「天からの慰め」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 7節-10節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第2章 22節-40節
序 近年はやった映画に、「ロード・オブ・ザ・リング」というものがあります。主人公のフロドという小さな妖精がひょんなことから美しい指輪を手に入れ、それがきっかけとなってさまざまな形で悪の力との戦いに巻き込まれていく物語です。三部作となっていますが、第二部の最後の場面は、3000人の仲間たちと一緒に古いお城に立てこもり、攻め寄せてくる1万人の悪の兵卒たちを迎え撃つというシーンが描かれます。フロドとその仲間たちは、次々と城に梯子をかけて昇ってくる野獣の兵卒たちと懸命に戦いますが、なにせ多勢に無勢です。圧倒的に数に差があります。黒雲が低く垂れ込め、大雨も降り出します。城の中にも攻め込まれ、もう駄目かと思ったその時のことです。隣の国からの援軍が丘の上に現れ、輝き出てきた太陽を背景にして一気に丘を駆け下り、大勢の敵軍を次々になぎ倒していったのです。敵軍は敗走していき、フロドの仲間たちはこの戦いに勝利することができました。
フロドたちはこの間、援軍の到来をどれほど心待ちにしていたでしょうか。暗い雲が空を覆い、おそれと疲れと、不安とあせりの中で、どれほどそこから救い出され、解放されることを願っていたでしょうか。今、エルサレムが救われ、慰められるのを待ち望んでいた二人の人物は、メルヘンの世界ではなく、この世界の現実の中で、まことの救いと解放を、真実の慰めを心待ちにし、待ち望んでいた人たちです。あのメルヘンにおいて象徴的に描かれていた罪と悪の力、神に敵対する闇の力に、現実に苦しめられ、悩み続け、もはや老いの坂をのぼりゆき、人生の終わりの時を迎えんとしている者たちです。しかし同時に主がイスラエルを憐れみ、救いと慰めをもって身を向けてくださることを信じ、そのことをひたすらに待ち望んできた人たちです。
1 クリスマスの日にお生まれになった幼子は、八日たって割礼の日を迎えた時、イエスと名付けられました。それは当時の律法に従った命名の手続きの仕方であったのです。また「モーセの律法に定められた清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に捧げるため、エルサレムに連れて行った」(22節)とあります。出エジプトを巡る一連のファラオとのやり取りの中で最後に来た出来事は、「主の過越」です。それは主がファラオのかたくなな心を打ち砕くために、エジプトの国中の初子をことごとく撃たれた出来事です。このことをイスラエルの民が腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとするために、主はすべての初子を清め別ち、主に捧げることをお命じになりました。主はモーセに仰せになったのでした、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出エジプト13:1-2)。イスラエルの民は、自分の息子のうち初子については、それを犠牲として神に捧げるよう律法によって定められていたのです。それは具体的には、捧げ物をすることによって、この初子の命を贖う儀式に与かることを意味しました。ヨセフとマリアがいけにえとして捧げようとしていたのは山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽であったと言います。それは産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合に捧げるべきものとして律法に規定されていたものです。
そのことを再度強調して27節では次のように言われています、「両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを捧げようとして、イエスを連れて来た」。さらに39節、「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った」。これらのことが指し示すのは、主イエスが入ってこられた世界は、律法によって支配された世界であるということです。主イエスは律法と無関係に、神の戒めや掟と一切関わりのないところに来られたのではありません。主イエスは律法の支配下にある世界、しかも律法が神の意志から離れて、人間を苦しめ、罪の奴隷状態に追い込んでいる世界に入ってこられたのです。それはいったい何のためでしょうか。「ガラテヤの信徒への手紙」は、このことについて次のように証ししています、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4:4-5)。律法の支配下にあるわたしたちを救い出し、神の子としてくださるために、主イエスはご自身、律法が支配する世界にお生まれになりました。わたしたちと同じ律法のくびき、律法の重荷を背負い、引き受けてくださったのです。井戸の中に落ちた家畜を助け出すには、その家畜が落ち込んでいる井戸の深みにまで誰かが降っていかねばなりません。海底に沈んだ船を引き揚げるには、誰かがワイヤーを持って船の沈んだ地点にまで潜っていかねばなりません。それと同じように、神の意志から離れて、人間をがんじがらめに縛り苦しめていた律法のくびきからわたしたちを救い出すために、主イエスは律法の中にお生まれになり、わたしたちが苦しみ、あえいでいる深みにまで降って来られたのです。それはわたしたちを恐れと悩みの深みより引き揚げ、神の自由な恵みの出来事へと目を開かせるためでした。神の子の自由に与かったものとして、今度はキリストの律法に真実に生きるようになるためでした。
2 イスラエルに代表される人類の歴史、それは神の律法、神の戒めを守ることのできない人間の現実の姿が、これでもか、これでもか、と暴露される歴史でありました。神の戒めを破って罪に落ち、エジプト脱出の恵みを忘れて荒野で不平不満をぶちまけ、乳と密の流れる土地に入っても他の神々へと心を傾け、この世の王を立てるように執拗に試みました。そして王国支配の下で偶像崇拝に走り、度重なる預言者の警告にも耳をかさず、自らの国の滅亡を招くに至ったのです。そのようにして神に背を向けて、神の怒りを招きつつ生きざるを得ない、いかんともしがたい力にとらわれて、泥の中でゆきなづんでいるのがわたしたちの姿なのです。
二人の年をとった男と女は、長き人生を振り返ってみて、結局人間の根本問題は神に背を向けて歩まざるを得ないところにあるのだ、という結論に至ったのではないでしょうか。神に敵対して歩む、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェソ2:3)、それがわたしたちの姿なのであり、そこから逃れ出る力は人間自身の中にはない。それがシメオンやアンナが至った人生の結論だったのではないでしょうか。
救いは天から降って来なければならない、外から人間の世界にやってこなければならない、それゆえにその到来を心待ちに待ち続ける以外にない、そこにメシアを待ち望む生き方が生まれたのです。現実の人間の有り様に対する絶望が、すべてのメシア待望の根本にあるのです。わたしが幼い頃通っていた教会では、毎年クリスマスの夕方に、保育園の子供たちが演じるクリスマス・ページェントが行われていました。そのページェントの冒頭に、子供たちが毎年必ず歌う歌がありました、「昔ユダヤの人々は 神様からのお約束 尊い方のお生まれを 久しく待っておりました。 その日数えて 待つうちに 何百年もたちました」。シメオンやアンナはこの「待ち望む」というメシアを待望する人類を代表する存在です。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望み」、アンナは「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々」を代表して夜も昼も神殿から離れず、神に仕えていたのです。彼らはまた、神殿においてメシアの到来を待ち望む、旧約の民を代表する存在だと言ってもいいでしょう。メシアの到来を待望する時間を過ごして、その時間を代表するこの神殿という建物で神の恵みの出来事を仰ぎ望む幸いを得んとその日を数えつつ、ただひたすらに待っていたのです。
シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」、とのお告げを聖霊から受けていました。それは天からのまことの救いの到来を直接に確認し、「神の救いの大事業」(植村正久)が開始したことを受け止めるために、シメオンが代表として選ばれたことを意味します。讃美歌の中に「見張りの人よ、夜明けはまだか いつまで続く この闇の夜は」という歌詞が出てまいりますが、まさにこのシメオンこそは、救いの曙の光を確認するために見張りの役として立てられてきたのです。彼は救い主に合い見えるまでどれほどの間待ち続けていたことでしょうか。わたしたちは「待つ」ということが苦手です。特に現代人はちょっと待たされるだけですぐにいらいらしてきます。何か自分で活動していなくては、アクションを起こしていなくては落ち着かないのです。しかしその時わたしたちは、自分のアクションによって、神がこの世界に起こそうとしておられるアクションを隠していないか、気をつけていなければいけないのです。天来の慰めの到来を待つ心を失っていないか、注意しなければなりません。
そのような待望の時を経て、ついに主イエスに合い見えたときのシメオンの喜びはどんなに大きな、表現しようのない、はちきれんばかりのものだったでしょうか。わたしたちにとって、その一事が満たされれば人生のすべての意味や目的は達せられる、というものがあるでしょうか。それさえあればもう何もいらない、そう言えるものをわたしたちは持っているでしょうか。シメオンにとってそれは、救い主に合い見えることにほかならなかったのです。
人生の意味がすべて満たされた彼は神をたたえて言いました、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルのほまれです」(29-32節)。「メシアに会う」ということは「救いの出来事を目の当たりにする」ということです。シメオンはこの時、神の救いのご計画における決定打がついにこの世に放たれたのだということを知ったでしょう。もうこの世が悲しみと絶望に覆われ続ける世ではあり得ないということをしみじみと知らされたでしょう。安心して神に命を任せる備えができたでしょう。
このことはアンナにしても同じです。夫と死に別れた彼女は84歳に至った今も、断食と祈りにおいて主に仕え、主が慈しみをもってこの世に天来の慰めをもたらすことを願い求めていたのです。この世の一切に絶望して、まことのより頼むべき方、真実に待ち望むべきお方に思いを集中して過ごしていたのです。それゆえに、到来した救い主をたたえる輪の中に彼女も加わって、神賛美、神礼拝が生まれ、湧き上がっているのです。
3 もちろん、この「救いの岩」なるメシアは「反対を受けるしるし」ともなると言われています。このお方を救い主として受け入れるのか、それとも拒絶するのかによって、この「救いの岩」はまた「つまずきの石」、「妨げの岩」、滅びへの「仕掛け網」ともなり得るのです。この岩は「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」岩となるのです。この岩に対する態度表明を通じて「多くの人の心にある思いがあらわにされる」(35節)のです。わたしたちもまた、シメオンやアンナと一緒に、救い主の到来を喜ぶ礼拝の輪に加わるのか、それとも主イエスを「反対を受けるしるし」としてしまうのかを問われています。真実を告げ知らせる聖霊の導きに心の支配を明け渡すよう求められているのです。
結 人間が苦難や試練の只中で真の慰めを経験するのは、天からの慰めに包まれる時です。それはただ悲しむ者を力づけようとする人間の言葉ではなく、単なる気休めの言葉でもありません。初子の贖いのために神殿につれて来られた幼子が実は世界の贖い主として天から来られた方だ、ということを知らされる慰めです。罪の赦しと永遠の命、神の国と結びついた慰めです。神との和解と結びついた慰めです。この慰めこそが、真実に人間を癒し、全き安息のうちに主が備えたもう道を歩む人生へとわたしたちを導くのです。神関係において平安を与えられてこそ、初めてわたしたちは「たとえ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ」と告白できるのです。天来の慰めこそが人を真実に慰め、悲しみと試みの中にあっても人を支えるということを、わたしたちはこの半年間、葬儀を行う度にも、深く味わってまいりました。今わたしたちも、この世の嵐の只中にあっても、天からの慰めに包まれて、シメオンやアンナとともに、神礼拝に生きる民とされたいと思います。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたに背を向けて、敵対して歩むことしかできないわたしたちの罪を、どうか主の御名のゆえにお赦しください。どうかあなたがわたしたちの上に成し遂げてくださる救いの御業を仰ぎ、あなたが行為されるのを待ち望む心をお与えください。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」との預言者の賛美をわたしたちの賛美として歌わせてください。「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」時まで、天からの慰めに満たされて、証しの道行きをたどることを得させてください。
まことの慰め主なる主イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。