「信じる者、離れ去る者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨシュア記 第24章14-28節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章60-71節
・ 讃美歌:17、128、361
びっくりするような話
私たちが今礼拝において読み進めているヨハネによる福音書は、他の三つの福音書とはかなり違っています。他の福音書にはない、びっくりするようなことが語られていたりするのです。本日の箇所はその代表的なところです。最初の60節に「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」とあります。主イエスに敵対しているファリサイ派の人とか、群衆がこう言ったというなら分かりますが、これは弟子たちの、しかもその多くの者の発言です。こんなことは他の福音書には語られていません。そしてさらに66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。弟子というのは、主イエスに従って来ていた人々です。十二人の弟子たちがその中心にいましたが、その周囲にはさらに多くの人々がいて主イエスに従っていたことを他の福音書も語っています。しかしその弟子たちの中から、主イエスのもとを離れ去り、もはや共に歩まなくなった人々が、しかも多く出たのです。これは主イエスが捕えられて十字架につけられていった時の話ではありません。その時には十二人の弟子たちも逃げ去ってしまったわけですが、それ以前の、主イエスが教えを宣べ伝えておられた時にこのようなことがあったというのは、やはり他の福音書にはない話です。ヨハネだけがこのようなことを語っているのはどうしてなのでしょうか。
問い掛け
何度かお話ししていますが、ヨハネによる福音書は、それが書かれた紀元1世紀末の教会の状況を反映しています。その頃教会で起こっていたことが、主イエスのご生涯を語る話の中に持ち込まれているのです。例えば、第3章に出て来たニコデモという人もそうです。ユダヤ人の議員であったニコデモが、人々の目を避けて夜ひそかに主イエスのもとを訪ねて来た。それは、紀元1世紀の終り頃、ユダヤ教による迫害の中で、ひそかに主イエスを信じていた人たちがいた、という事実を反映しています。ニコデモは、主イエスを救い主だと思っているけれどもその信仰を表明して教会に加わっていない人たちの代表として登場しているのです。本日の箇所に語られていることもそれと同じように、紀元1世紀終り頃の教会の姿です。一旦は主イエスの弟子、つまり信仰者となり、教会に加わっていた人々の中に、脱落し、離れ去っていく人々、主イエスへの信仰を失い、教会の一員として歩むのをやめてしまう人々が出ていたのです。ヨハネ福音書はその現実を見つめつつ書かれているのです。
この現実は、教会に連なって生きている人々にとって重大な問いかけとなっています。その問いかけが、67節の主イエスの言葉です。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた」。「あなたがたもあの人たちと同じように私のもとを離れて行くのか」、十二人の弟子たちへのこの問いは、1世紀末のヨハネの教会の人々が直面していた問いです。多くの人々が信じるのをやめて脱落していく中で、あなたはどうするのか、主イエスを信じて教会に留まり続けるのか、それともあの人たちと同じように信仰を捨てて離れ去っていくのか、そういう岐路に彼らは立たされているのです。
本日は共に読む旧約聖書の箇所として、ヨシュア記第24章14節以下を選びました。エジプトにおける奴隷の苦しみからモーセによって解放され、四十年の荒れ野の旅を経て約束の地カナンに入り、これからそこに国を形成しようとしているイスラエルの民に、モーセの後継者であるヨシュアが、あなたがたは主なる神に仕え、従うのか、それとも他の神々に仕え、従うのか、はっきりと選び取ることを求めている箇所です。神を信じて生きる時に私たちは、このような問いの前に立たされます。誰を救い主と信じ、誰に従って生きるのか、信仰をもって生きるためにはそのことを明確にしなければなりません。キリスト教会においては、主イエスこそが自分の救い主であり、主イエスに従って、主イエスと共に生きることを決断することが求められます。いっとき教会に連なって歩んでいても、最終的にこのことを拒むならば、教会から離れ去っていくことになるのです。1世紀末のヨハネの教会の人々のみならず、私たちは誰もがいつもこの問いの前に立たされているのです。
ひどい話とは?
ところで、離れ去って行った人々は、主イエスの言葉を聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って離れて行ったのです。彼らが「実にひどい話だ」と思ったのは、主イエスのどのようなお言葉なのでしょうか。要するに彼らは何故主イエスのもとを離れ去ったのでしょうか。本日の箇所の直前の54、55節にはこう語られていました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。彼らは主イエスのこのお言葉につまずいたのではないかと先ずは考えられます。イエスの肉を食べ、血を飲むなんて、とんでもないことだ、そんなことできるわけないし、したくもない、これは私たちにはよく分かる感覚です。イエスの肉を食べ、血を飲むなどということを聞くと私たちも「気持ち悪い」と感じるのです。私たちの感覚としてはそう思うのですが、しかし先程申しましたように、ここに描かれているのは1世紀末に、既に教会に連なっていた人々が去って行った、という出来事です。その理由としては、これは当たりません。なぜなら彼らは一旦は洗礼を受け、教会に連なっていた人々だったわけで、ということは、主イエスの肉を食べ、血を飲むことをしてきた人々なのです。それは聖餐にあずかることにおいてです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という言葉は明らかに、聖餐を意識しています。キリストの復活の後、聖霊が降ったことによって誕生したキリスト教会において、その最初から、パンと杯にあずかることによって主イエス・キリストの体と血とにあずかる聖餐が行われていました。ですから教会に連なっていた人々は、聖餐のパンと杯にあずかることによってキリストの肉を食べ、血を飲む、という信仰に生きていたのです。だから今さら、そんなことどうしてできるかとか、気持ち悪いと思ったのではありません。私たちは、初めて教会に来て、そこで聖餐が行われているのを見て、小さなパンの一切れと、おちょこより小さいブドウ液の杯をみんなが神妙な顔をしていただいており、そしてこれはキリストの体と血であると言われるのを聞くと、「何だか気持ち悪い」と思うかもしれませんが、ここに語られているのはそれとは全く違うことなのです。
天から降って来た方
それでは彼らは主イエスの言葉の何を「ひどい話だ」と思ったのでしょうか。それは、もう少し前の41節に語られていたことだと思います。41節に「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め」とあります。ユダヤ人たちがつぶやき、つまずいたのは、肉を食べ、血を飲むということよりも、その根本である、主イエスが天から降って来たパンであること、51節にも語られていた「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」というみ言葉に対してなのです。そのように考えれば、このつぶやきに対して主イエスが語られた61、2節のお言葉の意味も分かってきます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…」。この…のところには、原文にはありませんが「どうなるのか」を補うべきでしょう。わたしが天から降って来た者であることを、ひどい話として信じないなら、そのわたしがもといた所である天に上るのを見たらどうなるのか、今あなたがたがひどい話だと思っていることが真実であることがその時明らかになるのだ、と主イエスは言われたのです。つまり彼らがつまずいて主イエスから離れていったのは、主イエスが天から降って来た方であり、元いた天へと戻っていく方であることを受け入れなかったからです。天から降って来て、天へと戻って行く、それはイエスが神であるということです。主イエスが神であること、ヨハネ福音書の言い方によれば、父なる神から遣わされた独り子なる神であること、そのことに多くの弟子たちつまり信仰者たちがつまずいて、それは「ひどい話」だと思い、教会から去って行ったのです。
主イエスはどのような救い主か
私たちはこれを不思議なことだと感じます。洗礼を受け、教会に連なっているということは、主イエス・キリストが神の独り子であり、まことの神が人間となってこの世に来て下さった救い主であると信じているということであるはずだ、と思うからです。しかし必ずしもそうではない、という現実があるのです。紀元1世紀末、教会に連なっていた人々は皆、イエスこそ救い主だ、と信じていました。しかしそのイエスがどのような方で、どういう救い主かということにおいては、いろいろな捉え方があったのです。ユダヤ人たちは、聖書、この場合は旧約聖書に基づいて、救い主メシアが神から遣わされるという希望を抱いていました。その救い主は、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放したモーセのような人だ、とも信じられていました。モーセのように神の民イスラエルを他国の支配から解放してくれる偉大な指導者を彼らは待ち望んでいたのです。主イエスこそがそのメシア、救い主だと信じて、多くの人々が教会に連なりました。その彼らにとっては、主イエスは、救い主、メシアだけれども神ではありません。神は天におられる主なる神お一人なのであって、モーセは神から遣わされた人間です。彼らは主イエスのことをこのモーセと同じように捉えていたのです。だからイエスが五つのパンで五千人を満腹にした、という奇跡を行ったことも、彼らは、モーセが荒れ野で天からのパンであるマンナを人々に与えたという出来事と重ね合わせて見ています。イエスもモーセと同じように、イスラエルの民にパンを与え、空腹を満たし、導いてくれる、そういう指導者だと思っているのです。ところが主イエスは「わたしは天から降って来たパンである」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とおっしゃるのです。つまり、私は地上のパンを与えてあなたがたを満腹にする者ではなくて、私自身が天から降って来た者、つまりまことの神であり、私というパンを食べることによってあなたがたは永遠の命を得るのだ、と言っておられるのです。言い替えれば、多くの人々は、イスラエルを他国の支配から解放し、食物を与え、神の民のこの世の生活を導いてくれる偉大な人間としての救い主イエスを信じ、期待していたのに対して、主イエスご自身は、人間となってこの世に来られた独り子なる神であり、ご自身の命を与えることによって人々に永遠の命を与えて下さる救い主であられた、つまり主イエスにおいて、あの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛が実現する、そういう救い主だったのです。主イエスがこのようにご自身を、天から降って来て、天へと帰って行くまことの神であると語られたことに対して多くのユダヤ人が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつまずき、去って行ったのです。そこには、一人の人間であるイエスが神であるはずはない、という思いだけでなく、イエスは自分たちの期待していたような救い主ではなかった、という失望があるのです。
人間イエスか、独り子なる神イエスか
これが紀元1世紀末の教会において起っていたことですが、同じ問題はいつの時代にもあったし、私たちの間にもあります。主イエスを救い主と信じることにおいて、私たちも同じ問いの前に立たされるのです。つまり、人間イエスが、この世の貧しい者、虐げられている者の味方として歩み、彼らにパンを与え、その生活を支えるための働きに生きた、そこに救い主としての姿がある。その人間イエスの歩みを模範として、この社会をより良くするために活動することが信仰だ、という捉え方と、神の独り子である主イエスが人間となってこの世に来て下さり、十字架の死と復活によって私たちに罪の赦しと永遠の命を与える救い主となって下さった、父なる神がその愛のゆえに遣わして下さった独り子なる神主イエス信じることによって、永遠の命が与えられる、という信仰との間で、私たちも、「あなたはイエスをどのような方と信じるのか」と問われているのです。
信仰は聖霊によって与えられる
主イエスについての今の二つの捉え方を比べた時に、貧しい者、弱い者の味方である人間イエスという捉え方の方がよほど分かりやすいし、人間の気持ちに合っている教えだと言えます。主イエスは独り子なる神だ、という信仰は分かりにくいし、そこに救いがあることはなかなか納得しにくいのです。この信仰は、人間が考えて導き出せるようなことではありません。主イエスを天から降って来た神と信じる信仰は、神が、聖霊の働きによって与えて下さるものです。そのことを語っているのが63節です。「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。これは分かりにくい言葉ですが、“霊”とは神の霊、聖霊のことです。「肉」はそれに対して私たち人間の考えることを意味していると言えます。私たちに本当に命を与え、生かすのは、肉である私たちの考えではなくて、聖霊なのです。聖霊によってこそ、主イエスのお語りになった言葉、つまり「わたしは天から降って来たパンである」という言葉が分かるようになるのです。主イエスが独り子なる神であられ、その主イエスのもとにこそ神が与えて下さる命、永遠の命があることは、聖霊によらなければ分からないのであって、人間の思いである肉は何の役にも立たないのです。このように、独り子なる神主イエスを救い主と信じる信仰は、聖霊の働きによって神から与えられるものです。65節の「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのである」というみ言葉もそのことを語っています。主イエスのもとに来て信じ、永遠の命にあずかることは、父からお許しがなければ起こらないのです。それは44節において、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と語られていたのと同じことを言っているのです。
ペトロの信仰告白
聖霊によってではなく肉によって、つまり人間の思いや感覚、理性によって主イエスのことを捉えようとしている多くの人々は、「わたしは天から降って来たパンである」という主イエスの言葉につまずいて去って行きました。彼らは主イエスが独り子なる神であると信じることができず、弱い者、貧しい者、空腹な者にパンを与えて満腹にする人間イエスしか見ていなかったのです。そのような人々は教会から去って行きました。この現実は教会の人々にとって重大な問い掛けでした。「あなたがたも離れて行きたいか」という問いの前に彼らは立たされたのです。この問いに、シモン・ペトロが答えたと68節にあります。「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています』」。これはペトロの主イエスへの信仰告白です。この信仰告白は、他の三つの福音書においては、フィリポ・カイサリア地方へ行った時に、他の人々がどう言っているかはともかく、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスから問われたペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたあの信仰告白と重なるものです。主イエスは、この信仰告白の上にわたしの教会を築く、とおっしゃったことを他の福音書は伝えています。ヨハネ福音書においては、多くの者が教会から去っていく中で、「あなたがたも離れて行きたいか」という主イエスの問いに対して「あなたのもとにしか、私たちの行くべき所はありません。あなたこそ、永遠の命の言葉を持っておられる救い主です」という信仰を告白して、独り子なる神主イエスのもとに留まる者たちの群れが教会なのだ、ということが語られているのです。
この信仰告白は、先程も見たように、神が聖霊によって与えて下さるものです。人間が考えた結論としてこの信仰に到達する、ということはないのです。ですからこの信仰に生きるために私たちがなすべきことは、自分の考えや感覚、理性による判断といった肉に固執することをやめて、聖霊の働きを神さまに祈り求めることです。主イエスの本当のお姿をわたしに示して下さい、と祈り求めていくところに、聖霊によってこの信仰告白が私たちにも与えられるのです。
信じる者、離れ去る者
70節で主イエスは、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言っておられます。十二人の弟子は、主イエスご自身が選んで、お招きになった者たちです。そこにも、信仰は神から与えられるものだということが示されています。人間が自ら志願して弟子、つまり信仰者となることはできないのです。ということは、この礼拝に呼び集められている私たちは皆、主イエスに選ばれてここにいるのです。信仰を求めていくことも、選ばれているからこそできるのです。しかし、その主に選ばれたはずの者たちの一人が悪魔だ、という衝撃的なことがここに語られています。それは71節にあるように、主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダが十二人の一人だったことを指しています。ヨハネ福音書はこのユダの姿と、教会から離れ去って行った人々とを重ねています。主イエスを裏切ったユダと、主イエスへの信仰を告白したペトロとの対照的な姿が見つめられ、そこに、主イエスが神であられる信仰につまずいて去って行った人々と、独り子なる神主イエスこそ救い主であると信じて教会に留まった人々との対照的な姿が重ねられているのです。ユダと、離れ去って行った人々が「悪魔」と呼ばれているのは、私たちにも問われている、主イエスをどのような方と信じるのか、という問いがまことに重大な岐路であることを意識させるためです。主イエス・キリストを、独り子なる神として、天から降って来たパンとして信じ、主イエスという命のパンを食べ、主イエスと一つにされることによってこそ、私たちは永遠の命に生かされていくのです。