夕礼拝

御言葉を聞く耳

「御言葉を聞く耳」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第43章8-15節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第4章1-12節
・ 讃美歌 ; 7、53

 
はじめに
「聞く耳のある者は聞きなさい」主イエスは、教えを語られた後に、このように言われました。この聖句を読むときに思い出す讃美歌があります。
讃美歌第二編の85番に収められた、「呼ばれています」という、水野源三さんの詩による、讃美歌です。
呼ばれています いつも、聞こえていますか いつも。
はるかなとおい声だから、よい耳を よい耳をもたなければ。
「良い耳を持たなければ」。ここで、「良い耳」とは主イエスが語られる言葉、御言葉を聞くための耳のことです。主イエスの御言葉は、いつも語られているのです。しかし、その言葉は語られるだけでは、神様のご支配を世に実現させるものとはなりません。語られた言葉が聞かれなければならないのです。主イエスは、この世を歩まれ語られました。御言葉を記した聖書を私たちは開くことが出来ます。教会では毎週、礼拝において説教が語られています。私たちは、それらを見聞きすることが出来ます。しかし、ただ目や耳に入れるだけでは、それは聞かれたことにはなりません。見ても理解せず、聞いても認めないということが起こり得るのです。神の言葉が、理解され、認められるためには、「聞く耳のある者」とされなければならないのです。私たちは「聞く耳」を持つことが求められているのです。

神の国の教え
マルコによる福音書を読み進めていますが、本日から、第4章に入ります。読んでいただければ分かりますが、この章は、今まで読んできた箇所と一転して、主イエスの教えが集中して記されています。今まで福音書は、主イエスが弟子達や人々に向かって、教えられたという事実は記してきました。しかし、その教えの内容がどのようなものであったかを詳しく記していませんでした。むしろ、主イエスが教えられると共に、病の癒しや悪霊の追放等の様々な業をなされる姿や、教えを聞いていた人々との間に引き起こされた論争の内容が記されていたのです。ただ、主イエスの宣教における第一声、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉が語られていました。ですから、私たちは、主イエスが語られた教えも、神の国についての教えであったことは分かりました。しかし、それが具体的にどのようなものであったかは分からなかったのです。しかし、この第4章になって、その主イエスの神の国の教えがどのようなものであったかが示されるのです。そして、この主イエスが語られた教えによって、私たちは、神の国とはどのようなものであるかを一層深く知らされるのです。

たとえによって
神の国の教えについて深く知らされると申しました。しかし、実際に、ここで語られた主イエスの教えを聞いて、本当に深く知らされるかと言えば必ずしもそうではありません。主イエスの神の国の教えの語られ方が私たちは決して分かりやすいものではなかったからです。ここで、主イエスの語られた神の国の教えがどのような形で語られたかに注目したいと思います。2節には「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた」とあります。主イエスの語る神の国の教えは「たとえ」だったのです。「たとえ」というのは、一般的には、分かりにくいことを、分かりやすく伝えるためのものです。抽象的な事柄を具体的で卑近な例を用いて示すのです。ここでは、「種まきのたとえ」が語られています。確かに、ここで語られる「種まき」の光景は、当時の人々にとっては非常に身近なことでした。たとえを聞いたものは誰でも、この情景を思い浮かべることが出来ただろうと思います。しかし、主イエスが、「たとえ」によって語られたのは、単に物事を分かりやすく語って、聞くものに何とか理解させようとするためではありません。たとえを用いて話す理由が10節以下に記されています。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」。ここで、主イエスは、ご自身が選び、そばにいる「十二人の弟子たち」と「外の人々」を区別しています。そして、「十二人」には「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われている一方で、「外の人々」には「すべてがたとえで示される」と言われています。更に続けて、旧約聖書を引用しつつ、「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ようになるためである」と言われています。たとえで語られる理由は、外の人々が、神の言葉を、理解せず、認めないことによって、立ち返らず赦されないためであると言われるのです。

聞く耳のあるもの
更に、主イエスは、たとえを語られた最後で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。ここでは「聞く耳を持たないもの」がいることが前提とされています。私たちは日常生活の中で、「話を聞かない人」という言葉を使います。私たちは「あの人は人の話しを聞かない」と言って嘆くことがありますし、周囲の人がそのように嘆いているのを聞いたりします。私たち自身が、口うるさい家族の忠告などを聞き流してしまうということもあるでしょうし、自分が感情的に怒っている時には、相手が自分の語ることを聞いていないということも経験します。ここで問題となっているのは聞き手の態度です。語り手の伝えようとする思いと共に、聞き手の真剣に聞こうという態度がなければ、コミュニケーションは成立しません。面と向かって語っても、その言葉が音として聞き手の耳を素通りし、全く聞かれていないということが起こるのです。主イエスの御言葉も同じことが起こります。御言葉が語られているのにも関わらず、それが聞かれないということがあるのです。そこでは確かに聞き手のあり方が問題になっています。
ここで、主イエスが聞く耳を持たない人をとがめているようには聞こえません。私たちは、自分の話が聞かれない時、非常に腹立たしく思います。しかし、主イエスは、私たちがしばしばするように、感情的になって、「人の話を聞け!」と怒ったりはしないのです。ここには、私たちから見ると非常に冷たい、主イエスのお姿が記されています。分からない人間はほっといていいというような感じにも聞こえます。わざと分からないようにたとえで語られているようにも思います。しかし、ここで主イエスが言われていることにこそ、神の国を理解するために忘れてはいけない、神の国の秘義が示されているのです。

主イエスの下に留まる。
では、聖書が語る「聞く耳のあるもの」とはどのような人を言うのでしょうか。それは、私たちのコミュニケーションにおいて問題となる、聞き手の集中力や、聞く意欲の問題とは異なります。「話を聞かない人」というのは、その人の注意や、努力によって改善されるべきことです。しかし、私たちは自分で努力して、聞き取ろうと努力すれば、必ず「聞く耳のある者」になれるというのではありません。
本日お読みした4章の初めには「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」とあります。そして、主イエスの周りには、「おびただしい群集」が集まって来たのです。そこで、主イエスは舟に乗り、舟の上から湖畔にいる群衆に向かって語られたのです。主イエスは、以前、「おびただしい群衆」に押しつぶされそうになった時と同じように、この時も舟に乗り、ご自身と、群衆との間に距離を置かれたのです。主イエスは、群衆を扇動して、ご自身の語る神の国を大々的に宣伝しようとしたのではありません。むしろ、人々と距離を置き、たとえをもって語られるのです。そして、群衆が解散して、一人になった時に、ご自身の周りに留まっていた弟子達に、あなた方には、神の国の秘密が打ち明けられているが外の人にはそうではないことを告げられたのです。
又、先週読んだ箇所には、主イエスが、ご自身を取り押さえに来た身内の人々に見向きもしないで、周りに座っている人々に向かって「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたことが記されています。主イエスは家の外に立っている人々と、家の中で主イエスの周りに座って、御言葉に耳を傾けている人々を区別されたのです。そして、外に立つ血縁における家族を退けて、家の中で主イエスを囲んで座っている人々をご自身の家族と呼ばれたのです。
ここには、明らかに、主イエスの周りの人と、外の人との区別があります。そして、この区別は、「聞く耳のある者」とそうでない者の区別と対応しているのです。ここで、御言葉を聞く耳を持つというのは主イエスの周りに留まるということなのです。なぜなら、この方こそ、神の下から来て、御言葉を語られる方だからです。主イエスの下に留まることなくしては、御言葉を聞くことは出来ないのです。

神の国の秘密
神の国と聞いて私たちは、何を想像するのでしょうか。神の国とは、神の御支配を意味しています。神の国という特定の場所がどこかに存在するのではありません。それが、おとぎ話に出てくる竜宮城のような、人間が思い描く理想郷ではないことは言うまでもありません。神の支配が実現しているところが神の国なのです。それは、主イエスと共に、この世に来ているものです。私たちの現実とかけ離れたところにあるものではなく、すでに、キリストにおいて私たちのところに近づいてきているのです。
しかし、私たちは、それが感じられないこともあります。様々な混乱がある、この世において、神の国が来ているとは思えない。神様の支配が見えないということがあるのです。それは、神様の支配が、完全に現されているのではなく、私たちには隠されているという側面があるということに他なりません。主イエスが世に来られて、神様のご支配が、世に来ているのは確かですが、それは完成しているのではないのです。もし、神様のご支配が完全な形で示されているのであれば、私たちは、全てを知ることになるでしょう。しかし、今は、私たちが全てを知り尽くすことは出来ないのです。
主イエスは、11節において弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と語っています。ここで「神の国の秘密」と言われている時の「秘密」という言葉は、ミステリーという言葉のもとになった言葉で「秘義」という意味です。秘義には、必ず「現される」と共に、「隠されている」という側面があるのです。そして、現されていると共に隠されている神の国を語るために、たとえが用いられているのです。

神の国の隠れを知る
私たちは、神のご支配は、完成を見ているわけではなく、それを全ては把握できないことを知らなくてはなりません。私たちが、もし、全てを知り得るのであれば、知っていることによって、もはや聞く必要を感じなくなってしまうでしょう。いつしか、神様のご支配を自分の支配下においてしまうことになるでしょう。その時、私たちにとって神の国は秘義ではなくなります。その時は、私たちは、「御言葉を聞く耳」を持つものではなくなってしまいます。
「人間は考える葦である」という言葉があります。自然の中で人間は葦のように小さく弱いものであるが、思考することによって自然、世界を捉え、把握することにおいて偉大なものであると言うのです。私たちは「知る」ということによって世を把握することが出来ます。しかし、神の言葉に関してはそうではありません。それは、常に、私たちに「現されている」と共に「隠されている」のです。このことを知らない人は、主イエスの下に留まることを知らない人です。主イエスの周りにいることをせずに外に立ってしまう人です。私たちは、神の言葉が「隠されている」ということを知ることにおいて、本当の意味で、「聞く耳」を持つのです。神の国、神様の支配を完全には知りえないからこそ、それを指し示している主イエスのもとに留まり続けるのです。そして、私たちは、主イエス・キリストに留まることによって、御言葉を本当に聞くことができるのです。

種を蒔く人のたとえ
ここで、主イエスの語られたたとえを見てみたいと思います。種を蒔く人が種蒔に出て行く。蒔いている間に、ある種は、道端に落ち、鳥が食べてしまう。ある種は石地に落ち、根が無くかれてしまう。ある種は、茨の中に落ち成長することが出来ない。しかし、良い土地に落ちたものは、多くの実を結んだというのです。この種蒔の姿は、私たちが想像する種蒔きとは異なります。土に穴を彫り、種を一粒ずつ丁寧に巻いて土をかぶせるのではありません。又、畝を作って、その上に秩序正しく蒔いていくのでもありません。立ったまま、畑に無造作に種をばら撒いていくのです。そして蒔いた後に土を耕すのです。ですから、種がどのような場所に落ちるかなどは、気にせずにいっぺんに蒔くのです。ですから、当然譬えの中にあるように、「良い土地」に落ちるものもありますが、「道端」に落ちたり「石だらけで土の少ない所」に落ち、「茨の中」に落ちるものもあるのです。このたとえを説明している14節には、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と言われています。そして、道端に落ちたものとは、サタンによって御言葉が奪い去られる人のことで、石地の人とは御言葉を受け入れても根付かない人で、茨の中の人とは、誘惑に負けて御言葉が育たない人であると言うのです。そして、良い土地に落ちたものだけが、何倍にも実ったというのです。

種を蒔きに出て行った
 私たちは、この譬えでどこに注目するのでしょうか。ともすると、蒔かれた種が、どのような土地に落ちて、その結果どうなったかということに注目してしまいます。そして、私たちは、自分を振り返って、自分はどのケースかと考えたりするのです。
しかし、ここで先ず、私たちが注目しなければならないのは、「種を蒔く人が種を蒔きに出て行った」ということです。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。この譬えは「よく聞きなさい。」という言葉で始まっています。この箇所の原文を見てみますと、「聞け」という命令の言葉が記された後に、「見よ」「出て行った」「種を蒔く人が」と続いていきます。この最初の「聞け」という言葉と「見よ」という言葉を合わせて、「よく聞きなさい」と訳されたのでしょう。しかし、ここでの文章では最初に「聞け」、と言われて、ご自身の話しに耳を傾けるように言われてから、先ず、種を蒔く人が種まきに出て行ったということに注目させようとしているのです。
私たちは、自分はどのケースに当てはまるのかとか、自分の周りのあの人は、どのケースかということを問う必要はありません。私たちは「道端」であり、「石だらけ」の土地であり、「茨の中」であり、又「良い土地」なのです。御言葉が蒔かれても、それを聞けない時があり、聞いても根付かない時があり、誘惑に惑わされることがあるのです。しかし、そのような中でも、実を結ぶこともあるのです。大切なのは、自分がどの土地の場合かを判断するのではなくて、私たちに、いつも、御言葉が蒔かれていることを知らされつつ、それを聞く耳を持つものとなることです。
 蒔かれている御言葉を聞く耳を持つことは、主イエスのもとに留まることだと申しました。主イエスは、父なる神の下から、世に来られ、御言葉を語って下さっているのです。ただ、語られるだけではなく、その行いによって示してくださっているのです。主イエスご自身の十字架と復活こそ、神の支配を指し示しています。御言葉を聞くことをしない、私たちを罪から救う、救いのご支配が示されているのです。

おわりに
「聞く耳」とは、私たちが自分自身で鍛えたり、備えたりするものではありません。聞く耳のある者とは、聞く耳のない者に比べて、何か特別な能力を持っている人ではありません。聞く耳のある者とは、主イエスの下に留まるものです。世に来られたキリストの中に、確かに現されている、神の支配を知らされつつ、神様のご支配が完全なものとなるのを待ち望むのです。
御言葉は、私たちに、礼拝において語られています。礼拝において、主イエスが望んでくださり、御言葉の種を蒔いて下さっているのです。私たちは、礼拝において主イエスの下に留まります。キリストの下で、私たちが、蒔かれている御言葉を聞く耳を持つものとされ、実を結ぶものとなるのです。

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