「人の心を知る主」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:サムエル記上 第16章7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第2章23-25節
・ 讃美歌:241、166、464
しるしを見て信じた人々
アドベントに入ってからもヨハネによる福音書を読み続けておりまして、本日は第2章の最後のところです。23節の冒頭に、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが」とあります。先週読んだ13節以下に、ユダヤ人の最大の祭である過越祭の時に主イエスがエルサレムに上ったことが語られていました。その時主イエスは、エルサレムの神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている人たちや、両替をしている人たちを見て、怒りをあらわにし、暴力的に彼らを排除なさいました。そのことによって、主イエスは多くの人に注目される話題の人となったでしょう。主イエスの周りには、興味本位の野次馬も含めて、多くの人が集まって来たのです。23節には、この過越祭の間主イエスがエルサレムに滞在しておられたこと、そこでしるしをなさったことが語られています。「しるし」はヨハネ福音書に特徴的な言葉で、主イエスのなさった奇跡をヨハネはこのように表現しています。2章の1節以下には、主イエスがガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行なったことが語られていました。そのしるし、つまり奇跡を見た弟子たちがイエスを信じたということがそこに語られていました。本日の箇所においても、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。この「しるし」という言葉は複数形になっていますから、主イエスは一回ではなく、いくつかの奇跡をこの祭りの期間にエルサレムでなさったのです。どんな奇跡だったのかは分かりません。この福音書の20章30節に「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」とあります。ヨハネ福音書に内容が記されているしるし、つまり主イエスのなさった奇跡は七つですが、その他にも数々のしるしを主イエスはなさったのです。そして本日の箇所にも語られているように、それらのしるしを見た人々は、主イエスを信じたのです。「イエスの名を信じた」とあるのは、主イエスを救い主として信じたということです。先程読んだ箇所の続きである20章31節にはこうあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。イエスの名を信じるとは、イエスは神の子メシアであると信じることであり、その信仰によって、イエスの名による命、つまり救いが与えられるのです。
人々を信用しない主イエス
この23節だけを読むと、主イエスのなさったしるしによって、主イエスを救い主と信じる人々がどんどん増えていった、主イエスによる救いにあずかる人々が増し加えられていった、と読めます。主イエスの活動が順調に前進しているように感じられるのです。ところが次の24節には、そういう感想をひっくり返すようなことが語られています。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」と言われているのです。ここで、しるしを見た人々がイエスの名を信じた、という23節の「信じた」という言葉と、24節の主イエスが彼らを信用しなかったという「信用する」という言葉は、原文において同じ言葉、「信じる」という言葉です。ですから、人々はイエスを信じたがイエスはその人々を信じなかった、と語られているのです。これはある意味で主イエスの好感度を下げるようなことだと言えるでしょう。せっかく人々がイエスを信じたのに、イエスの方はその人々を信用しなかった、というのです。これを読むと私たちは、イエスという人は意外に了見が狭いんじゃないか、という思いを抱くのではないでしょうか。ヨハネ福音書は読者がそのように思うであろうことを敢えて語っているのです。それは何故なのでしょうか。
人の心の中を知っておられる主イエス
主イエスが人々を信用なさらなかったのは何故か。「それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と語られています。主イエスは、全ての人のことをよく知っておられたのです。しかも表に表れている、目に見えていることだけでなく、心の中にあることまで全て、お見通しだったのです。私たちは、人のことを、表に表れていること、目に見えていることによって判断します。そうするしかないのです。勿論単に外見だけで判断するわけではありません。その人と関わり、話をすることによって感じられるその人の内面も推し量りながらある評価や判断をするのです。でも私たちは、その人の心の中をはっきり見ることはできません。心の中に隠されている思いは分からないのです。しかし主イエスは、人間の心の中に何があるのか、人には見せていないどんな思いがあるのかを、全て知っておられるのです。またここには、主イエスは「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかった」と語られています。私たちは、人のことを理解し判断する際に、自分が直接経験したことによってだけでなく、他の人から聞いたことによって判断することがあります。つまり誰かがその人について「証し」をしたことに基づいてその人のことを判断することが多いのです。その証しはしばしば単なるうわさ話だったりもします。「あの人こういう人なんだってよ」という話によって、その人についての自分のイメージ、印象が定まってしまうことが結構あるのです。そのために、私たちの人に対する判断はしばしば誤りを犯します。「あの人こうなんだってよ」という形で語られることは大抵悪口です。悪口に乗せられて悪い印象を人に対して持ってしまう、しかし実際に会ってみたらそうではなかった、ということがしばしば起るのです。主イエスは「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかった」というのは、主イエスにおいてはそういうことはなかったということです。主イエスは、「あの人こうなんだってよ」という話によって人のことを判断することはなさらないのです。人づての話に頼る必要はなく、ご自身が、全ての人のことを知っておられ、しかもその人の心の中にあることまでも、よく知っておられたのです。それは主イエスが神の独り子、まことの神であられるからです。独り子である神が肉となって私たちの間に宿って下さった方である主イエスは、私たちが他の人を知り、判断するのと同じ仕方で人間のことを知るのではなくて、ご自身の神としての力によって、人の心の中にあることまでも知ることができる方、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるサムエル記上の第16章7節にあったように、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」方なのです。
本当に信じてはいない
その主イエスは、しるしを見て主イエスの名を信じた人々を信用されなかった、その人々を信じることをなさらなかった。それは、その人々が「信じた」その信仰が、本当に信じてはいない、底の薄い、表面的なことに過ぎないことを知っておられたからです。本日の箇所に出て来る人々は主イエスのなさったしるしつまり奇跡を見てイエスの名を信じました。その内の一人のことが、次の第3章に語られています。それはニコデモという、ファリサイ派に属するユダヤ人の議員の一人、つまりユダヤ人の宗教的指導者の一人であり高い地位にある人です。彼は3章2節でこう言っています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです」。このように彼も、主イエスのなさったしるしを見て、この人こそ神のもとから来た教師だ、と信じたのです。しかし彼はこの後、主イエスが「だれでも水と霊とによって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃると、それが分からず、受け入れることができません。彼は10節で主イエスに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われてしまうのです。しるしを見て主イエスを信じたけれども、主イエスが自分を水と霊とによって新しく生まれ変わらせる救い主であられることは分からない、信じられないのです。ヨハネ福音書は、主イエスのしるしを見て集まって来た人々が、このように本当に主イエスを信じることはできていない、という様子を繰り返し語っています。第6章には、主イエスが五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人の人々を満腹にした、というしるしが語られています。その後主イエスのもとに多くの人々が集まって来ました。その人々に対して主は26節でこう言っておられます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。彼らは、パンを食べて満腹するという主イエスの奇跡を体験したのです。それで主イエスの後を追って来たわけですが、主イエスはそれを「しるしを見たからではなく」と言っておられます。それは彼らが、パンを食べて満腹するという主イエスの奇跡を、主イエスこそ神の子、救い主であることを示す「しるし」として正しく受け止め、主イエスを信じるのではなくて、またお腹を満たしてもらいたいという思いで来ている、ということです。主イエスは多くのしるしを行なって神の子としての栄光をお示しになりました。人々はそれを見て、そのような力ある主イエスの救いを求めて集まって来ましたが、主イエスを本当に神の子、救い主として信じるには至っていないということをヨハネは繰り返し語っているのです。本日の箇所も、しるしを見て多くの人がイエスの名を信じたけれども、彼らの信仰が本物ではないことを主イエスははっきりと知っておられた、ということを語っているのです。
去っていく人々
そしてそのように信仰が本物になっていない人たちはどうなるかというと、結局彼らは主イエスのもとから去って行くのです。6章の後半にそのことが語られています。6章60節に、弟子たち、つまり主イエスに従って来ていた人々の中の多くの者が主イエスの教えを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ったことが語られています。そしてその先の66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。主イエスを信じて従って来ていたはずの弟子たちの中から、このように離れ去っていく人々が出たのです。ヨハネ福音書はこのように主イエスのことを信じ続けることができずに去って行った人々のことを見つめています。その人々は本当には信じていなかった、本物の信仰がなかった、そのことを主イエスは始めからはっきりと知っておられたのです。だからその人々のことを信用なさらなかったのです。
私たちをよく知っておられる主イエス
このことは私たちにとって厳しい問いかけです。自分は今信じて主イエスのもとに集っているつもりだけれども、その自分の信仰は本物と言えるだろうか、自分は主イエスを本当に信じているのだろうか、最後までその信仰を失わずに保ち続けることができるのだろうか、そのように考え始めると、誰もが不安になります。自分の信仰は本物だ、と自信をもって言える人など一人もいないでしょう。私たちも、主イエスに信用してもらえない者だと言わざるを得ないのです。
しかし、私たちが本日の箇所から見つめるべきことがもう一つあると思います。今見てきたようにここには、主イエスが私たちすべての人間のことを知っておられ、何が私たちの心の中にあるかをよく知っておられることが語られています。つまり主イエスは、私たちが罪ある者であること、神に背き逆らう思いを持っており、神のみ心よりも自分の思いや願いの実現をこそ求めている者であること、神を信じると言っていても、それは神が自分を苦しみや悲しみから救い、助けて下さることを求めてのことであって、そういう救いや助けや守りや支えが無くなってしまったと感じるなら、神を信じる心もたちまち失われていってしまうこと、つまり私たちの信仰が本物ではない、最後まで主イエスを信じ切ることのできない、すぐに離れ去って行ってしまうような底の浅い、薄っぺらい信仰でしかないことを、主イエスはよくご存知なのです。私たちは人に対しては、表面を取り繕って、信仰があるように見せかけているかもしれない、そのように見た目を整えているので、人からは「敬虔なクリスチャン」と思われているかもしれません。しかし主イエスは、「あの人は信仰の深い、敬虔なクリスチャンだ」という人間の「証し」によって私たちのことを判断することはなさいません。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」のです。神の子であられる主イエスは、私たち一人ひとりの心の中に何があるのかをよく知っておられるのです。その主イエスの目には、私たちは自分の本当の姿、本当の思いを隠すことは全くできないのです。
クリスマスの恵みがいかに大きいか
その主イエスが、肉となってわたしたちの間に宿って下さったのだ、とヨハネ福音書は告げているのです。私たち人間のことを、私たちの罪と弱さ、神に対する私たちの不信仰を、誰よりもはっきりと正確に知っておられる主イエスが、その私たちのために、私たちの救い主として、人間となり、この地上を歩んで下さったのです。それこそが、本日の箇所から見つめるべきもう一つのことです。私たちは今、アドベントの時を歩んでいます。今週はアドベント第三週、来週の主の日にクリスマスの礼拝が行われます。独り子なる神である主イエスが、私たちの救い主としてこの世に生まれて下さったことを喜び祝う時を迎えようとしているのです。そのクリスマスの出来事とは、私たち全ての者のことを知っておられ、何が私たちの心の中にあるかをよく知っておられる主イエスが、私たちの深い罪と弱さをよくよく知った上で、その私たちのための救い主としてこの世に来て下さったということなのです。私たちは本日のこの箇所を読むことの中で、このクリスマスの出来事を見つめることができるのです。そうすると本日の箇所は、クリスマスの出来事がどれほど大きな恵みであるかを裏返しに証ししているということに気づかされるのです。
救いのための全てをして下さった主イエス
ヨハネ福音書は、私たちの深い罪と弱さをよくよく知った上で、その私たちのための救い主としてこの世に来て下さった主イエス・キリストを示してくれています。洗礼者ヨハネは、主イエスこそ世の罪を取り除く神の小羊だと証ししました。主イエスは私たちの罪を全てはっきりと知っておられるからこそ、それを取り除くこともおできになるのです。そのために主イエスは、十字架の死へと向かう生涯を歩まれました。主イエスは私たちの全ての罪をご自分の身に背負って、身代わりとして死んで下さることによって、罪に支配されている私たちを解き放ち、私たちが罪を赦されて神の子として生きるための道を拓いて下さったのです。この救いの実現のために、私たちが協力して何かをする、という余地は全くありません。罪に支配されてしまっている私たちには、自分の救いのためにできることなど何もないのです。主イエスはそのことをよく知っておられるから、私たちの救いのための働きを私たちに任せるのではなくて、必要な全てのことをご自分で成し遂げて下さったのです。主イエスが、ご自分を信じた人々を信用されなかったというのはそういうことです。たとえ主イエスを信じたとしても、人間は自分の信仰によって自分を救うことはできません。人間の救いのための働きを人間が背負うことはできないのです。だから主イエスはそれを人間に背負わせることなく、ご自分で全て背負って下さったのです。私たち人間のことをはっきりと知っておられたからこそ、主イエスは人間を信用することなく、つまり救いの業を人間に委ねることなく、ご自分でそれを全て成し遂げて下さったのです。主イエスによるこの救いのみ業は、十字架の死と復活によって成し遂げられました。それは全て主イエスがして下さったことです。人間の業や働きは、信仰でさえも、そこでは何の意味も持っていません。弟子たちの中心だったペトロでさえ、三度主イエスを「知らない」と言ってしまったのです。そのような中、主イエスはお一人で、十字架の死への道を歩み通されたのです。この救いのみ業において、主イエスは人間を全く信用することなく、ご自分で全てのことをなさったのです。
私たちを信用し、用いて下さる主イエス
しかし主イエスの復活の後、主イエスと弟子たちの関係は全く新しくなります。20章19節以下の、復活した主イエスが弟子たちの前に現れた場面を読んでみたいと思います。主イエスはご自分が確かに肉体をもって復活なさったことをお示しになり、そして弟子たちにこう言われました。21節以下です。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。父なる神が独り子主イエスをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす、と復活した主イエスは言っておられます。父なる神が独り子なる神主イエスを信頼して、人間に対する救いのみ業を託されたように、今や主イエスが、弟子たちを、つまり教会を、そこに連なる私たち信仰者一人ひとりを、信頼し、信用して、救いのみ業の前進のために遣わして下さり、用いて下さるのです。主イエスが弟子たちを、教会を、どれほど信頼して下さっているか、それは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というみ言葉に示されています。主イエスの十字架と復活によって実現した罪の赦しの恵み、救いを、復活した主は私たちに委ね、それが人々の間で実現していくために私たちを、教会を用いて下さるのです。復活した主イエスは私たちをこのように信用し、信頼して、み業のために用いて下さるのです。十字架の死と復活の前と後では、私たちに対する信頼、信用が大きく変っているのです。それは私たちが信頼されるに足る力のある者になったということではなくて、主イエス・キリストが十字架と復活によって成し遂げて下さった救いが私たちに与えられた、ということです。そのことは聖霊のお働きによって実現します。主イエスが私たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言って下さり、聖霊に満たされて新しく生きる者として下さるのです。私たちが洗礼を受けてキリストの体である教会に連なる者となることにおいて、そのことが実現していることです。聖霊の力を受けて、主イエスによる救いにあずかって歩んでいる教会を、そこに連なっている私たちを、主イエスは信用して、ご自分の成し遂げて下さった救いのみ業を委ね、そのために用いて下さるのです。
本日の箇所の恵み
独り子なる神主イエスは私たちの全てを知っておられ、心の中にある罪までもよく知っておられます。その主イエスが私たちのための救い主としてこの世に来て下さり、十字架の死と復活への道をお一人で歩み通して下さいました。そのようにして実現した救いに、私たちは聖霊のお働きによってあずからせていただき、主イエス・キリストと結び合わされて新しく生きる者とされています。その私たちを、今や主は信頼して、み業を委ね、救いの前進のために用いて下さっています。クリスマスの恵みの中で本日の箇所を読む時、私たちはそういう恵みを示されるのです。