「独り子である神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第55編8-11節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章14-18節
・ 讃美歌:13、152、352
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
本日の聖書個所であるヨハネによる福音書第1章14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありました。この「言」は、1節に「初めに言があった」と言われていたその「言」です。1節にはさらに、その「言」は神と共にあり、自らが神であったと語られています。また3節には、万物はこの「言」によって成ったとありました。天地万物を創造したまことの神である言、その言が、肉となって私たちの間に宿られた、と14節は語っているのです。それは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言」が肉となって、つまり一人の人間となって、この世を生きて下さった方なのです。
わたしたちはその栄光を見た
14節の後半には「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。「言」が肉となって私たちの間に宿って下さったので、私たちはその栄光を見ることができたのです。「その栄光を見た」というのは驚くべきことです。人間は神の栄光を見ることはできない、それを見たら罪ある人間は死んでしまう、と旧約聖書以来語られていました。その神の栄光を私たちは見ることができた。それは、神が肉となってこの世に来て下さったからです。ご自身が神である「言」が肉となって、一人の人間としてこの世を生きて下さったので、その方を見ることによって神の栄光を見ることができたのです。本日の箇所の最後の18節もそれと同じことを語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。いまだかつて神を見た者はいない、それは神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。しかし、父のふところにいる独り子である神、つまり主イエス・キリストが、肉となり、人間としてこの世を生きて下さったことによって、神を示して下さったので、この主イエスによって、人間が神を知り、神のお姿を見ることができるようになったのです。このことは、ヨハネによる福音書の大切な主題の一つです。14章9節において主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、主イエス・キリストが肉となってこの世に来て下さったことによって、私たちも神を見ることができるようになった、神と共に生きることができるようになったのです。
教会が存在する意味
けれどもそれは、主イエスが人間としてこの地上を生きておられた間だけの話だろう、と思うかもしれません。主イエスと共に生きていた弟子たちは、確かに主イエスを見たことによって父を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、主イエスをこの目で見ることはできない、父なる神と同じように主イエスも、私たちにとっては目に見えない存在だ、だから私たちは神を見ることも、神の栄光を見ることもやっぱりできない、そのように思うかもしれません。しかしそれは違うのです。私たちは今、この地上で、主イエス・キリストを見ることができます。主イエスとお会いすることができ、主イエスによる救いの恵みを感じ取ることができ、主イエスとの交わりに生き、主イエスご自身を味わうことができる場が、私たちには与えられているのです。それは、主イエス・キリストの体である教会です。教会において私たちは、肉となって私たちの間に宿られた「言」である主イエスとお会いすることができ、父の独り子としての、恵みと真理とに満ちている主イエスの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストと出会い、主イエスの栄光を、父の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができます。つまり、まことの神である「言」が肉となって私たちの間に宿って下さったという恵みの出来事は、主イエス・キリストが人間としてこの地上を生きておられた間だけのことではなくて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステの出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。肉となってこの世を生きて下さった「言」である主イエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿って下さり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きて下さっているのです。この地上にキリストの体である教会が存在していることにはそのような意味があるのです。
教会の創立を記念して
私たちは本日、この教会の創立を記念してこの礼拝をささげています。この教会は、1874年、明治7年の9月13日に生まれました。日本人による最初の教会は、明治5年に誕生した「日本基督公会」、現在の横浜海岸教会ですが、その二年後にこの教会が生まれたのです。今年で創立144周年となります。明治の始めの横浜にこれらの教会が誕生したという出来事は、近代国家として歩み出したばかりの、また「切支丹禁制」の高札がようやく撤去された頃の日本に、人々が神の独り子であり救い主であられるイエス・キリストと出会い、その栄光を見て、その救いにあずかることができる場が初めて築かれたということを意味していました。それは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事に匹敵する意味を、横浜の、そして日本の人々にとって持っていたのです。神の独り子主イエスが人間となってこの世に生まれて下さったことによって、罪ある人間がまことの神と出会い、その栄光を見て、その救いにあずかることができるようになったのと同じように、これらの教会が誕生したことによって、日本に生きている人々が初めて、肉となった神の言である主イエスと出会い、父なる神の独り子としての、恵みと真理とに満ちている栄光を見ることができるようになったのです。これらの教会を先駆けとして、この横浜にも、また日本の各地に教会が誕生していったことによって、神を見ることができる場が広がっていきました。一つ一つの教会の誕生は、その地の人々のために、人となって下さったまことの神であられる主イエス・キリストと出会い、その救いの恵みにあずかり、キリストと共に生きる者とされるという神の救いのみ業にあずかるための場が築かれたということです。一つの教会が誕生するごとに、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いのみ業が、地上において前進していったのです。そしてそれらの教会において、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という体験が、新たな人々に与えられていったのです。キリストの体である教会が地上に誕生するという出来事は、まことの神である主イエスが人間となってこの世に来て下さったので、人々がイエス・キリストを通して現れた恵みと真理とを見て、その救いにあずかることができるようになった、という神の救いのみ業が繰り返されたと言ってもよい、とてつもなく大きな意味のある出来事なのです。教会の創立を記念するというのは、このとてつもなく大きな恵みの出来事を覚えて感謝する、ということなのです。
恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた
私たちの教会は、144年の間、この横浜で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いの出来事を人々に示して来ました。この教会を通して、数え切れないほどの人々が、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ということを体験してきました。また16節に語られているように、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」ということを味わってきました。その恵みは、17節にあるように、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。自分の力で律法を守り、正しい良い行いをすることによって救いを得る、というのではなくて、イエス・キリストを通して現れた恵みと真理によって生かされてきたのです。つまり、神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、また主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、それが「イエス・キリストを通して現れた恵みと真理」です。神が、独り子の命をすら与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっているという恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現されたのです。この教会において洗礼を受け、キリストと結び合わされた人々は、またこの教会において礼拝を守りつつ生きた人々は、神がキリストによって示し、与えて下さった恵みと真理を体験したのです。そして今、この礼拝に集っている私たち一人ひとりにも、肉となって私たちの間に宿って下さったキリストが出会って下さり、父の独り子としての、恵みと真理とに満ちている栄光を見させて下さっているのです。
キリストを証しすることによってこそ
そのことは、教会の礼拝において自動的に起ることではありません。教会はキリストの体ですが、それはそこにおいて、キリストが常に指し示され、キリストこそが主であり教会の頭であられることが証しされていることによって、そこに聖霊なる神が働いて下さってこそ実現するのです。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなくて、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、私たちが集まって礼拝をすればそこに教会ができるのではありません。聖霊なる神が私たちの内に宿り、働いて下さることによってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、肉となってこの世を生きて下さったまことの神であられる主イエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。それをしたのが、15節に出て来る洗礼者ヨハネでした。15節にこうあります。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。ヨハネは、自分の後から来られる主イエス・キリストこそが救い主であられることを証ししたのです。そこにおいて、自分は救い主ではないこと、救い主の備えをする者に過ぎないことをはっきりと語ったのです。教会も、このような証しに徹することによってこそ、キリストの体として歩むことができます。教会はこの世にあって、肉となって人となられた主イエス・キリストこそがまことの神であり救い主であられることを証しし、宣べ伝えていく群れです。教会がその証しをしっかりとしていくならば、そこに、まことの神である主イエスと出会い、その独り子としての栄光を見て、その救いにあずかる人々が興されていきます。イエス・キリストを通して現れた恵みと真理とによって人々が新しく生かされていくのです。しかし教会が、イエス・キリストを指し示すことをしなくなり、キリストを証しすることができなくなるなら、教会はこの世に飲み込まれ、この社会の中で何のインパクトもない、そこで神を見ることも、神の恵みと真理に生かされることも起らない、形骸化したただの宗教団体に成り下がってしまうのです。
これまで、今、そしてこれから
この教会の144年の歴史にも、様々なことがありました。関東大震災において会堂が全壊したことも、空襲によって丸焼けになったこともありました。国による統制、弾圧の脅しの中で、主イエス・キリストを十分に証しすることができなかった時もありました。また教会をどのように整え、築いていくかについての意見の対立のために分裂をしたこともありました。外的内的な様々な困難に直面して、人間の弱さや罪があらわになり、キリストをしっかりと証しすることができなくなった時もありましたが、しかし独り子である神イエス・キリストが、聖霊のお働きによってこの教会を導いて下さり、その弱さの中から何度も立ち上がらせてきて下さいました。そして今、キリストは私たちをこの教会の礼拝へと招いて下さり、私たちの間に宿って下さり、独り子としての栄光を示し、その救いの恵みに私たちをあずからせて下さっています。本日のこの礼拝においても、一人の姉妹が信仰を言い表し、洗礼を受けて、キリストの体である教会に加えられようとしています。独り子である神が人間となって私たちの間に宿り、恵みと真理に満ちた栄光を示し、救いにあずからせて下さるというみ業が、今もこの教会において継続されているのです。私たちは神のこの偉大なみ業に感謝すると共に、父なる神の独り子であられる主イエス・キリストを常に指し示し、世の人々に証ししていくという、私たちに与えられている使命をしっかりと果していけるように、聖霊の力づけと導きを祈り求めていきたいのです。