の死と復活によって罪を赦され、主イエスと共に永遠の命にあずかる神の子とされたのです。主イエスが父なる神のもとに上って下さることによって、そしてその主イエスから聖霊が遣わされることによって、その救いが確かなものとなります。主イエスがここで弟子たちを「わたしの兄弟」と呼んで下さったように、私たちも主イエスの兄弟とされ、神の子とされて生きることができるようになるのです。
 今私たちは、新型コロナウイルスによる苦しみの中にいます。その他にもそれぞれにいろいろな悲しみや心配事をかかえています。苦しみや悲しみ、心配事の中で私たちは、そのことから目を離すことができなくなりがちです。しかしその私たちの背後から、復活して生きておられる主イエスが、一人ひとりの名を呼んで下さり、「なぜ泣いているのか、あなたは泣き止んで新しく歩み出すことができる」と語りかけて下さっているのです。そのみ声を聞いて主イエスの方に向き変わるなら、生きておられる主イエスが私たちと出会って下さいます。そして聖霊を与えて下さるのです。聖霊のお働きによって私たちは、主イエスの父である神が私たちの父ともなって下さり、私たちを子として愛して下さっていることに信頼して、「天の父よ」と祈りつつ生きていくことができるのです。

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