主日礼拝

互いに足を洗い合う

「互いに足を洗い合う」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第41編1-14節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章12-20節
・ 讃美歌 : 55、521、505

 
弟子の足を洗う主
 ヨハネによる福音書第13章には、主イエスが十字架につけられる前、弟子たちと囲んだ最後の晩餐の席での出来事が記されています。前回お読みした、直前の1~11節には、主イエスが弟子たちの足をお洗いになった、いわゆる洗足の出来事が記されていました。当時の人々は、今のような足全体を覆う靴ではなく、サンダルのような履物を履いていました。ですから、足は泥や埃にまみれた体の中で最も汚い部分だったのです。外から家に入る時には、たいてい足を洗うのです。イスラエルにおいて、この足を洗うというのは奴隷の仕事とされていました。しかも、ユダヤ人ではなく異邦人の奴隷の仕事であったようです。それは、人々が最もやりたがらない仕事でした。つまり、主イエスが弟子の足を洗ったということは、最も低い僕となってご自身の弟子たちに仕えたということです。この時、弟子たちは、本来自分たちが仕えるべき主人である主イエスが、自らに仕えているという事態に驚き戸惑いました。その驚きと戸惑いは、弟子のペトロの言葉に表れています。6節には、ペトロが、「主よ、あなたがわたしの足を洗って下さるのですか」と言ったことが記されており、8節には、「わたしの足など、決して洗わないで下さい」とあります。常識的に考えればあるはずもないような事が起こったのです。この洗足の出来事は、主イエスがこれから赴く十字架を指し示しています。主イエス・キリストが十字架につけられて殺されたというのは、私たち罪ある人間に神の子である主イエスが仕えて下さった出来事です。それは丁度、奴隷が足を洗うように、十字架において、私たちの最も汚い部分、罪を洗い清めて下さったのです。私たちの信仰生活の中心は、この十字架の救いに与って歩むこと、つまり、主イエスに、仕えていただくということなのです。最後の晩餐の席で、主イエスは、この信仰の中心ともなる、十字架のことをはっきりとお示しになったのです。

模範として
 最後の晩餐の記事は、ヨハネによる福音書だけでなく、マタイ、マルコ、ルカ福音書にも記されています。しかし、それら三つとヨハネの記述は決定的に異なっています。マタイ、マルコ、ルカ福音書では、最後の晩餐の席で、主イエスは、過越の食事の規定に則りつつ、パンとぶどう酒を手に取り、それをご自身の体と血として、弟子たちにお配りになられました。世々の教会が守っている聖餐の食卓を制定されたのです。そのようにして、これから起こる十字架は弟子たちのためのものであり、神の一人子である主イエス・キリストが、人間の罪を贖うために、ご自身を捧げ、肉を裂き、血を流して下さるのだということをお示しになったのです。一方、ヨハネによる福音書は、聖餐については記さず、洗足の出来事を記したのです。ここで注目したいことは、最後の晩餐における、聖餐も、洗足も、共に同じことを示しているということです。どちらも、主イエス・キリストが十字架において命を捨てることによって、ご自身を人々に与え、仕えて下さったということを表しているのです。しかし、ヨハネによる福音書が特に洗足の出来事を記したということには大切な意味があります。そのことが、本日読まれました箇所、12節以下に記された主イエスの言葉から分かります。主イエスは弟子の足を洗い終えると席につき次のようにおっしゃったのです。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」。主イエスは、足を洗うということによって「模範」をお示しになったのです。十字架の出来事は、私たちの救いであり、又、私たちにどのように生きるかを示す模範なのです。十字架につけられた主イエスを自らの救い主とする時に、この方が模範になると言っても良いでしょう。ここからはっきりすることは、イエスを主とすることは、抽象的なお題目ではないということです。又、主イエスを救い主として生きるということは、頭の中で救いについて納得してしまえばそれで終わりということでもありません。イエスを主とする時、つまり、イエスに従って歩む時、必ず、十字架の主を模範として歩む、具体的な歩みが生まれて行くのです。

「先生」である主イエス
主イエスは、この箇所で、人々がご自身を「『先生』とか『主』」と呼んでいたことを指摘しつつ、「そのように言うのは正しい」とおっしゃっています。主イエスは、私たちにとって「主人」、従うべき方であると共に、「先生」でもあるのです。先生とは、生徒たちの模範となる人です。生徒の成長を願って、どのように歩むべきかを、手取り足取り親身になって教えてくれる人です。時には、自分の生徒に仕えるように、生徒の立場に立って、その力量やレベルがどれくらいかを判断し、生徒のレベルに自らをおいて、どのようにすべきかを、自らが手本となりつつ繰り返し教えるのです。もし、生徒の立場や力量に目を留めることなく、ただ闇雲に知識を語るだけならば、たとえ、そこでどれだけ良い内容のものを語れたとしても、良い教師とは言えないでしょう。本当に良い教師とは、その人がしっかりと教えるべきものを持っていることと共に、生徒に目を向け、生徒の立場に立って、自ら模範を示しつつ教えられるかどうかということにかかっていると言っても良いでしょう。主イエスは、まさに、良い先生として、ただ、ご自身の十字架の恵を示すだけでなく、そのことに生かされる者の生き方もお示しになったのです。もちろん、十字架で主イエスが仕えて下さったことによる救いに与っているということは大切です。しかし、下手をすると、その救いに与るだけで満足し、そこに留まってしまうということが起こるのです。そして、主イエスの十字架の救いは受け入れるけれども、そこから具体的な歩みは生まれて行かないということもあるのではないでしょうか。主イエスは、十字架の救いだけを示されただけでは、なかなか、そこに生きることが出来ない弟子たちに、具体的に十字架の救いに生きるとはどういうことなのかを自らお示しになられたのです。それは互いに足を洗い合うことだと言うのです。

足を洗う
 主イエスを模範とする歩みとは、イエスが語った聖書の教えを律法のように固く守り、清く正しい生活をするということではありません。主イエスが弟子たち一人一人の足を、僕となって足を洗って下さったように、自らの身を屈めて人々に仕える者となるということです。では、人々の足を洗うとはどういうことなのでしょうか。人の足を洗うためには、自分の膝を屈めて身を低くしなくてはなりません。足を洗うというのは、高ぶるのではなく、自らを低くすることです。更に、言うならば、仕えるとは、主イエスがなさったように隣人の罪を担うということです。隣人を赦すということであると言っても良いでしょう。隣人の罪と直面して、尚、そこで自らの裁く思いを実行しようとするのではなく、その罪を赦すということによって、隣人に仕えるということになるのです。これらのことは、私たちにとって簡単なことではありません。自分の権利を主張し、権威を振りかざして歩むことが、私たちの自然な歩みであると言って良いでしょう。私たちは、常に、自分を高めようとしています。少しでも自分が評価されたいと願っていますし、その反対に、自分が見くだされることは耐えられないのではないでしょうか。ですから、自分を低めること、人の上に立てるにもかかわらず、敢えてそうせずに仕えるというのは、屈辱的なことでもあるのです。更に、自分に対して罪を犯した人を赦すということは尚困難なことであると言って良いでしょう。
 主イエスが弟子たちの足を洗った時、ペトロの中には抵抗が生まれました。それは、この足を洗うということが、私たちの自然な在り方から逸脱しているからです。主人が僕となるということに抵抗があることなのです。つまり、私たちが主イエスに倣って仕えようとする時、そこには必ず抵抗が生まれるのです。ですから、私たちが、主イエスの十字架の救いに与った者として歩むことは難しいのです。しかし、主イエスが十字架で成し遂げて下さったこと、神の子でありながら十字架について下さったというのは、それと同じような、それ以上の出来事なのです。ですから、私たちは、自らの中に生まれる抵抗にもかかわらず、キリストを主とする時に、そこで示されている模範に倣いつつ歩むのです。

互いに洗い合う
 ここで、「互いに」足を「洗い合う」と言われていることに注目したいと思います。「あなたが、隣人の足を洗いなさい」と言われているのではないのです。主イエスが私たち人間の足を洗い、仕えて下さると言う時、それは、一方的な神の愛です。しかし、私たちがそれを模範とし、私たちの間で、主イエスの愛が生きられる時、それは一方通行ではないのです。自分が周囲の人の足を洗うというだけでなく、自分も周囲の人に洗っていただくのです。例えば、自分は、周囲の人に仕え、周囲の人を赦すように務めるけれども、自分自身は周囲の人に仕えてもらう必要はない、赦してもらったりする必要はないと感じているのであれば、そこで、本当に隣人に仕え赦す歩みは生まれないでしょう。私たちは、自分も一人の罪人として、主イエスに赦されているだけでなく、多くの教会の兄弟姉妹に赦されているということを深く知らされ、そのことによって生かされる時に、本当に自らも仕え赦す者とされるのです。主イエスを模範とするということは、隣人との交わりの中で自分が、罪を赦すことと、罪を赦されるということにおいて具体化しているのです。私たちが、イエスを主とし、主イエスを模範とする時、そこには、仕え合い、赦し合う共同体が生まれます。この共同体こそ、キリストの体なる教会なのです。イエスを主として歩むということは、教会共同体と密接に結びついていると言っても良いでしょう。そのような共同体と無関係に、自分だけで、イエス・キリストを信じる信仰はあり得ないのです。

僕は主人にまさらない
 私たちは実にしばしば、このことを忘れてしまいがちです。キリストの救いを知らされ、イエスを主と呼んでいながら、そこで主イエスを模範としていないことがあるのではないでしょうか。実は、そのような時、本当には、イエスを主としていないのです。もし、イエスを主と呼んでいながら、つまり主イエスを救い主として受け入れ、その救いに与っていながら、十字架の主イエスを模範としていなければ、それは、本当には、イエスを主としていることにはなりません。つまり、イエス・キリストの救いを受け入れ、イエスを主と告白しつつ歩むことと、その救いに示されている姿に倣って歩むこととは一つなのです。16節には「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」。とあります。「主人」「遣わした者」とは主イエスのことであるのに対し、「僕」「遣わされた者」とは主イエスに従う者たちです。私たちは、主人である、主イエスにまさることはないのです。イエスを救い主と呼んでいる私たちが、事実、主イエスを模範としていないのであれば、自ら、主人である方にまさっているかのように振る舞っていることになるでしょう。
 更に、続けて、17節で主イエスは、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃっています。「このこと」というのは、主イエスが模範を示しており、主に仕えて歩む者は、決して主イエスにまさらないが故に、主イエスに倣って歩まなければならないということです。そのことを理解し、本当に主イエスに倣って行く時に、その歩みが、私たちの常識とは異なるものであったとしても、そこに真に幸いな歩みが生まれると言われているのです。

足を洗われたのに、模範としない。
 18節には、この幸いから除かれてしまう人について記されています。そこで主イエスは、はっきりと「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない」とおっやっています。ここで、具体的には、弟子の一人であるユダのことが見つめられています。ユダというのは。主イエスを裏切り、主イエスを十字架に引き渡した弟子です。聖書は、最後の晩餐を記す時、それと並行してこのユダのことを記します。ユダと聞くと、主イエスを裏切った極悪人で、救いから外れた者というイメージが浮かびます。そのような時、自分はユダほど悪くないだろうと言う思いが生まれたりするのではないでしょうか。しかし、ここで注意をしたいことは、主イエスは、最後の晩餐の席で、ユダも含めたすべての弟子の足をお洗いになったということです。主イエスは、特定の弟子だけでなく、すべての弟子に仕えたのです。つまり、主イエスの救いはユダにも及んでいるのです。しかし、ユダは、その恵を本当には受けとめなかった。主イエスに足を洗っていただきながら、その恵に生き、主イエスを模範として、お互いに仕え合う歩みに生かされることのなかったのです。そこには自分の方が主イエスより勝っていると言う考えがあったのかもしれません。そして、そのことの結果が、主イエスを裏切り、弟子たちの共同体から離れていくという形になったのです。ヨハネによる福音書において、ユダは、主イエスを模範とし、主イエスに倣って歩むことをしなかったために、本来、そこで与えられるはずであった幸いに与ることが出来なかった者として描かれているのです。つまり、もし、私たちが、主イエスに仕えていただき、その救いを示されていながら、本当に主イエスを模範とするのでなければ、それは、ユダのように、主イエスを裏切る者と一緒なのです。

事の起こる前に
 では、主イエスは何故、このようなことをお語りになったのでしょうか。19節で主イエスは「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」とあります。主イエスがここで足を洗いつつお語りになったことは、事が起こった時、主イエスの救いをはっきりと信じるようになるためであると言われているのです。この時の弟子たちにとって、「事が起こる」というのは十字架のことです。この時、弟子たちは、主イエスの十字架を知りません。しかし、主イエスが最後の晩餐の時に、弟子の足を洗いつつ、互いに足を洗い合いなさいと語ったことによって、主イエスが十字架におかかりになった時、それを救いの出来事として受けとめたのではないかと思います。その救いを受け入れつつ、仕え合う者として歩み出すことになったのではないでしょうか。私たちは、主イエスの十字架による救いを既に知らされています。しかし、終わりの日の救いの完成を待ち望んでいます。救いの完成を未だ知らず、それを待ち望んでいるという意味において、この時の弟子たちと同じです。そうであれば、ここでの主イエスのお言葉は、私たち自身が聞くべき言葉でもあるのです。つまり、私たちも、主イエスの模範に従って互いに足を洗い合い、仕え合う交わりを形成していく中で、確かに終わりの日の救いを待ち望むのです。私たちが、この世で繰り返し聖餐に与るのも、この時の主イエスのお姿を示されつつ、主イエスを模範として行くためであると言って良いでしょう。聖餐に与る時、そこで示されることは、ただ、キリストに赦されており、その救いに与るということだけではありません。一つの体に共に与ることを通して、キリスト者の交わりが形成され、互いに仕え合う群れとして生きていることを示されるのです。そのことを通して本当に、キリストの御支配があることを示されていくのです。

キリストを示しつつ
 最後に、私たちが、十字架の主イエスを模範とする歩みにおいてこそ、真にキリストが世に示されていくということを覚えたいと思います。主イエスは、私たちのことを「遣わされた者」とおっしゃいました。キリスト者たちは、主イエス・キリストによって世に遣わされた者たちなのです。世に遣わされ使命を与えられているのです。それは、キリストに倣い、互いに仕え合う群れを形成することによってキリストを証するということです。20節には次のように記されています。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。ここでは、世に遣わされたキリスト者たちを通して、主イエス・キリストが、更には父なる神さまが受け入れられていくことが見つめられているのです。
 自分が、主人となって振る舞いたいという思いに捕らわれるのが私たちですからです。しかし、私たちがそのような自らの思いに従って歩む時に、キリストが証されることはないでしょう。十字架の救いを成し遂げて下さった主イエスを真の主とし、この方を模範として互いに足を洗い合う時に、私たちを通して真のキリストが証されていくのです。そこで生きられる歩みは、人間の常識では考えられない、私たちの自然な思いに逆らっているようなことかもしれません。しかし、それは、辛く不幸な歩みなのではありません。主イエスに倣い、仕え合う群れを形成することによって、更に、主イエスを信じる群れが興され、そこで共々に、終わりの日の救いを確信していく真に幸いな歩みなのです。

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