夕礼拝

来るべき方は、あなたか

「来るべき方は、あなたか」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ハバクク書 第2章1-4節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章18-23節
・ 讃美歌:51、355

ルカによる福音書の連続講解の再開
 4月から二年ぶりに夕礼拝を再開して一ヶ月が過ぎました。4月の間は、私が説教を担当するときには教会の暦に沿って聖書を読んできました。本日からは、二年前に休止するまで夕礼拝で行っていたルカによる福音書の連続講解を再開することにします。休止する前、どこまで読み進めたかというと7章17節までです。7章11-17節では、ナインという町で、ある未亡人の母親の一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところに主イエスが来られ、その母親を見て憐れみ、葬列を止めて一人息子を甦らせたことが語られていました。16節では、この出来事への人々の反応がこのように語られています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。また、続く17節では「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と言われています。

洗礼者ヨハネとその弟子たち
 その続きが本日の箇所であり、18節冒頭では「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」とあります。ヨハネとは洗礼者ヨハネのことです。ルカによる福音書は、ほかの福音書と異なり、主イエスの誕生について語っているいわゆる「誕生物語」において、洗礼者ヨハネと主イエスの出来事を織りなすようにして語っていました。そのことによって洗礼者ヨハネと主イエスの関係が見つめられていたのです。ヨハネの父ザカリアは、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを 知らされるからである」(1:76-77)と言いました。洗礼者ヨハネは、主イエスに「先立って行き、その道を整える」(1:76)者なのです。その洗礼者ヨハネに、彼の弟子たちが「これらすべてのことについて」知らせたのです。「これらすべてのこと」とは、ガリラヤでの主イエスのお言葉とみ業のすべてとも言えますが、より直接的には、直前の7章11-17節で語られていたやもめの息子を甦らせた出来事の一部始終のことだと思います。17節では「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と言われていましたから、弟子たちもこの出来事の報告をヨハネに届けたのです。彼らはヨハネに、この出来事を目撃した人々が「大預言者が我々の間に現れた」(7:16)と言い、また「神はその民を心にかけてくださった」(7:16)と言って神を賛美したことも伝えたのではないでしょうか。

牢の中の洗礼者ヨハネ
 さて洗礼者ヨハネですが、ルカによる福音書では主イエスの誕生物語の後、3章1-20節に登場しますが、しかしその後はこの箇所まで一度も登場しません。3章でヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(3:2)ていました。彼は3章16節でメシアを待ち望んでいる民衆にこのように言っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」そして3章1-20節の最後の部分、19-20節ではこのように報告されています。「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。」「自分の兄弟の妻ヘロディアのことについて、ヨハネに責められた」というのは、マルコによる福音書6章17-18節によれば、ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚していることについて、ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18節)と責めたことを言っています。ともあれ、3章20節から間を空けて7章18節で登場した洗礼者ヨハネは牢の中にいるのです。彼の弟子たちは牢の中にいるヨハネに、主イエスがやもめの一人息子を甦らせたことを、また主イエスのお言葉やみ業のすべてを伝えたのです。

来るべき方、来たりつつある方
 洗礼者ヨハネは二人の弟子に主イエスへの言葉を託します。その言葉が19節と20節にある「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」です。このヨハネの言葉の背後には、本日共に読まれた、旧約聖書ハバクク書2章3節があります。そこでは、「定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終りの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と言われています。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」とあるように、必ず来る、「来るべき方」を待つよう告げているのです。洗礼者ヨハネは、このハバククの預言が、つまり「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」というみ言葉が、主イエスにおいて実現したと信じました。先ほど見た3章16節でヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる」と言っていますが、ヨハネより優れた方こそ、「来るべき方」であり、メシア(救い主)であり、主イエスです。ですからヨハネが言っているのは、主イエスが「来られる」ということにほかなりません。それは、主イエスが「いつか来る」ということではなく、「今、来たりつつある」ということです。主イエスが、「今、来たりつつある」、主イエスこそ「来たりつつある方」だ、とヨハネは言っているのです。

なぜヨハネは主イエスに尋ねたのか
 そうだとすると、なぜ7章19節と20節で、ヨハネは「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と主イエスに尋ねているのでしょうか。そのまま読むならば、「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いは、主イエスが「来るべき方」なのかどうか、ヨハネが疑問に思うようになって、その疑問を主イエスに尋ねているということになります。しかし、すでに見てきたように洗礼者ヨハネは、主イエスが「来るべき方」、「来たりつつある方」だと信じていました。そのヨハネがなぜここに至って「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねているのか、私たちは不思議に思うのです。
 この疑問について色々な説明がなされてきました。「来るべき方は、あなたでしょうか」と訳されている文は、必ずしも疑問文として訳さなくても良いため、「来るべき方は、あなたです」と読み、この言葉は洗礼者ヨハネの信仰告白だと考える人もいます。確かにルカによる福音書において、主イエスより半年前に生まれた洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち、主イエスを「来るべき方」、「来たりつつある方」と指し示す人物として描かれてきました。主イエスを身ごもったマリアが、ヨハネを身ごもっていたエリサベトを訪ねたとき、エリサベトの「胎内の子がおどった」(1:41)と語られていましたが、ヨハネは母の胎内いるときから、喜びおどることによって主イエスを指し示したのです。生まれる前から、「来るべき方」である主イエスを指し示してきたヨハネが、ここに至って主イエスが「来るべき方」なのかどうか疑問に思うというのは、ルカ福音書が描く洗礼者ヨハネの姿にあっていないように思えます。また、そのようにヨハネの信仰告白と考えるのではなく、ヨハネ自身は主イエスが「来るべき方」だと信じていたけれど、疑問に思っている弟子たちのために、あえて弟子たちを主イエスのところに遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせたのだ、そのことによってヨハネは弟子たちを教育しようとしたのだと考える人もいます。

来るべき方は、あなたか
 このような読み方は一見、魅力的です。洗礼者ヨハネを一貫した姿で捉えることができるし、「来るべき方は、あなたでしょうか」という言葉につまずくことなく納得できるからです。しかしその一方で、そのように読むならば、洗礼者ヨハネは、主イエスが「来るべき方」であると信じ続けた「特別な人」ということになります。そしてヨハネを特別な人と見なすならば、たちまちこの物語は私たちから遠いもの、関わりのないもの、他人事になってしまうのです。少し先になりますが、22節で主イエスはヨハネが遣わした二人の弟子に、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言っています。「ヨハネに伝えなさい」。主イエスはヨハネの弟子たちではなく、ほかならぬヨハネに語っています。しかもヨハネの信仰告白に対してではなく、「来るべき方は、あなたでしょうか」という彼の問いに対して語っているのです。ですから私は、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を持たなければなりませんか」をヨハネの問いとして読むのが良いと思います。ヨハネは、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」という預言が主イエスにおいて実現したと信じ、主イエスこそが「来るべき方」だと信じていました。けれども、もしかするとそうではないのではないか、ほかの人を待たなければならないのではないか、という疑いを抱いたのです。なお、「待っておれ」と自分自身に言い聞かせなくてはならないのか、と思わずにはいられなかったのではないでしょうか。

ヨハネの期待通りではなかった
 ですから私たちは、なぜヨハネが、主イエスが「来るべき方」なのかどうか疑問に思うようになったかに目を向けていきたいのです。3章7節で、ヨハネは群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言い、17節では、自分よりも優れた方、つまり「来るべき方」が「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言っていました。ヨハネは、「来るべき方」によって神の裁きが行われると期待していたのではないでしょうか。箕によって麦と殻が選別されて、麦は倉に入れられ、殻が火で焼き払われるように、「来るべき方」によって神は悔い改める者に赦しを与え、悔い改めない者には怒りを下すと考えていたのです。「来るべき方」を通して神の裁きが行われることに、ヨハネは神の到来を見ようとしていたのです。
 しかしヨハネの弟子たちが伝えたのは、そのような主イエスのお姿ではありませんでした。主イエスは、ナインのやもめを憐れまれ、その一人息子を甦らせました。この出来事を目撃した群衆は「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。人々は、主イエスが一人息子を甦らせることにおいて、そのみ業において、神が自分たちに心を向け、自分たちのところに来てくださったと受けとめたのです。神の到来は、ヨハネが期待したように主イエスを通して神の裁きが行われることにおいてではなく、癒しのみ業が行われることにおいて、人々に明らかになりました。自分の期待していた「来るべき方」の姿と弟子たちが伝えた主イエスの姿との間にあるギャップに、ヨハネは「来るべき方は、あなたか」と主イエスに問わずにはいられなかったのです。
 私たちも自分の期待している救い主の姿を主イエスに押しつけることがあります。主イエスがみ業を行ってくださることを願い、求め、期待するのは、私たちに赦されていることです。しかし自分の願い通り、求め通り、期待通りにならないとき、私たちはしばしばヨハネと同じように主イエスを疑い、あるいは失望するのです。「来るべき方は、あなたでしょうか」とヨハネが主イエスに問うたように、私たちも「救い主は、あなたでしょうか」と問うのではないでしょうか。

み業とみ言葉と預言の成就によって
 22節で主イエスは、ヨハネの二人の弟子に、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言っています。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」は、直訳すれば、「見たことと聞いたことをヨハネに伝えなさい」となります。そして「見たこと」とは21節で語られていることであり、「聞いたこと」とは22節で主イエスが語ったことです。21節では、二人の弟子がやって来たとき、主イエスが「病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにして」いたことが語られています。二人はその主イエスの癒しのみ業を見たのです。また22節で主イエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言っています。二人はこの主イエスの言葉を聞いたのです。そして、弟子たちが見聞きしたことは預言者イザヤの預言の成就にほかなりません。たとえばイザヤ書35章5-6節では「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と告げられていました。また主イエスは、ガリラヤ伝道の初めにナザレの会堂でイザヤ書を読まれ、それを読み終えると「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました(4:16)。あのハバククの「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」という預言が主イエスにおいて成就したように、イザヤの預言も主イエスにおいて成就したのです。ヨハネの二人の弟子が見聞きしたことこそ、「来るべき方」、「来たりつつある方」のお姿にほかなりません。主イエスは、「来るべき方は、あなたか」というヨハネの問いに直接答えたわけではありません。しかしご自分のみ業とお言葉を通して、またそれが預言の成就であることによって、ご自分が「来たりつつある方」であることを示されたのです。

自分にとって「来るべき方」なのか
 けれどもここで少し立ち止まってみたいのです。ヨハネの「来るべき方は、あなたか」という問いは、自分が期待する主イエスの姿と弟子たちが伝える姿とのギャップに対する戸惑いによるものだけなのでしょうか。それだけではないように思うのです。ヨハネの問いは、主イエスは「自分にとって」本当に「来るべき方」なのか、という疑いによるものでもあるのではないでしょうか。弟子たちが伝えたのは、主イエスによって神の裁きが下されるのではなく、罪の赦しや病の癒し、死者の甦りが与えられたことでした。主イエスによる救いのみ業をヨハネは聞いたのです。でもヨハネ自身はどうなのでしょうか。主イエスこそ「来たりつつある方」だと信じていた彼は、今、牢の中にいます。まもなく処刑されるかもしれません。主イエスによって多くの人たちが救われている。しかし自分は牢の中にいて、弟子たちが目撃した主イエスのみ業をただ伝え聞くだけなのです。牢の中で、自由もなく、死を間近にして、苦しみと不安と恐れの中で、ほかの人にとってはともかく、自分にとって、主イエスは本当に、「今、来たりつつある方」なのか。自分に解放を、慰めと癒しと平安を与えてくださる方なのか。主イエスは、ほかならぬ自分の救い主なのか。もうすぐ処刑されるかもしれないのに、まだほかの方を待たなくてはならないのか。そのような疑い、不安、動揺によって、ヨハネは「来るべき方は、あなたか」と問わずにはいられなかったのです。
 私たちもヨハネと同じではないでしょうか。私たちも主イエスのみ業を見ることはできません。聖書とその説き明かしを通して、主イエスが罪を赦され、病を癒され、死者を甦らせたことを聞きます。でも自分自身はどうなのか、と思うのです。確かに私たちは信仰を与えられ、主イエスこそ「来るべき方」であり、救い主(メシア)であると信じています。しかし、今、自分自身はどうなのでしょうか。大きな苦しみや深い悲しみを抱えているかもしれません。歳を重ねることによって、あるいは病によって、死を身近に感じているかもしれません。一生抱えていかなくてはならない病があったり、耐え難い心身の重荷があったりするかもしれません。なぜ自分の苦しみや悲しみは取り除かれないのか。なぜ自分は死ぬのだろうか。なぜ病や重荷が癒されないのだろうか。そう思うとき私たちは、牢の中のヨハネと同じように、主イエスは本当に自分にとって「来るべき方」なのだろうか、本当に自分の救い主なのだろうかと、問わずにはいられないのです。

幸いなるかな、私につまずかない者は
 そのように「この私にとって主イエスは来るべき方なのか、救い主なのか」という問いを抱かずにはいられない洗礼者ヨハネに、そして私たちに、主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。主イエスにつまずくとは、主イエスを信じられなくなることであり、主イエスから離れてしまうことです。主イエスは、ヨハネが、そして私たちが主イエスにつまずくかもしれないことをご存じなのです。主イエスに対する自分の期待が打ち砕かれることによって、あるいはほかの人は救われているのに自分は救われていないと思うことによって、私たちは主イエスを信じられなくなり主イエスから離れてしまうのです。そのような私たちに、主イエスは「わたしにつまずかないように」と言われます。それは、私たちへの警告の言葉ではありません。むしろ私たちへの招きの言葉です。聖書を通して主イエスのみ業と言葉が伝えられ、預言の成就が告げられることを通して、主イエスこそがほかならぬ自分にとって「来るべき方」であり、救い主(メシア)であると信じることへの招きです。たとえ今、絶え間ない苦しみや悲しみの中にあり、病や重荷を抱え、死を身近に感じているとしても、私たちが主イエスの救いに入れられていると信じることへの招きなのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」は、直訳すれば「幸いなるかな、私につまずかない者は」となります。ですからこの主イエスの言葉は招きであるとともに、祝福の言葉でもあるのです。本日の箇所で、弟子たちが見聞きしたことのすべてを、そして「幸いなるかな、私につまずかない者は」という主イエスの招きと祝福の言葉を聞いたヨハネの応答はなにも語られていません。私たちもまた、毎週の礼拝において、主イエスのみ業と言葉を伝えられ、「幸いなるかな、私につまずかない者は」という招きと祝福を与えられています。私たちはその招きに応え、苦難の中にあっても、主イエス・キリストによる救いに入れられ、生かされている幸いと祝福に満たされて歩んでいきたいのです。

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