主日礼拝

互いに足を洗い合う

「互いに足を洗い合う」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第41編8-13節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第13章12-20節
・ 讃美歌:22、543

足を洗って下さった主イエス
 先週から、ヨハネによる福音書の第13章に入っています。13章には、主イエスが弟子たちと共に夕食の席に着かれたことが語られています。それはいわゆる「最後の晩餐」です。この夕食の後、主イエスは捕えられ、裁かれ、十字架につけられるのです。十字架の死の前夜の最後の晩餐において主イエスがなさったこと、お語りになったことが13?17章に語られているのです。主イエスはこの夕食の席から立ち上がり、弟子たちの足をお洗いになりました。そのことが、先週読んだ10節までのところに語られていました。足は体の中で最も汚れている部分です。そして足を洗うためには、その人の足もとに跪かなければなりません。それは屈辱的なことであり、奴隷の仕事とされていました。自由な、誇りをもって生きている普通の人間のすることではないと思われていたのです。しかし主イエスは敢えて弟子たち一人ひとりの足をお洗いになりました。奴隷のように弟子たちに仕えて下さったのです。それは、1節に語られていたように、主イエスが弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたことの現れであり、主イエスによる救いがどのようにして成し遂げられるのかを示すためでした。主イエスはこの後、人々によって捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。そのことによって、罪ある人間の救いを実現して下さろうとしているのです。神の独り子であられる主イエスが、人間となってこの世を生きて下さっただけでなく、罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さるのです。ご自身を徹底的に低くして、私たちに仕えて下さるのです。主イエスが弟子たちの足を洗って下さったことは、罪にまみれ、自分で自分を清くすることのできない私たちを洗い清め、罪の赦しを与えて下さるために、主イエスが十字架にかかって死んで下さったことを指し示しているのです。

上着を脱ぎ、着る
 この出来事が主イエスの十字架の死と、それに続く復活によって実現する救いを指し示していることは、次のことからも分かります。本日の箇所の12節に「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て」とあります。4節には、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ」とありました。主イエスは上着を脱いで弟子たちの足を洗い、洗い終えてまた上着を着たのです。このような細かい描写がなされていることには意味があります。この福音書の10章17節に主イエスのこういうお言葉がありました。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる」。主イエスはご自分から命を捨てることによって再びそれを受けるのです。それは十字架にかかって死に、そして復活するということです。そのことによって、私たちを救って下さる父なる神のみ心が実現するのです。ここで「捨てる」と訳されている言葉が、13章4節の「脱ぐ」と同じ言葉であり、「受ける」と訳されているのは12節の「着る」と同じ言葉です。つまりヨハネは、主イエスが上着を脱いで弟子たちの足を洗い、再びそれを着たことを語ることにおいて、主イエスが十字架の死において命を捨て、復活において再びそれを受けたことを意識しているのです。その間(あいだ)に、弟子たちの足を洗ったことを語ることによってヨハネは、主イエスが十字架にかかって命を捨てて下さり、復活して永遠の命を得て下さったことによって、罪人である私たちを赦し、洗い清めて下さる神の救いのみ心が実現したことを語っているのです。

私たちへの教え
 さて本日の12節以下は、弟子たちの足を洗って下さった主イエスが、弟子たちにお語りになった教えです。主イエスはこうおっしゃいました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。これは私たち一人ひとりに語りかけられているみ言葉です。「あなたがた」とは主イエスの弟子たちですが、主イエスを信じる信仰者は皆主イエスの弟子です。この礼拝に集っている私たちは、主イエスの弟子あるいは弟子志願者なのです。つまり私たちにとっても主イエスは先生であり主です。その主イエスが、私たちの泥だらけの足を洗って下さったのです。つまり私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主であり先生であるイエスが、十字架の死の苦しみと屈辱を引き受けて、奴隷のように私たちに仕えて下さることによって、私たちの罪を赦し、清めて、新しく生かして下さったのです。主イエスを信じる信仰者は、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による新しい命にあずかっています。その救いを与えられた私たちは、主であり先生である主イエスが私たちにして下さったことを模範として、私たちも互いに同じようにしていくのです。主イエスが弟子たちの足を洗って下さったことは、主イエスの十字架と復活による救いを指し示していると同時に、その救いにあずかった者が倣うべき模範でもあるのです。互いに足を洗い合って生きること、それが主イエスの弟子として生きる私たちのあるべき姿なのです。

人の足を洗うことは難しい
 しかしそれは簡単なことではありません。「足を洗う」というのは象徴的なたとえですが、このたとえは、そこで何が求められているのかを具体的に示しています。足は体の中で最も汚れている所です。人のそんなところに触れたら、自分の手が汚れてしまって嫌だ、今なら、ウイルスに感染しそうで嫌だ、と誰もが思います。しかも、足を洗うためにはその人の前に跪かなければなりません。椅子に座っている人の足を洗うためには、自分は床に膝を付かなければならないのです。「上から目線」でいては足を洗うことはできません。対等な関係でも無理です。自分を相手よりも低くしなければ、人の足を洗うことはできないのです。それは屈辱であり、プライドを傷つけられることです。だから奴隷の仕事とされていたのです。プライドを傷つけられることほど私たちが嫌っていることはありません。私たちは基本的に、人よりも上に立ちたいと思っているのです。人と自分をいつも比較して、自分の方が上だ、と思っていたいのです。そういう思いでいる限り、私たちは人の足を洗うことはできません。どうして自分があいつの足を洗わなければならないのか、という思いが必ず起って来るのです。だから、互いに足を洗い合うというのは、言うのは簡単だけれども、行うことは本当に難しいのです。

僕は主人にまさらず
 主イエスはそのことをよくご存知です。だから16節でこうおっしゃったのです。「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされる者は遣わした者にまさりはしない」。「はっきり言っておく」はこれまでにも出て来ましたが、直訳すれば「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」です。主イエスがとても大事なことを宣言なさる時の言葉です。ここに宣言されている大事なことは、「僕は主人にまさらず、遣わされる者は遣わした者にまさりはしない」ということです。僕とは弟子たちであり、私たち信仰者です。主人とは主イエスです。主イエスの弟子である私たちは主イエスに仕える僕であり、主イエスによって人々のもとへと遣わされているのです。その私たちは主であり遣わした者である主イエスよりまさった者ではない。これは、力や能力がまさっているかどうか、ということではなくて、簡単に言えば、どちらが偉いのか、ということです。主であり遣わした者の方が、僕であり遣わされた者より偉いのは当たり前です。その私たちより偉い方である主イエスが、私たちの足を洗って下さったのです。奴隷のようになって私たちに仕えて下さったのです。十字架にかかって死んで下さったとはそういうことです。そうであれば、主イエスの僕であり遣わされた者である私たちが、人の足など洗いたくない、人より低くなりたくない、どうして自分があいつの足を洗わなければならないのか、などと言うことはおかしいのです。そういう不満を覚える私たちに主イエスは、「お前は私よりも偉いつもりなのか、自分を何様だと思っているのか」と言っておられるのです。

主イエスによる励まし
 しかし主イエスは次の17節で私たちを励まして下さってもいます。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。「あなたがたは幸いである」と主イエスは言って下さっています。祝福を告げて下さっているのです。私たちが本当に幸いな、喜ばしい人生を生きる道を示して下さっているのです。その道は、「このことが分かり、そのとおりに実行する」ところに開かれています。このことが分かるとは、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったことに示されている主イエスの、そして主イエスを遣わして下さった父なる神のみ心が分かる、ということでしょう。主イエスのみ心は1節に語られていました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」、これが主イエスのみ心です。主イエスは弟子たちを、そして私たちを、この上なく愛し抜いて下さって、その愛によって、罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが足を洗って下さったことはこの愛のみ心の現れです。そしてそこでは同時に父なる神のみ心が実現したのです。そのみ心はこの福音書の3章16節に語られていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これが父なる神のみ心です。主イエスの十字架の死によって、父なる神の愛のみ心が実現したのです。つまり父なる神と独り子主イエスが、思いを一つにして、罪人である私たちを徹底的に愛して下さり、救って下さったのです。主イエスが足を洗って下さったことには、この神の愛のみ心が込められています。このことが分かるなら、つまり神がこの上なく自分を愛して下さり、汚れた足を洗って下さったことが分かるなら、私たちは、主イエスがして下さったことを「そのとおりに実行する」ことが、つまり互いに足を洗い合うことができるようになるのです。そこに、本当に幸いな歩みが与えられていくのです。主イエスに倣って、人の前に跪いて足を洗うことは、確かにプライドを打ち砕かれ、恥辱や苦しみを甘んじて受けることですが、しかしそこには、神に愛され、赦され、生かされる本当に幸いな歩みが与えられるのだ、と主イエスは私たちを励まして下さっているのです。

主イエスを裏切る者
 18節には「あなたがた皆について、こう言っているのではない」とあります。これは先週の箇所の10節の「皆が清いわけではない」とつながる言葉で、主イエスを裏切る者が弟子たちの中にいることを指しています。最後の晩餐において主イエスが弟子たちの足をお洗いになった話においてヨハネは、その弟子たちの中に主イエスを裏切るイスカリオテのユダがいたことを繰り返し語っているのです。そのことの意味については先週お話ししましたのでここでは繰り返しません。本日の箇所において見つめるべきことは、主イエスがこの上なく愛し抜いて下さり、泥だらけの足を洗って下さったにもかかわらず、その愛のみ心が分からず、主イエスの模範に従うことなく、主イエスのもとから去って行ってしまう者がいる、ということです。そうなると、「あなたがたは幸いである」と告げられている幸いを得ることができないのです。主イエスによる神の愛を信じて、互いに足を洗い合うことによって幸いにあずかるのか、それを拒み、去って行くのか、そのことが私たちに問われているのです。

「わたしはある」と信じるようになるために
 さらにここには、「わたしは、どのような人を選び出したか分かっている」とあって、裏切ろうとしている弟子が誰なのかを主イエスが知っておられたこと、そしてこの弟子の裏切りは、詩編第41編10節の言葉の実現であることが語られています。つまりユダの裏切りは旧約聖書に預言されていたのであって、父なる神のご計画の中にあったのです。そのことを語ったのは何のためかが19節に示されています。「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。「事が起こる」とは、主イエスが弟子の一人に裏切られ、捕えられ、十字架につけられて殺されることでしょう。しかしそれらの全ては預言されていた。つまり父なる神のご計画の一部であり、神のみ心によることだったのです。事が起こった時にそのことを弟子たちが悟り、そして「わたしはある」ということを信じるようになるために、今この最後の晩餐において主イエスは弟子たちに語っておられるのです。「わたしはある」という言葉を主イエスは8章の24節、28節、58節でも語っておられました。その背景などはここでは繰り返しませんが、これは主イエスが、生きておられるまことの神として人々の前にご自分をお示しになる言葉です。弟子の裏切り、十字架の死、そして復活が起こった時に、「わたしはある」ということ、つまり主イエスこそまことの神、独り子なる神であられ、父なる神のみ心を、つまりあの3章16節の、独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さり、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることができるようにして下さる、という愛のみ心を実現して下さったのだ、ということを弟子たちが信じるようになるために、主イエスは今このことを語っておられるのです。

弟子たちを教会の礎とするために
 主イエスの十字架の死と復活という事が起った時に、弟子たちが、「わたしはある」ということを、つまり主イエスこそまことの神であり、救い主であることを信じるようになるために、主イエスは今、弟子たちと最後の晩餐の席に着いておられます。それは彼ら弟子たちを、主イエスを信じて救いにあずかる者の群れである教会の礎として立てようとしておられる、ということです。ヨハネ福音書は、12章までの所で、主イエスが奇跡のみ業とみ言葉によって人々を教えたことを語ってきました。しかしその最後に示されたのは、人々が主イエスを信じなかった、ということでした。それに続いて13?17章には、主イエスが弟子たちと最後の晩餐の時を過ごされたことが語られています。他の三つの福音書に比べてヨハネは、この最後の晩餐の場面にものすごく力を込めています。ヨハネは、主イエスがこの最後の晩餐において、弟子たちをこの上なく愛し抜くことによって、彼らが、主イエスの十字架の死と復活の後、「わたしはある」ということを信じるまことの信仰者となるための備えをなさったのだ、ということを語っているのです。弟子たちは、主イエスが十字架の死と復活によって自分たちをこの上なく愛し抜いて下さったことを体験することによって、神の愛のみ心が分かるようになり、主イエスが示して下さった模範に従って、互いに足を洗い合う者となるのです。そして彼らは主イエスによってこの世へと遣わされていき、彼らによって主イエスを信じる信仰が宣べ伝えられ、独り子を信じて永遠の命を得る者たちが興されていきます。主イエスによって遣わされた弟子たちが伝道をしていくことによって、主イエスを信じなかった人々が、信じる者へと変えられ、救いにあずかっていくのです。主イエスの復活の後に、弟子たちを中心として誕生する教会の歩みにおいてそういうことが起っていくのです。主イエスはそのことを見つめつつ、そのことへの備えとして、弟子たちと最後の晩餐を共になさったのです。彼らが主イエスの十字架と復活の後、教会の礎となって世の人々のもとへと遣わされていくための備えが、最後の晩餐においてなされているのです。

わたしの遣わす者を受け入れる
 教会は、つまり私たちは、主イエスの十字架の死と復活によって神が実現して下さった救いにあずかり、主イエスに従っていく弟子の群れです。私たちは、罪と汚れに満ちた、悪臭を放つ私たちの足を主イエスが洗って下さったこと、そのようにして私たちをこの上なく愛し抜いて下さったことを分からせていただいたのです。そのことが分かった私たちは、心から感謝し、主イエスを愛し、そしてそのみ心を実行する者として遣わされていきます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」というみ言葉は、主イエスが私たちを派遣しておられるみ言葉なのです。そして本日の箇所の最後の20節は、この主イエスによる派遣に応えて互いに足を洗い合うために根本的に必要なことは何かを語っています。「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。信仰者は誰もが、主イエスによって「遣わされた者」です。自分もそうであり、他の信仰者もそうです。私たちは、目の前にいる信仰の兄弟姉妹を、主イエスから自分に遣わされた人として受け入れることを求められているのです。このことこそが、その人の足を洗うことの第一歩です。主イエスがその人を自分のもとに遣わし、その人と出会い、共に生きることを求めておられる、と信じることによってこそ私たちは、その人の前に跪いて足を洗うことができます。そうでなければ、「どうして自分がこの人の足を洗わなければならないのか」という思いから抜け出すことはできないのです。教会における兄弟姉妹を、お互いが、主イエスによって自分のもとに遣わされた者として受け入れ合うこと、それこそが、主イエスの模範に従う教会の基本です。それによってこそ私たちは、主イエスご自身を受け入れ、主イエスを遣わして下さった父なる神を受け入れることができるのです。目の前の兄弟姉妹を、「わたしの遣わす者」として受け入れないなら、主イエスをも、父なる神をも受け入れることはできないのだ、と主イエスは教えて下さっているのです。

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