主日礼拝

天に富を積む

「天に富を積む」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第40編1-12節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第18章18~30節

 
 善い先生
 「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。主イエスにこのように尋ねた人のことが、本日ご一緒に読むルカによる福音書の18章18節以下に語られています。この人は主イエスを「善い先生」だと思い、永遠の命を受け継ぐ者となるために、つまり救いを得るために、何をしたらよいのかを尋ねたのです。それは、私たちが主イエスに対して抱く思いであり、また主イエスから教えていただきたいと願っていることだと言えるでしょう。私たちも主イエスを善い先生だと思っています。だからその教えを聞こうとして教会に来るのです。そして、私たちが主イエスから教えてもらいたいと願う究極のことは、どうしたら救いを得ることができるか、ということです。「こういうこと、ああいうことをしなさい、そうすれば救いを得ることができる」、そういう教えを期待して私たちは主イエスのもとに来るのです。この人も同じだったでしょう。

主イエスの答え
 けれども主イエスは、彼が期待していたのとは全く違う答え方をなさいました。まず主イエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われました。これについては、後で考えたいと思います。「何をすれば」という問いへの直接の答えはその後です。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。これは、十戒の、特に後半の教えです。十戒は、旧約聖書の律法の中心であり、ユダヤ人なら誰でもよく知っており、大切に守っていたものです。「永遠の命を受け継ぎたい」という願いを人一倍強く持っていた彼にとっては、今さら言われるまでもない、当たり前のことです。その上にさらに何をすればよいかを教えてもらいたくて、彼は主イエスのもとに来たのです。ですから彼はこの答えに失望して言います。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。それは決して嘘ではありません。彼は小さい頃から、十戒を、それを中心とする律法を、熱心に守ってきたのです。  彼のこの答えを聞いて、主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。それを聞いた時、彼はおそらく、「そうだ、そのことが聞きたかったんだ。永遠の命を受け継ぐために、私にまだ欠けているものとは何だろう」と目を輝かせて、主イエスの言葉を身を乗り出すように聞いたことでしょう。しかし主イエスが続けておっしゃったことは、予想外のことでした。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。期待に胸をふくらませて、目を輝かせて聞いていた彼の顔は、突然曇り、目の輝きは消えました。彼は「これを聞いて非常に悲しんだ」とあります。何故か、23節はその理由を、「大変な金持ちだったからである」と語っています。大金持ちだった彼は、自分の財産を全て売り払って貧しい人々に施し、無一物になって主イエスに従っていく、ということが出来なかったのです。

誰が救われるのだろう
 私たちはこの人の気持ちがよく分かります。私たちは別に大金持ちではない(そうである人もいるかもしれませんが)けれども、自分の財産を全て売り払って主イエスに従っていく、などということはできません。そうしなければ主イエスの弟子になれない、信仰者になれない、そして、救いにあずかることはできないと言われたなら、私たちもこの人と一緒に、非常に悲しみ、主イエスのもとを去るしかないでしょう。この人の悲しみは私たちの悲しみでもあるのです。そのことは、主イエスが24節以下で、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われた時、人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったことからも分かります。当時、金持ちと言われる人はほんの一握りで、大多数の人は貧しかったのです。「財産のある者が神の国に入るのは難しい」という主イエスのお言葉を、「金持ちは救われないが貧しい人は救われる」と聞いたなら、こういう反応は起ってこないはずです。しかし人々は皆、主イエスのお言葉を自分のこととして聞いたのです。自分も、全財産を売り払って無一物になって主イエスに従うことなどできない、そうしなければ救われないのなら、自分も含めて、いったい誰が救われるのだろうか、と思ったのです。私たちもそう思います。全財産を施し、無一物になって主イエスに従うことができない者は救われないのだとしたら、誰も救われないのではないでしょうか。

神にはできる
 主イエスがここで語ろうとしておられることは何なのかを知るための鍵となるのは、27節の、「人間にはできないことも、神にはできる」というお言葉です。「そんなことを言ったら、誰が救われるというのか、誰も救われないではないか」という人々の、そして私たちの思いに対して、主イエスはこのように言われるのです。このお言葉は、私たちの救いは、神様がなさることであって、人間が自分の力で勝ち取るものではない、ということを語っています。主イエスが教えようとしておられるのはこのことなのです。この金持ちは、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と問いました。それは、自分が何か善いことをすることによって、救いを得ることができる、という思いです。彼にとって救いは、自分が善いことをすることによって獲得するものだったのです。その「善いこと」を教えてもらおうとして彼は主イエスのところに来たのです。「善い先生」とはそういう意味です。自分の力で善いことをして、それによって救いを獲得する、イエス様はそのための善いことを教えてくれる「善い先生」だと彼は考えたのです。私たちも主イエスのことをそういう「善い先生」と考えて、「善いこと」を教えてもらいたいと思っているところがあるのではないでしょうか。
 主イエスはそのような求めに対して、救いはただ神様からのみ与えられるのだ、とお語りになったのです。「全財産を売り払え」とおっしゃったのは、自分が何かをすることで救いを得ようとするなら、そういうことが必要だ、ということです。主イエスは、私たちの誰もそんなことはできないことをご存知です。そういうことを言うことによって、自分が何か善いことをすることで救いを得るなどということはあなたがたにはできないのだ、ということをはっきりと教えようとしておられるのです。救いは、ただ神様によって、その恵みによって与えられるのです。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というのはそういうことです。主イエスはここで、「私はあなたが呼ぶような『善い先生』ではない、と謙遜しておられるのではありません。救いは、人間の善い行いによってではなく、神の善さ、言い換えれば恵みによってこそ与えられるのだ、と言っておられるのです。

主イエスの十字架において
 神様こそが善い方、恵み深い方であることは、独り子である主イエス・キリストにおいて、そして何よりもその十字架の死において示されています。主イエスが、自分の力で救いを獲得することのできない罪人である私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。その恵みのゆえに、自分の力によっては救われようのない私たちが、救われ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の苦しみと死、そして復活によって、私たちを救って下さったのです。「神にはできる」とはそのことを言っています。私たちに何ができるか、ではなくて、この「神にはできる」ということにこそ、私たちの救いの根拠が、土台が、また保証があるのです。私たちはこの礼拝で、共に聖餐の恵みにあずかります。聖餐はまさに、私たちが自分の力によっては決して獲得することができない救いを、神様が、独り子イエス・キリストの十字架によって実現し、それを私たちに、値なしに与えて下さったことのしるしであり、その恵みに私たちが体全体であずかる時なのです。「人間にはできないことも、神にはできる」。この恵みを、聖餐において深く味わい、噛み締めていきたいのです。

自分の財産を捨てて
 神様が、独り子イエス・キリストによって成し遂げ、与えて下さった救いの恵みにあずかり、それを味わっていく時、私たちは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」という主イエスのお言葉を、もう一度新たに受け止め直すこともできます。持っている物をすべて売り払うとは、何度も言っているように、無一物になることです。それは、自分の持っているもの、自分の力、いろいろな意味での財産に依り頼むことをやめる、ということを意味しています。私たちはいつも、自分にできる、あるいは自分が持っている何かを依り所とし、それを誇りとし、それによって自尊心を維持しつつ生きているのではないでしょうか。持っている物をすべて売り払うとは、そういう拠り所を放棄することです。それを放棄して、主イエス・キリストに唯一の拠り所を求めるのです。自分はこれができる、こういう善さがある、こんな成果をあげた…、ということに依り頼むのをやめて、主イエス・キリストにおける神様の恵みにこそ、人生の土台、支えがあることを受け入れるのです。それゆえに、財産を売り払うことと、主イエスに従っていくこととは分ち難く結びついているのです。信仰者になるとは、このように私たちの人生が方向転換することです。自分が持っているいろいろな意味での財産に依り頼むことをやめて、主イエス・キリストにおける神様の恵みにこそ依り頼んで生きる者となるのです。あなたに欠けていることはその一つのことだ、と主イエスは言われました。その一つこそが、決定的に重要なのです。それが、信仰の有る無しを決めるのです。しかしそれは、私たちが自分の力や決意でそういうことをすることによって救いを獲得する、ということではありません。私たちは、「人間にはできないことも、神にはできる」というあの主イエス・キリストにおける神様の恵みによって、自分の財産に依り頼むことをやめて、主イエスに従い、主イエスにこそ依り頼む新しい人生へと導かれるのです。

祝福
 そこには、自分の力や財産を拠り所としていた時よりもずっとすばらしい祝福が与えられます。その祝福を告げているのが、28節以下のペトロとの対話です。ペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言いました。主イエスの弟子となる、つまり信仰者となるというのは、そういうことなのです。私たちだって、そのために捨てなければならないものがあるのです。自分のものを全て持ったままで、主イエスに従っていくことはできません。主イエスに従っていくためには、いろいろなものを捨てて、身軽にならなければならないのです。そのペトロに対して主イエスは、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と言われました。神の国のために大切なものを捨てて主イエスに従ってきた者たちは、この世ではその捨てたものの何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を与えられるのです。自分の財産、持っているものに依り頼むことをやめて、主イエス・キリストにこそ依り頼んで生きる信仰者の人生は、このような祝福の下に置かれているのです。繰り返しますが、この祝福の下に生きることができるのは、私たちの力や努力によってではありません。主イエス・キリストの十字架と復活において、人間にはできないことを、神様が成し遂げて下さった、その恵みを信じて洗礼を受け、聖餐においてその恵みを味わいつつ生きる所にこそ、この祝福が与えられていくのです。

天に富を積む
 主イエスは、財産を売り払って貧しい人に施せば、天に富を積むことになる、と言われました。それは、そういう善いことをすれば、それが自分の富、豊かさとなって天の銀行に預金される、そして後からそれを引き出して救いを買い取ることができる、ということではありません。私たちの財産として積まれるそういう富は、天ではなくて地上に積まれているのです。だから人のと自分のとを見比べることが起るのです。天に積まれる富とは、人間の善い行いではなくて、神様の恵みです。神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さった救いの恵みこそが天の富なのです。財産を売り払うことによって富を天に積むことになるというのは、自分の財産、富、力に依り頼むことをやめることによってこそ、この天の富、主イエス・キリストによる救いの恵みという富に豊かにあずかることができる、ということです。自分の力でなす善い行いという地上の富を拠り所とすることをやめることによってこそ、私たちは天の富、神様がその恵みによって与えて下さる、主イエス・キリストにおける救いに豊かにあずかり、自分の富に依り頼むよりも何倍も豊かな神様の祝福の中を生きることができるのです。

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