「神の業が現れるため」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第4章10-12節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第9章1-12節
・ 讃美歌:52、446、463
主イエスが見たことから全ては始まった
礼拝においてヨハネによる福音書を読み進めておりまして、本日から第9章に入ります。ヨハネによる福音書には、主イエスのなさった七つの奇跡が語られていて、それは「しるし」と呼ばれています。その七つの内の六番目の奇跡、しるしが本日の箇所に語られているのです。それは、生まれつき目の見えなかった人を癒し、見えるようにした、ということです。
1節にこうあります。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。場所はエルサレムです。主イエスは7章以来、エルサレムにおられます。仮庵祭にエルサレムに上られたのです。そしてある時エルサレムの街中を歩いていて、生まれつき目の見えない人の傍らを通ったのです。この人は8節によれば、道端に座って物乞いをしていました。生まれつき目の見えない彼は、物乞いをして、人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。その彼がいつも座って物乞いをしているその場所に、この時、主イエスと弟子たちが通りかかりました。主イエスが彼を「見かけられた」と訳されています。そのように訳すと、通りすがりにちょっと目に入った、という感じがします。しかしこれは直訳すれば「見た」という言葉です。主イエスは、彼のことがちょっと目に入った、というのではなくて、立ち止まって彼のことを見つめられたのです。彼にはっきりと意識を向けられたのです。だからこそ、2節の弟子たちの問いが起ったのだと言えるでしょう。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちがこの人を見てこのように問うたので主イエスが彼を見たのではありません。主イエスが立ち止まって彼を見つめたので、弟子たちの思いもこの人に向き、そしてこの問いが生じたのです。聖書はそのように語っているのだということに、先ず気づきたいと思います。
病気や障碍は罪の結果?
生まれつき目が見えないために物乞いをして生きざるを得ないこの人を見て弟子たちは、「この人がこのような苦しみを負って生きているのは、誰が罪を犯したからなのだろうか」という問いを抱きました。病気や、生まれながらの障碍は、罪を犯したことによって起る、と当時の人たちは考えていたのです。罪の結果として、バチが当って、病気や障碍に苦しむことになる、だからそんなことにならないために罪を犯さないように気をつけよう、とみんなが思っていたのです。でも、この人は生まれつき目が見えません。そのことはどう考えたらいいのだろう。生まれつきだから、この人が何か罪を犯したので目が見えなくなったのではない。そうすると、罪を犯したのはこの人の両親なのだろうか。両親の罪のために、親の因果が子に報いて、この人は生まれつき目が見えないという苦しみを負っているのだろうか。そういう疑問を弟子たちは主イエスに投げかけたのです。
現代を生きる私たちは、病気や障碍が罪の結果として起るとは思っていません。生活習慣病というのがあって、不摂生な生活がある病気を引き起こすことがあるのは知っていますが、それだって、同じような生活をしていてもその病気になる人とならない人がいるわけで、罪を犯したことによって病気になるわけではありません。病気や障碍を罪と結びつけて考えることは、病気や障碍のある人への差別を生む間違った考え方として否定されなければなりません。そういう意味でこの弟子たちの、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という問いは不適切なものであり、「このような問い自体が間違っている」と言わなければならないものです。
不条理
けれどもこの問いは、私たちの誰もが心の中で抱いているものでもあります。病気や障碍によって苦しみを負う、という現実に直面する時に、特にそれが自分自身や自分の身内、親しい人である時に私たちは、「誰が罪を犯したからか」と問うことはなくても、「どうしてこうなったのだろう」と思うのです。なぜ自分が、あるいはあの人が、このような病気や障碍の苦しみを負うことになったのか、その原因を、理由を知りたい、という思いが私たちにはあります。特にそれが生まれつきの障碍である場合には、何か悪いことをしたわけでは全くないのに、なぜ生まれながらにこのような苦しみを負って生きなければならないのか、障碍を持たずに生きている人とそれを負っている人はどこが違うのか、という問いが生じるのです。いわゆる人生の不条理を問う思いです。不条理というのは、原因の分からない、理由を問うても答えの得られない苦しみです。答えは得られないけれどもなお問わずにはおれない、そこに不条理の苦しみがあります。弟子たちの問いは、私たちの誰もが根本的に感じている問いなのです。
神の業がこの人に現れるため
主イエスはこの問いにこうお答えになりました。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」。この人が生まれつき目が見えないのは、誰かが罪を犯したためではない、と主イエスははっきりお語りになりました。罪のバチとして病気や障碍が起ることはない、親の罪が子に障碍をもたらすようなことはない。現代を生きる私たちはこのことを知っています。科学的見地からしても、罪を犯したために目が見えなくなるなどということはありません。主イエスのお言葉は、当時の人々には驚きでしたが、私たちはこのことをよく知っているのです。しかし、この主イエスの答えによってあの根本的な問いが解消されたわけではありません。先程申しましたように、病気や障碍を罪と結びつけるのは間違いであることが明らかになったとしても、生まれつきの障碍という不条理の苦しみはどうして起るのか、という問いは無くならないのです。その問いに対して主イエスがお答えになったのは、「神の業がこの人に現れるためである」ということでした。この答えによって主イエスは何を私たちに語り、示そうとしておられるのでしょうか。
神の業としての障碍?
この人が生まれつき目が見えないのはなぜか、という弟子たちの問いに対して主イエスは「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。その意味として一つ考えられることは、これは本日共に読まれた旧約聖書の箇所である出エジプト記第4章10節以下に語られていたのと同じことを言っているのだろうか、ということです。ここは、主なる神がモーセを、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放する者として遣わそうとなさった時にモーセが、自分は元々弁が立つ方ではないから誰か別の人を遣わしてくださいと言った、という場面です。それに対して主はこう言われたのです。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」。人間に口や耳や目を与え、口を利けるように、あるいは利けないようにし、耳が聞こえたり聞こえなかったり、目が見えたり見えない者とするのは主なる神だ、つまり、人間に語ったり聞いたり見たりする能力を与えたのも神であれば、それができないという障碍を与えておられるのも神なのだ、ということです。主イエスもそれと同じことを言っておられるのでしょうか。つまり、この人が生まれつき目が見えないのは、神がそうなさっているからであって、この人には神のみ業が、つまりは神のご意志が現れているのだ。だから、この人はなぜ生まれつき目が見えないのか、という弟子たちの問いに対して主イエスは、神がそういうみ業をなさったからであり、それが神のご意志だからだと答えておられる。「神の業がこの人に現れるためである」というお言葉はそういうことを意味しているのでしょうか。
神の業とは癒しの業
そうではない、ということが4節以下を読むことによって分かります。3節で「神の業がこの人に現れるためである」とお語りになった主イエスは、それに続く4節で「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言っておられます。主イエスをお遣わしになった方、それは父なる神です。その方の業、つまり神の業を、まだ日のあるうちに行うのだ、とおっしゃったのです。「まだ日のあるうちに」、それは夜が迫っているということです。4節後半から5節にこうあります。「だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」。もうすぐ夜が来る。それは主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されることを指しています。世の光である主イエスの光が、十字架の死によってかき消されてしまい、誰も働くことができない夜が来るのです。そうなる前に神の業を行わなければならない、そう言って主イエスは6節以下で、この人の目を見えるようにする癒しのみ業を行われたのです。このように4節以下には、主イエスが、「わたしをお遣わしになった方」である神の業を行われたことが語られています。それはこの人の目を癒し、見えるようにするというみ業です。つまり主イエスが「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃった「神の業」とは、この癒しの業のことなのです。神の業は、この人が生まれつき目が見えないということに現れているのではなくて、主イエスがこの人の目を見えるようになさる、その癒しの業にこそ現れているのです。
これから行われる神の業を見つめよ
しかしそうだとすると、主イエスのこのお言葉とみ業とは、弟子たちの、そして私たちも抱いている、この人はなぜ生まれつき目が見えないのだろうか、このような理由の分からない不条理な苦しみは何故起るのだろうか、という問いに答えてはいない、ということになります。主イエスは、この人が生まれつき目が見えないことの理由や原因を示そうとしてはおられず、むしろこれからご自分がなさる神のみ業へと弟子たちの目を向けさせておられるのです。このことこそ、この箇所から読み取るべき最も大事なことなのです。私たちはとかく、このような病気や障碍の苦しみに直面する時に、それが自分自身のことであれ、誰か他の人のことであれ、どうしてこうなったのだろう、その原因は何なのだろう、という問いを抱きます。しかしいくら考えてもその答えは得られません。だからそれは理由の分からない苦しみ、つまり不条理の苦しみなのです。そして私たちも弟子たちと同じように主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは何故ですか、どこにその原因があるのですか」と問うのです。しかし主イエスは、その私たちの問いに対して、「その原因はこうだ」という答えを与えようとはなさいません。そうではなくて主イエスは、私たちの目を、これから行われる神のみ業へと向けさせるのです。「なぜこんなことが起ったのか」という私たちの問いは過去へと、後ろへと向いています。その問いの向きを主イエスは、将来へと、前へと、向き変わらせようとしておられるのです。なぜこうなったのか、と後ろ向きに問うのはやめなさい。前を向いて、これから神が行われる救いのみ業を見つめ、求めていきなさい、と言っておられるのです。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」というお言葉はそういうことを意味しているのです。
苦しみへの正しい対処法
私たちは、理由の分からない苦しみ、不条理に直面する時に、どうしてこうなったのか、と言う問いを抱きます。その苦しみの原因を知りたいと思います。しかし主イエスはその問いに答えては下さらないのです。それは、主イエスが私たちの切実な問いをはぐらかしておられるとか、意地悪をして答えを与えて下さらない、ということではありません。そうではなくて主イエスは、不条理の苦しみに対する正しい受け止め方、最も相応しい対処の仕方を教えて下さっているのです。それは、苦しみの原因や理由を後ろ向きに問うていくのではなくて、その苦しみの中で神が行って下さるみ業を求め、見つめていくということです。苦しみの原因や理由を尋ね求めても、その答えは得られないし、それによって苦しみの現実が無くなることもありません。そこには救いはないのです。しかし、その苦しみの現実の中でも、神が、主イエスがして下さるみ業があります。過去を振り返っていても現実は変わらないけれども、神の業が現れるなら、苦しみの現実が変えられていくのです。そのことに目を向けていくことこそ、苦しみに対する正しい対処の仕方なのです。
主イエスによる救いの業が人を新しく生かす
主イエスは、その神の業を行うために、父である神からこの世に遣わされた方です。主イエスがここでなさった神の業とは、地面に唾をして土をこね、その泥を彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗うように命じた、ということでした。彼がその通りにすると、生まれつき見えなかった目が見えるようになるという癒しの奇跡が起ったのです。癒しのためにこのように何かが用いられたり、ある場所が指定されたりするというのは珍しいことです。しかしこれは、主イエスの唾で作った泥には癒しの力があるとか、シロアムの池の水には他の池とは違う特別な力がある、ということではありません。土というのは、何の価値もないものの代表です。何の価値もない土が、主イエスによって、神による癒しの業のために用いられたのです。つまりこの癒しは、人間の側の何の価値にもよらず、ただ神の恵みによって起ったのです。また、「シロアム」という言葉は「遣わされた者」という意味であることがここに語られています。主イエスは4節で、「わたしをお遣わしになった方の業」を行うのだと言っておられました。主イエスこそ、父なる神によって「遣わされた者」です。ですからシロアムの池の水による癒しは、その池の水の力を示しているのではなくて、主イエスこそ、神が人間の救いのために遣わして下さった救い主であられることを示しているのです。主イエスはこのような癒しの業、奇跡を行われました。それが「神の業」「わたしをお遣わしになった方の業」です。その神の恵みのみ業によって、生まれつき目が見えないという不条理の中で苦しんでいたこの人の人生は変わったのです。全く新しくなったのです。8、9節には彼の変わりようが描かれています。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々は、見えるようになって帰って来た彼を見て、これがあの物乞いをしていた目の見えなかった人と同一人物なのか分からなかったのです。「確かにあの人だ」と言う人もいれば、「いや、似ているけど別人だ」と言う人もいた。本人が「わたしがそうなのです」と言ったことによってようやく、この人があの目の見えなかった物乞いだということが納得されたのです。ここには、主イエスによる癒しによってこの人が大きく変わったことが示されています。別人と思われるほどに彼は変わったのです。新しくされたのです。主イエスによる神の業が行われるなら、私たちはこのように変えられるのです。別人のようになるのです。新しい人生を生き始めることができるのです。私たちも様々な苦しみ悲しみをかかえています。理由の説明のつかない、不条理に苦しんでいることもあります。どうしてこうなったのか、と後ろ向きにその原因を問うていても、事態は変わりません。しかしそこに、主イエス・キリストが神の業を行って下さるなら、私たちは変えられるのです。神の恵みによって新しく生き始めることができるのです。神がどのようなみ業を行って下さるのかは私たちには分かりません。この場合のように、生まれつきの障碍が治ってしまう、ということもあるかもしれません。しかし神の業はそれとは別の仕方で行われることもあります。神がどのようなみ業をなさるかは私たちが決めることではなくて、神にお委ねするしかありません。しかしどのようなみ業であれ、主イエスによって行われる神の業は私たちを、神の恵みの中で新しく生かすのです。そのことを前向きに見つめ、信じて求めていきなさい、と主イエスは教えて下さっているのです。
神の業を行うわたしたち
主イエスを遣わして下さった神の業を行っていくのは、主イエスだけではありません。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言っておられます。神の業を行うのは「わたしたち」です。主イエスに従っていく弟子である私たち信仰者をも、主イエスはそのことへと招いておられるのです。私たちはその業を「まだ日のあるうちに」行わなければなりません。もうすぐ夜が来てしまうから、その前に神の業をしなければならないのです。夜が来るというのは、先程も申しましたように、「世の光」である主イエスが十字架にかけられて殺されてしまう、ということです。しかしその主イエスは復活して今も生きておられます。だから私たちは今、夜の闇の中にいるのではなくて、主イエスの救いの光に照らされているのです。その私たちは、主イエスによる救いの光を人々に証しし、伝えていくことができます。それによって、神の救いのみ業が、様々な苦しみ悲しみの中にいる人々にも起っていくのです。私たちが人々を救うことなどできませんが、神が、ご自身の救いのみ業のために私たちを用いて下さるのです。独り子主イエスをお遣わしになった神が私たちをも人々の救いのために遣わして下さるのです。私たちはその業を、まだ日のあるうちにしなければなりません。それは、いつかそれが出来るようになったらとか、条件が整ったらとか、もう少し暇になったら、などと言っていたら、出来なくなってしまうぞ、ということです。神が救いのみ業を行おうとしておられるのは、「いつか」ではなくて「今」なのだ、そのことに目を向け、神の業が自分自身に、そして人々に現れることを前向きに求めていきなさい、と主イエスは言っておられるのです。
主イエスのまなざしから始まる救いのみ業
最初に指摘したように、この癒しの奇跡は、生まれつき目が見えずに物乞いをしていたこの人に、主イエスが先ず目を止め、立ち止まって彼を見つめられたことから始まっています。この癒しの出来事は、弟子たちの問いから始まったのではなくて、主イエスが、神の救いの業を行おうとして彼を見つめて下さったことから始まったのです。その主イエスのまなざしは今私たちにも向けられています。主イエスは今、苦しみや悲しみをかかえて生きている私たちの人生に、神の救いの業を現そうとして下さっているのです。主イエスのそのまなざしに応えて、神の業を信じて求めていくなら、私たちの人生にも神の業が現れます。神の恵みによって新しく生かされるという奇跡が起るのです。
また主イエスは、私たちが気づかずに通り過ぎてしまおうとしている、私たちの周囲にいて様々な苦しみや悲しみを負っている人に、今目を向けておられます。その人々のためにも神の救いの業を行おうとしておられるのです。主イエスが立ち止まってその人々を見つめておられることに気づかされることよって、私たちもその人々のことを意識するようになり、その人々に目を向けていく者とされるのです。そして主イエスが私たちの人生に現して下さった救いのみ業が、その人々にも現されていくことを信じて、そのためのほんの僅かなお手伝いをさせていただこう、という前向きな志を与えられるのです。神の業が、主イエスによって、私たちにも、また人々にも現れる、そこにこそ、不条理に満ちたこの世を生きている私たちの救いがあるのです。