主日礼拝

目を上げて畑を見るがよい

「目を上げて畑を見るがよい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:アモス書 第9章13-15節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章31-38節
・ 讃美歌:288、158、467

主イエスとの出会いによって新しく生き始めた女性  
 サマリアのシカルという町の近くの「ヤコブの井戸」のところで主イエスは、水を汲みに来た一人のサマリアの女性と出会いました。正午頃に水を汲みに来たこの女性は、五人の男と結婚しては離婚し、今は六人目と同棲していました。人一倍愛に飢えており、それを求め続けてきたけれども、真実に愛し合う関係をついに得ることができないままに、あきらめの思いに陥り、もはや自分は愛することも愛されることもできなのだという絶望の中に生きていたのです。周囲の人々からは罪深い女としてつまはじきにされ、自分からも人の目を避けて生きていました。普通井戸に水を汲みに来るのは明け方か夕方です。真昼に井戸のところに来た彼女は、なるべく人と会いたくない、人と関わりを持ちたくない、と思っているのです。  
 主イエスはその女性に「水を飲ませてください」と語りかけました。ユダヤ人の男性が、サマリア人のしかも女性に何かを頼むようなことは普通あり得ません。しかし主イエスは、人間が自分の心の中に築いている、人と人とを隔てる分厚い壁を乗り越えて、彼女と関わりを持っていかれます。それは、彼女がこれまでの人生において抱えてきた苦しみ、悲しみを担い、彼女の渇きを癒すまことの水を与えるためです。主イエスの方から語りかけ、出会って下さったことによって、自分の中に閉じこもり、人を拒んでいた彼女の固い心に新しいことが起り始めました。人と愛し合うことを求めながらそれを得ることができずにいる彼女の心の中に、神さまと愛し合って生きることへの、つまりまことの礼拝への深い渇きがあることを、主イエスは明らかにしていかれたのです。25節で彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言っています。メシアは、旧約聖書において、神が遣わして下さると約束されている救い主です。それをギリシア語に訳したのが「キリスト」です。ですからキリストもメシアも同じ救い主を指しているわけで、その救い主が来られるときに、まことの礼拝が与えられる、神さまと正しい、良い関係を持って生きることができるようになる、つまり救いが実現する、とサマリア人たちも信じていたのです。彼女の深い渇きも、メシアが来て下さる時に癒される、そのことを彼女は願っているのです。すると主イエスは、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」とお語りになりました。あなたが信じて待ち望んでいるメシア、救い主は、あなたの目の前にいるこの私だ、私こそ、あなたにまことの礼拝を与え、あなたの渇きを癒すまことの水を与える救い主なのだ、とはっきりお告げになったのです。  
 この救い主イエスとの出会いによって、彼女の固く閉ざされていた心が開かれました。彼女は水を汲むのを忘れ、井戸の傍に水がめを置いたまま町へ行き、人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、いい当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と語り始めたのです。町の人たちの目を避け、誰にも会いたくないと思っていた彼女が、積極的に人々に語りかけ、主イエスのことを証しするようになったのです。主イエスとの出会によって、いや、主イエスが彼女のところに来て下さり、語りかけて下さったことによって、彼女は新しく生き始めたのです。

ちぐはぐな会話  
 さて、主イエスがこの女性に語りかけていた頃、弟子たちは食べ物を買いに町へ行っていました。その弟子たちが帰って来て、「ラビ、食事をどうぞ」と言ったところからが本日の箇所です。すると主イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。弟子たちはこのお言葉にとまどい、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったとあります。弟子たちが思っている食べ物と主イエスが思っている食べ物は明らかに食い違っています。だからちぐはぐな会話になっています。そういう場面がヨハネによる福音書には何度も語られています。3章には、ファリサイ派に属し、議員でもあるニコデモと主イエスとの対話がありました。そこで主イエスはニコデモに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。するとニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いました。主イエスがおっしゃった「新しく生まれる」をニコデモは、もう一度母親の胎内から出産されることと誤解したのです。そこから、「水と霊とによって新しく生まれる」ことについての教えが語られていきました。また4章に入ってからの、サマリアの女性との会話もそうです。彼女に「水を飲ませてください」と頼んだ主イエスは、「私が誰であるかをあなたが知っていたら、あなたの方から生きた水を求めただろう」とおっしゃいました。すると彼女は「汲むものを持っておらず、私に水を飲ませてくれと頼んだあなたが、どこからその生きた水を手に入れるのですか」と言いました。そこから、主イエスが与えて下さる水は井戸の水ではなく、もはや渇くことのない、永遠の命に至る水が湧き出る泉となる水であることが語られていったのです。このように、主イエスのお言葉を人々が表面的な意味で受け止めたためにとまどいが起り、そこからそのお言葉の本当の意味が語られていく、という話の展開がヨハネ福音書には繰り返されています。本日の箇所の弟子たちとの会話もそうです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」というみ言葉に戸惑っている弟子たちに主イエスがその本当の意味を示していかれたのです。

わたしをお遣わしになった方の御心  
 「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と主イエスはおっしゃいました。「わたしをお遣わしになった方」がおられる、それが主イエスの基本的な自覚です。ということは、自分には果たすべき使命があるということです。「わたしをお遣わしになった方」とは、勿論主イエスの父である神です。父なる神が、独り子である自分を、「御心」を行わせるために派遣なさったのです。その神の御心は既に3章16、17節に語られていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。これが、独り子主イエスをこの世にお遣わしになった父なる神の御心です。神と隣人に対して罪を犯しており、それによって自分自身も苦しみや悲しみを負って生きている人間、その罪のゆえに本当は裁かれ、滅ぼされるしかない人間が、御子イエス・キリストを信じることによって、滅びから救われて永遠の命を得るように、という神の愛の御心によって、主イエスはこの世に遣わされたのです。その父の御心を行い、その業を成し遂げることこそが、主イエスにとってのまことの食べ物です。それを行うことによってこそ主イエスは、神の子、救い主として生きることができるのです。

命の水とまことの食べ物  
 このまことの食べ物によって生きているのは主イエスだけではありません。私たちも、このまことの食べ物によってこそ生きることができるのです。そのことは、この後の第6章において詳しく語られていきます。6章27節に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とあります。そしてその後の35節には「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とあります。私たちも、このまことの食べ物、命のパンを必要としているのです。その命のパンとは主イエスであり、それを与えて下さるのも主イエスです。主イエスのもとに来て、主イエスを信じることによって私たちは、まことの食べ物、命のパンによって飢えを満たされるのです。そしてその食べ物は私たちを永遠の命に至らせます。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために主イエスをこの世に遣わして下さった神の愛が、命のパンである主イエスによって実現するのです。サマリアの女性との対話においては、主イエスこそが生きた水、永遠の命に至る水であり、それを与えて下さる方であることが示されましたが、この6章では水が食べ物に言い替えられています。命の水と命のパンはどちらも、主イエスのことであり、主イエスが与えて下さる救いの恵みです。私たちはそれによってこそ渇きを癒され、潤され、空腹を満たされ、充実した人生を、喜びをもって積極的に、元気に生きることができるのです。

神の御心を求め、行う  
 主イエスにとっての食べ物は、父なる神の御心を行い、父が自分に与えて遣わして下さった使命を果たすことでした。私たちを本当に生かすまことの食べ物も、神さまの御心を行い、神さまが自分に与えて下さった使命を果たすことです。私たちは、神が自分を通して行おうとしておられる御心、神から与えられている使命を覚え、そこに向けて努力していくことによってこそ、本当に充実した、喜びのある人生を送ることができます。先日、イチローが引退の記者会見で、子どもたちへのメッセージを求められて、自分の好きなこと、やりたいことを見つけて、それに向けて進んで行って欲しい、それを見つけることができれば、努力することができるし、壁を乗り越えていくことができる、と言っていました。私たちの信仰においては、神さまの自分に対する御心、神さまが自分に与えておられる使命を知ることによってこそ、努力することもできるし、壁を乗り越えて行くこともできる、ということになるでしょう。自分のやりたいことを捜すのではなくて、神さまが自分に求めておられることを捜し求めていくことによってこそ私たちは、永遠の命に至る食べ物によって養われ、充実した人生を歩むことができるのです。

それぞれの召命  
 さてそれでは、神さまが私たちに求めておられること、そのために私たちを遣わして下さっている使命とは何なのでしょうか。それは勿論人それぞれに違っています。神が私たちを召して、使命を与えて下さることを「召命」といいますが、私たち一人ひとりに、それぞれ違った召命が与えられているのです。だから、自分の召命と他の人の召命を比べることは意味がありません。召命に優劣をつけることはできません。それぞれがどのような人生を歩むにしても、自分に与えられている神の召命を覚え、それに従って生きることが大切なのです。それによってこそ、主がそれぞれに与えて下さるまことの食べ物に養われて生きることができるのです。

主イエスによって遣わされている私たち  
 そのように、それぞれが自分に与えられている召命を捜し求めることが大事ですが、それと同時に、主イエスがここで、ご自分の弟子たちに、つまり主イエスを信じて従っていく信仰者たちに、一つの共通の使命を与えておられることをもしっかりと見つめなければなりません。38節に「あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」とあります。主イエスは弟子たちに、「わたしはあなたがたを遣わした」と言っておられるのです。それは主イエスの直接の十二人の弟子たちのみのことではありません。これは教会のこと、私たちのことです。主イエスを信じ、その救いにあずかる信仰者は、主イエスによってこの世へと、それぞれの生活へと、遣わされた者なのです。つまり私たち一人ひとりにも、「わたしをお遣わしになった方」がおられるのです。その方の御心を行い、その業を成し遂げることが、私たちにとってもまことの食べ物なのです。

収穫のために  
 主イエスは私たちを、何のためにお遣わしになるのでしょうか。私たち信仰者に共通して与えられている使命は何なのでしょうか。それは、「刈り入れること」です。収穫することです。主イエスは私たちを、収穫のためにお遣わしになるのです。そのための励ましが、35節以下に語られています。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」。「刈り入れるのはまだ先のことだ」などと言ってはならない。既に畑は色づき、刈り入れを待っているのだ。いや、もう既に刈り入れが始まっているのだ。だからあなたがたも行って、しっかり刈り入れに励みなさい。そうすればあなたがたも、収穫の喜びにあずかることができるのだ。と主イエスは私たちに語りかけておられるのです。主イエスを信じてその救いにあずかった者は、この励ましの言葉を与えられて、収穫のために派遣されるのです。

他の人の労苦の実りにあずかる  
 しかしそれは何をすることなのでしょうか。私たちは何を収穫するのでしょうか。またどうすれば収穫をすることができるのでしょうか。そのことを示しているのが、37節以下のみ言葉です。主イエスはこう言われました。「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」。ここに示されているのは、私たちが主イエスによって派遣されて、収穫をする、その実りは、私たちが労苦して種を蒔き、育てたものではない、ということです。私たちは何もしていないのに、他の人の労苦によって既に畑は色づき、刈り入れを待っているのです。私たちはただそこに鎌を入れて、豊かに実った穂を刈り入れるだけなのです。だから、私たちが遣わされてする仕事は、荒れ地を耕して畑を作ることから始まって、そこに種を蒔き、水をやり、雑草を抜いたりして手入れする、そういう苦労の末にようやく収穫をすることができる…というような過酷な労働ではありません。そういう労苦は全て他の人がしてくれたので、私たちはただ刈り入れるだけの、いいとこ取りができるのです。労苦してくれた他の人とは誰でしょう。それは主イエス・キリストです。主イエスは、まさにこの労苦のために父なる神によってこの世に遣わされたのです。主イエスは、ご自分をお遣わしになった方である父なる神の御心を行い、その業を成し遂げられました。十字架にかかって死んで下さったことによってです。ヨハネ福音書は、19章30節において、十字架にかけられた主イエスが、「成し遂げられた」と言って息を引き取られたことを語っています。本日の箇所の「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」というみ言葉は、十字架の上でのこの最後のお言葉へとつながっているのです。主イエスはそのご生涯を通して、ご自分をお遣わしになった父なる神の御心を行い、十字架の死によってその業を成し遂げられたのです。それによって、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る、という父なる神の御心が実現したのです。罪のゆえに滅びるしかない私たちが赦されて義とされ、永遠の命を与えられるという、主イエスの十字架によって成し遂げられた救いこそが、今既に色づいて刈り入れを待っている実りです。私たちは、この実りのために何もしていないし、私たちが何か苦労したからといってこの救いを実現できるわけではありません。私たちの救いのための全ての労苦は、主イエス・キリストが、父なる神の御心に従って成し遂げて下さったのです。私たちは、主イエスの労苦の実りにあずかって、その救いの実りを刈り入れるために遣わされているのです。

主イエスを証しすることによって  
 その刈り入れのために私たちがするべきことは何でしょうか。それは、主イエス・キリストこそがメシア、救い主であられると信じることです。主イエスこそが、永遠の命に至る水と食べ物を与えて下さる方であることを信じて、主イエスに従っていくことです。それによって私たちは、主イエスが十字架の苦しみと死とによって自分に与えて下さった救いにあずかり、主イエスの労苦による実りを刈り入れることができます。私たちがその実りを刈り入れることを最も喜んで下さるのは主イエスです。その主イエスの収穫の喜びに、私たちも共にあずかることができるのです。そしてそれと同時に私たちは、主イエスこそが救い主であり、永遠の命に至る水とまことの食べ物を与えて下さる方であることを、他の人に伝え、主イエスのことを人々に証ししていくのです。そのことによって私たちは、主イエスご自身が自らの十字架の苦しみと死によって実らせた救いの実りを刈り入れる、その収穫のお手伝いをすることができます。その実りが収穫されることを最も喜んで下さるのは主イエスです。その主イエスの収穫の喜びに、私たちも共にあずかることができるのです。あのサマリアの女性は、主イエスと出会うことによって、いや主イエスが彼女のところに来て下さり、語りかけて下さり、彼女の罪と、それによって彼女が負っている渇き、飢えの全てを背負って下さったことによって、新しく生まれ変わり、主イエスのことを人々に証しする者とされました。彼女は、主イエスが自分に与えて下さっている救いの実りを刈り入れ、その収穫の喜びにあずかりました。そしてその喜びによって、固く閉ざしていた心を内側から開いて、主イエスが成し遂げて下さる救いを人々に積極的に証ししていく者となることができたのです。それによって、主イエスご自身の収穫の喜びに共にあずかることができたのです。

収穫の喜びへと派遣される私たち  
 主イエスは私たちをも、このような収穫の喜びへと派遣して下さいます。私たちは自分の救いのために何もしていない、することができない罪人ですが、主イエスご自身が私たちの救いのための労苦を全て負って下さいました。そして主イエスは、ご自身の労苦によって豊かに実った救いの実りを私たちに刈り入れさせて下さるのです。そのために私たちを選び、派遣して下さるのです。主イエスによって派遣されて私たちは、自分が労苦したのではない救いにあずかり、自分自身の救いという実りを刈り入れる喜びを知らされます。そしてその喜びの中で、「目を上げて畑を見るがよい」という主イエスのみ声を聞くのです。その主イエスのみ声に促されて目を上げる時に、それまで見えなかったことが見えて来ます。私たちが、この世の様々な知識やこれまでの自分の経験に基づいていくら目を上げても、神さまの救いのみ業など見えて来ません。神の救いが実現するとしてもそれはまだまだ先のことだ、としか感じられないのです。しかし主イエスが成し遂げて下さった救いのみ業の中で、つまり主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったことによって実現した救いの恵みの中で目を上げるならば、私たちは、人間の罪に満ちており、苦しみや悲しみだらけのこの世界が、実は既に色づいて刈り入れを待っている畑であることを信じて、主イエスによる救いを証ししていくことができるのです。それによって私たちも、主イエスと共に収穫の喜びにあずかっていくのです。

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