夕礼拝

揺らぐことがない

「揺らぐことがない」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第15編1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章節43-49節
・ 讃美歌:196、395

三つのたとえ  
 本日の聖書箇所は、6章20節から始まる主イエスの説教の結びの部分です。20節で「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあり、その後から主イエスの説教が語られ、本日の箇所の最後6章49節まで続きます。その直後の7章1節には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあり、説教を終えた主イエスがガリラヤ湖のほとりにある町カファルナウムに入られたことが語られているのです。  
 この主イエスの説教の結びは43節から45節と46節から49節の二つに分けられます。前半ではまず三つのたとえが語られています。第一に、43、44節の前半で「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と言われています。木の良し悪しは、その木が結ぶ実を見れば知ることができる。なぜなら悪い実を結んでいたら良い木ではないし、良い実を結んでいたら悪い木ではないからだ、ということです。第二に、44節の後半で「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」と言われています。「茨」は棘のある雑草で穀物に害をなすものであり、また「野ばら」は実を結ばない象徴であったようです。第三に、45節の前半で「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と言われています。倉に良いものを入れるならばその倉から出すのは良いものであるし、悪いものを入れるならば悪いものしか出せないのです。

見つめられていること  
 これら三つのたとえは難しいものではありません。主イエスの話を聞いていた人たちの生活にとても身近なたとえであったように、私たちにとってもよく分かるたとえです。実を結ばない木があれば、その木に悪いところがあるのだろうと推測するし、茨や野ばらから実が得られないのも当然であるし、倉に入れたものしかそこから取り出すことができないのも分かりきったことです。しかし一つ一つは分かりやすいたとえであるにもかかわらず、三つのたとえによって主イエスがなにを教えておられるのかは分かりにくいのです。良い木と悪い木、良い実と悪い実、そして良いものと悪いものはなにを指しているのでしょうか。木を私たち人間と考え、実を私たちの行いと考えるならば、43、44節で語られているのは、悪い行いという実を結ぶ者は悪い人であり、良い行いという実を結ぶ者は良い人であり、茨や野ばらのような悪い人から、良い行いの実は結ばないということになります。同じように45節の前半でも、良い行いを積み重ねた者は、良い行いをなすのだし、悪い行いを積み重ねた者は、悪い行いをなすのだということになります。しかしこの三つのたとえにおいて見つめられていることは、45節後半の主イエスのお言葉に示されているのではないでしょうか。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」つまり人が語っていることは、その心からあふれ出ることである、ということこそが、この三つのたとえにおいて見つめられているのです。

心の宝箱に満たすもの  
 このことは、言い換えるならば、人が語っていることによって、その人の心を満たしているものが分かるということです。結ぶ実が良い実であるか悪い実であるかによって、その実を結んだ木が良い木であるか悪い木であるか分かるようにです。また心を満たしているものが茨や野ばらのように棘だらけであるのに、語っていることがいちじくやぶどうのように栄養のある実、つまり人を活かすようなことであるはずがないようにです。心の倉に良いものを入れることによって、良いことを語るのだし、悪いものを入れるならば悪いことを語るのです。この「倉」という言葉は、「宝箱」という意味を持つ言葉でもあります。宝箱ですから、そこになにを入れるかは大切なことです。それは必ずしも高価な物とは限りません。子どもの頃に自分の宝箱を持っていた方も多いのではないでしょうか。大人から見れば、あるいはほかの人から見れば、子どもの宝箱に入っている物は高価ではないし、どうということのない物かもしれません。しかしその子どもにとっては宝箱に入れるのは大切な物であり、かけがえのない物なのです。宝箱とはそういうものです。ですから自分の「心の宝箱」になにを入れるのかは重要なことなのです。  
 私たちの口から、神への賛美が語られるとしたら、また隣人への愛が語られるとしたら、なにが私たちの「心の宝箱」を満たしているのでしょうか。それは神の言葉、み言葉ではないでしょうか。神からの語りかけを聞くことなしに、私たちから神への賛美が起こることはありません。神さまがこの私を愛してくださり、また私の隣人をも愛してくださっていることを告げられることなしに、私たちが神さまを愛し隣人を愛することはありません。日曜日の礼拝で、私たちはみ言葉を与えられ、それにお応えして神への賛美を歌います。そして礼拝からこの世へと、この社会へと遣わされて、そのみ言葉にお応えして神さまと隣人とに仕えて歩んでいくのです。「心の宝箱」がみ言葉で満たされているとき、私たちの心から神への賛美が、隣人への愛が溢れ出し、私たちはそれを語り出します。ですから私たちは自分の「心の宝箱」に、み言葉を入れるのであって、それ以外のものを入れないようにするのです。「心の宝箱」に悪いものを入れるならば、私たちの心からは悪いものが溢れ出し、それを私たちは語るからです。

賛美と憎しみ  
 けれどもこのことは私たちを追い詰めます。確かに一方で私たちは、自分の口によって神さまを心から賛美し、神への信頼と信仰を告白します。また隣人を愛し、苦しんでいる人、悲しんでいる人がいれば、その方に寄り添って語りかけます。しかしその一方で、この一週間の歩みを、それどころか昨日一日だけの歩みを振り返ったとしても、私たちは神さまを賛美するのと同じ口で、どれだけ神さまを悲しませてきたかに気づかないわけにはいかないのです。神への信頼を語っていたのに、自分の力に頼ろうとしました。神さまが私の命と人生を支配しておられることに信頼するのではなく、自分が自分の人生を支配しているかのように振る舞ったのです。そして自分の力で思い通りにいかなくなると不平不満を言い始めました。また私たちは隣人を慰め励ますのと同じ口で、妬み憎しみを語り、悪口を言い、陰口を叩きました。そのようにして隣人を傷つけ、隣人との関係を壊してきたのです。ほんの数日の歩みを振り返るだけで、私たちはどれほどひどいことを語ってきたでしょうか。神への賛美や隣人への愛とはかけ離れたことを私たちは自分でも嫌になるほど口にしてきたのです。同じ口から、神への賛美と隣人への憎しみが出てくる、それが私たちの現実です。  
 私たちはこの現実に自分自身が引き裂かれます。神を賛美している自分と人を妬み憎む自分。その両方の自分を、たとえ周りの人が気づかなかったとしても、自分自身は気づいているし、なによりも神さまがご存知なのです。私たちは自分の「心の宝箱」にみ言葉を入れています。主イエス・キリストの十字架によって私たちの救いが実現したという喜びの知らせを、「心の宝箱」に確かに入れています。しかし同時に私たちは、隣人への妬み憎しみ、愛せない思い、赦せない思いをその宝箱に入れているのです。そのようなものは宝箱に入れなければ良いと思います。大切なもの、かけがえのないものを入れるのが宝箱だからです。しかしまさにそのようなものを自分の「心の宝箱」に入れてしまう、それが私たちの罪の現実にほかならないのです。この現実に引き裂かれないために私たちはなんとか取り繕おうとします。たとえ自分の「心の宝箱」は神さまの救いのみ言葉と隣人への妬み憎しみでごちゃ混ぜになっていたとしても、自分が語る言葉に注意してボロが出ないようにしなくてはならない、と思うのです。

なにが決定的なのか  
 私たちは一方で自分の心にみ言葉を蓄え、その一方で隣人への妬み憎しみを蓄えています。しかしそうであるとしても「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」という主イエスの教えによって、私たちはボロが出ないように取り繕って語ったり、一方で神さまを賛美し、その一方で隣人を憎む自分の現実に引き裂かれたりする必要はないのです。そうではなく、私たちにとって決定的なのはどちらの自分なのかに目を向けなければなりません。神さまを賛美する自分なのか、隣人を愛せず妬み憎む自分なのか。つまり本当に自分の心から溢れているのは、神への賛美なのでしょうか、それとも隣人への妬み憎しみなのでしょうか。私たちにとって決定的なのは、神さまを賛美する自分です。なぜなら私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与ることによって新しい命を与えられ、神さまを賛美する者とされたからです。自分の力を頼みとして生きる者から、神さまのみに信頼して生きる者とされたからです。すでに私たちは新しく生き始めています。私たちが語ることの現実は、依然としてほんの少しの神への感謝や賛美と、圧倒的に多くの不平、不満、隣人への愛のない言葉や隣人を傷つける言葉かもしれません。そのような自分に気づかされ、打ちのめされ、嫌気が差すことばかりです。しかし私たちのごちゃ混ぜの「心の宝箱」から、本当に溢れ出しているのは、神さまをほめたたえ、信頼する言葉であり、主イエス・キリストこそ私たちの救い主という告白であり、また隣人を慰め励まし活かそうとする愛の言葉なのです。私たちはすでに「いと高き方の子」、神の子とされています。私たちはこのことにこそ目を向けなくてはなりませんし、このことをこそ信じるのです。それは、私たちの愛のない言葉や人を傷つける言葉など気にしなくて良いということではありません。「心の宝箱」がごちゃ混ぜであることは大した問題ではないということでもありません。なお私たちの「心の宝箱」には罪の力による隣人を愛せない、赦せない思いが入っています。けれども私たちの「心の宝箱」を圧倒的に満たしているのは、み言葉が告げ知らせた、主イエス・キリストの十字架による救いの恵みなのです。私たちが目を向けるのは、自分が人を愛せず、赦せず、妬みや憎しみの言葉を語っていることではなく、そのような言葉しか語れなかった私たちのために主イエスが十字架で死んでくださり、私たちを新しく造り変えてくださったことによって、なお罪の力が残っているとしても、神への賛美と信頼と告白が、そして隣人への愛の言葉が自分の心から溢れ出ていることなのです。神の子とされていることを信じて受けとめ歩んでいくとき、まことに小さく心もとない神への賛美と隣人を慰め励まし活かす言葉が、聖霊の働きによって確かなものへとされていくのです。主イエスに従う者へ、そして主イエスに似た者へ、私たちは聖霊の働きによって確かに変えられ始めていることを信じて良いのです。私たちはこのことを信じ続けるのであり、罪の力に捕らわれそうになるとき、このことにこそ立ち返らなければならないのです。

主よ、と祈るけど  
 主イエスの説教の結びの後半、その冒頭46節で主イエスは「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われています。「主よ、主よ」とは祈りにおける、父なる神への呼びかけの言葉であり、また主イエスへの呼びかけの言葉でもあります。主イエスは、「主よ、主よ」と呼びかけ祈っているのに、なぜ主イエスが言われたことを行わないのか、と問われているのです。ここで主イエスは「主よ、主よ」と呼びかけ祈ってはいけないとか、「主よ」と軽々しく呼びかけてはいけないと言っているのではありません。私たちは「主よ、主よ」と呼びかけて祈ることが赦されています。どんなときであれどんなことであれ「主よ、主よ」と祈り、主の助けと憐れみを求めて良いのです。しかしそのように祈りながら、なぜ主イエスが言われることをあなたがたは行わないのかと問われているのです。「わたしの言うことを行わないのか」と主イエスは言われます。47節には「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」とあります。「わたしの言うこと」や「わたしの言葉」とは、この箇所が主イエスの説教の結びであることから、その説教で語られたことと考えることもできるでしょう。しかし単に20節から49節で語られたことだけでなく、この福音書を通して主イエスが語られたことのすべてであるとも言えるのです。主イエスの言うこと、主イエスの言葉を聞くとは、神の言葉を聞くことにほかなりません。5章1節では次のように語られていました。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」主イエスのところに来て主イエスの言葉を聞くとは、神の言葉を聞くことなのです。神の言葉を聞きそれを行うとはどういうことでしょうか。それは、主イエスが語られた一つ一つのお言葉、例えばこの主イエスの説教において語られている、「あなたがたは敵を愛しなさい」とか「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とか「人を裁くな」とか「赦しなさい」というお言葉を聞いて行うということでもあるでしょう。しかしそれ以上に、神の言葉を聞きそれを行うとは、そのような一つ一つの行いの源にあること、つまり神の言葉を聞き、信じて受け入れ、神さまとの正しい関係の中を歩み、それゆえ隣人との正しい関係の中をも歩むことにほかなりません。「主よ、主よ」と祈っているのに、祈りにおいては主に感謝し、願い求めているのに、日々の生活においては神さまとなんの関わりもないかのように生きるのならば、神さまとの正しい関係なしに生きているのであり、「主よ、主よ」と祈りながら、主イエスの言われることを、み言葉を行わない者なのです。

土台は打ち立てられている  
 み言葉を聞いて行う者、つまり礼拝でみ言葉を聞き、礼拝から遣わされた日々の生活において神さまとの正しい関係の中を歩む者は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」のであり、「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」と言われています。それに対してみ言葉を聞いて行わない者、つまり礼拝でみ言葉を聞いたけれど、日々の生活において神さまとなんの関わりもなく歩む者は、「土台なしで地面に家を建てた人に似ている」のであり、「川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と言われているのです。ここで、み言葉を聞いて行う者も、聞いても行わない者も家を建てていることにおいては同じです。なにが異なるのでしょうか。それは、み言葉を聞いて行う者が「岩の上に土台を置いて家を建てた」のに対して、聞いても行わない者は「土台なしで地面に家を建てた」のであり、土台があるかないかが決定的に異なるのです。み言葉を聞いて行う者、つまり日々の生活において神さまとの正しい関係の中を歩む者とは、神の言葉を土台とし、その土台の上に日々の生活を築いていく者です。それに対して、み言葉を聞いても行わない者、つまり日々の生活において神さまとの関わりなしに歩む者とは、神の言葉という土台なしに日々の生活を築く者なのです。そして神の言葉を土台とするとは、主イエス・キリストが十字架によって私たちを救ってくださったということを土台とすることにほかなりません。神の言葉である聖書は、一貫してキリストの十字架による救いを語っているからです。  
 しかしここでも私たちは引き裂かれます。なぜなら私たちは日々の生活において、神さまとの正しい関わりの中で生きているようには思えないことがあまりにも多いからです。私たちが生きている社会や世界は、神の言葉を土台としてはいません。ですから私たちは日々の生活において、様々な価値観に翻弄され、惑わされ、神さまとの正しい関わりの中で生きられなくなり、それゆえ隣人との正しい関わりの中でも生きられなくなるのです。欺かれること、裏切られることがあります。欺くこと、裏切ることもあるでしょう。あちらでもこちらでも人と人との関係が壊れています。「岩の上に土台を置いて家を建てた人」ではなくて「土台なしで地面に家を建てた人」のように、襲ってくる困難や不安や恐れによって、私たちの日々の生活はたちまち倒れてしまい、激しく壊れてしまっているように思えます。確かに私たちは日曜日に礼拝でみ言葉を聞き、そのみ言葉を土台として生きる者とされていると信じています。しかし月曜日から土曜日の歩みの中で、神さまとの関わりがないかのように、み言葉から遠く離れてしまっているかのように思える日々の中で、私たちはみ言葉を土台として生きているのか分からなくなるのです。日曜日は神の言葉を土台として生きているけれど、平日はその土台なしに生きているように思えるのです。日曜日だけは「岩の上に土台を置いて家を建てた人」だけれど、平日は「土台なしで地面に家を建てた人」のように思えて、日曜日の自分と平日の自分が引き裂かれているように私たちは感じるのです。  
 けれども私たちはどちらが本当の自分なのかと迷う必要はありません。自分は「岩の上に土台を置いて家を建てた人」なのか「土台なしで地面に家を建てた人」なのかと迷う必要はないのです。土台は私たちが造り出すのではありません。神の言葉という土台は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いという土台は、すでに打ち立てられているからです。たとえ平日の歩みにおいて、神さまとの関わりがなく、み言葉から遠く離れているように感じるとしても、私たちはこの土台を信じて受け入れているのです。私たちは「土台を置いて家を建てた人」です。すでに打ち立てられている土台を信じて、その土台の上に日々の生活が築かれていると信じている者です。私たちは「土台なしで地面に家を建てた人」ではありません。すでに打ち立てられている土台を信じず、それゆえその土台の上に日々の生活が築かれていると信じない者でもないのです。私たちにとって決定的なことは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いという土台がすでに打ち立てられたことであり、私たちは、このことをこそ信じて受け入れているのです。

決して揺らぐことがない  
 岩の上に土台を置いた家は、洪水になって川の水がその家に押し寄せても、しっかり建ててあったので、「揺り動かすことができなかった」と語られています。「揺り動かすことができない」とは「揺らぐことがない」ということであり、この言葉は、旧約聖書の詩編で度々使われている言葉です。本日共に読まれた旧約聖書箇所詩編15編5節にも「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう」とあります。ここでは隣人を愛する者への祝福の言葉として「とこしえに揺らぐことがない」と告げられているのです。私たちの家が、私たちの生活が「揺らぐことがない」のは、私たちが自信を持っているからとか、固い信念を持っているからとか、なにが起きても動じることがない冷静沈着さを身につけているからではありません。そのような私たちが持っていたり、身につけていたりしているものの上に、家を建て、日々の生活を築いたとしても、人生の中で起こる想像もしなかったような苦しみや悲しみ、不安や恐れのゆえに、私たちの日々の生活は大きく揺さぶられ、たちまち倒れ壊れてしまいます。しかし私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を土台とするとき、人生において想像を絶する苦しみや悲しみ、不安や恐れに襲われたとしても、決して揺らぐことがないのです。キリストの十字架と復活の出来事は、私たちが信じて受け入れたから決定的なのではありません。そんな不確かなものではありません。そうではなくキリストの十字架と復活の出来事は、すでに決定的に打ち立てられているのです。たとえ私たちの口から神への賛美と隣人への妬み憎しみが共に語られているとしても、神への賛美こそが、救いの恵みに圧倒的に満たされた私たちの「心の宝箱」から溢れ出ている決定的なことであるように、すでに決定的な、そして決して揺らぐことのないキリストの十字架と復活の出来事を信じて受け入れるとき、私たちもまた決して揺らぐことがない者とされるのです。「揺らぐことがない」とは、主イエス・キリストの十字架と復活という土台を信じて受け入れ、その救いの恵みで心が満たされている私たちへの神さまの約束の言葉なのです。

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