夕礼拝

裁きあう時代の中で

「裁きあう時代の中で」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第28章 14節-22節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 39節-49節
・ 讃美歌 ; 395、454

 
1 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」。主は御言葉をよりイメージ豊かに膨らませ、広げられます。そのようにしてとにかく主イエスに病気を癒してもらおうとして集まってきた人々を、主が伝えようとされたもっとも中心的なところへと誘っていってくださるのです。

2 主イエスはまず盲人が盲人を導くたとえを話されました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(39節)。これは導く側、導き手を問題にしているのではありません。むしろ導かれる側のことが見つめられています。誰に導きをお願いするか、誰にガイドをゆだねるか、が問題にされているのです。間違った人に導きをゆだねると、とんでもないことになるぞ、というわけです。「導く」と訳されている言葉には、「道」を意味する単語が含まれています。人を導くにはどの道を歩むべきかが見えていなければなりません。どの道をどう歩んだらよいかが分かっていなければならないわけです。
 しかしこれがなかなか難しい。わたしは人の家を訪ねるのでも、待ち合わせの場所に集まるのでも、全く迷うことなしに目的地に着くことがなかなかできません。地図を与えられていてもその地図が正しく読めない。方向をなかなか把握できないのです。そのくせ地図を見ながら「こっちだ!」とやったりするものですから、周りの人が迷惑してしょうがない。ですから地区集会に集まるためにどこかで待ち合わせをしたりする時などは、余裕を持って3,40分早く着くようにして、集合場所を確認してから、近くで食事まですませて、そして確認していた場所に集まったりしています。そういう時、道案内を正しくしてくださる方があれば、大変心強いものです。そういう時、正しい導き手に導いてもらうことが大切であるわけです。
 このことは人生の歩みにおいても同じではないでしょうか。どういう先生に自分の歩みの導きをお頼みするかが問われます。かつて神学校の学長が「自らは福音を宣べ伝えるが、その者自身は宣べ伝えられてはならない」、そういう意味のことをおっしゃったと聞きました。まことの先生、仰ぐべき師を指し示す、その「指」に徹するのだ、というのです。ちょうど洗礼者ヨハネのように、十字架のキリストを指し示す、証しをなす者としてのみ、自分が今ここにいる意味がある、そのことをよくわきまえよ、というのです。伝道者はみなそのように生きるものだ、ということです。伝道者だけではない、キリスト者は皆、そのようにキリストを指し示して歩む民なのです。主はここで確かに、キリストに導かれ、修行を積めば、私たちの師であるキリストのようになれる、とおっしゃってくださいました。キリストのようになるなんて実におそれ多いことのように聞こえるかもしれません。それは指し示すことになるのか、といぶかるかもしれません。しかしまた主は「弟子は師にまさるものではない」(40節)ともおっしゃいました。私たちは皆私たちの師、そのお方そのものとなるのではありません。しかし「その師の”よう’になれる」のです。その師になるのでなく、その師の「ように」なるのです。これを聖書は他の箇所で「神の子とされる」、「光の子となる」と表現します。まことの神の御子キリストによって、わたしたちも神の子、神の養子、また光の子としていただけるのです。そのようにして、主の光を反射し、主を指し示す者とされるのです。ヨハネ福音書が語る主は、過ぎ越しの夜に弟子たちの足を洗われた時、こうおっしゃいました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(ヨハネ13:14-17)。私たちの人生において、誰を本当の先生として仰ぐかが、人生の道の分かれ目となるのです。

3 さらに主イエスはおっしゃいます、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(41節)。実にショッキングなたとえです。想像しただけで目が痛くなってきます。目の中に丸太が入っていたら、目が痛くてしょうがないはずです。涙が出てとまらないはずです。それなのに私たちは自分の目の痛みに疎いのです。痛みを痛みとして感じることができない。はっきり言って鈍感なのです。そのくせ兄弟の目にあるおが屑は気になってしょうがないのです。
 イラクの捕虜収容所での虐待問題が持ち上がり、アメリカ連邦議会の議員たちは先日、まだ公開されていない写真や映像を調査のために確認する委員会を開いたといいます。委員会が終わって出てきた議員たちは一様に不快感と嘆きの気持ちをもらしていました。彼らが今味わわされている気持ちもこれに近いものがあるのかもしれません。日本の国会では議員の年金未払い問題が大きく取り上げられています。今まで「内閣の大臣に未払いの者がいる、それなのに国民に負担を求める年金改革法案を通そうとするとは何事か」と盛んに攻撃していた野党も、せいので一緒に年金納付の記録を出し合ったら、こちらも実に多くの議員が未払い期間を持っていることが分かりました。これも同じようなことかもしれません。またある先生にこんな話を聞いたことがあります。ある牧師の集まりで同じ部屋に泊まった先生が、次の日の朝早くから起き出して、大声を挙げながらお祈りをしている。隣で寝ていた自分はうるさくて寝られやしなかったというのです。その先生は自分をたたき起こしてあなたも一緒に祈りなさい、などと言ってくる。そのようにして自分の尺度に合わせた敬虔さを求めて、他者を裁き、自分の義を立てている。そんな出来事に腹が立って憤懣やるかたない気持ちで帰ってきたというのです。
 私たちは多かれ少なかれ、こんなことを繰り返しながら日々を過ごしているのではないでしょうか。他者を裁き、自分の義を立て、自分の目の中の丸太に気づかないままで、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」といい子ぶっている。自分の目の中にある丸太の痛みを感じることができない。その痛みゆえに涙することがない。それほどまでに自分の罪の大きさを感じることができない。それが滑稽なまでに憐れな私たちの姿なのです。

4 さらに主は、木はそこになる実によって判断されるとおっしゃいます。茨からおいしいいちじくの実は取れず、野ばらの茂みからぶどうの実を摘み出すことはできません。そんなことをすれば収穫は得られないばかりか実を探そうとつっこんだ手は傷つき、血まみれになってしまいます。木は同じような形をしていて見分けがつかなくても、そこになる実、結果としてそこに出てくるもの、現れてくるものを見れば、その現れてきたものの良し悪しを判断することによって、木そのものの良し悪しも判断できるというのです。木は、それぞれ、その結ぶ実によって、それがよい木か悪い木か分かるのです。
 それと同じように、人間もまたその結ぶ実、外に現れる行いから人間そのものの良し悪しが判断されると言われています。この場合はその口から語る言葉が私たちの結ぶ実です。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた心の倉から悪いものを出す。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(45節)。口が結ぶ実とその人の心の中にあるものとはきちんと対応しているのだ、と言われているわけです。そうであれば、自分の語ったこと、自分が人に言い放ったことについて、私たちは主なる神の前で責任を問われるということになります。

5 これまで語られてきたさまざまなたとえを締めくくる形で、主イエスは弟子たちに語りかけられます。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」(46節)。弟子たちは主イエスにお叱りを受けてしまうのです。「主よ、主よ」と呼ばわる民はいくらでもいるというのです。けれども主から聴いた御言葉を行う者はいったいどこにいるのか、と主は問われるのです。私たちはこの主の問いかけを前にしてなんとお答えしたらよいでしょうか。「わかりました、イエス様、これからはあなたの教えられた御言葉を忠実に守ります」と果たして自信を持って言えるでしょうか。いや、そうではない。かえって主の御言葉を割り引きして、骨抜きにして、その真剣さとすごみ、迫ってくる勢いを弱めて聴いているのが私たちではないでしょうか。心のどこかで「敵を愛しなさい、なんて言ってもねぇ。そうは言ってもねぇ」といった感じで御言葉を聴いてしまっている。宗教改革者が、「御言葉を聴いてもそれが上滑りのままでその人から落ちていってしまうことがある」と言った、そういうことが私たちの魂においても起こっているのです。自分の中で御言葉の適用範囲について制限して、これくらいはいいだろう、この場合は主の教えは当てはまらない、とこっそり考えてしまう、そういうことを私たちはよくしているかもしれないのです。
その時私たちは「土台なしで地面に家を建てた人」になっているのだ、と主はおっしゃいます。川の水が押し寄せると、その家はたちまち倒れる、しかもその倒れ方はひどく、目も当てられないのです。それでは私たちはどうすればよいのでしょう。「それじゃ、今日から御言葉を聴いて行う人になりましょう」と言って、その掛け声でもってすべてが解決するのでしょうか。それでは御言葉は御言葉自身では力を持たないのでしょうか。私たちが実行しなければ、行いによって効果を持たせなければ、私たちの中で力を奮うことができないのでしょうか。御言葉はそのままでは力を持つことができないのでしょうか。時々私たちは「御言葉を生かして生活しましょう」などというものの言い方をしてしまう。まるで主の御言葉を用い、生かす主体は自分たちであるかのような傲慢な物言いを知らず知らずのうちにしてしまうのです。もし私たちが御言葉を生かして、主の御言葉を実行して歩めると思うなら、その時また、私たちは自分と比べて御言葉に生きていないように見える人を裁き始めてしまうのではないでしょうか。
この主の問いかけの前に立たされた時、私たちは返す言葉がないのではないでしょうか。主の御言葉の真剣さとすごみ、迫ってくる勢いを感じれば感じるほど、偽善者としてしか生きられない自らの姿を思い知らされ、ひざまづくしかない、それが私たちの姿だと思うのです。私たちは悪い木、悪いものを入れた心の倉しか持ち合わせていないし、丸太の入った目で見て人の目のおが屑が気になってしょうがないような存在でしかない、まして自分でその丸太を取り除く力さえ持ち合わせていない、そして土台なしの家しか建てられない、そういう者なのです。
この家に押し寄せる洪水は、私たちの人生に押し寄せる困難や試練ではありません。そうではなく、終わりの日に到来する神の裁きです。預言者イザヤは来るべき神の怒りの裁きを、やはり洪水のイメージをもって語りました。「お前たちが死と結んだ契約は取り消され 陰府と定めた協定は実行されない。 洪水がみなぎり、溢れるとき お前たちは、それに踏みにじられる」(18節)、「洪水は溢れる度にお前たちを捕らえる。それは朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる。この御告げを説き明かせば ただ恐怖でしかない」(19節)。主イエスが来られたということはその裁きが始まりつつあるということでもあります。けれどもその裁きの只中に、恵みの約束をも据えられています。同じイザヤ書28章の16節です。「わたしは一つの石をシオンに据える。 これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。 信ずる者は慌てることはない」。この隅の石に依り頼み、この石を基礎に家を建てることのみが、私たちが希望を見出せる道なのではないでしょうか。今来られている裁き主はまた、その裁きをご自身が身に負ってくださる贖い主でもあるのです。裁きの洪水をもたらすお方であるとともに、信ずる者が慌てることのないように、「貴い隅の石」となってくださるお方なのです。

6 主は私たちが主を呼び求める、その外見上の姿だけを御覧になるのではありません。心の内を探られるのです。その時、私たちは悪い木、悪い心の倉、丸太の入った目、土台なしの家でしかないことを暴かれます。そのままであれば、悪い実を結ぶしかないものとして裁かれ、切り倒され、火に投げ込まれてしまうものでしかない。そういう私たちがもし、冒頭に述べたように神の子、光の子としていただけるとしたら、それはただ恵みでしかない。裁き主が私たちの受けるべき裁きを身に負ってくださったがゆえなのです。その時、悪い実しか結べないものであった私たちが心のもっとも奥から作りかえられ始めます。キリストを師と仰ぎ、自分では取り除けることのできなかった目の中の丸太を取り除いていただき、良い木に造りかえられ、良い倉を心の中に与えられ、主イエスを土台とする人生を建てさせていただけるのです。その時、「御言葉を生かす人生」ではない、「御言葉に生かされる人生」、傲慢な自己主張の能動形から、恵みの受身形へと変えられた人生が始まるのです。

祈り 御子なるキリストよ、あなたを『主よ、主よ』呼びながら、あなたの御言葉を行うことのできない私たちを憐れんでください。どうかすべてが決定づけられてしまっている私たちの生み出す悪しき実りから、私たちを救い出してください。聖霊によって新たに造りかえられ、神の子、光の子として、イエス・キリストという土台を「堅く据えられた礎」とする人生を歩ませてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP