主日礼拝

この病気は死で終わらない

「この病気は死で終わらない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ダニエル書 第12章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章1-16節
・ 讃美歌:311、441

場所は離れていても
 4月に入り、2020年度が始まりました。本日はこの年度の最初の主の日であり、同時にいわゆる「棕櫚の主日」、受難週の始まりの日です。しかしこの主の日、私たちはついに、礼拝堂に皆が共に集って礼拝を守ることができない、という異常事態を迎えました。新型コロナウイルスの感染爆発の危機が迫る中で、多くの人がこの場所に集まることを今はやめざるを得ません。しかし教会にとって主なる神を礼拝することは何よりも大切なこと、命です。皆が共に集まって礼拝をすることはできませんが、牧師、伝道師と長老何人かでこの礼拝を行い、その音声あるいはこの説教の原稿を皆さんと共有していくことによって、それぞれのいる所で、場所も時間も分散した形で、主の日の礼拝を守ることにしました。場所は離れていても、私たちは一人の主イエス・キリストに共に繋がっています。同じみ言葉を聞き、祈りを合わせることによって、一つの民として、支え合いつつこの時を歩んでいきましょう。

私たちが今直面していること
 礼拝においてヨハネによる福音書を読んできて、主イエスの十字架の苦しみと死を特に覚える受難週の主の日に、第11章に入ります。この11章には、いわゆる「ラザロの復活」が語られています。来週のイースターに読む予定である25節には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という主イエスのみ言葉があります。イースターに読むのにまことに相応しい箇所です。本日の箇所には、それに先立ってラザロの死が語られています。それは主イエスの十字架の死を覚えて歩むこの受難週に相応しい箇所だと言えます。しかしそれだけでなく、この箇所は、今この時私たちが直面している事態と重なっていると言わなければなりません。新型コロナウイルスの感染が世界的に拡がり、それによって亡くなる人が今どんどん増えています。感染してもほとんどの人は軽症ですむが、お年寄りや他の病気を持っている人は重症化しやすいから気をつけなければ、と言われてきましたが、このところは、何も病気のなかった若い人も、乳児さえもが重篤となり、亡くなる人も出てきています。若いから、元気だからと安心していることはできません。私たちの誰もが今、感染、発病、そして場合によっては死の危険の中にいるのです。ラザロの死は、私たち全ての者にとって今や身近なことであり、他人事ではないのです。

私たち皆の話
 ラザロの復活の話は、「ある病人がいた」という1節冒頭の言葉から始まっています。「ある病人」の話として語り始められているのです。その名はラザロであることがすぐその後に示されますが、この話の最後のところ、復活したラザロが墓から出て来た場面もこう語られています。44節です。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」。「死んでいた人」が墓から出て来たのです。つまりこれは、「ある病人」が死んで墓に葬られたが、その「死んでいた人」が主イエスによって復活して墓から出て来た、という話なのです。このように語ることによってヨハネ福音書は、これはラザロという特定の人に起った話と言うよりも、私たち全ての者の話なのだ、ということを示そうとしているのです。

主イエスに愛されていたきょうだい
 このラザロは、マリアとマルタという姉妹の兄弟だったことが1、2節から分かります。マリアは、「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女」であると語られています。これは次の12章の冒頭に語られている話で、それがここに先取りされているのです。またマルタは、この後の27節で、「私は復活であり、命である。そのことを信じるか」という主イエスの問いに答えて「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」という信仰の告白をしています。マルタはこの信仰告白によって、マリアは主イエスに香油を塗るという行いによって、主イエスを信じ、愛していることをはっきりと示したのです。ラザロはこの姉妹の兄弟であり、そのラザロのことを姉妹たちは3節で主イエスに「あなたの愛しておられる者」と言っています。また5節にも「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と語られています。つまりマルタとマリアとラザロという三人のきょうだいは、共に主イエスを信じており、主イエスを愛しており、そして主イエスから愛されていたのです。

ラザロの死
 そのラザロが病気になり、またたく間に悪くなり、命の危険にさらされました。まるで今の新型コロナウイルスによる肺炎のようです。なすすべの無くなった姉妹たちは、主イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。そこには「主よ、早く来て彼を癒してやって下さい」という切なる願いが込められています。しかしこれを聞いた主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃいました。そしてこの知らせを受けてからなお二日間、同じ所に滞在しておられ、それから「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃったのです。「ユダヤに行く」とはラザロのところに行くということです。姉妹たちは、病気で死にそうだから早く来てほしい、との思いで遣いを出したのですが、主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言って二日間ラザロのところに行かなかった。その間にラザロは死にました。「この病気は死で終わるものではない」という主イエスの見立ては間違っていた、主イエスが思っていたほど彼の病気は軽くはなかった、この見立て違いのために主イエスはラザロの死に間に合わなかった、とも思えますが、そうではありません。主イエスは、ラザロの病気が深刻な、死に至るものであることをご存知でした。そのことが、11節以下の弟子たちとの会話から分かります。「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃった主イエスは続いて「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃいました。弟子たちが「眠っているのであれば、助かるでしょう」と言うと、主イエスは「ラザロは死んだのだ」とはっきりおっしゃったのです。ラザロがこの病気で死ぬことを主イエスは最初から分かっておられたのです。分かった上で、敢えて二日間、彼のところに行かなかったのです。その結果、17節にあるように、主イエスが彼らの住むベタニアに着いた時には、ラザロが墓に葬られて既に四日もたっていたのです。

不可解なこと
 主イエスはなぜこのようなことをなさったのでしょうか。マルタもマリアも、この後主イエスに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っています。もしも主イエスが間に合うように来て下さっていたら、ラザロは死なずにすんだ、主イエスが病気を癒して下さっていた、と彼女らは信じているのです。だからこそ遣いをやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。主イエスさえいて下さったら、この病気によって死ぬことはなかった、彼女らはそう信じています。主イエスの神としての、救い主としての力に対する深い信頼がそこにあります。またそれは、主イエスが自分たちと兄弟ラザロを深く愛して下さっていることを、彼女らがいささかも疑わずに確信している、ということでもあります。主イエスを救い主と信じ、愛し、信頼している信仰者の姿がここにあります。しかし主イエスは、信仰者である彼女らの願いにもかかわらず、しかもこの病が死に至るものであることを知りながら、すぐに行動を起さなかったのです。ラザロが死んでしまうままにしておかれたのです。どうしてでしょう。主のみ心が分からない。まことに不可解なことです。

主よ、み心がわかりません
 まさに今私たちは、そのようなまことに不可解な現実のただ中にいます。新型コロナウイルスによる肺炎という新たな病気が世界中に広まり、多くの人の命が失われています。このウイルスはまことにたちの悪いもので、症状が現れなかったり、軽症だったりする中でどんどん広がり、そして弱い人をねらい撃ちするように重症化させ、死に至らせます。大したことないだろうという人々の油断につけ込んで、とりかえしのつかない状況を生み出すのです。このウイルスがどのように発生したのか、どこから来たのか、まだよく分かってはいません。その発生や拡散に、人間の経済活動の結果起っている地球温暖化がどれくらい関わっているのかもまだ分かりません。しかし今この時期にこのような疫病が発生したのは、人類のあり方への警告であり、私たちの罪に対して神が悔い改めを求めておられるのではないか、ということを私たちは思わずにはおれません。しかしそうであるにしても、感染爆発が起っている地域における悲惨な現実は目を覆うものがあります。医療崩壊が起ったイタリアでは、病院の医者は、もう助からない人とまだ望みがある人を選別して、助からない人を自宅に帰しているといいます。懸命に治療に当っている医療従事者たちが疲労困憊し、自らも感染して死んでいくということが起っています。そういう事態が日本でもいつ起るか分からない瀬戸際の状況だと言われます。だから集まって共に礼拝をすることもできないのです。主よ、なんとかしてください、私たちを助けてください、あなたは私たち人間を愛していて下さり、恵み深い方であるはずなのに、そのあなたは今どこにおられるのですか、このような事態の中でなぜ何もして下さらないのですか、主よ、私たちにはあなたのみ心がわかりません、と私たちは今叫びたいのです。

この病気は死で終わるものではない
 4節は、そのような私たちに今日主イエスが語りかけておられるみ言葉でもあります。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。「この病気は死で終わるものではない」。いや現に多くの人が死んでいるではないですか、まだこれからも、世界で何万人もの死者が出るという予測がなされているんです、その中にこの自分が入らないという保証はないのです…、と私たちは思います。主イエスが言っておられるのは決して、この病気は大したことはないからじきに治る、という呑気なことではありません。ラザロがこの病気で死ぬことを主イエスはご存知だったのです。にもかかわらず主イエスが「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃったのは、11節の、「わたしは彼を起こしに行く」というみ心のゆえです。弟子たちはそれを、普通の意味で眠っていると捉え、それは快方に向かっているしるしだと思ったわけですが、眠っているとは死んだということです。わたしは、死んだラザロを起こしに行く、つまり復活させる、と主イエスはおっしゃったのです。そしてそのみ業がこの後なされていきます。ラザロを復活させる、というみ心のゆえに、そしてそれを実現する力を持っておられるがゆえに、主イエスは「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃったのです。

ラザロの復活と主イエスの十字架
 だったら今そのことをして下さい。あなたの恵みのみ心と力とを示して、新型コロナウイルスによる肺炎で死んだ人たちを復活させ、そして今苦しんでいる人たちを癒して下さい。そしてもう誰もこのウイルスに感染しないようにして下さい。そうしてくれたら、私たちは、いや世界中の人々が、あなたを信じるでしょう…。私たちはすぐにそんなふうに思ってしまいます。しかし主イエスがそのみ力を発揮してラザロを復活させたことによって起ったことは何だったのでしょうか。この出来事の最終的帰結が53節に語られています。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。それまでも、ユダヤ人たちは主イエスに対する殺意を募らせていましたが、このことによってそれは具体的な企みとなったのです。ラザロの復活は、主イエスの十字架の死への決定的な引き金となったのです。それは、この奇跡は結局効果がなかった、失敗だった、ということではありません。むしろこのことによって、主イエスが死者を復活させて下さるという救いのみ業と、主イエスご自身が十字架にかかって死ぬこととは一つであって切り離すことができない、ということが示されているのです。
 4節の「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」というお言葉も、実はそのことを語っているのです。主イエスがラザロを復活させることによって神の栄光が現され、神の子である主イエスが栄光を受ける、というわけですが、それは、主イエスが死者を復活させる力を示すことによって、人々が主イエスを信じほめたたえるようになり、それによって主イエスが栄光を受ける、ということではありません。今も申しましたようにそういうことにはならなかったのであって、主イエスが栄光をお受けになったのは、十字架につけられて殺され、墓に葬られた主イエスが、父なる神によって復活させられたことによってです。主イエスご自身の十字架の死と復活によってこそ、主イエスが神の子であられることが示され、父なる神が主イエスの十字架と復活によって救いを実現して下さったことが示され、神の栄光が現されたのです。ラザロの死と復活は、神の子である主イエス・キリストの十字架の死と復活を指し示しているのであって、それによって神が救いを実現して下さったことを証ししているのです。

復活と永遠の命を信じて
 主イエスは、ご自分の十字架の死と復活によって神が実現して下さった救いのゆえに、新型コロナウイルスに脅かされている私たちにも、「この病気は死で終わるものではない」と語りかけておられるのです。それはこのウイルスが大した脅威ではないとか、死ぬことはないから心配するなということではありません。これは甘く見てはならない恐しいウイルスです。治療法も確立していない中で、さらに多くの人々の命が奪われていくでしょう。そのことを防ぐために今私たちは最大限の警戒をしなければならないし、自分が感染しないように、また人に感染させないように、よくよく行動に気をつけなければなりません。しかしそれでも、感染してしまうかもしれないし、発病するかもしれない、そして場合によっては命を失うようなことになるかもしれません。しかしたとえそうであっても、その私たちに主イエス・キリストは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と語っておられるのです。それは気休めではなくて、私たちのために十字架の死へと歩み、肉体においても、精神においても、極限の痛みと苦しみを引き受けて死んで下さり、そして復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストが共にいて下さることによって私たちに確かに与えられている慰めであり支えです。主イエスを子として心から愛して下さっている父なる神は、主イエスに復活と永遠の命を与えて下さいました。ラザロの復活は、その主イエスが、ご自分の愛しておられる者に、肉体の死を超えた復活と永遠の命を与えて下さる、という救いのしるしです。ラザロを、そしてマルタとマリアを深く愛しておられた主イエス・キリストは、私たち一人ひとりをも同じように深く愛して下さっていて、私たちを選び、招いて、主イエスによる救いにあずからせ、そして私たちも主イエスを信じ、信頼し、愛する者として下さっています。そしてその私たちに「この病気は死で終わるものではない」と語りかけて下さっているのです。この語りかけによって私たちは、新型ウイルスの脅威にさらされている今も、いや今こそ、十字架にかかって死んで復活した主イエスが私たちを死の眠りから起こして下さり、永遠の命を与えて下さるという究極の希望を信じて歩むことができるのです。

主イエスの語りかけを聞きつつ
 主イエスはラザロを復活させるために「ユダヤに行こう」と歩き出されました。それは主イエスに対する殺意を募らせているユダヤ人たちのただ中に出向くことであり、まさに命がけのことでした。だから16節で、弟子の一人であるディディモと呼ばれるトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。主イエスと一緒に死ぬ覚悟をもって従って行く、という悲壮な信仰の決意を彼は固めたのです。しかしそんな人間の決意など何の役にも立ちません。結局彼も、主イエスが捕えられ、十字架につけられた時には、一緒に死ぬどころか、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。私たちは、人間のこのような弱さをちゃんと見つめていなければなりません。今私たちに求められているのは、ウイルスへの不安や恐れに打ち勝って、どこまでも主イエスを信じて従っていくのだ、という悲壮な決意ではありません。私たちのそんな決意はすぐに破綻します。大事なのは私たちの決意ではなくて、主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して永遠の命を生きておられるのだということです。今週から来週にかけて私たちは、主イエスの十字架の死と復活を特に覚えて歩みます。その主イエスが「あなたのために十字架にかかって死んだ私が、復活してあなたと共にいる。だからあなたの歩みは死で終わるものではない。復活と永遠の命を私が与える」と語りかけて下さっているのです。この主の語りかけを共に聞きつつ歩みましょう。

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