主日礼拝

主の言葉が響き渡る

「主の言葉が響き渡る」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章8-11節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第1章2-8節
・ 讃美歌:55、402

一つのまとまりとしての2節から10節
 テサロニケの信徒への手紙一第1章を読み進めています。先月は2節から4節を読みました。本日は2節から8節までを読み、そして来月は2節から10節までを読む予定です。繰り返し2節から読むのは、一か月経つと、前回読んだところを忘れてしまっているので、振り返りのために読んでいるというわけではありません。そうではなく1章2-10節は一つのまとまりと考えられるからです。前回お話ししたことですが、元々のギリシャ語の文では、2-5節は「わたしたちは感謝しています」で始まる長い一つの文です。それに続く6-10節も、読み進めていくと分かるように2-5節と分かちがたく結びついています。このように一つのまとまりである2-10節を少しずつ読み進めているのです。

選びの根拠、感謝の理由
 4節には「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とあります。前回はこの4節まで読みました。パウロたちは、3節にあるように、福音を信じ救いに与ったテサロニケの人たちが、「信仰によって働き」、「愛のために労苦し」、「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」ことを神様に感謝していました。そして彼らがそのような信仰と愛と希望に生きることができたのは、4節にあるように、そのすべてに先立って神様が彼らを愛し、選んでくださったからです。このように4節は、3節とつながっていますが、同時に5節ともつながっています。原文では、5節の冒頭に「なぜなら」という言葉があるからです。4節に続いて「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは…」と言われているのです。ですから5節では、テサロニケの人たちが神様に愛され選ばれている理由が語られています。なぜ彼らが選ばれたのかという理由ではなく、何によって彼らが選ばれたことを知ることができるのか、という理由、根拠です。さらに言えば、2-5節は、「わたしたちは神に感謝しています」で始まる一つの文ですから、5節は、パウロたちが神様に感謝している理由をも語っているのです。テサロニケの人たちが愛され、選ばれていることが分かる根拠に目を向けるとき、そこには神様の驚くべきみ業があり、そのみ業を行ってくださった神様への感謝が起こされるのです。

わたしたちの福音
 その根拠が5、6節で語られています。まず5節では、テサロニケの人たちに福音が伝えられたことが、このように言われています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」「わたしたちの福音」とは、パウロたちが勝手に作り出した福音ということではありません。それはイエス・キリストによる救いの福音であり、彼ら自身もその福音を伝えられ、それを受け入れ、それによって救われ、生かされているのです。それを「わたしたちの福音」とパウロは呼んでいます。福音は常に、自分が救われ、今それによって生かされている「わたしの福音」です。パウロたちはその「わたしたちの福音」を伝えているのです。

出来事として起こされる福音
 テサロニケの人たちに福音が「伝えられた」と言われています。私たちもしばしば「福音を伝える」と言います。たとえば、このようにです。教会の使命は伝道であり、伝道とは福音を人々に伝えることだ。まったく正しいことです。しかしややもすれば「福音を伝える」というのが、なにか決まり文句のようになってしまって、生き生きとした言葉ではなくなってしまっているのではないでしょうか。「福音があなたがたに伝えられた」の「伝えられた」と訳されている言葉は、直訳すれば「起こった」とか「生じた」という意味の言葉の受け身の形です。ですから、「福音がテサロニケの人たちの間で起こされた」、と訳すことができます。福音が伝えられるとは、キリストの十字架と復活による救いの「良い知らせ」が、単に情報として伝えられることではなく、福音が出来事として起こされていくことです。私たちは情報としての福音によって生かされているのではありません。福音が語られるごとに、キリストの十字架と復活による救いの恵みを体験し味わっているのです。そのように福音が出来事となるのは、パウロたちの働きによるものではありません。彼らの説教が優れていた、あるいは魅力的だったということがあったとしても、それは本質的なことではありません。神様がテサロニケの人たちに福音を伝え、彼らの間に福音を出来事として起こしてくださったのです。福音を伝える伝道はなによりも神のみ業です。私たちはどのように伝道したら良いのか頭を悩ませます。特に、コロナ禍にあって、教会に多くの方を集めることが妨げられている中で、今までとは異なる伝道を模索しなければなりません。しかしそのような私たちの計画や試行錯誤によって伝道が進むのではなく、神のみ業によって伝道は進められます。私たちの目には伝道が停滞しているように見えるときでも、神様は救いのみ業を確実に前進させてくださり、福音を出来事として起こしてくださっているのです。そのことを信じ、そのみ業に仕えるためにこそ、私たちは様々な計画に試行錯誤しながら取り組んでいくのです。テサロニケにおいて、その神のみ業が「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」行われた、とパウロは語ります。パウロたちはそこにテサロニケの人たちが神様から愛され、選ばれていることの根拠を見ています。そしてそのようにしてみ業がなされたことに感謝しているのです。

神の力と聖霊の働きによって
 「ただ言葉だけによらず」とあります。これは、私たちの伝道は言葉だけでは十分でなく、具体的な活動や行いを伴う必要があるということではありません。繰り返しになりますが、ここで見つめられているのは、パウロたちがどのように伝道したか、あるいは私たちがどのように伝道するかではなく、神のみ業によってどのように福音が伝えられたかです。神のみ業は、言葉だけではなく「力と聖霊と」によってなされることが見つめられています。それは、このように言うこともできます。福音が伝えられるとは、み言葉が知識として伝えられることではなく、神の力と聖霊の働きによって、私たちを救い生かすものとなることである、と。主イエスは、荒れ野で四十日間断食し空腹であったとき、悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑されましたが、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになり、その誘惑に打ち勝たれました。神の口から出る一つ一つの言葉が、私たちを生かします。それは私たちにとって、あってもなくても良いものではなく、それがないと生きていけないものなのです。

強い確信
 福音が伝えられたのは、パウロたち自身の「強い確信」によったとも言われています。しかしその「強い確信」は、彼らが元々持っていたものではなく、聖霊の働きによって与えられたものです。私たちの内から出てくる確信は、しばしば独り善がりに陥ります。またその確信は、どれほど強固に思えても、限界があるものであり、実はとても脆いものです。私たちはこのことを繰り返し経験してきたのではないでしょうか。幾つもの安全神話が崩壊しました。「想定外」という言葉が度々使われるのは、人間が確信を持てることがいかに少ないかを示しています。今、私たちは、ほんの少し先のことですら確信を持つことができません。パウロたちは、テサロニケにおいてもフィリピにおいても苦難と迫害に遭いました。そのような中で彼らが福音を宣べ伝えることができたのは、自分たちの内にある確信によってではなく、聖霊の働きによって与えられた「強い確信」によるのです。今、私たちがなすべきことは、聖霊の働きによって「強い確信」が与えられることを懸命に祈り求めることではないでしょうか。私たちが失ったように感じているのは、自分自身の内なる確信に過ぎません。私たちが持っている確信が崩れ去ったとしても、神様はみ業を行っていてくださり、私たちがそのみ業へと目を開かれるならば、聖霊の働きによって揺らぐことのない確信、まことの確信が与えられるのです。5節の後半で「わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」とありますが、パウロたちがテサロニケの人たちのために担った伝道の働き、その労苦を支えたのも、この聖霊の働きによって与えられる「強い確信」であったに違いないのです。

主に倣う者
 「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信と」によって、伝えられた福音をテサロニケの人たちが受け入れたことが、6節で「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と語られています。ここでは二つのことが言われています。一つはテサロニケの人たちがみ言葉を受け入れたこと、もう一つは、彼らがパウロたちと主に倣う者となったことです。そしてこの二つのことは、テサロニケの人たちが神から愛され、選ばれていることが分かる確かな根拠であり、またパウロが神に感謝している確かな理由でもあるのです。
 まず第二のことから見ていきます。テサロニケの人たちがパウロたちと主に倣う者となった、と言われています。主に倣う者、つまりキリストに倣う者となる、というのは納得できることです。キリストに従うとは、キリストに倣うことに違いないからです。しかしパウロたち、つまり伝道者に倣う者となるというのは腑に落ちないかもしれません。これは、パウロは特別に立派な生き方をしていたから、テサロニケの人たちがその生き方を模倣することで、キリストに倣う者となった、ということではないのです。パウロには弱さや欠けがあり、パウロ自身もそのことをよく知っていました。テサロニケの人たちがパウロに倣う者となったとは、彼の立派な信仰生活に倣う者となった、ということではなく、キリストと共に死に、復活したキリストに結ばれ新しい命に生きている彼に倣う者となった、ということです。福音を宣べ伝えている伝道者が、その福音によって生かされていることに倣う、それが伝道者に倣うということです。そしてそれは、すべてのキリスト者に当てはまることなのです。私たちは、ほかのキリスト者に倣うことによって、キリストに倣う者となります。私たちの誰もが、ほかのキリスト者を模倣する者であり、ほかの人から模倣される者なのです。自分は模倣されるにはふさわしくないと思うかもしれません。あるいはいずれはそうなりたいが、今はまだ難しいと思うかもしれません。しかしそういうことではないのです。私たちがある段階をクリアしたら模倣されるにふさわしくなるということではありません。そのように考えるならば、私たちは誰一人として、いつまでたっても模倣されるにふさわしくありません。私たちは弱さや欠けを抱えています。隣人との関係に破れを抱えています。なお日々神様と隣人とに対して罪を犯しています。そのことを見つめるなら、自分を見ないでほしい、自分に倣わないでほしいと思います。しかし私たちは、罪によって滅びるしかなかったのに、神様の一方的な恵みによって生かされているのです。なお日々罪につきまとわれているとしても、もはや罪によって決定的に支配されて滅びることはなく、救いの恵みの中を生かされているのです。そのように生かされている私たち一人ひとりに倣うことによって、キリストに倣う者が起こされていくのです。

聖霊による喜び
 テサロニケの人たちがパウロたちと主に倣う者となったのは、彼らが御言葉を受け入れたからです。このことが6節で「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」と言われています。ここで「苦しみ」は、具体的には迫害による苦しみを意味しているようですが、迫害に限らず、苦しみや困難に直面すると、信仰が弱り、躓いてしまうことも少なくありません。しかしテサロニケの人たちは、ひどい苦しみの中でみ言葉を聞き続けました。知識や情報として聞いたのではありません。知識や情報は、苦しみの中にある私たちを生かすことはできません。そうではなく、生きる糧として、キリストの十字架と復活による救いを告げるみ言葉を聞き続けたのです。そのことによって、キリストによる救いを味わい、体験しつつ、ひどい苦しみの中にあっても、主に倣う者として忍耐して歩んだのです。テサロニケの人たちは、渋い顔をして福音を受け入れたのではなく、聖霊による喜びをもって受け入れました。この喜びは私たち人間が元々持っている喜びではありません。自分自身の力で引き起こすことができる喜びでもありません。それは、キリストの十字架と復活による救いを信じる者に、聖霊の働きによって与えられる「聖霊による喜び」です。本当の喜びは聖霊の働きによって与えられるものなのです。私たちは、苦しみや悲しみや困難の中で、キリストによる救いを告げるみ言葉を聞き、「聖霊による喜び」を与えられます。私たちの喜びは、キリストと共に苦難を担うことによって与えられるからです。その苦しみ、悲しみは、一人で抱え込むものではなく、キリストと共にある苦しみ、悲しみであり、そのただ中に聖霊による喜びが起こされていくのです。

模範となる
 「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とに」よって伝えられた福音を、「聖霊による喜びをもって」受け入れ、パウロたちと主に倣う者となったテサロニケの人たちは、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範」となりました。マケドニア州は、今日のギリシャ北部でテサロニケがその州都です。アカイア州はアテネ、コリントを中心とするギリシャ南部です。不本意ながらテサロニケの教会を離れたパウロは、アテネを経由して、コリントに滞在し、そこからこの手紙をテサロニケの教会へ書き送っています。模範となったとは、テサロニケ教会が立派な教会、問題のない教会となったということではありません。この教会は生まれたばかりの未熟な教会でした。手紙の後半で、神に喜ばれるためにどのように歩むべきか記されていることから分かるように、この教会にはそのように歩めていない現実があり、またいつキリストが再び来られるのかという不安や動揺もあったのです。しかしそのような未熟さや問題を抱えつつも、テサロニケ教会の一人ひとりが、み言葉を信じ受け入れ、そのみ言葉によって日々生かされ、主に倣う者、主の弟子として歩んでいることが、マケドニア州とアカイア州にある教会と、その教会に連なる人たちの模範となったのです。

主の言葉が響き渡る
 そして主の言葉が彼らから、マケドニア州やアカイア州に響き渡っていきます。主の言葉を信じ受け入れるなら、そこから主の言葉が発信されていくのです。受け取った福音が、本当に自分たちを救い、日々生かす「良い知らせ」であるならば、どうして自分たちだけのものにしていて良いでしょうか。ほかの人たちにも伝えたくなるはずです。テサロニケ教会は、「良い知らせ」、福音の発信源となりました。私たちの教会も福音の発信源であるし、またそうでなくてはなりません。以前からホームページに説教原稿を載せていましたが、それに加え、この一年、教会に来られない方が多くある中で、説教の音声を発信し、また希望者には説教原稿を郵送しています。特に、ホームページにアップロードされている説教原稿や音声は、インターネットがつながっているあらゆるところへと発信されている、と言えます。そのような様々なツールが与えられていることは感謝であり、私たちは積極的に新しいツールを用いていって良いと思います。けれどもそのようなツールがなければ、教会は主の言葉の発信源となることができないのではありません。生まれたばかりのテサロニケ教会がそうであったように、私たちの教会も横浜の地に立てられたその時から主の言葉を発信し続けてきたのです。それは、キリストの十字架と復活による救いという「良い知らせ」に生かされ続けてきた方々によってです。み言葉を信じ受け入れ、そのみ言葉によって生かされ、主に倣う者として生きている人たちの姿こそが、主の言葉を発信しているのです。それが失われるのであれば、どんなにすぐれた技術やツールを使っても、教会から主の言葉は響き渡りません。それは裏返せば、教会がみ言葉によって生きる人たちの群れであるならば、新しい発信の仕方を模索することを躊躇する必要がないということでもあります。テサロニケの教会から主の言葉が響き渡ったのは、「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほど」であったと言われています。神に対する私たちの信仰が伝えられることによって、主の言葉が発信されるのです。福音に生かされ、その「良い知らせ」を携えている私たちの信仰生活を通して、主の言葉が響き渡ります。コロナ禍が長期に渡る中で、人と人とが分断され、交わりが失われ、愛が冷め、想像力が失われ、人に寄り添うより自分のストレスを発散することに駆られています。そのような苦しみと痛みを抱える社会にあって、私たちの教会は主の言葉を発信し続けるのです。まったく救いにふさわしくない私たちを救い、日々生かしている主の言葉を、その「良い知らせ」を響き渡らせていきます。主の言葉が、「良い知らせ」が、この地にある一人でも多くの方々に届くよう、聖霊の働きを祈り求めつつ、私たちは苦難の時を忍耐し、聖霊の喜びをもって歩んでいくのです。

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