「十二弟子の召命」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 出エジプト記 第19章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第3章7-19節
・ 讃美歌 ; 16、448
はじめに
本日、主日礼拝は、創立132週年を記念して教会学校の生徒達と一緒に礼拝を守りました。この地に神様によって教会が建てられ、今に至るまで歩みが導かれたこと、そして、どのような時も神様の業のために、用いられてきたことに感謝し、神様を讃えたいと思います。本日の夕礼拝においては、与えられた聖書から「教会」ということについて聞きたいと思います。教会という言葉はエクレシアという言葉ですが、これは「呼び出されたもの」を意味しています。この言葉には教会の本質が示されています。教会を建てるものとは何でしょうか。どのような時に教会が建つのでしょうか。本日の聖書箇所は、主イエスが弟子達の中からこれはと思う人を呼び寄せて、使徒とされたことが記されています。この使徒を召しだすことの中に私たちは、教会のあるべき姿を見ることが出来ます。ここにあるのは、主が選んだ人を「呼ばれ」たこと、それに答えた人が「集まって来」たこと、主イエスが「任命」したということです。ここに、集められた主の民の姿があり、教会の姿が示されているのです。
「おびただしい群衆」
「イエスは弟子達と共に湖の方へ立ち去られた」。安息日に会堂で片手の萎えた人をいやされた後、主イエスは湖に行かれたのでした。そこで、主イエスを待っていたのは「おびただしい群衆」でした。ただの「群衆」ではなく、「おびただしい」と言われています。しかも、この言葉は二回出てきています。ガリラヤから来た「おびただしい群衆」、それに加えて、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから来た「おびただしい群衆」です。これは主イエスの下に集まった人々の数がいかに多かったかを表しています。ここには、様々な地域が出てきます。ユダヤ、エルサレム、イドマヤというのはガリラヤ湖の南側です。ヨルダン川の向こう側というのは東側、ティルスやシドンというのは北側です。あらゆる方向から、主イエスのいるもとへと向かって来たのです。ユダヤ人の住む地域だけでなく、異邦人の住む地域も含まれています。当時のパレスティナのほぼ全域から人々がやって来たのです。当時の人々の感覚で考えると、ここで言われている、「おびただしい群衆」というのは、ありとあらゆるところから数限りない人々が主イエスのそばに集まって来たということを示していると言って良いと思います。
この群衆は、主イエスの語った言葉や、なさった業を聞きつけてやってきたのです。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきた」とあります。ここで主イエスに触れようとしている「おびただしい群衆」について、「病気に悩む人たち」であったとされています。「病気に悩む人たち」というのは、肉体的な病に苦しむ人に限られません。精神的な病、困難の中で気をやむ人、実に様々なものが病には含まれるでしょう。そのような病の中にある大勢の人々が、その中では一人一人の個性は埋没し見失われてしまう「群衆」という大きな群れとなって主イエスに「触れようとして」押し寄せてくるのです。
触れようとする
主イエスに触れようとして集まって来る「おびただしい群衆」。これは主イエスがこの地を歩まれた、過去の一時に起こったことではありません。これは、いつの時代の、どの場所においても起こっていることなのです。現代社会においても、重い軽いに関係なく、様々な「病」に悩まされる人間の姿があります。医学の進歩にも関わらず、様々な肉体の病に苦しむ人がおり、現代の病と言われている、ストレスから来る様々な病に苦しむ人が数多くいます。又、様々な犯罪や事件が起こっている実情から現代社会は病んでいるといわれることがあります。そして、そのような中で、世界のありとあらゆる場所において、主イエスのそばに集まってくるおびただしい数の人々がいるのです。主イエス・キリストというお方のことを聞いて、関心を持ち、この方に近づき「触れようとする」人々がいるのです。主イエスに触れようとする人々の思いはどのようなものだったのでしょうか。それは、この方に触れることによって何とかして病を癒されたい。今よりもよい生活をしたい。直面している困難の解決を与えられたい等、様々であったと思います。しかし、その思いの中には、少なからず、自分の願望を叶えようとする思いがあります。又、そのような人々の思いの中には、自らの願望のために主イエスを利用しようとする思いや、イエス・キリストの名を用いて、私利私欲を満たそうとする思いがあることもあります。例えば、聖書を用いてイエス・キリストの名を語りながら、実際には福音を語らないキリスト教系のカルト集団というのも、そのような思いによって支配されたものの、一つの姿ではないかと思います。そこでは、たいてい教祖と呼ばれる人がイエス・キリストを語りつつ、自らの思いをなそうとしています。それによって反社会的な行動や犯罪が引き起こされることすらあるのです。それは、自分を主として、イエスを自らの思いに従わせ、自らの思いをなそうとすることの結果なのです。いずれにしても、様々な形で、イエスに触れようとして、イエスに近づく「おびただしい群衆」は、歴史において絶えることがないのです。
ここで注目すべきことは、この群衆の中には「汚れた霊ども」がいてイエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだということです。「汚れた霊」というのは、真の神の支配に抵抗する力です。霊的なものであったが故に、主イエスが真の神の子であることを知りえたのでしょう。彼らは、表面的には、イエスにひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫び、主イエスを崇めているような姿勢を取りますが、実際は、真の神の子の到来を喜ばず、その方を主とすることを望んでいないのです。必死になって主イエスに「触れよう」とする群衆の中に、「汚れた霊ども」もいたということは、私達が注意しておかなければならないことです。なぜなら、自らの思いに「イエス・キリスト」を従わせようとする態度は、カルトの教祖程あからさまではないかもしれませんが、私達の神を求める思いの中にもありうることだからです。
山に登る主イエス
主イエスは弟子に舟を用意させて、湖に漕ぎ出して、群衆と距離を置かれました。「群集に押しつぶされないため」とあります。そして、「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」のです。ご自身に触れようとして近づいて来る人々と明確に距離を置き、悪霊のなす業に対して厳しく戒めるのです。自らに近づこうとする群衆の思いが、ご自身を「押しつぶす」程のものであったので、そこから避難されたのです。しかし、主イエスは群衆を避けて、逃げたのではありません。主イエスの歩みは、ご自身を「押しつぶす」程の群衆の思いと向き合い続ける歩みでありました。地上の歩みの最後において、群衆の思いによって事実、押しつぶされるまでの間、それと向かい合い続けられたのです。又、群衆の思いと向かい合うと共に、ご自身の救いの業を担うものを任命されたのです。
群衆と距離を置かれ主イエスが次ぎになさったことは、山に登ったということです。主イエスにとって山は祈りの場所です。マルコによる福音書6章には「群衆と別れてから、祈るために山に行かれた」とあります。人々から離れて、父なる神と向かい合う時に、主イエスは山へ行かれたのです。しかし、この時は、ただ山で祈られたのではありません。「これはと思う人々を呼び寄せた」のです。「十二人を任命し、彼らを使徒と名づけられた」のです。主イエスは、祈りの中で使徒を選ばれたのです。使徒というのは「使いのもの」です。ここで、「任命する」と言われている言葉は「つくる」という意味の言葉です。主は自ら選ばれたものたちを、ご自身の業をなすものとして新たにつくられたのです。ここに選ばれた人々は何か特別な人なのではありません。時に、主イエスを自らの思いに従わせようとし、悪霊の力に捕らわれることがある人々なのです。実際、最初に名前が挙げられているペトロは後に主イエスに「退けサタン」と言われることになります。しかし、そのような罪の思いとは無縁ではない人々を、ご自身の業を担わせるために、新たなものにつくられたのです。
十二人の使徒
どのような人々を呼び寄せたのでしょうか。聖書は、そのことについて、「これと思う人々」とだけ記します。ただ、主イエスが、これはと思った人々を選ばれたのです。このことは、十二人が全く主イエスの思いによって選ばれたということを意味します。聖書は十二人の名を記します。それを見ると、人間的には、実に様々な人がいます。何か人間的に見て、優れた人がそこに集められたのではありません。特別な能力を持っていた人がいたわけではありません。共に働きやすい特に気の合う仲間同士がそこにいたのでもありません。
何人かの人々には名前だけでなく、背景やあだ名が記されています。シモンにはペトロという呼び名がつけられています。これは「岩」という意味です。彼の性格の頑固さを現しているように思います。ヤコブとヨハネには、ボアネルゲス、「雷の子ら」というあだ名がつけられています。直情径行で血気盛んな兄弟だったのかもしれません。決して長所とはいえないようなことかもしれませんが、主イエスは、そのような点をあだ名にして愛を持って召しだしてくださるのです。又、この中には、熱心党のシモンという人がいます。熱心党というのは、ローマ帝国を武力的な手段も辞さないで打倒しようとする過激な一派でした。一方、徴税人であった、マタイという人がいます。徴税人というのはローマ帝国に納める税金を同胞のユダヤ人から取り立てていた人々で、行ってみればローマの手下のような人なのです。この徴税人マタイと熱心党のシモンは、政治的な立場を考えれば、激しく対立している関係にあります。人間的に見れば、一緒にいるのが不思議な人々です。又、最後には、主イエスを売ったイスカリオテのユダの名が記されています。そのようなものも使徒とされているのです。これは、気の合うもの達の集まりでも、理想的な人々の集まりでもありません。むしろ、対立があり、破れに満ちている集まりなのです。このような人々が、ただ主イエスによって選ばれた、呼ばれたということによってのみ、共に主イエスの下にいるのです。
「そばに置く」
何のために使徒として召されたかということについて、何よりも最初に「自分のそばにおくため」と記されています。主イエスはご自身が距離を置いた「おびただしい群衆」とは区別して「自分のそばに置く」ということをされたのです。それは他でもなくご自身の民とされたということです。ご自身のそばに置かれて、ご自身との交わりの中に入れられたのです。主イエスのそばに置かれることなしに、私達が何か業を始めるとしたら、それは自分を主としてなす業に他ならないでしょう。湖にいる人々は、自らの思いを主イエスにかなえてもらおうとしてやってきたものたちでした。自分のそばにイエスを置こうとしていたと言ってもいいかもしれません。しかし、使徒というのは、主イエスがそばに置いて下さっている人々なのです。そこで、主の言葉を聞き、主の業に触れ、それによって生かされるのです。この山の上には、紛れもなく、湖にいる、自分から主イエスに触れようとする人々と異なり、主イエスの業に仕えるために主が呼び寄せた人々がいるのです。
出エジプト記の19章には、シナイ山においてモーセに語られた主の言葉が記されています。モーセが荒野の旅路においてシナイ山につく、そして、山に呼ばれたモーセが神の声を聞くのです。
「あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」
主イエスはイスラエルを聖なる国民、祭司の王国として選ばれたのです。世にあって、ご自身の民となるものを選ばれたのです。主イエスがなした使徒の任命も又、神の選びによることです。使徒が十二人であったのは、イスラエルが十二部族であったからです。ここで、主イエスが、十二人の使徒を選ばれたというのは、新しい、神の民を形成されたということなのです。主イエスの使いとなり、主イエスの福音を告げるのです。
この使徒達の働きによって、今の教会は建てられて来ました。この地に建てられる教会とは、まさに、この使徒の働きを受け継ぎ、この働きのために召されたものの集いなのです。ですから、教会に連なるものというのも、やはり、主イエスが選び、そばにおいてくださった者達の集まりなのです。そして、この使徒の務めを負っているのです。主の使いとして新しくつくられ、選ばれた民として歩むのです。
派遣する
又、主イエスは、これらの使徒たちを、ただご自身のそばに置き続けたのではありませんでした。「派遣して宣教させ」と言われています。使徒を選ぶに際して、人間的に弱さや破れに満ちた人々を選ばれたことからも明らかですが、主イエスは山の上に自分の理想的な教団を作ろうとしたのではありません。理想的な人をご自身の下に置き続けたのではありません。様々なものを選びそばに置いた後、そこから、その人々を再び群衆のいる山の下へと派遣されたのです。主イエスによって集められた様々な人は、主イエスによって派遣されるのです。悪霊を追い出す権能を持たせられたとあるように、主の働きに対抗する力を追い出し、福音の担い手として、世に派遣されたのです。
宗教改革者のルターは次のような言葉を残しています。
「汝の敵のただ中に、神の国がある。そこで、そのことに耐えようとしない者は、キリストの支配によってあることを願わず、友人たちのただ中にいようとし、ばらとゆりの中に座っていようとし、悪人と共にいることを願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。ああ、汝ら神を冒涜し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、一体だれが救われたであろうか」
時に、教会は、主イエスが上られた山の上に留まるということにのみ終始してしまうことがあると思います。しかし、「ばらとゆりの中」に座っていて動かないという態度は、キリストの使徒として生きることではないのです。それはむしろ自らを主として自らの理想に歩むことに他なりません。自分の理想を教会に求め、キリストを自分のそばに置き、自分に従わせようとすることに他なりません。しかし、主のものとされたものは、主が父なる神との愛の交わりに留まっているだけの方ではなく、人々の下に来られたように、主と敵対するものの中に派遣されるのです。
さらに、「悪霊を追い出す権能をもたせるため」と言われています。主の使いとされたものは、悪霊の力を追い出すのです。悪霊の力に支配される時に、神を崇める言葉を語りながら、自分自身を主としてしまうようなことすら起こることがあります。悪霊の力は、この世に満ちており、又、わたしたち自身を支配する力でもあります。その、主イエスと敵対するもの、真の主ではないものを主として歩ませようとする力に対して、主のもとに置かれたものとして、主の御言葉の権能によって向かい合うのです。それは、主イエスご自身が、押しつぶされる程の群衆の思いと向かい合い、その罪と戦い、群衆の叫ぶ声の中で、十字架にまで赴いてくださった方だからです。
この使徒として主イエスと共に、宣教して、悪霊を追い出す働きは、主イエスが復活によって罪の力に勝利してくださった方であることによって、私達にとっては、希望に満ちた働きなのです。そのような働きに召されているのが教会の集まりなのです。
おわりに
私達は、何よりもまず、教会が、主イエスによって選ばれて、新しくつくられたもの達の群れであることを心に留めたいと思います。私達の内にある、「イエスに触れようとする」思いの中に、主イエスを自らの思いに従わせようとする思いがあり、主イエスを自分のそばに置こうとする態度があります。しかし、そのような思いに生きてしまう、私達をも主が呼んで、ご自身のそばにおいてくださっているのです。人間的に見れば欠点に満ちている者の名を愛を込めて呼んでくださり、主イエスを裏切ってしまうような弱さを抱えたものを、主の民としてくださるのです。この主イエスの下に置かれることから、新たなものとされ、主の救いの業のために派遣されていくものとなるのです。主を主としない力と向かい合うために遣わされて行くのです。それは、ある時は、世の只中かもしれません、隣人との交わりの中かもしれません、自分自身の中かもしれません。このような歩みがなされていく中で、この世に主の教会が建てられていくのです。